FC2ブログ

日本政府の安龍福捏造(?) 2 

2. 安龍福の功績の実体
2.1 一次渡日の功績
 鬱陵島には古代の新羅、高麗時代には人が住み、朝鮮時代には刷環政策で居住民を刷環して政策的に鬱陵島を空けて管理した。この時までの独島は鬱陵島と共に平穏な韓国の固有領土だった。ところが、壬辰倭乱を契機に日本人たちが鬱陵島が空いている事実を知って、竹が多い島として「磯竹島、竹島」と呼び、ついに1614年対馬島主が東莱府に使節を送って、「慶尚道と江原道の中間海上にある鬱陵島は日本領土のようなので調査する。」と日本領土だと主張した(注3)。これに対して朝鮮朝廷が「鬱陵島に不法侵入すれば敵と断定して追い出す。」(注4)と警告した後、対馬の鬱陵島領有権主張は静かだった。ところが、他の一方で伯耆州出身の大谷、村川二つの一族の漁師は朝鮮朝廷も知らないうちに幕府から渡海免許を取得して、1625年から70余年間独島を経て鬱陵島に往来していた(注5)。そうするうちに1693年春、鬱陵島で安龍福一行と遭遇して漁師たちの間に領有権争いが発生し、ついに両国間の外交紛争に拡大した。


(注3) 「6月、対馬島主が鬱陵島を磯竹島と称して島の地形を調べようと思うので道を案内してほしいと求めたが、これを拒否」(1614年(3947、甲寅)朝鮮光海君6) 「鬱陵島、独島年表」http://blog.daum.net/hwccafe/16488690(検索:2020年10月15日)
(注4) 同上
(注5) 内藤正中 「竹島渡海免許の不法性」 『史的検証独島・竹島』 (岩波書店) pp.135-141、クォン・オヨプ 「鳥取藩の態度」 『独島と安龍福』 (忠南大学出版部) pp.315-319、鬱陵島渡海免許は鬱陵島の領土取得の要件と関係がない。


 日本側の古文献によれば、1692年に日本の漁夫が鬱陵島で朝鮮人に会ったという記録があって(注6)、翌1693年日本漁夫(大谷家)が銃を購入して鬱陵島に渡航したが(注7)、その時安龍福一行に会った。安龍福一行は4隻の船で40人余りが鬱陵島に入っていた(注8)。一行のうち安龍福と朴於屯の二人は酒で日本人たちに誘引されて、銃刀の威嚇で日本の隠岐島に拉致された(注9)。安龍福は隠岐島で鬱陵島と独島の領有権を主張し、伯耆州太守に引き渡された。伯耆州太守は、鬱陵島、独島の領有権を主張する安龍福一行の渡日の事実を幕府に報告した。1695年12月、幕府は鳥取藩から報告を受けた「鳥取藩答弁書」を通じて鬱陵島と独島が朝鮮領土であることを確認して、日本人たちの鬱陵島、独島渡海を禁止させた(注10)。当時の朝鮮と日本の間の正式外交ルートは対馬であった。それで、安龍福は幕府の指示により鬱陵島と独島は韓国領土という伯耆州太守の書契を受け取って、日本側の手厚い待遇を受けて、東莱への帰還のために長崎を経て対馬に到着した(注11)。このように、安龍福の第一次渡日は非正式外交ルートを通じて幕府から鬱陵島と独島が韓国領土であることを認められた(注12)。
 ところが、朝鮮と正式外交を担当していた対馬は相変らず鬱陵島に対する貪欲をあきらめられずにいたので、かえってこの機会を利用して鬱陵島を脅し取るために、非正式外交ルートで鬱陵島、独島の領有権を認められた安龍福が持参していた幕府の指示による伯耆州太守の書契を奪って対馬に抑留した(注13)。対馬は朝鮮朝廷に対して、安龍福を担保で日本領「竹島」漂流者を送還するといって「竹島(鬱陵島の日本名称)」の領有権を主張した(注14)。これに対応して、朝鮮朝廷は韓日間の外交的紛争を避けながら鬱陵島の領土問題を解決するために、日本領は「竹島」だが安龍福は朝鮮領鬱陵島に漂流したものといった(注15)。対馬は鬱陵島は即ち日本領「竹島」として、朝鮮朝廷が鬱陵島領有権を放棄することを強要した(注16)。対馬が鬱陵島の領有権を主張することによって朝鮮朝廷と対馬の間の領有権論議はなかなか解決する可能性が見られなかった。
 一次渡日による安龍福の業績は、日本漁夫大谷、村川一族が三代にわたって独島を経て鬱陵島に渡航して鬱陵島を自分たちの領土だと見なしていた(注17)のを、韓日両国の政府間で領土交渉をするようにしたこと、そして最終的に両国間の交渉を通じて幕府が鬱陵島と独島を韓国領土と認定したことだ。


(注6) 朴炳渉 「安龍福事件に対する検証」 (海洋水産開発院 2007.12) p7(『竹島之書附』 「竹島之書附三通、その二」;『竹島考』)
(注7) 独島史料研究会編 「渡海準備の物産」、『竹島考(上下)』 慶尚北道 2010 慶尚北道独島史料研究会成果物 1 2010 pp.105-124
(注8) 「竹島一件抜書」 http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=ud.k_0001_0010 (検索日:2020年10月15日)
(注9) 独島史料研究会編 「渡海準備の物産」 『竹島考(上下)』 慶尚北道 2010 慶尚北道独島史料研究会成果物 1 2010 pp.105-124
(注10) 「日本自らが否定した独島領有権」 (鳥取藩答弁書) https://dokdo.mofa.go.kr/kor/pds/part05_view01.jsp (検索日:2020年10月15日)
(注11)シン・ヨンハ 「第6章 安龍福の活動と朝鮮朝廷の対応」 『月刊朝鮮ニュースルーム』 (独島130問130答 2011.6)
(注12) 同上
(注13) 同上
(注14) 「接慰官・東莱(東莱府使)の回答」 『鬱陵島・独島日本資料集』 http://contents.nahf.or. kr/item/item.do?levelId=ud.k_0001_0030 (検索日 2020年10月16日)
(注15) 「参判使の口上」 http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=ud.k_0 001_0040 (検索日 2020年10月17日)
(注16) 「参判使の口上」 同上
(注17) 内藤正中 「竹島渡海免許の不法性」 『史的検証独島・竹島』 (岩波書店) pp.135-141。渡海免許は不法であること。


2.2 二次渡日の功績
 安龍福は対馬抑留の9ヶ月後に東莱に帰国措置された。安龍福は備辺司の調査を受けて、不法越境罪で2年間の獄中生活をした。安龍福は、正式外交ルートである対馬が相変らず鬱陵島の領有権を主張しているという事実を確認して(注18)、鬱陵島と独島の領有権を主張する対馬の態度を幕府に告発するために、1696年6月、安龍福は官服を着て「朝欝両島監税将臣安同知騎」という肩書を書いた旗を付けて、雷憲など5人の僧侶、字が上手なイ・インソンと共に11人で鬱陵島に入って日本人たちと遭遇して(注19)、翌日独島でも彼らに会った。安龍福は、日本人たちが「松島」は日本領土というのに対して朝鮮の「子山島」だと叱り、彼らの後を追って日本に渡って行った。
 もともと安龍福は漁師だったが、倭館に出入りする通訳官として日本語がうまく、戦船で櫓を漕ぐ仕事をする慶尚左水営所属の能櫓軍だった(注20)。興国寺の住持雷憲は全羅左水営所属の僧将であり、他の4人の僧侶たちも皆が義僧水軍だった(注21)。このように、安龍福は国家のために悲壮な覚悟で事前に緻密な計画と準備で渡日して、伯耆州太守を通じて幕府に対馬に書契を奪われた事実と鬱陵島と独島の領有権主張事実を告発するために、非正式外交ルートで日本行きを敢行したのだ。安龍福一行は伯耆州太守に会って、「安龍福、雷憲、金可果の3人を在番人が立会した時、所持した8枚になった朝鮮八道地図を示して八道の名前を朝鮮語で書いた。3人の中で安龍福を通詞にして事情を問答しました。」(注22)、「安龍福が言うには、竹嶋を竹の嶋といって、朝鮮国江原道東莱府内の鬱陵島という島があるが(注23)、これを竹の嶋と言うといいます。八道の地図にそういうふうに書いてあるのを所持しています。松嶋は同じ江原道内の子山という島です。これを松嶋というのにこれも八道の地図に書いています。」というように、「鬱陵島と独島が朝鮮の江原道所属」という「朝鮮八道之図」(注24)という地図を見せて領有権を主張した。
 これに対して伯耆州太守は、既に幕府が1696年1月に正式に鬱陵島を朝鮮領土と認定して日本人たちの鬱陵島渡航を禁止した事実に言及して、鬱陵島と独島は朝鮮領土という確認書を与えた。安龍福は二次渡日で対馬島主の行態を幕府に告発して、幕府も鬱陵島と独島の領有権は韓国にあるという事実を対馬島に知らせた。しかし、対馬島はその事実を朝鮮に知らせなかった。事実上、対馬島を仲裁として正式外交ルートを通した朝鮮朝廷と幕府間の鬱陵島領有権談判も既に終わった状態と同じだった。安龍福一行は幕府の指示により2ヶ月ほど滞在した後、伯耆州太守から対馬島を経る正式外交ルートでの帰国を要請されたが、それを丁重に辞退して1696年8月非正式外交ルートで江原道襄陽へ帰郷した。1696年9月、安龍福は備辺司から調査を受けた。司憲府は越境罪と官職詐称罪で処刑を要請した。1697年2月に対馬島は「鬱陵島を朝鮮の土地と確認する。」とする江戸幕府の決定を受けた。領議政ユ・サンウンが鬱陵島と独島領有権を解決した功績を認めて処刑に反対し、1697年3月、安龍福の罪は減刑されて島流しの刑を受けて1697年4月島流しとなった。朝鮮と幕府の間に正式外交ルートで鬱陵島、独島領有権問題が完全に解決されたのは1699年のことだった。
 安龍福の一次渡日は幕府が鬱陵島と独島が朝鮮領土であることを確認させるのに寄与したし、安龍福の二次渡日(1696年5月~8月)は幕府を通じて正式外交ルートである対馬が鬱陵島領有権主張を放棄するのに大きく寄与した(注25)。それにもかかわらず、安龍福は一次渡日の時は日本に渡った不法越境罪で棍杖100台、朴於屯は棍杖80台をむかえて2年間の獄中生活にあった(注26)。二次渡日の時は不法越境罪と官職詐称罪によって処刑の危機に置かれていたが、領有権と漁業権を確保した功労者と認められて島流しの刑に減刑されたのだ。このように、粛宗実録など朝鮮王朝の官撰文献に記録された安龍福の陳述は、文化的差異から微細な部分において多少の誤りが存在するかも知れないが、おおむね事実と一致する。王朝時代に死罪を犯した罪人が嘘で誤りを隠して生き延びられる時代ではなかった。


