大槻修二の「改正日本地誌要略」1886年
19世紀日本文部省さえ「独島は朝鮮領」
(↑翻訳者茶々:もちろんこれはウソ)
韓国日報 2020.07.27
https://www.hankookilbo.com/News/Read/A2020072717560005360

1889年「改正日本地誌要略」の日本全図。独島と鬱陵島が日本の領土と表示されていない。/ハン・チョルホ教授論文
19世紀の日本政府は独島を自国の領土と見なかったという研究結果が出た。明治時代の日本の権威ある地理学者で、統一された日本地名を書いた最初の地図書「日本地誌要略」を書いた大槻修二の分析が裏付けている。
27日、東北アジア歴史財団によれば、ハン・チョルホ東国大学歴史教育科教授は、このような研究結果を入れた論文「日本明治時期大槻修二の日本地誌要略編纂と独島認識」を学術誌『東北アジア歴史論叢』に掲載した。論文によれば、大槻は1874年「日本地誌略」と1875年「日本地誌要略」を書いた後、1886年にこれを補完した「改正日本地誌要略」を出版した。「日本地誌略」は日本政府が発行した小学校の日本地理教科書で、地理教科書の基準として評価される。
ハン教授は、大槻の独島に関する記述に注目した。大槻は日本の領土拡張を重視した人物で、領土の変動事項を見のがすわけがないと見たためだ。研究の結果、大槻は「日本地誌要略」で鬱陵島や独島を日本領と見なさなかったという事実が明らかになった。「改正日本地誌要略」では独島を指して朝鮮の属島と確かに記述している。(←翻訳者茶々:そんなことは書いてありませんって。) だから、大槻の著書では独島は日本領土として彩色されていなかった。特に、増補版の「改正日本地誌要略」は、1889年に日本全国師範学校の予備教師と中学生のための教科書として使えるように「文部省検定済」まで取得した。政府が大槻の歴史的見解をそのまま認めたわけだ。 ハン教授は、「改正日本地誌要略は、無主地先占論と固有領土論を前に出して独島が自国の領土だと主張する日本政府の論理を客観的に批判できる資料になるだろう」と結論付けた。
「1889年日本文部省検定教科書に'独島は朝鮮領土'の記述」
2020-07-27 連合ニュース
https://www.yna.co.kr/view/AKR20200727127700005?input=1195m
ハン・チョルホ教授、19世紀日本地理学者の本で確認
1889年版「改正日本地誌要略」中の「日本本州全図」(引用者注:写真省略。上の記事の写真と同じ。)
日本の本州を描いた地図に鬱陵島と独島が表示されていないことが分かる。[ハン・チョルホ教授提供。再販売及びDB禁止]
(ソウル=聯合ニュース)イム・ドングン記者= 「この国 (隠岐、独島から最も近い日本領土)は日本海(東海)のうちの西辺の絶島で、その西北海上に松島(独島)・竹島(鬱陵島)の二島がある。互いに離れること約100里で、朝鮮では蔚陵嶋と称する。近ごろ決定してその国(朝鮮)の属島になったという。」(1886年発行の「改正日本地誌要略」から)
19世紀に日本政府が独島を自国領土として認識していなかったことを示す研究結果が出た。明治時代初期、日本の代表的な地理・地文学者として数多くの地理教科書と付図を編纂した大槻修二(1845~1931)の色々な著作に関する研究を通じて、このような事実が明らかになった。
ハン・チョルホ東国大学歴史教育科教授は、このような研究結果を入れた論文「日本明治時期大槻修二の日本地誌要略編纂と独島認識」を、最近、東北アジア歴史財団の学術誌『東北アジア歴史論叢』に掲載した。研究によれば、大槻は1874年「日本地誌略」と1875年「日本地誌要略」を刊行した後、1886年にこれを補完した「改正日本地誌要略」を出版した。「日本地誌略」は日本文部省が最初に発行した小学校日本地理教科書で、その後編纂された教科書の基準となり、「日本地誌要略」は小学校上等教科書であり師範学校の参考書として使われた。
ハン教授は、特に、著作により変化した大槻の独島に関する記述に注目したという。すなわち、大槻は「日本地誌要略」で鬱陵島や独島に言及さえしなかった。ところが、その後に発行した「改正日本地誌要略」では、明確に名前を明らかにして「朝鮮の属島になった」と記述している。これについて、ハン教授は、27日、「大槻は、当時の日本の最高国家機関だった太政官が1877年に下した“竹島ほか一島(松島)は日本と関係ない”という指令からさらに一歩進めて、二島が朝鮮の領土になったと明確に記述した」と説明した。
独島に関する大槻のこのような認識は、その後刊行された彼の他の著書である「地学階梯」、「小学地誌要略内国誌」、「小学地誌要略付図内国誌部」などにもそのまま反映された。特に、ハン教授は、論文でこのような内容を入れた「改正日本地誌要略」(増補版)が1889年に日本全国師範学校の予備教師と中学生のための教科書として使えるように文部省検定済を取得したという点が重要だと明らかにした。ハン教授は、「これは、日本政府が独島に関連した大槻の記述をそのまま認めたと見ることができる」と主張した。
