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鬱陵島渡海禁止令の我田引水的解釈 2

Ⅱ. 時代別渡海禁止令の立案過程と質疑応答書分析
1. 元禄渡海禁止令と鬱陵島争界の独島領有権所在確認
(1) 1695年日本幕府執政の質問書
  朝鮮政府は、1694年8月、鬱陵島争界が進行する過程で対馬藩との交渉方針を転換した(注4)。これに伴い、その間日本との正面衝突を避けるために取って来た朝鮮の鬱陵島と日本の竹島という「二島二名」の立場を変更して、日本がいう竹島が朝鮮の鬱陵島であるという「一島二名」の立場を表明して、日本人たちの鬱陵島侵犯に対する責任を問うた。1695年、対馬藩からこのような状況の報告を受けた老中阿部豊後守は、朝鮮がいう「一島二名」の真偽を確認するために、竹島(鬱陵島)と直接的に関連した活動があった鳥取藩の江戸藩邸に、竹島及び周辺の島々の所属や実情に対して次のような7項目の質問をした(注5)。

一. 因幡と伯耆に付属する竹島はいつから両国に付属しているのか。先祖が領地を受ける以前からなのか。
一. 竹島は概略どの程度の島なのか。人は住んでいないのか。
一. 竹島に漁労のために人が来ると聞くが、いつから来ているのか。毎年来るのか、あるいは時折来るのか、どんな漁をするのか、船も多く来るのか。
一. 三、四年前に朝鮮人が来て漁をして、当時人質として二人を捕らえて来たという。その前にも時折来ていたのか、あるいは全く来なかったのがその時は二年続けて来たのか。
一. (最近)一、二年は来ていないのか。
一. 以前に来た時は何隻で、人は何人程度が来たのか。
一. 竹島の他に両国(因幡、伯耆)に付属する島があるのか。また(あるならば)そこにも漁のために両国の人々が行くのか。


(注4) 鬱陵島争界関連の朝鮮と日本の書契による交渉の過程に関しては、チェ・チョルヨン、柳柳林 1877年太政官指令の歴史的・国際法的争点の検討ー鬱陵島争界関連文書との関連性を中心に 『国際法学会論叢』 第63巻 第4号(2018) p252-255
(注5) 内藤正中 クォン・オヨプ、クォン・ジョン(訳) 『内藤正中の独島論理』 (2011) p131

(2)日本幕府執政の質問書に対する鳥取藩の回答書
  このような幕府の質問に対し鳥取藩の江戸留守居小谷伊兵衛は、1695年12月25日に次のような回答書を送った(注6)。

一. 竹島は因幡や伯耆に付属したものではありません。伯耆国米子の町人大谷九右衛門と村川市兵衛という者が渡海して漁をしているのは、松平新太郎が領国を治めていた時、奉書により将軍の指示を受けたといいます。その前に渡海したこともあるとはいいますが、それに関しては分かりません。
一. 竹島は周りが8~9里ほどになるといいます。人は住んでいません。
一.竹島に漁に行く時は2~3月ごろに米子を出港して毎年行きます。その島でアワビとアシカの漁をする大小の船2隻が行きます。
一. 4年前の壬辰の年(1692年、元禄5年)、朝鮮人がその島に来ていた時に舟頭たちが行って遭遇したことは、当時に報告を上げました。翌癸酉の年(1693)にも朝鮮人が来ているときに舟頭たちが行って遭遇し、朝鮮人二人を連れて米子に戻り、そのことも報告を上げて、長崎に送りました。甲戌の年(1694)には難風に遭って該島に着岸できなかったことを報告しました。今年も渡海したところ異国人が多く見えたので着岸せずに帰って来る時、松島(独島)でアワビを少し採りました。このことを報告します。
一. 壬辰の年に朝鮮人が来た時、船11隻のうち6隻が難風に遭って、残りの5隻がその島に留まったが、人数は53人でした。癸酉の年には船3隻で42人が来ていました。今年は船が多くて人も多く見えました。接岸しなかったので明確には分かりません。
一. 竹島と松島、その他に二つの地域に付属した島はありません。

(注6) 前掲書p132-133

(3)鳥取藩回答書の意味
  竹島以外の島があるかを尋ねる幕府の質問に、鳥取藩が竹島と松島は因幡と伯耆に所属していないと明示することによって、幕府と鳥取藩のいずれも竹島(鬱陵島)の他に松島(独島)に対しても認識していたことは明らかだ。これを通じて、朝鮮人が持続的にその島で漁労活動をして来て、因幡や伯耆に付属する島ではない竹島と松島周辺の海域での漁労は朝鮮の漁師たちに権利があるので(注7)、彼らがいれば操業などの活動をすることができなかったという日本の漁民の認識を確認することができる。また、朝鮮人たちは松島にはまだ到着していなかったので、少しでも経済的利益を得るために朝鮮人が来る前にアワビを一部採取したというのは、松島それ自体を漁業的目的を持って渡航したのではなくて竹島(鬱陵島)と松島(独島)が一つの漁労活動対象海域だという意味を含んでいる。
(注7) 1614年、東莱府使ユン・スギョム、パク・ギョンオプと対馬藩は、鬱陵島は朝鮮の領土であるから日本人の渡航と居住を禁止することを確認した外交文書を交換したことがある。パク・ジヨン 鳥取藩史料を通じて見た鬱陵島争界:いくつかの争点に対する検討を中心に 『慶尚北道独島史料研究会最終報告書(2010-2018)』 2018,12 p187


2. 天保渡海禁止令と八右衛門判決の法的確信付与
(1)八右衛門事件の概要
  天保竹島一件は、1836年(天保7年)、石見国浜田で海運業をしていた今津屋八右衛門の竹島(鬱陵島)密航が発覚して処罰された事件だ。八右衛門は、江戸の浜田藩邸に、蝦夷(北海道)へ航海するときに見える自然資源が豊かな竹島に関心を持ってこの島で伐木や漁をして浜田藩に特許の税金を納めたいと請願した。しかし、江戸藩邸は、幕府の財政監査を担当する勘定吟味役に送った質問の回答で、竹島は日本の領土だと決め難いから手を付けてはいけないという回答に基づいて、これを許容しないという決定をした(注8)。
  請願が却下された八右衛門は、あきらめずに浜田にいる家老岡田頼母邸の橋本三兵衛に依頼をした。三兵衛は岡田頼母と相談し、岡田たちは藩主の政治的活動で窮乏していた浜田藩の財政に役立つという判断から(注9)、八右衛門の竹島渡海を内諾した。八右衛門は、橋本及び大阪にある藩の年貢米及び特産品などを保管して取り引きする機関である蔵屋敷の助けを得て大阪の商人から資金を集め(注10)、渡海船を作った。1833年、八右衛門は竹島に渡って伐木をしたが3年後に密航が摘発されて大阪の奉行所に逮捕された。奉行所の調査の結果、密航に浜田藩がかかわっていたので、この事件を幕府の最高司法機関である評定所に(注11)任せた。評定所は日本各地の関係者たちを呼んで調査した結果、1836年12月23日最終判決を下した。評定所の判決は八右衛門など死刑2名、無期懲役2名、物件没収と重追放2名、軽追放2名、職責剥奪と軟禁2名、軟禁6名、酒代銀没収と重叱責2名、手数料押収と重叱責2名、重叱責2名、罰金3貫文1名などだった(注12)。また、密航当時の浜田藩主には永久蟄居を命じ、事件の処理を終えた幕府は、1837年に全国的に竹島渡海禁止令を下した。


(注8) 朴炳渉 「天保竹島一件」と独島領有権問題 『慶尚北道独島史料研究会最終報告書』(2018.12) p223
(注9) 浜田藩は頻繁な火災と水害で困難があり、藩主である松平は政治的目的の流動支出が多く、財政的困難に陥っていた。クォン・ジョン、クォン・オヨプ 竹島渡海一件記全を通じて見た渡海と密貿易 『日本文化学報』77(2018) p51
(注10) イ・ゲファン 日本の鬱陵島・独島認識と今津屋八右衛門の鬱陵島独島渡海事件 『学林』第39集(2017) p137
(注11) (日本)国史大辞典編纂委員会 『国史大辞典 第11巻』 (1990) p1021
(注12) 柳美林 「天保竹島一件」研究と争点に対する検討 『東北亜歴史論叢』 58巻(2017) p273


(2) 八右衛門事件における幕府の質問と対馬藩の回答
  八右衛門を調査した評定所が竹島と松島の所属を徹底的に調査する過程で、幕府は二島がいずれも朝鮮の鬱陵島なのか、あるいは竹島は鬱陵島であって松島は朝鮮以外の領域なのか、日本及び朝鮮からの距離などを含むこれらの島についての状況と地理を対馬藩に質問した。
  これに対し、対馬藩は「覚」(注13)の形式で「元禄年間に老中阿部豊後守様が下問された時、竹島近くに松島という島が別に存在して、そこにも日本人たちが渡っていって漁をしたという下々の者たちの噂を聞いたという内容の返事を上げたと書類に書いています。(松島も)竹島と同じように日本人が渡って行って漁業に従事することが停止された島とは考えますが、確実な返事を申し上げるのは難しいです。朝鮮の地図を持って考えて見ますと鬱陵と于山の二島があるのが見えます。」と回答して、朝鮮地図を共に幕府に提出した(注14)。
  対馬藩の回答は幕府が竹島と松島を朝鮮の鬱陵島と于山島と判断する基礎になり、評定所の関係者が作成したものと推定される「朝鮮竹島渡航始末記」の付属地図は、このような認識を基に(注15)、竹島と松島を朝鮮の本土と同じように赤色で彩色して朝鮮の領土の一部も描き入れた。朝鮮竹島渡航始末記と概して同じ文が幕府の外交記録「通航一覧続輯」にも記録されているという事実は(注16)、これを再確認する重要な公的文書証拠ということができる。