(注18) チェ・ヨンソン「安龍福第二次渡日の性格」 『朝鮮密使安龍福』 (図書出版文史哲 2019) pp.56-97、クォン・オヨプ 「対馬島主の懇請」 『文献上の独島』 (博文社) p406
(注19) 「船13隻で、人は1隻に9人、10人、11人、12~3人、15人程度ずつ乗って竹島まで行ったが、人数を尋ねても全く答えることができませんでした。」 「元禄9丙子年朝鮮舟着岸一件之覚書」 https://blog.naver.com/cms1530/10015417351 (検索日:2020年10月15日)
(注20) イ・テウ 「1696年安龍福・雷憲一行の渡日と義僧水軍に関する解析学的研究」 『独島研究』 第28号(嶺南大学独島研究所 2020.6) pp.139-168
(注21) 同上
(注22) 「元禄9丙子年朝鮮舟着岸一件之覚書」 https://blog.naver.com/cms1530/10015417351 (検索日:2020年10月15日)
(注23) 「竹嶋は江原道東莱府に属していて、朝鮮国王の御名を受ける東莱府殿の名前は一道方伯で、竹嶋を支配する人の名前は東莱府使と言います。」 「元禄9丙子年朝鮮舟着岸一件之覚書」 https://blog.naver.com/cms1530/10015417351 (検索日:2020年10月15日)
(注24) 「朝鮮之八道 : 京畿道、江原道(この道の中に竹嶋松嶋がある)、全羅道、忠清道、平安道、咸鏡道、黄海道、慶尚道」 「元禄9丙子年朝鮮舟着岸一件之覚書」 https://blog.naver.com/cms1530/10015417351 (検索日:2020年10月15日)
(注25) チェ・ヨンソン「安龍福第二次渡日の性格」 『朝鮮密使安龍福』 (図書出版文史哲 2019) pp.56-97、クォン・オヨプ 「対馬島主の懇請」 『文献上の独島』 (博文社) p406
(注26) 同上


スポンサーサイト



テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

日本政府の安龍福捏造(?) 1 

日本政府の安龍福功績捏造に対する批判 外務省と内閣官房の「安龍福侮蔑」を中心に
崔長根(チェ・チャングン) /大邱大学日本語日本学科教授
嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第29号 2020.12.30 p243

*本研究は大邱大学校内研究課題(20200143)、2020年学術研究費支援で実行された。

目 次
1. はじめに
2. 安龍福の功績の実体
3. 日本政府の安龍福の功績に対する捏造
4. 日本政府の安龍福陳述に対する信頼性否定
5. 「竹島渡海禁止令」と安龍福との関係性捏造
6. 結び


<国文抄録>
 本研究は、安龍福の第二次渡日の成果と日本政府の安龍福業績の蔑視について論証した。安龍福は二度にわたって渡日して、伯耆州太守に告発して幕府から鬱陵島と独島が韓国領土であることの確答を受けた。ところが、現在の日本政府は、安龍福は官職を詐称して越境した法律違反者で朝鮮国の代表でもなかったために、朝鮮朝廷における幕府から鬱陵島と独島を朝鮮領土と認められたという安龍福の陳述は信頼できないとさげすんだ。また、渡海禁止令は鬱陵島に限定されたもので独島に対する渡海禁止令は下りなかったと事実を捏造した。事実は、安龍福の第一次渡日は日本の漁夫の鬱陵島領有権主張に対して朝鮮と幕府の間で鬱陵島と独島を巡る領有交渉を引き起こし、最終的に幕府が鳥取藩に所属を確認した後、日本の漁夫の渡航を禁止して鬱陵島と独島が韓国領土であることを認めた。第二次渡日は、1696年1月に幕府が朝鮮領土であることを認めたにも拘わらず、これを先送りしている対馬に鬱陵島と独島が韓国領土であることを朝鮮政府に知らせるようにする役割をした。それで、本研究では、安龍福は第一次渡日で幕府から鬱陵島と独島の領有権の確認を受けたし、第二次渡日では対馬に鬱陵島と独島の領有権を放棄するようにするのに役割をしたことを論証した。

1. はじめに
 韓日間で独島領有権をめぐる外交論争は歴史的に3回あった。最初は1693-1696年の安龍福越境事件で、一次渡日において1696年に幕府が自ら鬱陵島と独島を韓国領土と認定するようにしたし、二次渡日においては、1697年に正式外交ルートで対馬が領有権主張をあきらめるようにしたのだ。二番目は、日本がロシアを侵略して戦争を起こして1905年戦争中に国際法を装って独島をこっそりと侵奪するために敢えて無主地として地方政府である島根県に編入し、韓国政府がこの事実を知って1900年勅令41号で鬱島郡を設置して行政的に独島を管轄統治したという事実を提示して統監府に強力に抗議すると共に独島編入を認めなかったのだ。三回目は、日帝36年間の不法植民地統治を経て日本が第二次大戦で敗戦して1951年対日平和条約を締結する過程で、親日派の米国文省(翻訳者注:「米国務省」が書き間違えてある。)政治顧問ウィリアム・シーボルドを利用して独島を奪取しようとしたが、この時に英国、オーストラリア、ニュージーランドの英連邦国家の反対で独島領有権は日本に移ることができなかった。それは、独島の領有権は1696年安龍福越境事件の時に日本が独島を韓国領土であることを認めた事実、1877年明治政府がこれを継承して太政官指令で独島が韓国領土であることを自ら認めた事実、1946年1月連合国軍最高司令部司令官がSCAPIN 677号で独島を韓国領土と認定した事実があったためだ。それにも関わらず、米国務省の政治顧問であるシーボルドの親日的な政治的行為のために、英米中心の連合国は独島領有権を明確に処理しなかった。李承晩大統領が連合国の措置に対抗して、独島領有権の本質を基に平和線宣言を押し切った。このような過程を通じて、今日、韓国が独島を実効的に管轄統治することになった。
 ところが、今日の日本政府は安龍福越境事件で幕府が独島を韓国領土と認定した独島領有権の本質を無視して、1905年独島を盗取しようとした島根県告示40号の侵略行為を領土取得行為だと事実を歪曲した親日派シーボルドの政治的行為を基に、1965年韓日協定の時もそうだったが今でも独島の領有権を主張している。
 本研究の目的は、安龍福の一次渡日の成果と二次渡日の成果について論証することだ。なぜなら、日本政府が韓国の独島領有権を否定するために安龍福の独島領有権活動を否定しているからだ。安龍福の一次渡日は、幕府が鬱陵島と独島を韓国領土と認定して日本人漁師たちの鬱陵島渡航を禁止させたというものだ。特に、二次渡日は、幕府が鬱陵島と独島を韓国領土と認定したにも関わらず対馬島は鬱陵島と独島の領有権主張を放棄せずにいたが(注1)、安龍福の二次渡日によって再度幕府に告発されたことで、対馬島は最終的に幕府の渡海禁止令によって鬱陵島と独島が朝鮮領土と認定されたという公文書を朝鮮政府に送ったのだ。もう一つの目的は、安龍福の功績に対する日本政府の捏造の事実を批判するためだ。研究方法は、安龍福と独島領有権の本質を糾明するために、安龍福事件に関する先行研究(注2)を基に再構成して本稿の目的が達成されるように論考を整理した。