ハン教授は、論文で、「これら教科書の本文や収録地図には全て鬱陵島と独島が記述されたり描かれておらず、二島を日本領土と認識できる根拠を探すことができなくなった」と話した。続けて、「独島は朝鮮の領土という内容が記述された改正日本地誌要略は、日本の師範学校予備教師と学生に独島は朝鮮領土という事実を教えるのに影響を及ぼしたし、当時文部省を含む日本の政府レベルで独島を朝鮮領土と認定していた根拠になると判断される」と明らかにした。
<コメント>
この論文、まー、何と言いますか、〇〇としか言いようがないのだが。よくもまあこんな見当違いを堂々と論文に書けるものだ。読んでいるこっちが恥ずかしくなる。イ・ヨンフン教授の「この国の大学はウソの温床です」という言葉が脳裏に浮かぶ。
1874年とか1875年とか1886年の地誌に今の竹島が日本領土として描かれていないって? それが何? 日本政府は1905年に竹島を無主地として新たに日本の領土にしたのだよ。それ以前の地誌で日本領土になっていないのは当たり前じゃないか。そんな単純なこともハン・チョルホ先生は理解できないらしい。
(もっとも、こういうふうに言うと、「日本政府は17世紀半ばには竹島の領有権を確立したと言っているぞ。だったら、1874年とか1875年とか1886年の地誌には今の竹島が日本領土として当然描かれているはずだ。それなのに書いてないのだから、すなわち日本政府の主張はウソなのだ。」と反論したい人たちがいるのは分かりますがね。ハン・チョルホさんの「これら教科書の本文や収録地図には全て鬱陵島と独島が記述されたり描かれておらず、二島を日本領土と認識できる根拠を探すことができなくなった」というのはそういうことなのだが、しかし、これは竹島領有権論争の経緯を理解できない者の言うことです。韓国の独島研究者には難し過ぎますかね。このことに関しては既に意見表明ずみなのでここでは繰り返しません。)
参照 https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-2669.html
ハン・チョルホ先生殿は「大槻は日本地誌要略で鬱陵島や独島に言及さえしなかった。ところが、その後に発行した改正日本地誌要略では、明確に名前を明らかにして朝鮮の属島になったと記述している。」とおっしゃっているようだが、該当の文は次のとおり。
改正日本地誌要略 明治19年(1886年) (早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_03650/index.html
巻之五 山陰道、山陽道

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_03650/ru03_03650_0005/ru03_03650_0005.pdf
此國 (引用者注:隠岐のこと) ハ日本海中西邊ノ絶嶋ニシテ、其西北海上ニ松嶋・竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近来定メテ其國ノ属嶋トナスト云フ
しかしねえ、そもそも大槻さんが竹島・松島をどういう島だと考えていたのかと言うと、アルゴノートとダジュレ―ですよ。今の竹島のことなんか全く言及されていないのです。

「改正日本地誌要略 明治19年(1886年)巻一 総論、両京、畿内」の5ページめあたりにある「大日本国全図」
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_03650/ru03_03650_0001/ru03_03650_0001.pdf
実在しない島と鬱陵島は日本とは関係がないですね。
この論文は、「松島」と書いてあったら、他の関連事項の何を検討することもなく、ただただただただ無条件反射で「今の竹島だぁ」と言ってしまう、という韓国の独島研究者たちの浅はかさが良く示されている事例です。
ただ、大槻さんの竹島・松島に関する上の文章はちょっと正確さに欠けているという面はあります。「大日本国全図」を見れば、大槻さんは竹島・松島の二島があると考えていたわけだが、文章ではその二島が「鬱陵島」だと言っていて、竹島・松島と鬱陵島の対応関係がちょっと意味不明なのです。これは、おそらく大槻さんも、明治10年太政官指令が存在しない竹島と鬱陵島である松島を日本関係無しと指示していたこと、その後に竹島が存在しないことが判明して竹島=松島=鬱陵島だということが確認されてそれが渡航禁止とされたこと、そういう一連の経過を詳細には把握できていなかったように見えますね。
まあ、しかし、この大槻さんの認識は、ハン・チョルホさんの御意見とは全く違って、むしろ明治10年太政官指令の竹島ほか一島は「大日本国全図」にあるような竹島・松島(アルゴノート・ダジュレー)として理解されていたことを示す事例にもなりそうですが、どうでしょうかね。