(注13) 通常的に「覚」は懸案問題に対する箇条式の実務文書を指す。イ・フン 朝鮮後期対日外交窓口関連実務文書の数量と収録実態 『韓日関係史研究』 34 (2009) p237-238
(注14) 朴炳渉a 天保竹島一件と独島領有権問題 『慶尚北道独島史料研究会最終報告書』(2018.12) p228
(注15)朴炳渉b 安龍福事件以後の独島領有権問題 『独島研究』第13号(2012) p141-147
(注16) 朴炳渉c 日本の独島に対する「固有領土論の終焉」 『第2回独島国際フォーラム資料集』(2019) p108


鬱陵島渡海禁止令の我田引水的解釈 1

元禄、天保、明治渡海禁止令の規範形成手続きおよび形式の法的意味  

チェ・チョルヨン/大邱大学法学部教授
嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第28号(2020年6月30日) p293

(この文は大邱大学2019年度学術研究費支援によるものである。)

<目次>
Ⅰ. 序論
Ⅱ. 時代別渡海禁止令の立案過程と質疑応答書分析
Ⅲ. 時代別渡海禁止令と付属または参考地図の意味
Ⅳ. 時代別渡海禁止令の規範的性格
Ⅴ. 結論

<抄録>
  韓国政府は独島領土主権を立証する日本側の資料根拠として元禄渡海禁止令(1696年)だけを提示しているが、日本政府の鬱陵島・独島渡海禁止令はそこに終わるのではなく、天保時代の今津八右衛門事件後の竹島渡海禁止令(1837年)、そして明治時代の太政官指令後の太政官の指令による内務卿の独島渡海禁止諭達(1883年)など、歴史的に約200年にかけて三回に渡って公布された。
  日本政府の三回の渡海禁止令は時代別背景によって規範の性格は違うが、日本政府が自国民たちに鬱陵島とその附属島嶼である独島の渡航を禁止する規範の形式で公布されていて、これを通じて、鬱陵島はもちろん独島(松島)が日本の領土ではないという国家の意志を、反復的そして明示的に表現したというところに意味がある。これらの渡海禁止令は、立案の過程で日本の中央政府と地方政府、そして中央政府の部署相互間に独島領有権を確認するための質問書と答弁書をやりとりして行政手続き上の慎重性と正確性を期しているという点、規範的公文書として三回の渡海禁止令が単に日本国民の鬱陵島渡海を禁止する内容の文面に終わらず、渡海禁止の対象が鬱陵島だけでなく独島を含む意を明確にするために地図を添付したり参考にする形式を維持したという点、そしてそれぞれの渡海禁止令が時代的状況を反映して外交政策の国内宣言的性格、司法判決の履行規範性格、そして法律としての太政官指令の委任に伴う履行立法という近代的立法の形式で制定されたという側面から形成過程と形式の類似性及び規範性の確保という特徴的な意味を有している。また、鬱陵島と独島の韓国領土主権を立証する日本の三回の渡海禁止令は、日本政府が元禄時代から明治時代に至るまで国家機関が確立した多様な性格の規範を通じて、鬱陵島だけでなく独島を自国の領域ではない韓国の領土と認める慣行の根拠形成、それに基づいた慣習法の確認、そしてこれを成文化する立法の過程と把握することができる。


Ⅰ. 序論
  韓国政府は、外交部ホームページを通じて、独島領土主権の根拠として世宗実録地理誌(1454)、東国文献備考と輿地考(1770)、大韓帝国高宗皇帝の勅令第41号(1900)、大韓帝国鬱島郡守沈興沢の報告書と議政府参政大臣の指令(1906)などを我が国の公的資料として提示して、私たちの領土主権を確認できる日本の国内規範的資料として竹島(鬱陵島)渡海免許(1625)と鬱陵島争界に伴う竹島渡海禁止令(1696)、朝鮮国交際始末内探書(1870)と太政官指令(1877)、島根県告示第40号(1905)などを取り上げている。そして、国際法的性格の文書として、連合国最高司令官覚書677と1033(1946)、サンフランシスコ対日講和条約(1951)などを提示している(注1)。


(注1) http://dokdo.mofa.go.kr/kor/dokdo/reason.jsp大韓民国外交部ホームページ

  韓国政府が提示している独島領土主権の根拠の中で、日本政府が鬱陵島争界を終えて1695年に日本幕府執政の質問書に対する鳥取藩の答弁書に基づいて公布した元禄渡海禁止令(1696年)は、日本政府の外交政策として鬱陵島及び独島が朝鮮の領土であることを認め、日本国民が渡海できないように知らせることによって二島が日本の領土ではないことを確認した公文書だ。しかし、日本政府の鬱陵島・独島渡海禁止令はこれに止まらず、その後、天保時代の今津屋八右衛門事件に対する幕府評定所の判決後に竹島渡海禁止令(1837年)を全国に公布して元禄渡海禁止令に法的確信(opinio juris)を付与したことがあり(注2)、明治時代にも1877年太政官指令以後、太政官が内務卿に独島渡海禁止諭達(1883年)の法令を全国の各地方に下すようにするなど、歴史的に三回に(注3)亘ってそれぞれ異なる背景と法的性格を持つ公文書の形式で、鬱陵島・独島が日本の領土ではないことを公布した。
  日本政府の三回の渡海禁止令は、約200年の間、鬱陵島はもちろん独島(松島)が日本の領土ではないとの国家の意志を反復的そして明示的に表現したという点、これらの渡海禁止令を立案する過程で、日本の中央政府と地方政府そして中央政府の部署相互間に独島領有権の所在を確認するための行政文書として質問書とそれに対する答弁書をやりとりして、行政手続き上の慎重性と正確性を期しているという点、そして、規範的公文書として三回の渡海禁止令が渡海禁止の対象が鬱陵島だけでなく独島も含むという意を明確にするために、地図を添付したり参考にしたという点を明らかにしているという点に共通の要素を把握することができる。

(注2) 浜田藩の住民を含む全ての日本国民の鬱陵島と独島渡航禁止を内容とする1837年2月21日竹島渡海禁止令(竹島渡海禁止御触)。柳美林 『日本史料の中の独島と鬱陵島』(2015) p32
(注3) 日本政府の鬱陵島渡航禁止が三回あったという指摘は、ソン・フィヨン 朝鮮国鬱陵島に邦人渡航禁止の件 『独島研究』第27号(2019.12) p471-472。ソン・フィヨンは、上の3回の渡航禁止を外交文書の表題に従い「鬱陵島」渡航禁止と言及しているが、その内容と地図を考慮すれば鬱陵島及び独島の渡航禁止と見るのが正確だ

  この研究では、これまでのそれぞれの渡海禁止令に対する個別的接近と検討、あるいは日本人の渡海目的を中心とする狭隘な考察を越えて、歴史的連係性に基づいてそれぞれの渡海禁止令が有している公文書としての手続的及び形式的共通点を把握し、他の一方で国家行為として渡海禁止令が有している行政的、司法的、立法的性格の差異、そして独島領土主権への含意などを把握しようと思う。そのために、鬱陵島争界関連の日本の幕府と鳥取藩の質問及び回答文書を基礎とした幕府の対外的政策決定の履行意志表明としての元禄竹島渡海禁止令、今津屋八右衛門の竹島(鬱陵島)密航事件の捜査過程で幕府の捜査機関である大阪町奉行所と対馬藩がやりとりした質問及び回答文書と、これに伴う幕府評定所の司法的判決の後続措置としての天保竹島渡海禁止令、そして明治時代の日本政府の最高意思決定機関である太政官が鬱陵島と独島(竹島外一嶋)は日本の領土ではないという公式的政府指令文の立法過程で太政官と内務省そして島根県がやりとりした質問及び回答文書と、その後太政官指令の実質的執行のための近代的法規範としての渡海禁止諭達など日本側の歴史的公文書資料の内容を重点的に検討して、これら文書の法的意味を分析しようと思う。


<コメント>
  はい、韓国の大学の法学部の教授先生の論文がこれです。内容は全くの見当違い、論文の体裁や用語使用だけは法学部の教授らしいものです。以下、全文翻訳を進めますが、著者が何を主張しているのかということよりも、日本の史料のどこをどう曲解したらこういう結論になるのかという点に着目して読んでいただいたらいいのではないでしょうか。




[イ・ソンミンの独島の話] [15] 竹島の日

[独島の話] 独島強制編入100年迎えて作った「竹島の日」

イ・ソンミン前先任記者
2020.08.16 朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/08/14/2020081403462.html