(注1)『竹島紀事』 元禄9年(1696年)6月23日
(注2) ソン・フィヨン 「安龍福の渡日事件と日本における行跡」 『日本文化学報』第72輯 (韓国日本文化学会2017.02 pp. 29-42、キム・ファギョン 「安龍福の正文に対する研究」『大邱史学』(大邱史学会 2012)、ソン・フィヨン「『長生竹島記』と独島領有権」『日本思想』(韓国日本思想史学会 2019)、クォン・ヒョクソン「『長生竹島記』が伝える竹島丸船上の問答文ー安龍福の日本渡海経験に関してー」『日本語教育』(韓国日本語教育学会 2018)、ナム・サンクォン、パク・ヨンシク 「安龍福形象化に対する口伝的想像力」 『独島研究』 (嶺南大学独島研究所 2019)、クォン・オヨプ編訳 『竹島紀事』 (韓国学術情報 2013)、崔英成 『朝鮮の密使安龍福』 (文史哲 2019)、ソン・スンチョル「17世紀末安龍福事件を通じて見た朝日間の海陸境界紛争」 『韓日関係史研究』 第42集 (韓日関係史学会 2012.08) pp.229-265、ソン・スンチョル 「1696年安龍福の第二次渡日供述資料」 『韓日関係史資料集』 24集 (景仁文化社2006.4) pp.251-300



<コメント>
 はい、チェ・チャングン先生です、チェ・チャングン先生。どこまでバカなことを書いているかを確認するための全訳です。


テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

「日本教科書に独島無い」 だそうですw

1904年の日本教科書公開した東北亜歴史財団 「独島表示無い」
日本高校教科書検定結果発表関連緊急専門家セミナー
2021.03.31 連合ニュース
https://n.news.naver.com/article/001/0012297215


AKR20210331104.jpg
1904年「小学地理2」[東北亜歴史財団提供、再販売およびDB禁止]

(ソウル=聯合ニュース)ソン・トヒョン記者=独島領有権を主張する日本の教科書が検定審査を通過して議論になる中で、東北亜歴史財団が過去の日本地理教科書など反論資料を公開して「独島表示が無い」と強調した。
 東北亜歴史財団は、31日、市民団体アジア平和と歴史教育連帯と共にソウル西大門区財団教科書研究センターで緊急専門家セミナーを開き、19~20世紀の日本地理付図と地理教科書、地図など所蔵資料4点を公開した。これらの資料は鉄原初等学校教師イ・ヒョン氏が収集して昨年末に財団側に寄贈したもので、財団が外部に公開するのは今回が初めてだ。
 イ氏は、日本の文部省(現文部科学省)が1904年に発行した小学校用地理教科書「小学地理2」の収集内容を公開して、「日本の地図のどこにも鬱陵島と独島を自身の領土として表示していない」と話した。教育政策を担当する日本の中央行政機関が117年前に既にこの教科書の内容を検討して検定をしたことがあるが、過去の立場をひっくり返して独島が日本の領土だと主張するのは論理的に合わないというのがイ氏の主張の要旨だ。


AKR202103311045.jpg
1897年「日本地理附図」[東北アジア歴史財団提供、再販売およびDB禁止]

 イ氏は1897年に発行された中学校用「日本地理附図」と「日本地理」にも言及した。これらの本には朝鮮と日本の地図が一つの面に描かれているが、色で区分されていてそれぞれ別の国だということが分かると主張した。鬱陵島と独島を日本領土と表示しなかったという話も付け加えた。
 彼は1952年に読売新聞が作った最新精密日本大地図を提示して、「1951年9月に締結されたサンフランシスコ講和条約で独島の内容が抜けたということを日本が強力に主張することに対して反論できる地図」と説明した。イ氏は「収集した資料を調べればほとんどの日本地図で独島が表示になっていない」とし、「1905年島根県告示を除いて、1910年まで日本政府が独島領有権をまともに主張しなかっただけでなく認知もできなくなっていたことが分かる」と強調した。


AKR2021033110450.jpg
1952年 「最新精密日本大地図」[東北アジア歴史財団提供、再販売およびDB禁止]

 これに先立って、ソ・ジョンジン財団韓日歴史問題研究所長が「2021日本文部科学省教科書検定発表と教育政策」を主題に、ハン・ヘイン アジア平和歴史教育研究所研究委員が「2021年度日本高等学校歴史総合教科書の叙述問題点概観」を主題にそれぞれ発表した。また、ホン・ソングン財団独島研究所研究委員は検定教科書の独島関連叙述分析を、ソ・ヒョンジュ財団韓日歴史問題研究所研究委員が日本軍慰安婦関連叙述分析を担当して主題発表をした。イ・シンチョル アジア平和歴史教育研究所長とホン・ジョンウク ソウル大学韓国学研究院教授が総合討論に参加する。


GYH2021033000.jpg

日本教科書歴史・領土挑発の主要日誌
[聯合ニュース資料グラフィック]



<コメント>
 まあ、日本の外務省が言っている「日本固有の領土」の意味でも調べて見たらいいのではないですか。





テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

日本の国際法研究の系譜

独島主権と国際法的権原の系譜に関する研究 日本の独島領有権主張の権原を中心に

ト・シファン/東北アジア歴史財団責任研究委員
嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第29号(2020.12.30) p 205

<目次>
1. はじめに
2. 独島関連日本国際法権原院研究の系譜
3. 国際法史観の非植民地化法理論と独島領有論
4. 国際法史観の国際法的権原の問題点検討
5. 結び

<国文抄録>
  今年は大韓帝国が勅令第41号で独島領土主権を明らかにして120周年であり、日本による乙巳保護条約115年と韓国強制併合110年が重なる歴史的な年だ。乙巳保護条約100年だった2005年、日本島根県を通じて「竹島の日」を宣言して韓国の独島主権に対する侵奪の歴史を記念して継承して以来、2020年に再開館した領土主権展示館では、1905年以降の日本の国際法上合法的支配と韓国の不法占拠を強調しているという点で注目することになる。それは、日本帝国主義の侵略路線の根幹である日帝植民主義に立った日本の持続的な独島主権侵奪の歴史が相変らず現在進行形という点で、今日の私たちに付与された歴史的課題に対して再び検討して見ることになる。
  独島は韓国領土主権の象徴であり明白な私たちの固有領土であるにもかかわらず、私たちの独島主権に対する日本の挑発は続いている。特に、日本政府が韓国の独島主権を認めた1696年江戸幕府の渡海禁止令とこれを継承した1877年明治政府の太政官指令を意図的に隠蔽して、国際法的権原を強化する政策に切り替えているという点で問題の深刻性が存在する。国際法上の権原(title)とは、領土主権と関連して、文書上の証拠に限定されないで権利の存在を確立できる全ての形態の証拠と権利の現実的根源を全て含む概念で、正当で適法な権原が欠如した権利は成立することが無いという点で、日本の独島領有権主張自体が韓国の独島主権に対する不法な侵奪挑発であるためだ。
  そういう前提で、日帝植民主義に立脚した日本の独島領有権主張の政策的土台としての国際法的権原法理の系譜を追跡して、主張の法理的問題点を検討して見た。日本国際法学界の独島領有権に対する権原主張の系譜は、皆川洸の歴史的権原論、植田捷雄の本源的権原論、太寿堂鼎の代替的権原論、芹田健太郎の共有的権原論につながって、権原系譜の頂点に広瀬善男の国際法史観を前提とした独島領有論が存在する。
  日本の国際法権原系譜の帰結点である広瀬善男の国際法史観は、第一次世界大戦を境界として「植民地化」と「非植民地化」に概念を区分して植民支配と独島領有権問題を分析する。非植民地化というのは、国際連盟期の法秩序の成立を契機に、新しい植民地形成の行動や強制的な他国の保護国化あるいは領域編入行為は完全に違法だというもので、第一次世界大戦以前の乙巳保護条約と韓日併合の国際法上の合法性を主張すると同時に、独島領有権問題を分離して次の通り主張する。
  最初に、日本は大韓帝国の独島主権宣言以後1905年に独島編入措置をしたが、国家活動の持続的な展開に伴う領有権主張の有効性決定には両者間の軍事的支配力など相対的な権力関係が当時の国際法で一般的に承認、二番目に、「実効的占有」というものは土地の現実的使用や定住という物理的占有よりも該当地域に対する支配権の確立という社会的占有であり、日本の占有状況が国力を背景に最終的な法的効果を帰属、三番目に、日本が領域編入措置を取った1904年~05年の時期に小規模な日本人の漁業が実施されたし、朝鮮側からの有効な抗議や排除措置が取られなかった点は、独島に対する日本政府の実効的管理があったという証拠だというのだ。
  しかし、当時の国際法も国家実行と癒着した日本型法実証主義でない普遍的国際規範に立った規範性が向上されている点と、1935年UN国際法委員会の条約法協約法典化の過程で、「ハーバード草案」の国家代表個人に対する強迫に伴う無効条約の代表事例である1905年乙巳保護条約の問題点を看過している。さらに、日本の独島領有権主張の政策的土台を構築してきた日本の国際法権原関連系譜の主張は、カイロ宣言で明らかにした暴力と貪欲の本質として日帝植民主義と一致していることに注目しなければならないだろう。要するに「植民支配合法論」を前提とした日本国際法史観の「独島領有論」は、韓国の独島主権に対する国際法を前面に出した重大な法理的侵害だという点において、日本は21世紀平和共同体に向かう真の国際法的責務を尽くすべきだろう。