(↑翻訳者茶々:もちろんこれはウソ)
韓国日報 2020.07.27
https://www.hankookilbo.com/News/Read/A2020072717560005360

1889年「改正日本地誌要略」の日本全図。独島と鬱陵島が日本の領土と表示されていない。/ハン・チョルホ教授論文
19世紀の日本政府は独島を自国の領土と見なかったという研究結果が出た。明治時代の日本の権威ある地理学者で、統一された日本地名を書いた最初の地図書「日本地誌要略」を書いた大槻修二の分析が裏付けている。
27日、東北アジア歴史財団によれば、ハン・チョルホ東国大学歴史教育科教授は、このような研究結果を入れた論文「日本明治時期大槻修二の日本地誌要略編纂と独島認識」を学術誌『東北アジア歴史論叢』に掲載した。論文によれば、大槻は1874年「日本地誌略」と1875年「日本地誌要略」を書いた後、1886年にこれを補完した「改正日本地誌要略」を出版した。「日本地誌略」は日本政府が発行した小学校の日本地理教科書で、地理教科書の基準として評価される。
ハン教授は、大槻の独島に関する記述に注目した。大槻は日本の領土拡張を重視した人物で、領土の変動事項を見のがすわけがないと見たためだ。研究の結果、大槻は「日本地誌要略」で鬱陵島や独島を日本領と見なさなかったという事実が明らかになった。「改正日本地誌要略」では独島を指して朝鮮の属島と確かに記述している。(←翻訳者茶々:そんなことは書いてありませんって。) だから、大槻の著書では独島は日本領土として彩色されていなかった。特に、増補版の「改正日本地誌要略」は、1889年に日本全国師範学校の予備教師と中学生のための教科書として使えるように「文部省検定済」まで取得した。政府が大槻の歴史的見解をそのまま認めたわけだ。 ハン教授は、「改正日本地誌要略は、無主地先占論と固有領土論を前に出して独島が自国の領土だと主張する日本政府の論理を客観的に批判できる資料になるだろう」と結論付けた。
「1889年日本文部省検定教科書に'独島は朝鮮領土'の記述」
2020-07-27 連合ニュース
https://www.yna.co.kr/view/AKR20200727127700005?input=1195m
ハン・チョルホ教授、19世紀日本地理学者の本で確認
1889年版「改正日本地誌要略」中の「日本本州全図」(引用者注:写真省略。上の記事の写真と同じ。)
日本の本州を描いた地図に鬱陵島と独島が表示されていないことが分かる。[ハン・チョルホ教授提供。再販売及びDB禁止]
(ソウル=聯合ニュース)イム・ドングン記者= 「この国 (隠岐、独島から最も近い日本領土)は日本海(東海)のうちの西辺の絶島で、その西北海上に松島(独島)・竹島(鬱陵島)の二島がある。互いに離れること約100里で、朝鮮では蔚陵嶋と称する。近ごろ決定してその国(朝鮮)の属島になったという。」(1886年発行の「改正日本地誌要略」から)
19世紀に日本政府が独島を自国領土として認識していなかったことを示す研究結果が出た。明治時代初期、日本の代表的な地理・地文学者として数多くの地理教科書と付図を編纂した大槻修二(1845~1931)の色々な著作に関する研究を通じて、このような事実が明らかになった。
ハン・チョルホ東国大学歴史教育科教授は、このような研究結果を入れた論文「日本明治時期大槻修二の日本地誌要略編纂と独島認識」を、最近、東北アジア歴史財団の学術誌『東北アジア歴史論叢』に掲載した。研究によれば、大槻は1874年「日本地誌略」と1875年「日本地誌要略」を刊行した後、1886年にこれを補完した「改正日本地誌要略」を出版した。「日本地誌略」は日本文部省が最初に発行した小学校日本地理教科書で、その後編纂された教科書の基準となり、「日本地誌要略」は小学校上等教科書であり師範学校の参考書として使われた。
ハン教授は、特に、著作により変化した大槻の独島に関する記述に注目したという。すなわち、大槻は「日本地誌要略」で鬱陵島や独島に言及さえしなかった。ところが、その後に発行した「改正日本地誌要略」では、明確に名前を明らかにして「朝鮮の属島になった」と記述している。これについて、ハン教授は、27日、「大槻は、当時の日本の最高国家機関だった太政官が1877年に下した“竹島ほか一島(松島)は日本と関係ない”という指令からさらに一歩進めて、二島が朝鮮の領土になったと明確に記述した」と説明した。
独島に関する大槻のこのような認識は、その後刊行された彼の他の著書である「地学階梯」、「小学地誌要略内国誌」、「小学地誌要略付図内国誌部」などにもそのまま反映された。特に、ハン教授は、論文でこのような内容を入れた「改正日本地誌要略」(増補版)が1889年に日本全国師範学校の予備教師と中学生のための教科書として使えるように文部省検定済を取得したという点が重要だと明らかにした。ハン教授は、「これは、日本政府が独島に関連した大槻の記述をそのまま認めたと見ることができる」と主張した。