[イ・ソンミンの独島の話] [15] 再び強まる日本の独島挑発

  2020081403440_0.jpg
  独島を守っている独島警備隊の姿。2005年3月16日撮影写真。日本島根県議会は、その年3月、毎年2月22日を「竹島の日」に定める条例案を通過させた。これは、日本がちょうど100年前の1905年2月22日に独島を一方的に島根県に編入させた事実を記念するというものだった。/朝鮮日報DB

  1965年の韓日協定締結以後、日本はしばらく独島に関連した挑発を自制した。第二次世界大戦で敗戦して韓国から追われた後、20年ぶりにアメリカの推奨により両国が紆余曲折の末に国交を再開した状況に冷水を浴びせることはできなかったためだ。だが、独島は日本領土という主張をあきらめたのではなかった。
  日本が把握する国際情勢と外交指針を書いた外交青書1971年版に、「韓国の竹島不法占拠に対して抗議した」という一節が入った。それ以前に刊行された外交青書には、「竹島問題を国際司法裁判所に回付することを提案したが、韓国側が拒否した。」、「両国間の紛争(竹島を含む)は別途の合意がない限りまず外交上の経路を通じて解決し、これによって解決できない場合は調停によって解決する。」という一節があったが、「不法占拠」という表現は初めてだった。以後、日本の外交青書はずっと「韓国の独島不法占拠」を強調した。そうするうちに、1990年版から「竹島は法的にも歴史的にも日本の固有領土」と表現を変えて今日に至る。安倍政府が成立した後には「韓国の不法占拠」という表現を再び入れて、独島に対する日本の領有権を二重に強調している。
  日本の安保戦略を書いた防衛白書も、1978年版に「北方領土及び竹島問題」という表現が初めて登場した。以後20年間、独島に関する記述はないが、1997年版から再び「北方領土と竹島などの色々な問題」という表現が毎年入った。そして、2005年版には「我が国の固有領土である北方領土と竹島の領土問題」として独島が「日本の固有領土」という表現が追加された。
  2005年版防衛白書のこのような変化は、この年に日本島根県が「竹島の日」を制定するなど独島領有権に関する日本の攻勢が強化されたこととと流れを共にする。島根県議会は、2005年3月、毎年2月22日を「竹島の日」と定める条例案を通過させた。これは、日本が正に100年前である1905年2月22日に独島を一方的に島根県に編入させた事実を記念するというものだった。条例は、第1条に「県民、市町村及び県が一体となって竹島の領土権早期確立を目標とする運動を推進、竹島問題に対する国民世論を啓発するために「竹島の日」を定め」と明らかにした。


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 日本島根県で2006年から毎年2月22日に開かれている「竹島の日」記念行事/東北アジア歴史財団

  この趣旨で分かるように、「竹島の日」の制定は、独島問題が日本がロシアと領土紛争中の北方領土(千島列島の南側4個の島)とは違って日本国民の関心が高くないということから始まった。1981年に日本政府が毎年2月7日を「北方領土の日」として指定すると、1980年代後半から日本の議会で「竹島の日」も制定しなければならないという主張が台頭した。これに対して日本政府も肯定的な反応を見せる中で、独島強制編入100周年を控えて、独島を取り戻すためには象徴的な記念日を作らなければならないという動きが急流に乗った。
  毎年2月22日に島根県民会館で県知事と議員、公務員などが参加した中で開かれる「竹島の日」行事は、単純な地域行事ではない。東京からも「日本の領土を守るために行動する議員連盟(領土議連)」所属の国会議員がやって来て、全国各地から右翼が集まる。日本政府も2013年から毎年外務省の次官級政務官を出席させるなど、事実上国家的な規模の行事として行われている。2012年4月には、日本の国会の近くにある憲政記念館で「竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議」が開かれた。東京の真中で大規模集会を開催して独島問題を日本全域に知らせるという趣旨を掲げたこの行事は、以後例年行事として位置を確立した。このような雰囲気に鼓舞されて、日本の議会では「竹島の日」を「北方領土の日」のように全国的な記念日に昇格させなければならないという主張が続いている。
  「竹島の日」条例は、第3条に「県は‘竹島の日’の趣旨に合う対策を推進するために必要な施策を講じることに努力する。」としている。この規定により作られた代表的な組織が竹島問題研究会だ。島根県が運営に介入するこの組織は、独島に対する研究だけでなく報告書作成と言論活動等を通して日本の独島政策に影響を及ぼしている。



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  日本の領土の中で独島から最も近い隠岐島にある独島関連の宣伝立看板。「竹島は今も昔も隠岐の島」と記されている。/東北アジア歴史財団

  竹島問題研究会は、「竹島の日」が制定された直後の2005年6月にスタートした。韓国で10年を超えて日本語講師などとして活動した右翼者下條正男が座長を引き受け、教授、教師、公務員など10人で構成された。彼らは何回かの研究発表会を通じて独島問題に関する主な論点を整理した報告書を作成し、2007年3月に活動を終了した。
  竹島問題研究会の解散を控えて、その活動成果と関連資料を保管する常設組織の必要性が提起された。これに伴い、2007年7月、島根県のインターネットホームページを利用する「Web竹島問題研究所」が開設された。竹島問題研究会が民間組織の外形を持っていたのと違い、「Web竹島問題研究所」は島根県総務部に事務局を置いて官営組織の性格を持った。「Web竹島問題研究所」は、以後、独島問題に関する島根県の主張を伝播する役割を担当している。
  竹島問題研究会の活動が成果があったと判断した島根県は、2009年10月、第2期竹島問題研究会を設立した。座長はやはり下條正男が引き受け、第1期の委員10人のうち8人が再び参加した。新しく参加した7人中の3人が初・中等学校教師が委嘱されるなど、全体15人中の7人が教師で構成された。彼らは、学生に対する教育と教科書問題に重点を置いて2012年3月まで活動した。
  引き続いて2012年10月、第3期竹島問題研究会が活動を開始した。初めから参加している下條正男の他に、国際法の専門家である塚本孝が合流するなど人材を補強した。彼らは2014年2月に独島問題に関する日本側の立場を総整理した『竹島問題100問100答』を刊行するなど、2015年6月まで活動した。そして、2017年6月から2020年3月まで第4期竹島問題研究会が活動した。
  竹島問題研究会は、第2期から未来世代に独島が日本領土だと教えることに力を傾けている。第2期研究会は地理・公民・世界史の科目に対する学習指導案を作成し、第3期研究会は日本史の学習指導案を作った。彼らが提示する学習指導案は島根県の独島関連教育に活用されるだけでなく、日本国内の他の地域の独島関連教育にも相当な影響を及ぼしている。
  独島問題は日本の教科書にも載せられて深刻性を加えている。日本の教科書に独島領有権主張が初めて記述されて論議を起こしたのは、2002年に検定を通過した明成社の高等学校日本史教科書だった。この教科書は、「島根県の竹島は韓国によって不法占拠されている」と書いた。続いて「竹島の日」が制定された2005年、中学校公民教科書の中で扶桑社と東京書籍の検定本が独島を日本の固有領土と記述した。
  2008年からは、日本政府が直接教科書の独島関連記述に介入し始めた。この年に改定された「中学校学習指導要領解説」は、「我が国と韓国の間に竹島に対する主張に差異があるという点についても取り扱い、北方領土と同一に我が国の領土・領域に対する理解を深化させることが必要だ」と書いた。続いて2009年に改定された「高等学校学習指導要領解説」は、「中学校での学習に基づいて領土問題に対する理解を深化させることが必要だ」とした。2014年に再び改定された中学校・高等学校「学習指導要領解説」は、独島問題に対して一層強化された内容を入れた。「竹島は我が国の固有領土だが韓国によって不法占拠されていて、韓国に対して数回にわたって抗議しているという事実に対して正確に扱うこと」、「我が国が国際法上正当な根拠に基づいて竹島を正式に領土に編入した経緯も言及すること」等だった。この「学習指導要領解説」によって検定を受けた2016年以後の日本の教科書は、独島関連の記述の分量が増えて記述内容も強化された。
  独島領有権主張と関連した日本のこのような動きは、この問題が一日二日で終わる事案ではないと見て長期戦態勢に入ったことを意味する。私たちも日本の独島挑発に事案別に対応することと共に、長い呼吸で落ち着いて長期的な対応策を用意しなければならない時だ。



[イ・ソンミンの独島の話] [14] 新日韓漁業協定

[独島の話] 独島周辺海を「韓日中間水域」と定める

2020.08.09 朝鮮日報
https://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/08/07/2020080701635.html