<コメント>
 はいはい、「そういう前提」で書いた論文ですよね。前提が間違っているから意味の無い論文です。本文翻訳は省略。





テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

独島の「歴史的権原」 5

5.2 歴史的権原の主張に対する批判
5.2.1 歴史的権原主張の実際の事例
5.2.1.1 独島博物館 『美しい島、独島そして鬱陵島』 (2005年)
 独島博物館が発行した 『美しい島、独島そして鬱陵島』には、于山国が韓民族の領土になったと次のように記述している。

 約1500年前、鬱陵島と独島を領土とした古代海上王国于山国が西暦512年新羅に服属することによって、二島は韓民族の領土になった。于山国の領域に独島が含まれたことは、史料と論理で立証する以前に常識の領域であり事実の領域だ。鬱陵島からは晴れた日に独島を眺めることができ、海に少し出て行けば二島が同時に見える。独島からは鬱陵島が裏山ほどに大きく見える。

 このように于山国が民族の領土だと記載して、于山国の韓民族の歴史的権原が新羅の于山国征服によって成立したと記述しているが、歴史的権原が現在の国際法上の権原へ権原の代替を成し遂げたという点に関しては論及がない。(注29)

(注29) 独島博物館 『美しい島、独島そして鬱陵島』 (鬱陵郡:独島博物館2005年) p22

5.2.1.2東北亜歴史財団 『独島!鬱陵島から見える』 (2000年)
 東北亜歴史財団が出版した 『独島!鬱陵島から見える』には、西暦511年から鬱陵島と独島が韓国の固有領土となったと次のように記述している。

 于山国は今日の「鬱陵島」と「独島」で構成されていたので、西暦512年に于山国が新羅の領土になったということは、西暦512年から「鬱陵島」と「独島」が韓国の固有領土になったことを証明すると解釈することができる。要するに、この記録を持って512年(智証王13年)の異斯夫の于山国征伐によって独島は私たちの土地だと主張する根拠とするものだ。そして、このような主張を立証するもう一つの資料として活用されるのが、『世宗実録』「地理志」江原道三陟都護府蔚珍県の条に書かれた鬱陵島・独島に関する記録だ。

 512年に于山国が新羅の領土を制御独島が韓国の領土とされたと記述しているが、歴史的権原の代替に関しては何も言及がない。(注30)

(注30) 東北亜歴史財団 『独島!鬱陵島から見える』(ソウル:東北亜歴史財団 2000) p40

5.2.1.3 韓国海洋水産開発院 『独島領有権の歴史的権原に関する研究』 (2000年)
 韓国海洋水産開発院が発行した 『独島領有権の歴史的権原に関する研究』には、新羅が于山国を征服して于山国が新羅の領土になり、独島が韓国の領土となった、と歴史的な権原を次のとおり記述している。

 いつから于山国という国号で国家を建設したのかも正確ではないが、新羅に服属したのは既に知られたとおり伊湌異斯夫の征伐があった6世紀始めからだった。これに対する記事は、『三国史記』と『三国遺事』に伝わる。これらはいずれも鬱陵島に対する新羅の征服意思を込めた内容で、512年にあった鬱陵島服属の記事だ。

 これは海洋水産開発院が独島の歴史的権原に関して特殊研究をしたものだが、上に見るとおり独島領有権の歴史的権原に関して記述していて、歴史的権原の代替に関しては全く言及がない。(注31)

(注31) 韓国海洋水産開発院 『独島領有権の歴史的権原に関する研究』(ソウル:韓国海洋水産開発院 2005) p57


5.2.2 批判
5.2.2.1 批判1 : 歴史的権原主張の不明確性
 前述したように、韓国政府は独島領土主権の歴史的権原を主張するなら、新羅智証王13年(512年)の新羅の異斯夫による于山国征服によって韓国は独島領土主権の歴史的権原を取得したと記述して、その根拠として『三国史記』の記録を提示しなければならないだろう。それにもかかわらず、鬱陵島から独島を晴れ渡った日に眺めることができると『世宗実録地理志』、『新増東国輿地勝覧』、『東国文献備考』などに記録されていると記述し、『万機要覧』に于山国の土地は于山島と松島で構成されていると記述して、ほとんど新羅の于山国征服による独島の歴史的権原の取得を直接的、明確に記述していない。例え「歴史的権原」の取得という用語を使わないとしても、最小限、新羅の異斯夫の于山国征服によって新羅は512年に独島の領土主権に対する歴史的な権原を取得したという内容を明確に記述しなければならないだろう。

5.2.2.2 批判2 : 歴史的権原の代替
 歴史的権原は現代国際法上の権原で権原の代替を成し遂げなければ今日の国際法上効力が無いので、歴史的権原の主張のためには歴史的権原が代替されたことに論及しなければならないにも関わらず、全ての政府の主張では歴史的権原を主張して、歴史的権原の代替に関しては論及が無い。したがって、独島領有権の歴史的権原は今日の法的効力が無いことになってしまう。

6. 結び
 前述したことを整理すれば次のとおりだ。
(ⅰ)領土主権に関する歴史的権原は現代国際法上権原で権原の代替を成し遂げなければ現代国際法上の法的効力が無く、また、現代国際法によって代替された以後にも歴史的権原は法的効力がないということは判例と学説によって国際慣習法として一般的に承認されている。
(ⅱ)韓国の独島領土主権は新羅智証王13年(512年) 異斯夫の于山国征服によって新羅の歴史的権原が成立した。
(ⅲ)韓国政府は、韓国の独島領土主権の歴史的権原を1900年10月25日「大韓帝国勅令第41号」に基づいて現代国際法上の権原へ権原の代替を成し遂げた
(ⅳ)韓国政府は、韓国の独島領土主権を樹立したのは新羅智証王13年(512年)に異斯夫の于山国征服によったものと歴史的権原を主張して、その歴史的権原の代替に関してはいかなる主張もしたことがない。
(v)独島は歴史的に国際法的に韓国の領土という。しかし歴史的な権原は現代国際法上の権原で権原の代替をしなければ歴史的な権原は効力が無い。したがって、韓国の独島の歴史的な権原は歴史的には妥当だが国際法的には妥当でない。したがって、独島は歴史的でも国際法的でも歴史的に韓国の領土だという話は、歴史的な権原によるならば合う話だが国際法的には間違った主張だ。この点に関して歴史学者たちは全く理解しようとしない。歴史的な権原に関しては、史学者と国際法学者の緊密な学際研究が要求される。
 政府関係当局に対して、次のような政策代案を提案することにする。
(ⅰ)韓国の独島領土主権の歴史的権原は1900年「大韓帝国勅令第41号」に基づいて代替されたことを明確に宣言する。
(ⅱ)独島領土主権の歴史的権原を主張する時は、その主張が歴史的権原の主張であることを明確に表示する。特に地理的根拠の提示と混同しない。
(ⅲ)歴史的権原を主張する場合には必ず「歴史的権原の代替」に関して論及する。
(ⅳ)歴史的権原の代替に関する国際法学界と史学界の学際研究を行政的・財政的に積極支援する。
(終)

韓国政府の独島の歴史的権原主張に関する研究
金明基(明智大学名誉教授)
嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第29号(2020.12.30) p173



<コメント>
 まあ、これ自体は何とも空虚な論文ですが、ただ、これを見て歴史学者たちの主張の仕方が変わったりするでしょうかね。どういう言い方をしようと韓国の「独島領有権」とかいうものに何の実体を与えることも無いですが、歴史学者たちがあたふたするならば、それはそれで面白い(いや、どうでもいい)。



テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

独島の「歴史的権原」 4

5.1.7 国土海洋部国土地理情報院 『独島地理誌』 (2009)
 国土海洋部国土地理情報部員が出版した『独島地理誌』では、512年新羅異斯夫将軍が于山国を征服して独島に対する韓国の歴史的な権原が成立したと、次のように記述している。