ハン教授は、論文で、「これら教科書の本文や収録地図には全て鬱陵島と独島が記述されたり描かれておらず、二島を日本領土と認識できる根拠を探すことができなくなった」と話した。続けて、「独島は朝鮮の領土という内容が記述された改正日本地誌要略は、日本の師範学校予備教師と学生に独島は朝鮮領土という事実を教えるのに影響を及ぼしたし、当時文部省を含む日本の政府レベルで独島を朝鮮領土と認定していた根拠になると判断される」と明らかにした。
<コメント>
この論文、まー、何と言いますか、〇〇としか言いようがないのだが。よくもまあこんな見当違いを堂々と論文に書けるものだ。読んでいるこっちが恥ずかしくなる。イ・ヨンフン教授の「この国の大学はウソの温床です」という言葉が脳裏に浮かぶ。
1874年とか1875年とか1886年の地誌に今の竹島が日本領土として描かれていないって? それが何? 日本政府は1905年に竹島を無主地として新たに日本の領土にしたのだよ。それ以前の地誌で日本領土になっていないのは当たり前じゃないか。そんな単純なこともハン・チョルホ先生は理解できないらしい。
(もっとも、こういうふうに言うと、「日本政府は17世紀半ばには竹島の領有権を確立したと言っているぞ。だったら、1874年とか1875年とか1886年の地誌には今の竹島が日本領土として当然描かれているはずだ。それなのに書いてないのだから、すなわち日本政府の主張はウソなのだ。」と反論したい人たちがいるのは分かりますがね。ハン・チョルホさんの「これら教科書の本文や収録地図には全て鬱陵島と独島が記述されたり描かれておらず、二島を日本領土と認識できる根拠を探すことができなくなった」というのはそういうことなのだが、しかし、これは竹島領有権論争の経緯を理解できない者の言うことです。韓国の独島研究者には難し過ぎますかね。このことに関しては既に意見表明ずみなのでここでは繰り返しません。)
参照 https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-2669.html
ハン・チョルホ先生殿は「大槻は日本地誌要略で鬱陵島や独島に言及さえしなかった。ところが、その後に発行した改正日本地誌要略では、明確に名前を明らかにして朝鮮の属島になったと記述している。」とおっしゃっているようだが、該当の文は次のとおり。
改正日本地誌要略 明治19年(1886年) (早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_03650/index.html
巻之五 山陰道、山陽道

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_03650/ru03_03650_0005/ru03_03650_0005.pdf
此國 (引用者注:隠岐のこと) ハ日本海中西邊ノ絶嶋ニシテ、其西北海上ニ松嶋・竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近来定メテ其國ノ属嶋トナスト云フ
しかしねえ、そもそも大槻さんが竹島・松島をどういう島だと考えていたのかと言うと、アルゴノートとダジュレ―ですよ。今の竹島のことなんか全く言及されていないのです。

「改正日本地誌要略 明治19年(1886年)巻一 総論、両京、畿内」の5ページめあたりにある「大日本国全図」
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_03650/ru03_03650_0001/ru03_03650_0001.pdf
実在しない島と鬱陵島は日本とは関係がないですね。
この論文は、「松島」と書いてあったら、他の関連事項の何を検討することもなく、ただただただただ無条件反射で「今の竹島だぁ」と言ってしまう、という韓国の独島研究者たちの浅はかさが良く示されている事例です。
ただ、大槻さんの竹島・松島に関する上の文章はちょっと正確さに欠けているという面はあります。「大日本国全図」を見れば、大槻さんは竹島・松島の二島があると考えていたわけだが、文章ではその二島が「鬱陵島」だと言っていて、竹島・松島と鬱陵島の対応関係がちょっと意味不明なのです。これは、おそらく大槻さんも、明治10年太政官指令が存在しない竹島と鬱陵島である松島を日本関係無しと指示していたこと、その後に竹島が存在しないことが判明して竹島=松島=鬱陵島だということが確認されてそれが渡航禁止とされたこと、そういう一連の経過を詳細には把握できていなかったように見えますね。
まあ、しかし、この大槻さんの認識は、ハン・チョルホさんの御意見とは全く違って、むしろ明治10年太政官指令の竹島ほか一島は「大日本国全図」にあるような竹島・松島(アルゴノート・ダジュレー)として理解されていたことを示す事例にもなりそうですが、どうでしょうかね。
スポンサーサイト