[イ・ソンミンの独島の話] [14] 新韓日漁業協定と独島
独島領有権毀損の有無、激しい国内論争広がる
両国間EEZ境界は合意できずに長期漂流


 1965年に締結された韓日漁業協定は韓国が守勢的立場だった。当時の韓国と日本の漁業技術力と漁業規模の格差があまりにも大きかったためだ。韓日漁業交渉における韓国の目標は、日本漁船の韓国水域進出を最大限に防ぐことだった。韓国側にだけ漁業専管水域の外に共同規制水域を設置したのもそのためだった。
  しかし、1970年代以後韓国漁業が発展して状況が逆転した。韓国漁船は以前に操業していた韓国近海から抜け出して、東海の黄金漁場である大和堆漁場はもちろん、日本の北海道海域まで進出した。日本の水域で操業する韓国漁船が多くなるとすぐに両国間漁業摩擦が増え、韓日漁業協定の改定を要求する日本漁民の声が高まった。しかし、韓国としてはあえて韓日漁業協定を改定する必要性を感じることができなかった。摩擦が多く発生する水域に対してだけ1980年から操業自主規制を実施することにした。
  ところが、1994年11月に国連海洋法協約が発効して事情が変わった。沿岸から12海里である領海と別に200海里の排他的経済水域(EEZ)制度が導入されることで、韓日漁業協定の改定が不可避になった。EEZはその中にある資源に対して主権的権利を行使できて、人工構造物を設置できて、科学的調査と環境保護権を持つ区域だ。韓国と日本の間の海は400海里にならない所が多く、EEZ境界を両国が協議して決めなければならなかった。1996年1月と6月にそれぞれ国連海洋法協約を批准した韓国と日本は、韓日漁業協定の改定交渉に入った。
 韓国は、日本との漁業交渉の始めに、私たちの漁業の被害を最小化して独島領有権に影響を与えないという基本目標を設定した。特に、全国民の関心が集中している独島領有権がEEZ画定交渉で損傷を受けないように留意した。したがって、韓国は、領土問題と関連したEEZ境界画定は漁業協定と併行して進めるという方針だった。これとは違い、日本は緊急な懸案である漁業協定を、時間が長くかかって妥結の展望が不透明なEEZ問題と分離して先に処理しようという立場だった。
  1996年6月、済州島で会った韓国の金泳三大統領と日本の橋本龍太郎総理は、EEZ問題と漁業協定を別個の問題として解決することに合意した。以後も、実務交渉において韓国代表団は両者の並行交渉を主張したが、1997年8月、両国首脳の合意に従うことに決めた。この会談で、韓国は韓日間漁業境界線として鬱陵島と隠岐群島の中間線を提示した。これに対して、日本は、そのような場合、独島が韓国側水域に入るので受け入れることができないといった。



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  東海の黄金漁場である大和堆漁場で操業中の各国漁船。大和堆漁場は1998年に締結された新韓日漁業協定で設定された「韓日中間水域」にまたがっている。


  漁業協定をEEZ問題と分離することにしたにもかかわらず、結局、独島問題で難関にあたった時「中間水域」方案が浮上した。独島は12海里の領海だけ持ってその周辺水域は両国が共同で利用するという内容で、1965年に締結された韓日漁業協定にある「共同規制水域」管理方案を活用したものだった。以後、交渉を通じてある程度妥協案が用意されたが、日本は国内的な理由が重なって1998年1月、一方的に既存の韓日漁業協定終了を通知して来た。当時、韓国は外国為替危機が始まって苦痛を受けている状況だった。韓国では隣国の困難を配慮しない日本に対する非難の声が高かった。韓国と日本は協定終了猶予期間に再び交渉を行って1998年11月に新韓日漁業協定に署名し、1999年1月から発効された。
 韓日中間水域中に入っている独島の12海里領海は、韓国が独島を実効的に支配している現実を日本が受け入れたことになった。だが、日本は、漁業協定の妥結のために「現状維持」を受け入れながらも、これを韓国の独島領有権認定とは分離しようとした。日本のこのような立場は「中間水域」でなく「暫定水域」という別途の名称を使うところにも現れる。
  独島周辺の海を中間水域に設定した新韓日漁業協定は、韓国で一部世論の激しい批判を受けた。新韓日漁業協定の第15条は「この協定のいかなる規定も漁業に関する事項以外の国際法上の問題に関する各締約国の立場を害すると見なされてはならない。」と規定した。だが、この協定が漁業にだけ限定されるのか、あるいは独島領有権にも影響を及ぼすのかどうかに関して見解が尖鋭に対立した。
  韓国政府と相当数の専門家は、新韓日漁業協定はEEZ境界画定を控えて漁業だけのための暫定措置で、これは協定文に明示されていて独島問題とは何の関連もないと主張した。 彼らはまた、独島が中間水域に入っているのではなく独島とその領海を除いた海が中間水域だとした。一方、他の相当数の専門家は、国際法上、漁業権は領有権から派生して出るもので両者は分離できないと主張した。彼らはまた、暫定水域中に領土紛争がある島や土地があるのは相手国に一定の権利を付与することと同じことだとした。



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  新韓日漁業協定によって設定された「韓日中間水域」と、韓国と日本がそれぞれ主張する排他的経済水域(EEZ)


  これと関連して、憲法裁判所は2001年3月、新韓日漁業協定に関する憲法訴訟に対して「独島が中間水域に入っているといっても独島の領有権問題や領海問題とは関連がない。」と決定した。漁業協定はEEZ境界画定や領土問題と関係がないというものだった。2009年2月、憲法裁判所は似た憲法訴訟に対して再び同趣旨の決定を下した。だが、憲法裁判所の度重なる決定にも拘わらず、新韓日漁業協定の中間水域は韓国の独島領有権を傷つけたという批判は続いている。
  韓国と日本は、漁業協定とEEZ境界画定を分離することにした合意により、EEZ境界画定のための会談を別に続けて開いた。国連海洋法協約第74条は、「互いに向かい合っていたり隣接した沿岸を持っている国家間の排他的経済水域(EEZ)境界画定は、公平な解決に達するために国際法を基礎にした合意による。」と規定した。だが「公平な解決」は話のように容易ではなかった。中間水域設定を通じて独島問題を避けた漁業協定と違い、EEZ境界画定は韓国と日本のどちらか一方が独島領有権をあきらめない限り妥結が事実上不可能だった。
 韓国が初めて提示した韓国と日本のEEZ境界は、韓国鬱陵島と日本隠岐島の中間線だった。これは、独島をEEZを持つことができない岩石と解釈したことに伴うものだった。国連海洋法協約は、「人間が居住できなかったり独自の経済活動を維持することのできない岩石はEEZを持たない」と規定した。鬱陵島と隠岐島の中間線で両国のEEZ境界を画定しても独島が韓国側EEZに属するという事実も韓国提案の背景になった。反面、日本は、韓国の鬱陵島と独島の中間線を提示した。独島をEEZを持つ島と見たわけだ。だが、独島は日本領土という主張は韓国が受け入れられなかった。
 韓国は、2006年6月の第5次会談で新しく独島と隠岐島の中間線を韓国と日本のEEZ境界として提示した。独島に人が住んでいるという事実を挙げて、国連海洋法協約を積極的に解釈したのだ。これは、鬱陵島と隠岐島の中間線提示は独島領有権を放棄したものという国内の批判による立場の変化だった。これで、韓国と日本は独島がEEZを持つ島だということに意見の一致を見た。これに対して、日本は、済州島の南側にあるベッドほどの大きさの小さな岩石鳥島を日本EEZの基点とするという主張で対抗した。
 続く会談でも韓日両国の主張は変わることがなかったし、変化の可能性もなかった。両国は2010年6月の第11次会談を最後に、EEZ境界画定のための会談をそれ以上継続できずにいる。結局、独島領有権という障害物を越えられずにいるのだ。独島問題が韓国と日本の間でどれくらい重要なのかを改めて示した事例だった。



[イ・ソンミンの独島の話] [13] 勅令第41号、太政官指令

[独島の話] 「独島は韓国領土」 新しい資料が発見される

2020.08.02 朝鮮日報
https://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/07/31/2020073101289.html

[イ・ソンミンの独島の話] [13] 大韓帝国勅令第41号と太政官指令
鬱陵島を郡昇格させて管轄区域に「独島」明記
「独島、私たちの土地ではない」 日最高機関が判定下す

  1953年から1965年まで韓国と日本が七回も外交覚書をやりとりして独島領有権に関する攻防を行った時に両国が提示した根拠資料は、ほとんどが近代以前に刊行された歴史的文書や連合国最高司令官指令(SCAPIN)等第二次世界大戦終戦以後に出てきたものだった。1905年に日本が独島を一方的に領土に編入した「島根県告示」や、その知らせを伝え聞いて対策準備に腐心した「沈興沢報告書」のように近代に入って独島紛争が内燃する時期に作られたのもあったが、これは手続き上誤りがあったり国内用なので国際法的な根拠が弱かった。12年間も独島領有権論争が続きながらも両側が自己主張だけ繰り返してするどく対立して接点を探すことができないのは、このような資料的な限界も原因になった。
  韓日協定以後に両国の独島領有権紛争が小康状態に入った中で、韓国と日本の学者がこれと関連して二件の重要な資料を新しく発掘した。東アジアに近代的な国際法秩序が樹立される19世紀後半~20世紀始めに作られたこれら新しい資料は、当時までの論争の構図を大きく変えた。両国の学者と外交官たちが新しく現れたこれらの資料の解釈と活用をめぐって苦心して、独島領有権論争はより一層深刻化されていった。