 独島が我が国の文献に初めて登場するのは512年だ。三国時代の歴史を記録した『三国史記』(1145)新羅本紀に于山国が新羅に帰服して新羅の一部になったという記録においてだ。『三国史記』の列伝と『三国遺事』にも同じ内容が収録されている。(注20)

(注20) 国土海洋部国土地理情報院 『独島地理誌』 (ソウル:国土地理情報院2009) p32

 上の記述もやはり新羅の異斯夫将軍の于山国征服によって独島の歴史的な権原が成立したと記述しているが、権原の維持と権原の代替に関しては何の言及も無い。特に権原の代替についての記述が無いので、やはり独島に対する韓国の歴史的な権原は今日の国際法上効力が無いのだ。

5.1.8 教育科学技術部 『守るべき私たちの地独島』 (2009)
 『守るべき私たちの地独島』では、独島の歴史的権原に関して次のように記述している。

 鬱陵島と独島が新羅の領土に編入されたのは新羅智証王13年(512)の時だ。『三国史記』によれば智証王13年の6月、新羅異斯夫が鬱陵島を征伐して新羅に帰服させ、年ごとに産物を受けたという記録がある。異斯夫は奈勿王の4代の孫で、智証王13年に何瑟羅州(江陵)の君主になって于山国を征服しようとした。異斯夫は、于山国の人々が荒っぽくて強かったので、力で屈服させるのが難しくなるとすぐに計略を考え出した。彼は木製の獅子を多数作って船に載せて于山国の海岸に到り、「お前たちがもし降参しないなら、すぐに獰猛な獅子を放って皆を踏み殺させるぞ」と威嚇した。すると于山国の人々は異斯夫が考えたとおり素直に降参して、毎年朝貢を捧げるといった。『輿地志』を始めとして各書の内容によれば、「鬱陵島と于山島(独島)はいずれも于山国の地」として于山国に鬱陵島と独島が含まれることを記録している。このような諸事実を推察する時、三国時代から独島は鬱陵島と共に我が国の歴史に登場したと推定されている。(注21)

(注21)教育科学技術部 『守るべき私たちの地独島』 (ソウル:教育科学技術部2009) p44

5.1.9 東北アジア歴史財団 『独島を正しく知る』 (2011)
 東北アジア歴史財団が出版した『独島を正しく知る』では、『三国史記』の新羅異斯夫が于山国を征服して新羅が毎年土産物を受け入れて来たという記録を引用して、正確にではないが独島に対する歴史的権原が新羅時代に成立したことを記述している。

 独島に関する我が国の最初の記録は『三国史記』(1145年)だ。ここでは新羅の異斯夫が于山国を服属させた内容が記述されている。本来、三国時代以前に鬱陵島と独島は于山国と呼ばれた。三国時代に于山国の人々が新羅大陸まで入ってきて略奪を行うと、新羅の伊湌異斯夫が于山国を征服することになった。……異斯夫が計略を用いて于山国の人々を服属させて毎年土産物を受け取ることになった(注22)。…… 512年に新羅に服属した于山国は918年に高麗が立てられた以後は高麗の支配を受けた(注23)。

(注23) 前掲書 p25

 上の記述は独島の「歴史的権原」という用語を使っていないが、その意味内容は独島の歴史的権原が新羅の于山国征服によって成立したという記述と見られる。しかし、上の記述は独島の歴史的権原の現代国際法による代替に関しては何の言及も無い。したがって、今日の韓国は独島の歴史的権原は歴史的権原を継承したものに過ぎず、今日の国際法上法的効力が無いのだ。
 要するに、『独島を正しく知る』は新羅の独島に対する歴史的権原の成立に関して記述しているものの、その「歴史的権原の代替」に関して論及していない。したがって、この歴史的権原は今日の国際法上法的効力が無いのだ。

5.1.10 東北アジア歴史財団 『私たちの土地独島に会う』 (2011)
 東北アジア歴史財団が出版した『私たちの土地独島に会う』では、韓国の独島の歴史的権原に関して次の通り記述・主張されている。

 『三国史記』(1145年 高麗仁宗の23年) 巻4の智証王の条には何瑟羅州(今の江陵地域)の君主である異斯夫が于山国を服属させたという内容が出て来る。『輿地志』などでは「鬱陵島ほか于山島(独島)全て于山国の地」として、于山国には鬱陵島と独島が含まれることを明らかにしている。 これによって、于山国が新羅に服属した6世紀から独島が鬱陵島と共に私たちの歴史に登場することを知ることができる。

 上の記述のうち「…于山国が新羅に服属した6世紀から独島が鬱陵島と共に私たちの歴史に登場することを知ることができる」という記述は、歴史的権原という用語を使っておらず明確ではないが、独島の歴史的権原が韓国にあるという主張だと解釈しても無理がないようだ。しかし、『私たちの土地独島に会う』では独島の歴史的権原の代替に関しては何も言及が無い。したがって独島の歴史的権原は現代国際法上の権原で代替されず、今日の国際法上の法的効力は無いのだ。

5.1.11東北アジア歴史財団独島問題研究所 『教授・学習課程案及び学習誌』 (2013)
 東北アジア歴史財団が出版した 『教授・学習課程案及び学習誌』は、新羅智証王13年に新羅が于山国の降伏を受けたという歴史的事実を次のように記述している。

 于山国は東側の海にある島で鬱陵島という四方百里の地だ。智証王13年(512年)に伊湌異斯夫が何瑟羅州の軍主となって…于山国の人々が怖れて全て降伏した。(三国史記智証王13年)(注24)

(注24) 東北アジア歴史財団独島問題研究所 『教授・学習課程案及び学習誌』 (ソウル:東北アジア歴史財団 2013) p15

 上の記述もやはり「歴史的権原」という用語を使っていないが、上の記述の全体の意味内容から見て、新羅の于山国降参で新羅が独島の歴史的権原を取得したという意味と解釈される。しかし、これもまた独島の歴史的権原の代替に関しては何も言及がない。したがって、独島の歴史的権原は今日の国際法上の法的効力が無いのだ

5.1.12鬱陵郡独島博物館 『韓国の地独島』 (2015)
 鬱陵郡独島博物館で刊行した『韓国の地独島』は、新羅の于山国征服によって独島の歴史的権原が取得されたと記述して、特に東国輿地勝覧について詳しく言及している。

 新増東国輿地勝覧は、朝鮮前期の社会的・地理的事項を総合的に編纂した『東国輿地勝覧』を修正・補完して刊行した地誌だ。朝鮮初期に製作された地理志の場合、国家の支配体制確立に目的を置いたので、朝鮮の地理的事項を把握すると共に軍事、行政、経済などの実用的側面に比重を置いて編纂した。だが、新増東国輿地勝覧は王権の威厳と儒教的支配原理を強化するところにその目的があったので、既存の地理誌の内容に人物、古跡などの事項を追加している。
 新増東国輿地勝覧は総木版本55巻25冊で構成されていて、この中で『巻45江原道編』に鬱陵島と于山島についての内容が収録されている。江原道の地図を挿入して該当行政区域の主な山と河川、峠などを表記していて、各郡県には首都から郡県までかかる時間を別に付記している。地図上で鬱陵島と独島は東抵大海と表記された朝鮮の東側海上に位置していて、独島に該当する于山島は鬱陵島の西側に位置していて実際と差異を見せるが、朝鮮の固有領土と認識していることが分かる。(注25)

(注25) 鬱陵郡独島博物館 『韓国の地独島』 (鬱陵郡:独島博物館2015) p17

 上の鬱陵郡独島博物館の記述で独島の歴史的権原の取得に対しては記述しているが、歴史的権原の現在の国際法上の権原の代替に対しては何も言及がない。したがって、今日、独島に対する歴史的権原は国際法上の効力が無いのだ。

5.1.13慶尚北道 『独島 正しく知る』 (発行年度不表示)
 慶尚北道が出版した『独島 正しく知る』は、新羅の于山国服属によって独島に対する歴史的な権原が取得されたと次のとおり記述している。

 独島は西暦512年新羅が于山国を服属して以来韓国の領土になったと記述して、独島が韓国の領土になった明確な歴史的権原は512年新羅が于山国を服属して于山国には鬱陵島だけでなく独島も含まれていて、その歴史的根拠は世宗実録地理志に明確に表示されている。(注26)

(注26)慶尚北道 『独島 正しく知る』 (大邱:慶尚北道 発行年度不表示) p21-22

 慶尚北道が出版した『独島 正しく知る』でも新羅の于山国征服によって独島の歴史的権原が成立したと記述しているが、その歴史的な権原が現在の国際法によって代替されたという言及が全く無い。したがって、上の見解によれば独島の歴史的な権原は国際法上今日の効力は無いのだ。

5.1.14外交部 『大韓民国の美しい領土独島』 (発行年度不表示)
 外務部が刊行した『大韓民国の美しい領土独島』は、『世宗実録地理志』を引用して、6世紀初葉(512年)新羅が于山国を服属させて独島に対する統治の歴史は新羅時代まで遡る、と次のように記述している。
 