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 1900年頒布された大韓帝国勅令第41号。鬱陵島を郡に昇格させて鬱陵島本島と竹島、石島を管轄するようにした。石島は独島だ。

  その一つは1960年代後半韓国に現れた大韓帝国勅令第41号だった。永く鬱陵島を空けておく空島政策を展開した朝鮮王朝は、1880年代に入って「鬱陵島開拓令」を頒布して積極的な住民移住政策を実施し始めた。このようにして渡って行った人々が不法に鬱陵島に入って来て森林伐採と漁労活動を行った日本人と摩擦を生じることになると、すぐに両国政府は外交的解決を模索した。その一環として1900年5月末~6月初め、韓日共同調査団が鬱陵島現地を視察した。
  共同調査団の韓国側代表であった禹用鼎(ウ・ヨンジョン)は、報告書で、鬱陵島にいる日本人たちの撤収と共に鬱陵島に関する官制改編を建議した。当時、鬱陵島は現地人を島監に任命して事務を管掌させたが、部下の官吏もおらず自らの役割をすることができない状態だった。それで、中央政府から行政責任者を派遣して部下官吏を置かなければならないという主張だった。
大韓帝国政府はこの建議を受け入れて、1900年10月27日「勅令第41号」を頒布した。その第1条は「鬱陵島を鬱島に改称して江原道に附属させ、島監を郡守に改正して官制中に編入して郡等は5等とすること」だった。続く第2条は「郡庁の位置は台霞洞に定め、区域は鬱陵全島と竹島石島を管轄すること」だった。
  鬱陵島の管轄区域を規定した条項において、「鬱陵全島」は鬱陵島とその周辺の小さい島と岩を併せて示しているといえる。「竹島」は現在の竹島をいう。ところで「石島」は大韓帝国勅令第41号にだけ登場する。「石島」は訓で読めば「トルソム」だ。19世紀後半に全羅南道海岸の人々が独島で漁労・採取活動を多くしたが、彼らは「石」を「ドク」と読んだ。したがって、「石島」と「独島」は「トルソム」を訓と音で表記したものだ。このような事実は、1946年第1次鬱陵島独島調査隊に参加した国語学者パン・ジョンヒョンが明らかにしたことがあった。今でも鬱陵島の住民たちは独島を「トルソム」、「トクソム」と呼ぶ。日本人学者たちは、石島は独島ではなく鬱陵島東北の側にある観音島を指すと主張する。このような主張の根拠とその妥当性の有無、これをめぐる韓日学者の論争は別に調べてみる。
  大韓帝国勅令第41号は1900年10月27日付官報に掲載された。だが、時間が流れてその存在は忘れられた。大韓帝国勅令第41号を再び世の中に知らせたのは、国際法的側面の独島研究を切り開いた李漢基(イ・ハンギ)ソウル大学教授だった。彼は、1968年ソウル大学法学研究所が出した『法学』第10冊第1号に載せた「国際紛争と裁判 : 独島問題の裁判付託性に関連して」という論文で、「文献として未発表の資料に次のようなものがあるが、日本側はまた例のとおり間接証拠だと言い張るかも知れないが、私たちはこれを重視する」として大韓帝国勅令第41号を紹介した。そして、「条文第2条に‘竹島’が見えるが石島はまさに独島を指すのではないかと考えられる。独島の独は‘ドク’すなわち‘石’と解説されるものだ」とした。
  イ・ハンギは翌1969年に出した『韓国の領土』という著書で、大韓帝国勅令第41号に対してもう少し詳しい国際法的解釈を加えた。彼は、「これは独島が韓国の主権下にあったという有力な証拠」として「1900年に既に韓国は独島に対して保有していた原始的権原を実効的占有という実定国際法が要求する近代的権原に変えたもの」と評価した。


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 1877年明治政府の最高国家機構である太政官が「鬱陵島[竹島]とその他一島は我が国と関連がない」と判定した太政官指令.

  独島領有権と関連してまた一つ新しい重要資料は、1987年に日本で発見された太政官指令だった。堀和生京都大学教授は、『朝鮮史研究会論文集』第24号に載った「1905年日本の竹島(=独島)領土編入」という論文で、1877年日本最高国家機関太政官が「鬱陵島と独島は我が国とは関係がない」と判定した事実を紹介した。この資料は日本公文書館で捜し出したものだった。彼は、先にこの資料を見た人々の名簿で川上健三という名前を発見した。日本外務省で領土問題を担当して独島研究の第一人者に選ばれたまさにその人物だった。川上は、この重要な資料を見ても無視したのだ。
  太政官指令は、日本が領土に関する地籍を編纂する過程で作られた。当時はまだ韓国との独島紛争が発生する少し前であったため、外交的考慮は全くなしに行政的な観点から進行された。 このような事実が、かえってこの資料の客観性と歴史的価値を後押ししてくれる。
  19世紀中盤、東海に英国とフランスなどヨーロッパ国家の船が現れて、島と海に関する情報をもたらした。日本人たちは、自主的に伝えられて来た知識と西欧の情報が入り乱れて混乱を経た。鬱陵島と独島に対する認識にも混線が醸し出された。島の数に対しても一島説、二島説、三島説が交錯した。
  1876年秋、日本の地籍を編纂する内務省は、島根県にその近海にあるという竹島に関する情報を問い合わせた。内務省は、島根県が提出した資料と自主的に調査した結果を総合して、「竹島」と「外一島」は日本の領土ではないという判断を下した。だが、領土問題は重要なので自ら結論付けないで太政官に最終決定を依頼した。太政官審議でも内務省の見解が妥当だと認められた。「竹島外一島については我が国と関係がないことを肝に銘じること」という太政官指令が内務省と島根県に通達された。明治維新直後に近代日本政府の最高機構が独島は日本領土ではないと判定したという事実は、独島領有権に関する日本側の主張には不利だった。すると、日本の学者たちは、「外一島」の名前が明示されていないのでどの島なのか判断できないと主張した。 「外一島」は独島ではないという主張まで出てきた。



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 太政官指令の付属地図である「磯竹島略図」。鬱陵島の東南の側に独島を描いて「その他一島」が独島であることを明らかにしている。


  このような主張は、ある日本人牧師が2005年5月、鬱陵島と独島が並んで描かれている「磯竹島略図」を発見して無力化された。偶然に独島問題に関心を持つことになった漆崎英之牧師は、太政官指令を直接見たいと思い、日本公文書館に行って閲覧申請をした。彼は、太政官指令の文書綴りに小さな封筒がついているのを発見した。その中には一枚の地図が折りたたまれたまま入っていた。地図を広げるとすぐに「磯竹島略図」という名称が見え、磯竹島(鬱陵島)とともにその東南の側に二つの小さい島が描かれていて「松島」という名前が記されていた。「外一島」は独島という事実が明らかになったのだった。
 漆崎牧師は、「磯竹島略図」を在日同胞の独島研究者である朴炳渉に伝達した。新しく発見されたこの資料の重要性を認識した朴炳渉は、2006年6月、彼が運営する「竹島=独島問題研究ネットワーク」を通じて公開した。また、彼が2007年1月に内藤正中島根県立大学名誉教授と共に出した『竹島=独島論争』にも収録された。
 大韓帝国勅令第41号と太政官指令が発見されたことによって、19世紀後半~20世紀始めに韓国と日本がいずれも独島を韓国領土と考えたという事実が明らかになった。これは、独島が日本の固有領土であって1905年島根県告示によって近代的な方法で再び編入されたという日本の主張に大きい打撃を与えた。今や、独島領有権に関する論争はこの二つの資料を抜いてはできなくなったのだ。


<コメント>
 >今や、独島領有権に関する論争はこの二つの資料を抜いてはできなくなったのだ。

 ハハ、そう思っているのは韓国の「独島研究者」たちだけだって。その二つは竹島領有権問題とは何の関係も無いことに果たして韓国の「独島研究者」たち(ほぼウソつきたち)が気づく日は来るのだろうか。

 特に太政官指令については、イ・ヨンフン教授が、新著『反日種族主義との闘争』において、そんなものは領有権論争において意味は無いと、韓国人としては初めてそういう太政官指令の正確な理解をしっかりと解説していて、イ・ソンミン記者も当然それを読んでいるはずなのだが、反論はできないらしく、それは全く無視したまま今までと同じ間違った主張を繰り返している。「都合の悪いことは無視して見なかったことにする」、ここにも韓国人の論争の定型パターンが現れている。











歴史学名誉博士がイ・ヨンフン教授の竹島論を批判(笑)

【コラム】「独島が韓国領土である」歴然たる史料
2020.08.17 久保井規夫
http://japanese.korea.net/NewsFocus/Column/view?articleId=188508


 
 
 いや、あまりに下らないからリンク先は読なくていいですよ。





 

 
 読なくていいって。




 

 

 え、読まなくていいなら何で記事にするのかって?




 

 

 まあ、枯れ木も山のにぎわいという言葉もあるし、妄言もブログのにぎわい、とか。
















 読むんでしょ。



[イ・ソンミンの独島の話] [12] 人が住むようになる

[独島の話] 紛争小康状態に入り、独島に人が住み始める

2020.07.26 朝鮮日報
https://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/07/24/2020072401644.html

[イ・ソンミンの独島の話] [12] 韓日協定以後の独島
独島守った平和線は韓日漁業協定で消える
「独島の守り」 チェ・チョンドク、独島に入って22年生活


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1965年6月22日、東京の日本総理官邸で開かれた韓日協定調印式の様子

 韓国と日本は1965年6月22日、韓日協定に調印した。韓国側首席全権代表イ・ドンウォン外相と日本側首席全権代表椎名悦三郎外相は「韓日基本関係に関する条約」と「請求権・経済協力に関する協定」、「在日同胞の法的地位と待遇に関する協定」、「漁業に関する協定」、「文化財・文化協力に関する協定」など4個の付属協定に署名した。1951年10月に最初の予備会談を持った後7回も中断と再開を繰り返して14年近く続いて来た難題が、ようやく妥結したのだった。
 韓日会談の過程で独島問題は公式議題ではなかった。韓国は、独島問題は韓日協定締結の後に長期的な課題としなければならないと主張した。これとは違い、日本はどうしてでも独島問題を会談の場に引き込もうとした。だが、韓国側の頑強な拒否で、結局、独島問題を韓日協定文書に明らかに表現するには失敗した。
  韓日協定に含まれた5件の文書の中で、独島問題と間接的に関連があるのは「漁業に関する協定」だった。1952年1月、李承晩政府が韓国漁民の漁場保護と独島領有権確保のために宣言した平和線は韓日間の漁業交渉で最も大きな争点になったし、結局、韓日漁業協定に影響を受けた。だが、韓日間の海洋境界を画定した韓日漁業協定も、独島領有権自体を損傷することはなかった。



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韓日漁業協定に伴う両国の海洋境界と平和線 / 『韓日関係50年、葛藤と協力の足跡』

 韓日漁業協定は、韓国と日本の沿岸からそれぞれ12海里以内の水域をその国が排他的管轄権を行使する「漁業専管水域」として設定した。また、韓国側漁業専管水域の外側に漁業資源保護のために漁撈活動を規制する「共同規制水域」を設定して、それに対する取締権は漁船が属する国家が行使することにした。済州島と隠岐諸島などは本土の沿岸に含まれて漁業専管水域が画定されたし、鬱陵島・独島・対馬などは別に漁業専管水域が引かれた。
  平和線は韓日会談の初期には対日圧迫カードとして作用した。平和線を侵して韓国海洋警察に拿捕される日本漁船が増え、日本は平和線撤廃を要求した。だが、李承晩政府は、表面では「互いに譲歩して仲良くして行こう」と柔軟性を見せながらも外交的解決の意志を示すことはなかった。
  4・19革命でできた張勉(チャン・ミョン)政府は韓日会談に積極的であり、平和線問題も漁業協定締結を通じて解決するという立場だった。5・16クーデターで執権した朴正熙政府もやはり同じだった。
1962年11月、韓国の金鍾泌中央情報部長と日本の大平正芳外相が対日請求権資金の金額に合意して平和線問題も急流に乗った。日本は、以前から対日請求権問題と平和線問題を連係することを要求していた。大平外相は、1963年2月、「韓国政府が平和線を撤回しなければ日韓交渉は決裂するだろう」と話した。池田総理もやはり1963年3月な「平和線問題が解決されなければ請求権合意を撤回することができる」と話した。
  しかし、韓国の国民は「平和線撤廃」に極力反対した。李承晩政府以来の歴代韓国政府は平和線は国際法的な領海ではないと繰り返し明らかにしたが、ほとんどの韓国人は大韓民国の主権が及ぶ領海または準領海と認識していた。特に、日本の漁民に比べて漁船と漁労装備などで絶対的な劣勢にあった韓国漁民は、全国各地で漁民大会を開いて平和線を請求権と駆け引きしないことを要求した。
  外交の現実と国民感情の間で悩んだ朴正熙政府は、結局、政権を民政に移譲する第5代大統領選挙で朴正熙が当選した後の1964年3月、韓日農林長官会議を開いて漁業協定の骨格を議論した。続いて一年後の1965年4月、韓日漁業会議で多くの内容に合意した。韓国側の漁業専管水域と共同規制水域が平和線よりもはるかに内側に引かれることで、平和線は公式的な廃止宣言は無かったが消滅の道に入った。
  独島領有権を守った平和線が消え、独島は東海の海に孤独に浮いている姿になった。だが、韓国政府が独島と周辺領海を強硬に守って特別な問題は起きなかった。日本も韓日協定締結で韓国との国交が正常化した後しばらくは、独島問題で韓国を刺激する行為を自制した。


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1965年2月に初めて独島に入ってから22年間生活して「独島第1号住民」になったチェ・チョンドク

  独島をめぐる韓国と日本の対立が小康状態に入って、独島を人が住む有人島にしようとする動きが民間で自発的に始まった。人の居住と居住施設の存在は、領土紛争において実効的支配の絶対的根拠となる
  韓日協定が締結される直前の1965年2月、鬱陵島の住民チェ・チョンドクが独島に入った。当時、独島周辺の漁場は鬱陵郡道洞の漁村係が管理し、入札を通じて1年単位で個人に漁業採取権を与えた。その年に独島漁業採取権を確保したチェ・ジョンドクは、4ヶ月の間独島で生活して魚獲りをしてワカメ・アワビ・サザエなどを採取した。6月末に鬱陵島に戻った彼は、10月初めに再び独島に入って翌年4月まで6ヶ月を生活した。以後、彼は1987年に突然亡くなる時まで毎年10月に独島に入って翌年4月~7月まで暮らした。
  チェ・チョンドクが最初に独島に入ったのは、経済的目的だった。彼は独島漁場の漁業採取権を22年も任されて、漁船を購入して海女を雇用するなど事業を展開した。だが、彼は日本の独島関連妄言などに接して、次第に自身が独島を守るという意識を持つようになった。彼は晩年の言論インタビューで、「私は私たちの青年たちを信じます。彼らの中の誰かが私の後に続いて独島に住んで独島を守ると信じます」と話した。
  チェ・チョンドクが独島で生活した期間は、合計190ヶ月で16年に近かった。それより先に独島に行った人々は、鬱陵島に住んで時々独島に立ち寄って漁労と採取活動をした。その中で比較的長く留まった海女も1、2ヶ月、長くて3ヶ月程度だった。
定期的に永く独島で生活するには居住施設がなければならなかった。以前に漁労・採取活動のために独島に行った人々は、西島北側にある洞窟の中で風雨を避けた。ちょうど洞窟の周囲には飲料水を手に入れることができる泉があった。チェ・チョンドクも、初めは「水谷」に位置してわき水を整備して暮らした。だが、水の谷にはまともな家を建てる空間がなかった。
  結局、彼は、1967年に波と風の影響をあまり受けない西島南側の「トクゴル」に移ってトタンとスレートで家を建てた。トクチン号という漁船を買った後には、家の前の浜に船着き場も作った。 続いて、家の周辺にタコ干場、冷凍倉庫など事業と関連する施設を用意した。トクゴルから水の谷に行く方法も無かったために998個の階段も作った。
  独島で生活する最初の人になったチェ・チョンドクは、1981年10月、住民登録を独島に移した。「慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑道洞里山67番地」が彼の住所だった。独島の住所は、その後に「道洞里山67番地」(1987年)、「道洞里山63番地」(1991年)を経て「鬱陵邑独島里山20番地」(2000年)、「鬱陵邑独島里20-2番地」(2005年)に変更された。「独島」が行政地名に登場したのだ。
 独島に生活の根拠地が用意されるとすぐにチェ・チョンドクの家族が独島に出入りするようになった。その中で、娘チェ・ギョンスクは父に従って独島で相当期間を暮らした。チェ・ギョンスクと結婚した婿チョ・チュンギも独島で生活した。チョ・チュンギは1986年7月8日に独島に住所を移して、「独島住民2号」になった。1987年には夫人チェ・ギョンスクと息子チョ・カンヒョンも独島に住民登録をした。チョ・チュンギ一家は1993年に江原道に移住するまで独島に住んだ。
  チェ・ジョンドク一家が独島を離れた後は、彼を助けたキム・ソンド夫婦が「独島守り」を受け継いだ。1960年代末からチェ・ジョンドクが山舟の船員として彼が行う事業の管理人の役割をしたキム・ソンドは、済州の海女キム・シニョルに会って結婚した。彼ら夫婦はチェ・ジョンドクを助けて独島でずっと暮らし、1991年に独島に住民登録を移した。2007年に独島里長となったキム・ソンドは、2018年に亡くなるまで独島を訪ねる訪問客に独島を知らせる役割をした。



<コメント>
 「人の居住と居住施設の存在は、領土紛争において実効的支配の絶対的根拠となる。」

 イ・ソンミン記者は、それがいつの時点のことならば根拠となるのか知らないで、読者にウソを振りまいている。



[イ・ソンミンの独島の話] [11] 韓日会談と竹島/独島(下)

[独島の話] 「独島」含むかどうか曖昧に処理した「紛争解決公文書」

2020.07.19 朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/07/17/2020071701416.html