 朝鮮初期の官撰書である『世宗実録地理志』(1454年)には、鬱陵島(武陵)と独島(于山)が江原道蔚珍県に属する二つの島だと記録されています。また、二つの島は遠くなく晴れた日には望み見ることができると記録しています。また、二つの島は6世紀初葉(512年)に新羅が服属させた于山国の領土だと記録しているので、独島に対する統治の歴史は新羅時代まで遡るのです。(注27)

(注27) 大韓民国外交部 『大韓民国の美しい領土独島』 (ソウル:外交部 発行年度不表示) p6

 上の記述は「歴史的権原」という用語を用いていないが、その意味内容は独島に対する歴史的権原を主張しているものと見られる。しかし、歴史的権原の代替に関しては何も言及がないので、上の歴史的権原は今日の現代国際法上の効力が無いのだ。

5.1.15 Dokdo (発行年度不表示)
 東北亜歴史財団が英文で出版した「Dokdo」には、智証王13年(512年)に異斯夫の于山国征服によって新羅が独島を併合した、と次のように記述している。

Korean title to Dokdo dates back to the 6th century. According to the records of SamgukSagi, Korean sovereignty over the island was established with the incorporation of Usanguk into the Silla Kingdom, one of the three ancient kingdoms of Korea, in 512 A.D. SamgukSagi records that Isabu, a Silla government official, subjugated the island state in that year. (注28)

(注28) North East Asian Historic Foundation, Dokdo (Seoul:NEAHF, Published date non indicated), p.16

 上の記述では「歴史的権原」という用語を使っていないが、その意味内容は異斯夫が于山島を征服して新羅が独島に対する歴史的権原を取得したという主張と見られる。しかし、この歴史的権原の現代国際法による代替に関しては何の論及もない。歴史的権原は現代国際法によって代替されなければ法的効力がないので、上記に記述された異斯夫の于山国征服によって成立した独島に関する歴史的権原は、今日の国際法上法的効力が無いのだ。



<コメント>
 「異斯夫の于山国征服によって成立した独島に関する歴史的権原」は「今日の国際法上法的効力が無い」という以前に、そもそもそんなものが発生したという証拠が無い。


テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

独島の「歴史的権原」 3

韓国政府の独島の歴史的権原主張に関する研究
金明基(明智大学名誉教授)
嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第29号(2020.12.30) p173


5. 韓国政府の独島の歴史的権原主張内容に対する批判
5.1歴史的権原主張の内容
  韓国政府は、国際慣習法によって認められている「歴史的権原の代替」を受け入れていない。すなわち、韓国政府は、独島の権原に関して、歴史的権原は現代国際法による権原で代替されない限り現代国際法上効力が無く、歴史的権原は現代国際法によって代替された以後は現代国際法上の法的効力が無いという「歴史的権原の代替」の国際慣習法を受け入れていない。
  韓国政府は一般的に独島の歴史的権原を主張するが、その代替に関してはいかなる主張もしたことがない。これは、韓国政府の政策当局に歴史的権原は現代国際法によって代替されるのでなければ国際法上の効力が無いという「歴史的権原の代替」の国際慣習法の不知の結果と見られる。もちろん、歴史的権原の代替の主張がなくても、独島の権原ではない歴史的事実の記述・主張としての意味が否定されるのではなくて、国際法上の効力が否認されるだけだ。
  韓国政府が新羅の新羅智証王13年に于山国を征服して取得した独島の歴史的権原を主張して来た先例を見れば、次のとおりだ。

5.1.1外務部 『独島問題概論』 (1955)
  外務部が刊行した 『独島問題概論』では、『三国史記』の記録を引用して、智証王13年于山国を降伏させ独島は我が国の島であることに二言は必要ないと、次のように記述している。

  三国史記に、新羅第23代智証王131年(西暦512年)の記録に木製獅子で于山国人を降参させたとなっている。このように、最初には国名として于山、島名として鬱陵(ウッルン)だと『三国史記』に採録されていて、高麗時代に下ってウルヌン、ウィヌン、インヌンあるいはムルンなどの別称が生じ、我が国に属した島であることは二言を要しない。(注14)

(注14)外務部 『独島問題概論』 (ソウル 外務部政務局 1955) p7-8

  上の記述では「歴史的権原」という用語を使っていないが、その意味内容は、新羅の異斯夫が于山国を降参させたことで独島の領土主権の歴史的権原が新羅に帰属した、という歴史的権原の主張と見られる。しかし、歴史的権原の代替に関しては何の論及もない。したがって、新羅によって取得された歴史的権原は今日の国際法上法的効力が無いのだ。要するに、上の記述は新羅が取得した歴史的権原を明確に記録しておらず、また歴史的権原の代替に関して何の論及もない。上の記録によれば、今日の国際法上、独島領有権の歴史的権原は法的に効力が無いのだ。


5.1.2韓国外務部の公式見解である韓国政府の見解3 (1959)
 「韓国政府の見解3」は、新羅智証王13年(512年)に于山国が新羅に帰属したと次の通り記述している。

  既に新羅智証王当時に于山国が新羅に帰属したという事実と、その于山国を朝鮮初期に到っては明確に鬱陵・于山両島を包括的に認知して、官撰地理誌をはじめとするその他公的記録に収録されて、したがって鬱陵島の独島と于山島すなわち独島も領域の一部と明確に見なされていたという事実にわずかの疑問も抱く余地がない。(注15)

(注15) The Korean Ministry of Foreign Affairs, The Korean Government’s Views Reputing The Japanese Government’s Version of the Ownership of Dokdo (September 24, 1956) (January 7, 1959)

5.1.3 Establishment of Right History Corp.、Dokdo:Korean Territory Since the Sixth Century、2005
  東北アジア歴史財団の前身である正しい歴史確立企画団が刊行した「Dokdo:Korean Territory Since the Sixth Century」は、独島の歴史的権原に関して次のように主張している。

Korean sovereignty over Dokdo dates back to the 6th century. According to the records of Samguk Sagi - (History of the Three Kingdoms), Korean sovereignty over the island was established with the incorporation of Usanguk - (“guk” means “state”) into the Kingdom of Silla, one of the three ancient kingdoms of Korea, in 512 A.D. Samguk Sagi records that in 512 A.D., Yi Sa-bu, a Silla government official subjugated the island state in that year. The territory of Usanguk comprised the islands of Ulleungdo and Usando - (present-day Dokdo). Historical facts surrounding this event and the establishment of Korean title to Dokdo are further buttressed by medieval Korean records: Sejong Sillok Jiriji - (Geographical Appendix to the Annals of King Sejong) and Sinjeung Dongguk Yeoji Seungnam - (Revised and Augmented Version of the Survey of the National Geography of Korea), published in 1454 (注16)

(注16) The Establishment of Right History Corp, Dokdo: Korean Territory Since the Sixth Century (Seoul: ERHC, 2005), p.4

  上のように、「Dokdo:Korean Territory Since the Sixth Century」で新羅の異斯夫将軍が于山国を征服して新羅の独島による領土主権が成立したと記述しているが、独島の歴史的権限の代替に関しては上で言及した諸資料と同じく言及が全くない。


5.1.4国立中央博物館 『行きたい私たちの土地独島』 (2006)
  国立中央博物館が出版した『行きたい私たちの土地独島』でも、新羅の異斯夫将軍による于山国の征服によって新羅の独島に対する歴史的権原が成立したと記述している。

  異斯夫(生没年不詳)は奈勿王の4代の孫で、姓は金氏であり、新羅智証王(500~514)と法興王(514~540)、真興王(540~576)の代に活躍した将軍であり政治家だ。また、鬱陵島と独島を私たちの歴史に登場させた人物でもある。新羅智証王13年(512)に何瑟羅州(今の江陵)の君主であった異斯夫は于山国を服属させた。『三国史記』によれば、船に木で作った獅子を多数積んで于山島の海岸に到り、もし降参しなければこの猛獣を放つと威嚇する計略を用い、于山国の人々はそれを本物の猛獣と思って降参したという。鬱陵島で発見される遺跡・遺物だけから見れば、異斯夫の征服以前の于山国がどの程度の勢力圏を形成していたのかは正確に分からない。しかし、于山国王于海が対馬を攻撃して対馬島主の娘を連れてきたという伝説や、新羅軍の于山国征伐の時、力だけを前面に出した攻撃でなく巧妙な計略を立てなければならなかったということを見る時、于山国の人々は今日の鬱陵島、独島などの地を含んだ島嶼地域とそれを巡る海および東海岸一帯を基盤とした海上勢力であったことを察することができる。(注17)

(注17)国立中央博物館、『行きたい私たちの土地独島』 (2006) p128

  上の国立中央博物館の記述も独島の歴史的権原が新羅異斯夫将軍の于山国征服によって樹立されたと記述しているが、この歴史的権原が現在の国際法上の権原で代替されたことに対して何の言及も無い。したがって歴史的な今日の法的に効力が無いのだ。

5.1.5日本外務省の独島広報パンフレット反駁文(2008)
  東北アジア歴史財団が公刊した「日本外務省の独島広報パンフレット反駁文」(2008年)は、次のとおり新羅の独島に対する権原が記録された官撰文献を列挙して独島が韓国の領土であることを間接的に主張している。

  独島は鬱陵島から肉眼で眺めることができて、鬱陵島に人々が居住し始めた時から認識することができた。そのような認識の結果、世宗実録地理志(1454年)、新増東国輿地勝覧(1530年)、東国文献備考(1770年)、万機要覧(1808年)など韓国の数多くの官撰文書に独島が明確に表記されている。特に、東国文献備考(1770年)、万機要覧(1808年)等には「鬱陵島と于山島はいずれも于山国の土地であり、于山島は倭人がいう松島」と明確に記録している。松島は当時日本人たちが呼んだ独島の名称だ。(注18)

(注18)東北アジア歴史財団独島問題研究所 「日本外務省の独島広報パンフレット反駁文」(2008) 第2項

  上の記述では韓国の独島の歴史的権原が新羅智証王13年に成立したと直接的に明示されてはいないが、列挙された官撰文献の内容には韓国の独島に対する歴史的権原が新羅智証王13年に異斯夫の于山国征服によって樹立されたと記録されているので、「歴史的権原」という用語を明らかに使っていないがこれは独島の権原が新羅時代に成立したことを主張するものであるから、結局、これは独島の歴史的権原を主張しているのだ。しかし、ここでもやはり歴史的権原の代替に関しては論及がないので、独島の歴史的権原自体は今日の国際法上法的効力が無いのだ。

5.1.6慶尚北道 『独島叢書』 (2008)
  慶尚北道が出版した『独島叢書』では、新羅智証王13年に異斯夫将軍が于山国を服属させて我が国の独島による歴史的権原が取得されたと次の通り記述している。

  独島が我が国の固有領土になったのは三国時代である西暦512年(智証王13年)に于山国が新羅に服属してその一部になった時からだ。この事実は『三国史記』新羅本紀智証王13年の条と列伝異斯夫の条に2度も記録されている。(注19)

(注19) 慶尚北道 『独島叢書』 (大邱:慶尚北道2008) p76

  上の慶尚北道が出版した『独島叢書』にも新羅異斯夫将軍の于山国を服属させ我が国の独島に対する歴史的権原が成立したと記述しているが、この歴史的な権原が現在の国際法によって権原の代替を成したという言及が全くない。したがって、この見解にも今日の独島に対する歴史的権原は国際法上効力が無いのだ。


<コメント>
 国際法の専門家が書く文章がこれなのか? 「権原の代替」がどーのと難しいことを言う前に、国際法理論適用の前提となる事実の認定のやり方を研究しなおすべきだろう。





テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

独島の「歴史的権原」 2

2.2 歴史的権原の代替の概念
2.2.1権原の代替の意義
  時際法(intertemporal law)上、権利獲得時の法と権利存在時の法は異なるものだ。権利の取得に関してはその取得当時に妥当な法が適用されるのであり、権利の存在に関しては今日の評価時に妥当な法が適用されるのだ。「権原の代替」とは、歴史的権原を現代国際法によって妥当な他の権原(another title valid by modern International law)で代替(replacement)することをいう。すなわち、歴史的権原がその後の歴史的発展の効果によって代替(superseded)されることを意味する。要するに、古典的権原、本源的権原、封建的権原などの歴史的権原を現代国際法によって妥当な新しい権原に変更することを歴史的権原の代替という。これを「権原の交替」(supersede of title)、「権原の変更」(change of title)または「権原の変形」(transformation of title)ともいう。


2.2.2権原の代替と区別される概念
  権原の代替は新しい権原を取得する「権原の取得」と区別され、既に取得した権原の現状を維持する「権原の維持」と区別される。



3. 歴史的権原の代替を承認した判例
  歴史的権原の代替の法理論を承認した判例を見れば、次のとおりだ。
3.1 The Island of Palmas Case (1928)
  The Island of Palmas Case (1928)でHuber仲裁官は権利の創造と権利の存続に適用される方法はそれぞれ違うと前提した後、法の存在に適用される方法は法の発展によって要求される条件に従わなければならないとして、歴史的権原の代替という用語は使わなかったが、次の通り間接的に歴史的権原の代替の必要性を判示した。

  法的事実はその事実のようにこれは現在の法の観点で評価されなければならない。 …権利の創造行為が権利が発生する時に効力がある法に従わなければならないという同一の原則は、権利の存続、換言すれば権利の継続的な顕示である法の発展によって要求される要件に従わなければならないということを要求する。(注5)

(注5) ・・・・a judicial fact must be appreciated in theright of thelawcontemporary with it, …thesame principlewhich subjectsthe act creative of a righttothelawinforce at thetimetheright arises, demands thatexistence of theright, in other words its continued manifestation, shall follow the conditions required by theevolution of law. UN, RIAA, Vol.2,1949,p.839

3.2 Minquiers and Ecrehos Case (l953)
  Minquiers and Ecrehos Case (1953)で、国際司法裁判所は封建的権原は代替当時の法によって有効な権原に変更されなければ効力が無いと次の通り判示した。


  裁判所の意見では、本件を裁くためにそういう歴史的論争を解決する必要がない(…not necessary to solve these historical controversies)。…フランス王がChannel Islandにも固有の封建的権原を持っていたとしても、そういう権原は1204年及びその後の事件の結果、失効されたことが明らかだ。そのように主張された固有の封建的権原は、代替当時の法により他の有効な権原で代替されたのでなければ今日にどんな法的効果も発生しない。その代替の立証責任はフランス政府にある。(注6)
(注6) such an alleged original feudal title could today produce no legal effect, unless it had been replaced by another title valid according to the law of the time of replacement. It is for the French Government to establish that it was so replaced. ICJ, Reports, 1953, p.56

3.3 Western Sahara Case (1975)
  Western Sahara Case(1975)の勧告的意見で、国際司法裁判所は権原の転換(transforming title)において合意書の機能を次の通り承認した。従前は「権原の代替」において「実効的支配」の機能を認めて来たことに比べて特別な意味を持つ。その勧告的意見は次のとおりだ。

  そのような領土の事件において、主権の取得は無主地の本源的権原による無主地の先占を通じて一方的に影響を受けるものと一般的に考えられていなかった。しかし、地方的支配者と締結された合意書を通じて…そのような合意書は権原の派生的根拠として認められ、無主地の先占によって取得された本源的権原ではないと認められた。(注7)

(注7) in the case of such territories the acquisition of sovereignty was not generally considered as effected unilaterally through the occupation of terra nullius by original title but through agreements concluded with local readers … such agreements … were regarded as derivative roots of title, and not original titles obtained by occupation of terra nullius. ICJ, Reports, 1975, p. 39

3.4 Land,Island and Maritime Frontier Dispute Case (1992)
  Land,Island and Maritime Frontier Dispute Case (1992)で、国際司法裁判所はMinquiers and Ecrehos Case (1953)の判決を引用して、同判決では全ての古典的権原が単純に無視されたのではなく、代替されない権原が無視されて代替された最近の権原に基づいて裁いたものだと次の通り判示したことがある。

  この事件で裁判所は古典的権原を単純に無視したのではなく、より最近の主権の顕示に基づいて裁いたのだ。(注8)

(注8) the Court in this case did not simply disregard the ancient titles and decide on a basis of more recent display of sovereignty. ICJ, Reports, 1992,paras. 343-44

3.5 Territorial and Maritime Dispute in the Caribbean Sea Case (2007)
  Territorial and Maritime Dispute in the Caribbean Sea Case (2007)で、ホンジュラスは歴史的基礎(historical basis)に基づいた伝統的境界線(traditional boundary line)の確認を要求した。裁判所は伝統的境界線を容認しなかった(注9)。伝統的境界線は歴史的権原に基づくものだ。

(注9) ICJ, Reports, 2007, para.259

3.6 Pedra Branca Case (2008)
  Pedra Branca Case (2008)で、マレーシアは「太古から」(forme time immemorial) Pedra Brancaはジョオール王国の主権下にあったと主張して(注10)、裁判所は歴史的権原(historical title)はマレーシアに帰属するが、実効的支配をして来たシンガポールに権原が移転されたと判示した。裁判所は、判決文で歴史的権原(historical title)という用語を使った。国際司法裁判所は次のとおりマレーシアは歴史的権原を代替したことがないと判示した。

  マレーシアは、同島嶼に対する歴史的権原をいかようにも提示することができる。 …しかし何もしなかった。マレーシアはその歴史的権原は明確にしなかった。(注11)