[イ・ソンミンの独島の話] [11] 韓日会談と独島(下)
韓 「同意なければ調停無効」、日 「調停に従うべき」
「現状維持、将来解決」、「独島密約」あったのか論議


  1962年から1964年まで、韓国と日本は韓日会談で独島問題に関して「第三国調停案」と「国際司法裁判所(ICJ)回付」をめぐって押し合いを継続した。日本は、アメリカなど第三国や調停機関が一定期間に解決できなければ国際司法裁判所に行こうということだったし、韓国はこれに同意しなかった。1961年に国際司法裁判所裁判官として日本人が任命されて韓国に不利なだけでなく、国際司法裁判に回付されれば、韓国が独島に設置した各種施設と警備人材を撤収しなければならないこともあるためだった。韓国は、独島問題を未解決状態に置いて実効的支配を強化する側に方向を定めた。
  日本の波状攻勢にも韓国が持ちこたえ続けると、日本国内の雰囲気は1964年に入って強硬だった。日本の国会は「竹島[独島]問題に関して明らかな解決策が出てこない限り、韓日会談を妥結することはできない」という立場だった。椎名悦三郎外相もやはり、「日本は竹島問題の確実な展望がなければ会談を終了しない」と明らかにした。佐藤栄作総理を始めとする日本政府高位当局者たちは、韓日会談の結果として締結される協定でどんな方法ででも独島問題に言及しなければ会談の妥結は難しいと繰り返し強調した。
  1964年春、韓国で大学生らと野党勢力の強力な反対闘争で中断された第6次韓日会談は、その年12月、第7次韓日会談として開始された。そして1965年2月に基本条約が仮調印されるなど急流に乗った。対日請求権、在日韓国人の法的地位、略奪文化財の返還、漁業問題など韓日会談の議題に対して概略的な合意がなされた1965年4月、佐藤日本総理はイ・ドンウォン韓国外務部長官と会った席で、「韓日間に残っている懸案は独島問題だけで、国交正常化前にこの問題も解決方向を定めたい」と話した。
  1965年6月17日、韓国側の金東祚(キム・ドンジョ)駐日大使とヨン・ハグ外務部アジア局長、日本側の牛場信彦外務省審議官と後宮虎郎アジア局長が席を共にした。この席で日本が出した「紛争解決に関する議定書」は「独島問題を含む両国間の全ての紛争は、まず外交的に解決し、できなければ仲裁委員会に任せてその決定に従う」という内容だった。韓国は「独島」を含むことに強力に反対した。すると日本は翌6月18日、独島の文句を削除した「紛争解決に関する交換公文書」を再び提示した。韓国は、同日、独島問題を除いて、法的拘束力を明示しないまま両国政府の合意を前提に第三国の調停に任せる方案を出した。
  日本は、「独島」という表現は文案から抜いたが、事実上内容に含まれるという立場だった。椎名外相は、「日本側としては独島問題を含めて全ての問題を一括妥結する至上命令だ」と話した。 これに対して韓国のイ・ドンウォン外相は、「朴正熙大統領は独島問題を韓日会談の議題に含ませないように指示したし、この件は韓国政府の安定と運命に関係する重大な問題だけに、万一韓国が受諾できる解決策がないならば韓日会談を中止しても良いという言葉まで出て来ている」と応酬した。
  6月21日夜、韓国は「両国間に起きる紛争は調停によって解決する」という内容を修正提案した。「起きる」という文言で既に韓日間の対立が現れている独島問題を除いて、解決方法は強制性がない調停を提示したのだった。これに対して日本は、「起きる」の一節を削除した「両国間紛争」という表現を主張し、解決方法は「調停または仲裁」とすることを要求した。結局、6月22日に発表された最終文案は、韓国と日本がそれぞれ一つずつ譲歩して「両国間紛争は、まず外交上の経路を通じて解決することとし、これによって解決できない場合には両国政府が合意する手続きにより調停によって解決を図ることとする」だった。
  このような合意は、時間に追われた韓国と日本が外交的に折衝したもので、それぞれ自分に有利なものと解釈する余地を残した。同床異夢の可能性は、協定文に署名したその瞬間から現実化された。キム・ドンジョ駐日大使がその日外務部に送った緊急電報は、次のような内容だった。

 「以上のように了解事項をしたのは、独島という文句の削除を通じて、日本が要求した手続き上の合意に対する時間的拘束、法的拘束、決定に対する服従義務などを完全に解消させたものだ。したがって、我国の合意がない限り、仲裁手続きはもちろん調停手続きも踏めなくなるのであり、独島問題の解決は実質的に我側の合意なしでは永遠に未解決の問題として残ることになるということだ。」

  一方、椎名日本外相は、1965年10月29日に日本の国会の答弁次の通り話した。

 「紛争処理に関する交換公文書にあって竹島はこの紛争から除外されたと明記されていないので、当然、両国の紛争対象になります。調停に委ねると話した以上、いかなる調停も認めないのは条約違反です。したがって、日韓条約が効力を発生すれば、適当な機会にこの問題解決のために両国間の折衝をしようと思います。」

  独島問題は韓日会談の議題ではなくて長期的に議論しようという韓国政府と、国際司法裁判所に独島問題を持って行こうとする日本政府が互角に対立した状況が、終盤に突然「紛争解決に関する交換公文書」として収束される過程については、気がかりなことが提起されてきた。いわゆる「独島密約説」は正にこの部分を説明するのに糸口を提供する。


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1965年1月に韓国と日本政府が結んだという「独島密約」に署名したと知られる丁一権(チョン・イルグォン)国務総理(左側)と河野一郎自民党副総裁.

  日本政治経済の専門家であるノ・ダニエルは、『月刊中央』 2007年4月号に載せた「韓日協定の5ヶ月前に‘独島密約’があった」という文で、1965年1月、韓国の丁一権国務総理と日本の河野一郎自民党副総裁が、「独島問題は今後解決しなければならないということで、ひとまず解決したものと見なす。したがって、韓日基本条約では言及しない。」という密約を結んだと主張した。彼は、2011年に同じ内容を入れた『独島密約』(ハンウルアカデミー)という本を出版した。
  その文によれば、韓日会談が独島問題などで壁にぶつかると、朴正熙大統領は日本権力の核心と直接通じる密使を送ることにした。韓日会談の実務を担当したイ・ドンウォン外務部長官とキム・ドンジョ駐日大使を脇に置いて水面下交渉の主役に抜擢されたのは金鍾泌前中央情報部長の実兄であるキム・ジョンナクだった。当時韓一銀行の専務であった彼は、民間人の身分で5・16クーデターを支援して政界の実力者らと近く、日本で育って日本人婦人と結婚して日本の事情にも明るかった。
  韓日会談に激烈に反対した6・3事態の余波で会談がしばらく中断された1964年11月、日本に特派されたキム・ジョンナクは、自民党の実力者の1人である河野一郎に会って韓日会談の水面下調整に出ることを説得した。迷った河野は度重なるキム・ジョンナクの説得についにこの提案を受け入れ、佐藤総理にこれを報告して承認を受けた。キム・ジョンナクは、韓日会談の最大の障害物として浮上した独島問題に対して、「今後解決しなければならないということで、ひとまず解決されたものと見なす」というアイディアを出した。
  1965年1月12日、日本から河野一郎に代わって飛んできた宇野宗佑議員がソウル城北洞にある汎洋商船会長パク・コンソクの家で丁一権国務総理に会って、「独島(竹島)に関する秘密協定」に署名した。その内容は、先に述べた大原則の下で、▲独島(竹島)は今後韓日両国いずれも自国の領土と主張することを認め、同時にこれに対し反論することに異議を提起しない、▲将来に漁業区域を設定する場合、両国が独島(竹島)を自国領土とする線を画定して、二線が重複する部分は共同水域にする、▲現在の韓国が占拠した現象を維持する。しかし警備員を増強したり新しい施設の建築や増築をしない、▲両国はこの合意をずっと守って行く、という4項目になっていた。
  韓日両国が結んだという「独島密約」を立証する文書は残っていない。丁一権と河野が署名した文書を朴正熙大統領の指示で保管していたキム・ジョンナクは、1980年に全斗煥を中心とした新軍部が執権してから金鍾泌などを腐敗勢力として責め立てて粛清する時に関連文書を燃やしたといった。日本側で「独島密約」の文書を譲り受けた河野一郎自民党副総裁は半年後の1965年7月8日に突然死亡して、その後の文書の行方は分からない。
  「独島密約」と「紛争解決に関する交換公文書」の関連の有無も明確に明らかにならなかった。 韓日会談に参加した韓国の外交官たちは「独島密約」を知らなかったし、会談に関連した外交文書にはこのような密約の存在を疑うような部分はない。だが、韓日会談を研究したチェ・ヒシク国民大学日本学科教授は、「韓国と日本の最高指導者が独島領有権問題に対して‘曖昧な妥結’、 ‘暫定的妥結’を追求して障害物を除去しようとする政治的決断が存在したし、このような政治的背景の下で‘紛争解決に関する交換公文書’の交渉を始めただろうという分析は十分な可能性が存在する。」と分析した。



[イ・ソンミンの独島の話] [10] 韓日会談と竹島/独島(上)

[独島の話] 日、経済開発資金必要な朴正熙政府に「独島ICJ行き」慫慂

イ・ソンミン前先任記者
朝鮮日報 2020.07.12
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/07/10/2020071001382.html

[イ・ソンミンの独島の話] [10] 韓日会談と独島(上)
韓、きっぱりと拒否して、宥めるための「第三国調停案」逆提案
交渉水面下の主役金鍾泌、「独島爆破論」等エピソード残す


  独島を国際司法裁判所(ICJ)に持って行こうという提案を韓国が「韓日間に独島に関する領土紛争はない」として断固として断って、「独島外交覚書論争」も10年以上も精魂を込めたが韓国の「善防」によって格別の成果を上げられなくなると、日本は韓国を相手にした国交正常化会談で直接独島問題を取り上げる正面突破方法を選択した。李承晩政府の時期に始まった後10年近く遅々として進まなかった韓日会談が朴正熙政府が成立した後に急速に進行すると、すぐにこれを独島問題に利用することにしたのだった。



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1962年11月12日、金鍾泌当時の中央情報部長(左側)が日本の大平正芳外務大臣と会談を持っている。

  韓日会談は6・25韓国動乱(朝鮮戦争)が真っ最中だった1951年10月20日に東京で予備会談を持って、1952年2月15日に第一次本会談を開催することによって幕が開かれた。当時、アメリカはソ連を中心にした共産主義陣営との冷戦が熱戦として爆発した状況で、東北アジアの二つの友邦である韓国と日本が早く国交を正常化して協力関係を結ぶことを望んでいた。だが、韓日会談は韓日両国のどちらも積極的な姿勢を見せないことによって長期化の道に入った。
韓国は40年にもなる日本帝国主義の植民地から抜け出した直後なので、反日意識が非常に高かった。しかも、独立活動家出身である李承晩大統領は、アメリカの催促に対しても、「私がすべきことの中で日本との修交は十番目ぐらいだろう」と中途半端な態度だった。日本もやはり敗戦の後遺症からまだ抜け出せなかったし、韓国侵略と支配に罪の意識を感じない人々が国政を率いていたので、韓日会談の早期妥結に熱意を示さなかった。
  韓日会談の議題は、国交正常化のための基本条約、財産請求権、在日韓国人の法的地位、略奪文化財の返還、漁業問題などだった。独島問題は公式議題に入っていなかった。第一次韓日会談は、日本が第二次世界大戦崩壊後、韓国に残された日本人の財産に対して逆請求権を主張することによって二ヶ月で決裂した。日本人が韓半島に置いて行った財産は、統治権を譲り受けた米軍政が韓国政府に渡して敵産として払い下げられた状況だった。一年後の1953年4月15日、第二次韓日会談が開かれたが、最大の懸案である平和線問題などで大きな異見が現れている上に、6・25韓国動乱(朝鮮戦争)の休戦など差し迫った状況展開により、7月23日休会に入った。再び三ヶ月後の1953年10月6日第三次韓日会談が開始された。だが、相変らず請求権及び平和線問題をめぐって両側の対立が続く中、日本側首席代表久保田貫一郎が「日本の支配は韓国に多くの利益を与えた」と発言したために、半月でまた再び決裂した。
  以後4年半の間会談は中断し、1958年4月15日第四次韓日会談が開始された。だが遅々として進まず、休会と再開を繰り返し、韓国で4・19革命が起きたために再び中断した。以後、李承晩政府に代わって成立した張勉政府は韓日会談に意欲を見せた。1960年10月25日に開始された第五次韓日会談は感情的対立を捨てて実質的進展のために努力したが、顕著な成果を上げる前に韓国で5・16クーデターが勃発して中断された。
  朴正熙政府は韓日会談に積極的だった。新しい執権勢力は、政権を取る過程での正統性が脆弱な弱点を埋めるために経済開発に国政の最優先順位を置き、日本から受け取る賠償金でその財源を調達しようとした。ベトナム戦争に巻き込まれて大変な苦労をしたアメリカは、韓国と日本の関係正常化をより一層望んでいた。アメリカの圧力を受けた朴正熙最高会議議長と池田勇人総理は、1961年11月22日に会談を持って早期に国交を正常化することで合意した。
  これより少し前の1961年10月20日、第六次韓日会談が再開された。韓日両国が以前と違って積極的な姿勢で会談に臨んだ結果、1年後の1962年10月20日、韓国の金鍾泌中央情報部長と日本の大平正芳外務大臣が韓国の対日請求権を「無償3億ドル、有償2億ドル、商業借款1億ドル以上」で合意することによって、国交正常化は急流に乗った。
  朴正熙政府が経済開発のために請求権資金を必要とするという事実を確認した日本は、韓日会談の場に独島問題を持ち出した。1962年3月12日に開かれたチェ・トクシン外相との政治会談で、小坂善太郎外務大臣は独島問題を国際司法裁判所に持って行こうと提案した。1954年9月に韓国にICJ行きを提案して拒否されて8年ぶりだった。今回も、チェ・トクシン外相は「独島は国際法的にも歴史的にも韓国の領土で議論の余地はない」と断った。それでも、10月23日金鍾泌中央情報部長に会った席で、池田総理は「独島問題は韓日国交正常化が妥結する時に必ず合意するべきで、これは絶対条件」と強調した。また、11月12日の金鍾泌との会談で、大平外務大臣は「両国の国内政治問題で国交正常化交渉において独島問題を完ぺきに解決することが難しいならば、国交正常化後に必ず国際司法裁判所に行くという約束をすることを望む」と話した。
  独島問題に関する朴正熙政府の基本の立場は、「独島は韓日会談の議題ではなく、国交正常化後に時間を置いて解決する」というものだった。朴正熙最高会議議長は、1962年11月8日、「日本が独島問題を提起することは、韓国民に日本の韓国侵略の経過を想起させることによって会談の雰囲気を硬化させる恐れがあることを指摘すること」という訓令を交渉団に下した。ところが、金鍾泌は大平との会談の席で思いがけない提案をした。いわゆる「第三国調停案」だった。日本の外交文書はこれに関連して次のように記録した。


 「金部長は、この件を国際司法裁判所に提出する時期がたとえ2~3年後だとしても、勝敗が明確に分かれると予想されるから適当でなくて、むしろ第三国(金部長はアメリカを念頭に置いた形だった)の調整に任せることを希望する。そうすることで、第三国が韓日関係を考慮して調停のタイミングと内容を弾力的に処理できることになるだろう。」

  金鍾泌は、なぜ韓国政府の基本の立場と合わず朴正熙の訓令にも外れる「第三国調停案」をいきなり出したのだろうか? これに対しては多様な解釈が存在する。これと関連して、ある韓国外交文書は次の通り記録した。

  「キム部長の意図は、国際司法裁判所提訴のための日本の強力な要求に対して身を避けて、事実上独島問題を未解決状態で維持するための作戦上の代案として示唆したものと考えられる。」

  韓日会談の妥結が切実に必要な状況で、その障害物になる独島問題をひとまず避けるための方便として「第三国調停案」を投げたということだ。これは、当時の状況を正確に知っていた駐日代表部関係者の解釈であるだけに、耳を傾ける必要がある。実際、これから1964年ごろまで韓国と日本は「第三国調停案」を置いて押し合うもめごとを継続した。当初、金鍾泌が話した「調停(mediation)」は、勝敗が明確に分かれる「国際裁判(international trial)」はもちろん、法的強制力がある「仲裁(arbitration)」とも違って何の強制力もないものだった。しかし、日本は「拘束力がある国際法上の協議調停(conciliation)」を妥協案として韓国に提示した。第三国や調停機関が一定期間に独島問題を解決できなければ国際司法裁判所に行こうというものだった。もちろん韓国はこのような提案を受け入れなかった。
  韓日会談の水面下の主役として国交正常化に決定的役割をした金鍾泌は、独島と関連しても色々なエピソードを残した。その中で広く知られたものが、いわゆる「独島爆破論」だった。金鍾泌は、大平との会談を終えて帰国の途についた1962年11月13日、日本の羽田空港貴賓室で開いた記者懇談会で、「冗談としては、独島で金が出るわけでもなく、カモメの糞もないから、爆破してしまおうと話したことがある」と明らかにした。この発言は、「韓日会談の障害になるならば独島を爆破してしまえばそれまでだ」という意味に受け取られて、多くの批判を受けた。これに対して、金鍾泌は、後日「あまりにも日本の指導者が独島は自らの土地だと言い張るので‘あなた方の手に譲り渡すよりはいっそ爆破してしまう’という意でそのように言った」と話した。
  「独島爆破論」は、金鍾泌が初めて話したものではなかった。その二ヶ月前、1962年9月3日に開かれた政治会談で、日本外務省のイセキ・ユウジロウアジア局長は、「事実上において独島は無価値な島だ。大きさは日比谷公園程度で、爆破でもして無くしてしまえば問題がないだろう」と話した。金鍾泌がイセキの発言を伝え聞いたかは分からないが、韓日対立の原因である独島を爆破してしまおうというとんでもない単純過激な発想が、当時の一角で提起されたことを見せてくれる。





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Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

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