  上の判決で歴史的権原を明確にしなかったというのは、現代国際法上の権原に代えなかったという意味だ。
  上記のもの以外に、歴史的権原はRann of Kuch Arbitration Case (1968)事件判決で認められた。(注12) このように、国際司法裁判所は、歴史的権原は代替当時に有効な法によって代替されなければ効力が無く、代替された以後は歴史的権原は法的に失効することになると判示した。歴史的権原は現代国際法によって代替されなければ法的効力が無く、また、代替された以後に歴史的権原は法的効力がないというのが国際法上の「一般原則」(general principle)と(注13)説明される。国際法上の一般原則は国際慣習法上の一般原則であるから、この研究では国際慣習法と見ることにする。

(注10) ICJ, Reports, 2008, para.48
(注11) Malaysia could somehow show an historic tittle over the island, …whole Malaysia has done nothing … Malaysia had not made out its historic tittle. ICJ, Reports, 2008, para.123
(注12) ILR, Vol.50,p.94
(注13) Peter, Malanczuk(ed.), Akehurst’s Modern Introduction to International Law, 7th (London Routledge, 1987), p.155



テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

独島の「歴史的権原」 1

韓国政府の独島の歴史的権原主張に関する研究

金明基(明智大学名誉教授)
嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第29号(2020.12.30) p173

<目次>
1. はじめに
2. 歴史的権原の代替
3. 歴史的権原の代替を承認した判例
4. 独島の歴史的権原の代替
5. 韓国政府の独島の歴史的権原の主張内容とそれに対する批判
6. 結び

<抄録>
  古典的権原、封建的権原、本源的権原など歴史的権原は、現代国際法によって妥当な権原へ権原の代替を成さなければ法的効力がない。現代国際法上の権原に代替された歴史的権原は現代国際法上法的効力がないということが、国際判例と学説によって慣習国際法として承認されている。韓国政府が独島領土主権の歴史的権原を主張するにおいて、歴史的権原だけを主張していて歴史的権原の代替に関しては主張して来たことが殆どない。その結果として、新羅の異斯夫将軍が于山国を征服して樹立した韓国の独島領土主権の歴史的権原は、今日では法的効力が無いということだ。したがって、韓国政府が独島の歴史的権原を主張するためには、歴史的権原だけでなく歴史的権原の代替に関して指摘することが至急に要請されている。
  新羅異斯夫将軍の于山国征服によって樹立された韓国の独島領土主権の歴史的権原は、1910年10月25日の「大韓帝国勅令第41号」によって現代国際法上の有効な権原に代替されたのだ。歴史的権原の代替の慣習国際法は、特に独島を研究する史学者に普及させる必要性が要求される。これは関係政府当局に付与された責務である。


1. はじめに
  独島は歴史的・地理的・国際法的に韓国の固有領土だ、というのが韓国政府の独島領有権に関する基本の立場だ。独島が歴史的に韓国の領土である根拠として、『三国史記』の記録を引用しながら、新羅の智証王13年(512年)に異斯夫が于山国を征服したその時から独島は韓国の領土に帰属したものであるから独島は歴史的に韓国の領土だとするのが韓国政府の主張だ。韓国政府が独島の領土主権が韓国に帰属するという主張をする場合、例外なく新羅智証王13年に異斯夫の于山国征服による独島領土主権の取得による新羅の歴史的権原の取得を提示する。しかし、歴史的権原は現代国際法によって妥当な権原へ代替されない限り、現代国際法上の法的効力は無いというのが判例と学説によって一般的に承認された国際慣習法だ。このように「歴史的権原の代替」に関する国際慣習法によれば、韓国政府が主張する韓国の独島領土主権の歴史的権原は、現代国際法によって代替されない限り、国際法上独島領土主権の権原として法的効力がないのだ。
  上述した通り、韓国政府は韓国の独島領土主権の歴史的権原を提示するが、この歴史的「権原の代替」(replacement of title)に関しては何も論及がない。したがって、韓国政府が主張する独島領土主権の「歴史的権原」(historic title)は現代国際法によって代替されず、現代国際法上の法的効力がない。
  この研究は、韓国政府が主張する独島領土主権の歴史的権原は現代国際法によって代替されておらず国際法上の効力が無いということと、歴史的権原の代替が要求されるという点を指摘して、将来独島領有権の歴史的権原を主張するためには歴史的権原の代替の措置が要求されるという政策代案を提案するために試みたものだ。この研究の法思想的基調は「法実証主義」であり、研究の方法は「法解釈論的アプローチ」だ。したがって、この研究の対象はlex ferendaでなくlex lataである。以下、(ⅰ)歴史的権原の代替、(ⅱ)歴史的権原の代替を承認した判例、(ⅲ)独島の歴史的権原の代替、(ⅳ)韓国政府の独島の歴史的権原の主張内容とそれに対する批判の順で論述して、(ⅴ)結論においていくつかの対政府政策代案を提示することにする。


2. 歴史的権原の代替
2.1歴史的権原の概念
2.1.1権原の意義
  領土主権の権原(title to territorial sovereignty)とは、他国家に対する領土主権の主張の根拠(the validity of claims to territorial sovereignty against other states)を意味する(注1)。

(注1) Ian Brownlie, Principles of Public International Law, 5th ed, (Oxford: Oxford University Press, 、

2.1.2歴史的権原の意義
  領土に対する主権の顕示(display of sovereignty)すなわち実効的支配(effective control)が要求されるのは、「権原の代替」(replacement of title)、「権原の取得」(acquisition of title)または「権原の維持」(maintenance of title)のためにだ。
領土主権の権原は時間の経過の軸で区分してみれば、「現代国際法上の権原」とそれ以前の「歴史的権原」に区分される。そのうちの歴史的権原(historical title)は、古典的権原(ancient title)、本源的権原(original title)、封建的権原(feudal title)など現代国際法以前の領土主権の妥当根拠をいう。歴史的権原は前法的主権(pre-legal sovereignty)の権原、すなわち国際法以前の権原を意味する(注2)。したがって、歴史的権原は厳格な意味で法的権原ということはできない。もちろん、歴史的権原が成立する当時に妥当な現代国際法以前の規範も国際法に関連すれば歴史的権原も法的権原といえるが、それは現代国際法上の権原とはいえない。現代国際法は1648年の「ウェストファリア条約」(Treaty of Westphalia)以後に成立したと見るのが一般的な見解であるから(注3)、結局、歴史的権原は1648年以前の近代国家成立以前の権原を意味しているといえる。これは、特定の国家が国家として成立した以後に後続的に増加した(subsequent increase)権原と区別される(注4)。

(注2) G. Schwarzenberger and E. D. Brown, A Manual of International Law, 6th ed. (Milton: Professional Book, 1972), p.96; ICJ, Reports, 1953, p.56; David H. Ott, Public International Law in the Modern World (London: Pitman, 1987), p. 109
(注3) Stephan Verosta, "History of Law of Nations, 1648 to 181" EPIL, Vol.7, 1984,pp. 160-62; B. S. Chimni, International Law and World Order(London : Sage, 1993), p.226; John Westlake, International Law(Cambridge:CUP, 1895), p.59; Gillan D. Triggs, International Law(Australia: Butterworth, 2006),p.10; D. P. O'Connell, "A Cause Celebre in the History of Treaty Making," BYIL, Vol.42, 1967, pp.71-90.;Antonio Cassesse, International Law(Oxford : Oxford University Press, 2001),p.19.; John O'Brien, International Law(London : Cavendish, 2001), p.15;Turan Kayaglu, Legal Imperialism(Cambridge: Cambridge University Press, 2010), pp. 14,27 ;Steven Wheatley, The Democratic Legitimacy of International Law(Oxford : Hart, 2010),p. 124 ;Leo Gross, "The Peace of Westphalia 1648-1948," AIIL, Vol.42, 1948,pp.20, 29 ;J. R. Strayer, On the Medieval Origins of Modem State(Princeton : PUP, 1979), pp.9-10 ;Mark W. Zocher, "The Territorial Integrity Norm," in B. A. Simmons and R. H. Steinberg(eds.), International Law and International Relations(Cambridge ; Cambridge University Press, 2006),p.260 ;Alind Kaczorowska, Public International Law, 4th ed. (London :Routledge, 2011), pp. 11-12 ;Rechard Joyce, "Westphalia : Event, Memory, Myth," in F. Johns, R. Joyce and S. Papahuja (eds.),Events : The Force of International Law(London : Routledge, 2011),pp.55-56 ; Paul F. Diehl and Charlatte Ku, The Dynamic of International Law(Cambridge ; Cambridge University Press, 2012), p.28
(注4) Antonio Tores Bernordez, "Territory, Acquisition," EPIL, Vol. 10,1987, p.498


<コメント>
 抄録の下線を引いた部分を読んで、翻訳意欲があっという間に消えた。


テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

楽しいモーツァルト



 モーツァルトのセレナーデ「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」の第2楽章ロマンスのギター二重奏。モーツァルトの音楽は大体楽しいのだが、この演奏は弾くのに精一杯で、楽しむというところまではいかないなあ。






テーマ : ギター
ジャンル : 音楽

プロフィール

Chaamiey

Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

最新記事
最新コメント
カレンダー
03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
来訪者数
カテゴリ
検索フォーム
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR