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書評・総括『竹島-もうひとつの日韓関係史』


 名古屋大学の池内敏教授の中公新書『竹島-もうひとつの日韓関係史』(2016年)についての指摘はこのブログでかなりしつこく書いて来たのですが、最近でもぽつぽつとこの本は素晴らしいという書評を書く人がいる(前東京都知事の舛添さんもそうだった)ので、これはちょっとまずいかなあと思って、出版から2年半も経っていて今さらという感もありますが、Amazonに書評を書きました。

「竹島問題の理解を混乱させる書」(2018年8月26日)(茶阿弥)という記事です。




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竹島渡海禁止令の伝達

徳川幕府は、1696年(元禄9年)128日付の老中の連署で鳥取藩主池田綱清に対して、それまで大谷・村川両家に認めていた竹島(鬱陵島)への渡航を禁止することを通告した。
しかし、この竹島渡海禁止令について、「通達の文言に松島(現代の竹島)という文字は無くても、そこには松島渡海禁止の趣旨も込められていたのだ」とどうしても思いたい人たちはいるもので、そういう人たちが村川家文書の中に「竹島松島両島渡海禁止」という言葉があるということを見つけ出して「やっぱり松島渡海禁止も含まれていたのだ」と主張し、それを見た韓国人研究者が「やっぱりそうなんだ」と意を強くしているという状況があります。


 村川家文書の中にある「竹島松島両島渡海禁止」という言葉が竹島渡海禁止令に松島渡海禁止まで含まれていたことを立証できるものではないということは既に書いているので繰り返しませんが、ちょっと別の角度から「竹島渡海禁止令に松島渡海禁止など含まれていたわけではない」ということを論じて見ようと思います。それは竹島渡海禁止令の「伝えられ方」についてです。


竹嶋之書附』という古文書があります。鳥取藩主池田家に伝わっていた鳥取藩政資料のうちの一つで、享保9(1724)年に鳥取藩が江戸幕府に提出した竹島渡海関係資料の鳥取藩の控えであり、内容としては、元禄5(1692)年に米子町人村川市兵衛の船が朝鮮人にはじめて遭遇した時から元禄6~9(169396)年までの、いわゆる「竹島一件」関係資料を中心に、享保7、9(172224)年、幕府が鳥取藩に対して行った竹島渡海に関する問い合わせとその回答書が収められているというものです。 ↓ここにあります。

ここには1696年の竹島渡海禁止令のことも禁止令の写しという形で書き留められているのですが、そこには謎の一文がくっついています。





















元禄九年正月廿八日、御月番戸田山城守殿にて御渡被成候御奉書写
先年松平新太郎因州伯州領知之節、相窺之伯州米子之町人村川市兵衛・大屋甚吉、竹嶋江渡海至于今雖致漁候。向後竹嶋江渡海之義制禁可申付旨被仰出之候。可被存其趣候。恐々謹言
正月廿八日
         土屋相模守
         戸田山城守
         阿部豊後守
         大久保加賀守
松平伯耆守殿


右御奉書之趣、村川・大屋両人江申聞、竹島渡海相止候事


(下線は引用者)



 下線をつけた一行の文章は何を意味しているのか、ちょっと判読しかねるのだが、これだけを見ると、竹島渡海禁止の奉書それ自体にこの一行が書き添えられているようにも見える。つまり、「この奉書の趣旨を村川・大屋両人に申し聞かせて竹島渡海を止めるようにしなさい」という老中からの指示が書いてあるのではないかということだ。
しかし、どうもそうではないらしい。というのは、竹嶋之書附』にはほかにも竹島渡海禁止令の写しを記録した部分があるのだが、そちらでは最後の一文はない。それに、これが老中からの指示だとすると、自分たちが出した奉書に自分で「右御奉書」という敬語を使うのは不自然で、ここはやはり単に「右奉書」とあるべきと思われる。だから、この一行は、奉書を受けた鳥取藩の側の記述であると見るべきなのだろう。(なお、Wikipediaの「竹島一件」の「渡航禁止の全文」の項では、この一行は奉書の一部であるような形で書かれている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E4%B8%80%E4%BB%B6)



 だが、そうすると、どういう意味になるのか理解しにくい。「この御奉書の趣旨を村川・大屋両人に申し聞かせて竹島渡海を止めるようにした」という結果を書いてあるのか、それとも「この御奉書の趣旨を村川・大屋両人に申し聞かせて竹島渡海を止めることにした」という処理方針の表明なのかが良く分かりません。


 このように、この記録自体にはそういう読み取りにくい部分があるのでそのことをちょっと長く書きましたが、実はそれは大した問題ではなくて、この一文の意味がどうであれ、この奉書を受けた鳥取藩主は結局のところ、「この奉書の趣旨を村川・大屋両人に申し聞かせて竹島渡海を止めるようにした」わけですよね。


それから、鳥取藩主がこの奉書を受け取ってその日のうちに「承知いたしました」と回答した記録もあります。


御奉書致拝見候。先年松平新太郎因州伯州領知之節、相窺之伯州米子之町人村川市兵衛・大屋甚吉、竹嶋江渡海至于今雖致漁候。向後竹嶋江渡海之義制禁被仰出之旨、御紙之趣奉得其意候。恐々謹言
               松平伯耆守
    正月廿八日
大久保加賀守様
阿部豊後守様
土屋相模守様
人々御中


 「御紙之趣奉得其意候」と書いてあって、奉書の趣旨を十分了解いたしましたということを回答してあります。


 で、本題ですが、松平伯耆守あるいはその家臣が大屋・村川にこの件を伝えるに際して、果たして「文面は竹島だけの渡海禁止だがそこには松島渡海禁止の意も含まれている」ということを伝えることができたでしょうか。そういう情報をいったいどこから得たでしょうか。この奉書は、老中戸田山城守から鳥取藩主の家臣に渡されているが、その際に補足的な説明が何かあったという記録はない。それとも、そういう情報は無くとも、鳥取藩の自主判断でそういうことを付け加えて言ったのだということでしょうかね。


有り得ないことです。将軍の意を伝える老中奉書に「竹島渡海禁止」と書いてあるのであれば、それ以外のことを言えるはずがないでしょう。もし仮に、大屋さんか村川さんが「あのお、竹島は分かりましたが松島のほうはどうなんでございましょうか?」と聞いたとすれば藩側は何と答えたでしょうかね。「それは松島も含めてのことであろう」なんて推測を言えたでしょうか。無理です。将軍の意が表示されている書面に勝手に何かを付け加えて伝達するなんてできません。「松島のことは何も御沙汰はない。ともかく今後は竹島には行くなとの仰せである」とでも答えるしかなかったでしょうね。


だから、「文面には書かれていないが松島も渡海禁止だ」などという情報が大屋・村川に伝達されることはあり得ないのですよ。そして、伝達されないものは含まれているとは言えないのです。(文面に暗に何かをほのめかす言葉があるなら別ですが、そんなものも無いですしね。)


 なお、藩は別ですが、鳥取藩に奉書を渡したのと同じ日に、戸田山城守は竹島渡海に関して朝鮮との交渉にあたっていた対馬藩に対してもこの渡海禁止決定のことを説明しました。その中にも、当然ながら「松島渡海禁止」ということはもちろん「松島」の話自体が何も出ていません。


 こういう状況において、何で「幕府の指示には松島渡海禁止の意も込められていた」なんて主張できるのか、不思議なことです。


「元禄竹島渡海禁令は、元禄9年正月23日付の老中宛鳥取藩返答書の「松島(竹島)は鳥取藩領ではない」を踏まえて出された。そうである以上は、禁令の文面上に「松島渡海を禁ずる」ことは、明記されていなくても含意されているのは当然である。」
(池内敏『竹島ーもうひとつの日韓関係史』 p75) 







中公新書は島根県の主張を否定したいらしい

中公新書の先月21日のツイート。








  島根県は竹島を取り戻したいと考えるから竹島の日の条例を制定したのだろう。


  その竹島の日にあたって、日韓双方の主張に大した差はないなどというデタラメを書いた本を読めということは、


  中公新書は島根県に喧嘩を売っているようなもんだな。



  この本のことをこのブログでさんざん批判していることなどは中公新書は知らないだろうし、


 一ブロガーの批判など取るに足りぬものだと思うのも別にかまわないが、


 島根県竹島問題研究会の座長を務めた人が、


 「池内氏の『竹島』を出版した中央公論新社は、岩波書店と並んで韓国側の対日宣伝工作に協力したことになり、著者の池内氏とともに同罪である。」


と書いているのに、


わざわざ竹島の日にかこつけてPRするとはね。






竹島は「わが国固有の領土」ではないのか

iRONNAに投稿が採用・掲載されました。


竹島は「わが国固有の領土」ではないのか










書評『竹島』(39)「二島相去不遠」(二)


  世宗実録地理志(15世紀)蔚珍県の条に出て来る「于山武陵二島在県正東海中」、「二島相去不遠 風日清明則可望見」の「二島相去不遠」は、私は本土と二島間の距離のことだと思うのですが、そう読んではいけない理由の二つ目として、池内さんは次のようにいいます。
 
第二に、「二島相去不遠」を「二島は朝鮮半島本土からさほど遠くない」と解釈した場合、「風日清明、則可望見」が解釈不能となる。現実には、どれほど晴天であっても朝鮮半島本土から鬱陵島と竹島の両方が見えるということは絶対にありえないからである。そうである以上、いま問題となっている記述を「朝鮮半島から眺めることができる」と解釈するのは許されない。(p1213)
 





 は?



 






池内さんは、前回も紹介しましたが、この世宗実録地理志の「于山」は「鬱陵島とは区別される別の島を指すもの」に分類した上で、「「于山」を竹島と見なしうるかどうかは、それが鬱陵島近傍にあって鬱陵島と区別された別の島」とする説明の限りで生じる可能性に過ぎない。」(p17)と言っているのですよ。ところが上の文章では「于山」は現竹島に決まっているという前提でものを言っているわけです。なんでそうなるんでしようね。ものすごく論理がウサン・・・・・もとい、ズサンではないですか。
もともとここの部分は下條氏の論理は間違いだという批判のつもりで書いてあるのですが、何せ批判をしたいという気持ちが強いので理屈にならないことまで動員してあるように思えてしまいます。
 

昔の文献は、書いてあるとおりに普通に読むべきでしょう。(書いてあるとおりには読めないということを示す別の史料があるならば別ですが。) 「二島相去不遠 風日清明則可望見」と書いてあるのだから、この文章の作者はこのとおりに思っていたわけです。二島は蔚珍からそれほど遠くなく、天気が良ければその二島が見えると思っていたのですよ。現実の地理では竹島は見えないなんていうことが何の関係がありますか。
 





これは有名な八道総図(15世紀)の鬱陵島と于山島ですが、これだって、この地図を描いた人は、実際にこういうふうに二つの島があると思っていたからこう描いたわけですね。文献だって同じことです。池内さんの解釈は、太政官指令問題に顕著に現れていますが、ここでも、古文献の解釈に現代地理学の知識を当てはめているのだから、これはもう「歴史学」とは言えないのです。
 


 

書評『竹島』(38)「二島相去不遠」(一)


  中公新書『竹島ーもう一つの日韓関係史』第1章は「于山島は独島なのか」という題で、結論は、「于山島を根拠にして、竹島が古来連綿として韓国領であったという論証は、全く成り立たない」となっています。そういう結論になる過程として、池内さんは、朝鮮の古文書に現れる「于山島」、「于山」の24件は、鬱陵島を指しているもの、鬱陵島とは区別される別の島を指しているもの、現在の竹島を指すものの三つに分類されるとおっしゃる(p30)
 
 24件の一つである、毎度おなじみ世宗実録地理志(15世紀)蔚珍県の条に出て来る「于山武陵二島在県正東海中」、「二島相去不遠 風日清明則可望見」についてですが、韓国ではこの文を「于山と武陵の二島が蔚珍県の東の海の中にある。二島は互いに距離が遠くなく、天気が良ければ望み見ることができる。」と読みますね。そして、「武陵」は鬱陵島で「于山」が独島(竹島)だといいます。「天気が良かったなら見える」という関係は鬱陵島と独島(竹島)にあてはまるので、「どうだ、朝鮮は15世紀の史書でも独島のことをちゃんと把握して朝鮮領と認識していたのだ」(胸をはる)というわけです。
 
池内新書では、この世宗実録地理志の「于山」は「鬱陵島とは区別される別の島を指すもの」に分類します。そして、次のようにいいます。
 
于山」を竹島と見なしうるかどうかは、それが鬱陵島近傍にあって鬱陵島と区別された別の島」とする説明の限りで生じる可能性に過ぎない。(p17)
 

これはまあ、そういう言い方でいいのかも知れませんが、実際にはその可能性というものは、于山が今の竹島であることを窺わせる別の材料は何もないという現実を重ね合わせて考えるならばほとんどゼロであり、「于山が今の竹島であることは全く立証されていない」ということになります。
 
ところで、私は「二島相去不遠」を朝鮮半島本土と二島の距離を表わしたものと思っているのですが、池内さんはそういう解釈することは「あまりに無謀」だとか「許されない」ことだと指摘しています。
そして、島根県竹島問題研究会の下條座長も次のように述べていて、「二島相去不遠」はその二島の相互の距離を表わしたものという見解です。
 
『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県」条)の本文に「于山武陵、縣の正東の海中に在り」とあり、続く分註にある「二島相去不遠。風日清明、則可望見」を解釈する時は、「二島相去不遠」を于山島と欝陵島の「二島は、互に遠く離れていない」と読み、次の「風日清明、則可望見」は、晴れた日には管轄する蔚珍県から欝陵島が「望み見える」と、解釈するのである。
(「実事求是」第47回 池内敏氏の中公新書版『竹島』について)
 
 
 
うーむ、私と同じ考えの人は今のところnobyさんだけ? 多勢に無勢、「二島相去不遠」は朝鮮半島本土と二島の距離を表わしたものと考えるのは間違いなのか・・・・・・
 
池内さんは、そういう読み方ができない理由の一つとして次のように言います。
 
漢文で「二つの名詞+「相」+動詞」で構成される文の場合、先行する二つの名詞が「たがいに」何々する(動詞)、と解釈するのが原則である。いま問題となっている「二島相去不遠、風日清明、則可望見」では割注冒頭に配置された「二島」が「相去」とある以上、「去」は先行する二島の距離について述べていることが明らかである。さらにその記述を受けて「風日清明、則可望見」と続くのだから、天気さえ良ければ「二つの島がお互いに」見える、とするのが史料解釈としては順当である。朝鮮半島本土から二島が離れている、の意であると解釈したいのであれば、「二島」と「相去」の間に「朝鮮半島本土から」なる語句が挿入されねばなるまいが、そうした語句の省略を想定するのは史料解釈としてはあまりに無謀である。(p12)
 
 
それはまあ、原則はそうでしょう。例えば「敵味方相和」というような文章なら原則どおり読んでいいでしょう。ところが、朝鮮のこういう地誌には書き方のルールである「規式」というものがあるそうで、下條教授の紹介によれば、島については管轄官庁からの方角と距離を記すことになっていたという。
そういうルールを踏まえて考えるならば、「二島相去不遠」も単純に原則どおりに読んですませるのでなく、他の読み方はできないのかと考えて見ることが必要ではないですか。
 

以下は、nobyさんのコメントの再掲です。
 
私も、二島相去不遠は「二島は蔚珍県から遠くない」だと思っています。その理由は4つです。
 
1.二島相去不遠の直前に「在県正東海中」とある。すなわち、二島は県から真東の海中にあると書いており、蔚珍県の陸地側から見た視点で文章を作成している。であれば、その後の二島相去不遠の言葉も蔚珍県が基点であり、二島は県と相去る距離は遠からず、と解釈するべきと考えられる。
2.離島についての記述方針を定めた規式には「諸島陸地相去・・・」と書かれている。すなわち、離島は陸地から相去る距離を記すべし、と定められた。この規式の文面を念頭において、江原道の地方官は、二島は陸地の蔚珍県から相去ること遠からず、と記述したと考えられる。
 
3.同時代の地理書『慶尚道地理志』では、相去という語句は、府県の中心地を基点として、そこから説明対象の地点がどれだけ離れているかを表現するときに使われている。この用法をあてはめるなら、世宗実録地理志の二島相去不遠は、二島は県から相去ること遠からず、となる。


4.
地理書に離島を書くなら通常はその位置情報を記すものである。であれば二島相去不遠は、陸地からの距離が遠くないという位置情報であると考えるのが自然。

 
以上から、世宗実録地理志の「二島相去不遠 風日清明則可望見」は二島相互間の眺めではなく、陸地から二島を見た眺めである。したがって、于山が現竹島である根拠にはならない、というのが私の持論です。
 
(再掲ここまで)
 
こういう理解でいいと思うのですがねえ。「二島相去不遠」は二つの島の関係を書いてあるようにも見えるし本土との関係を書いてあるようにも見える。一方で「本土からの距離を書く」という基本ルールがある。だったら本土との距離が書いてあると解釈するのが史料解釈としては素直でしょう。

池内さんは「于山」と「武陵」という二つの島が主語になっているとお考えのようなのだが、「于山武陵二島在県正東海中」とあるのだから于山と武陵という「二島」が「ワンセット」(←どっかで見たような言葉だ・・・・)で主語になっているとも読めるのですよ。

また池内さんは、「朝鮮半島本土から」という語句の省略を想定するのは「あまりに無謀」だというわけですが、これも「本土からの距離を書く」という基本ルールがあるのだから、本土(この場合は蔚珍県)という言葉が省略されていると考えることは無謀でも何でもなくて、ごく自然なことですよ。



(続く)

 

書評『竹島』 一応終り



  『竹島―もうひとつの日韓関係史』(池内敏氏 著)の内容についての指摘は、一応これで終わりにします。まだ他にも書く材料がないでもないですが、細かい話になるのでめんどくさいのでやめときます。何かの機会があれば書くかも知れません。

  




書評『竹島』(37) どこに視点を据えるのか?(二)

新書『竹島―もう一つの日韓関係史』の最後の一文です。
 

  実証を置き去りにした言葉の言い換えで、それであたかも証明が果たされたかのごとく繕ってみせる傾向が近年とみに顕著である。日本人・韓国人を問わず、自らの弱点を謙虚に見つめ直し、譲歩へ向けて勇気をふるうことが、いま求められているのではないか。そのために、ややもすれば過熱しがちな議論に冷静さを取り戻すこと、そのために丁寧な史実の確定をすること、これが研究者として社会に寄与できる行為である。
 
 
 
 この「相互譲歩」という考え方に対しては、日本が韓国に譲歩するのは意味がないという指摘が既になされていますが、
(「相互譲歩は可能か」)
 
これまでの日韓関係を振り返れば譲歩など全く意味がないということは、今は多くの日本人が感じていることでしょう。
 
  それに、池内さんはそもそも日本の竹島主張にはいくつも「弱点」があると考えるから「譲歩すべき」という見解にもなるのでしょうが、「弱点」があるというのは単に池内さん個人の見方に過ぎないものであって、実際には日本政府の主張にはこれといって弱点などはなく、反対に韓国政府の主張は全て弱点で成り立っているとでも形容していいものです。竹島が日本の領土だということは確定しているのです。だからそもそも日本が譲歩すべき理由など何もありません。譲歩すべきは韓国なのです。
 「丁寧な史実の確定をすること」には別に異議はありませんが、今回の本のようにありもしない日本側主張の「弱点」などというものを作り出すような「史実の確定」をすることは、ウソばかり言い立てている韓国側に根拠の無い一時的な自信の増幅を与えるだけであって問題解決への道を混乱させるだけです。
 



書評『竹島』(36) どこに視点を据えるのか?

 『竹島―もう一つの日韓関係史』(池内敏氏著)の終章(「固有の領土」とは何か)の最後の小見出しは「どこに視点を据えるのか」というものですが、そこでは驚愕の結論が述べられます。

 

本書は、日本パンフ、韓国パンフにも拠りながら、現在の日韓両政府における竹島領有の正当性の主張について、ひとつひとつ史実を丁寧に追及してみたものである。本書で述べた内容はすでに何度か整理したが、日本側・韓国側の主張には、どちらかが一方的に有利だというほどの大きな格差はないあえて言えば、竹島を日本領にしたとする公文書が日本側にはあるが、韓国側にはそうした類の公文書がない、というところだろうか。けれどもこの差は決定的なように見えて必ずしもそうではない。彼我の差は決して大きくないにもかかわらず、日本も韓国も自分のほうに一方的に利があるかのごとく主張を繰り返して来た。(p251) (強調は引用者による)
 
 



何と、「日本側・韓国側の主張には、どちらかが一方的に有利だというほどの大きな格差はない」のだそうです。しかし、実際は、日本が1905年以降に国際法上領有権の成立に必要とされる平穏かつ継続的な支配を行って来たという決定的な歴史を有するのに対し、韓国は1906年に沈興沢の報告を受けるまで竹島という島に何の関与もしていなかった、という大きな大きな越えられない差があるのです。日本側にあるのは「竹島を日本領にしたとする公文書」だけではなくてそれに続く支配の事実があるのです。こういう明白かつ核心的な差異を全く無視して「どちらかが一方的に有利だというほどの大きな格差はない」とか「あえて言えば、竹島を日本領にしたとする公文書が日本側にはあることぐらいだ」などと解説して見せるのは、この本がいかに偏った見方を読者に提供しようと試みているかを端的に示すものです。
そしてまた、韓国と同じく日本も「自分のほうに一方的に利があるかのごとく主張を繰り返して来た」とそれが何か悪いことのようにおっしゃるが、日本側に一方的に理があるのが事実です。理のあることは主張すべきではないですか? どこに視点を据えたらこういうふうに最も重要な事実を無視できるのか、私には理解できない。







書評『竹島』(35) 教科書の記述 

池内さんは、固有領土を論じた後に、ある中学校地理教科書の現行のもの(平成23年度検定)と次年度(平成26年度検定)のものにある竹島の記述の比較を紹介して、「その読後感については、本書をここまでお読みくださった読者の方々に委ねたく思う」と書いておられる。(p250)
 

【現行の教科書】
 1905年に日本が島根県に編入した竹島は、総面積0.23km2ほどの小さな島で、日本固有の領土です。1952年から韓国が自国の領土であると主張し、1954年から不法に占拠しているため、日本は韓国に対して何度も抗議しています。
 
【次年度からの教科書】
  竹島は、本州からおよそ200kmはなれた日本海にある、日本固有の領土です。竹島周辺は豊かな漁場で、17世紀初めには日本人が漁業などに利用していました。1905年には島根県に編入されました。ところが1952年から、韓国が、一方的に自国の領土であると主張して竹島を取り込み、警備隊員を常駐させたり、施設をつくったりして、不法に占拠しています。日本は、韓国に対して何度も厳重に抗議しています。
 
(下線は池内さんによる)
 

 池内さんがどういう読後感を期待なさっているのかは分からないのですが、「固有の領土」という表現に大反対なのだから、上の記述を肯定的には見ないのでしょうね。

 私は、上の二つの記述にはほとんど違和感はないです。特に、次年度の記述は日本の領有権の根拠を簡潔・的確に表現してあって、なかなか分かりやすいですね。問題ないんじゃないですか。




<追記>

中学校学習指導要領解説 社会編
平成20年7月(平成26年1月一部改訂)文部科学省 

〔地理的分野〕 抜粋

  「領域の特色と変化」の中の「領域」とは、領土だけでなく、領海、領空から成り
立っており、それらが一体的な関係にあることをとらえさせることを意味している。
「特色と変化」とは「我が国の海洋国家としての特色を取り上げる」(内容の取扱
い)とあることから、例えば,我が国の領土はたくさんの島々からなり、それらは弧
状に連なっていることや、他の国々と国土面積で比較したり、領海や排他的経済水域を含めた面積で比較したりするなど、我が国の海洋国家としての特色を様々な面から取り扱うことを意味している。また、我が国は四面環海の国土であるため直接他国と陸地を接していないことに着目させ、国境がもつ意味について考えさせたり、我が国が正当に主張している立場に基づいて、当面する領土問題や経済水域の問題などに着目させたりすることも大切である。
  その際、「北方領土が我が国の固有の領土であることなど、我が国の領域をめぐる問題にも着目させるようにすること」(内容の取扱い)とあることから、北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)や竹島について、それぞれの位置と範囲を確認させるとともに、我が国の固有の領土であるが、それぞれ現在ロシア連邦と韓国によって不法に占拠されているため、北方領土についてはロシア連邦にその返還を求めていること、竹島については韓国に対して累次にわたり抗議を行っていることなどについて的確に扱い、我が国の領土・領域について理解を深めさせることも必要である。なお、尖閣諸島については、我が国の固有の領土であり、また現に我が国がこれを有効に支配しており、解決すべき領有権の問題は存在していないことを、その位置や範囲とともに理解させることが必要である。



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Chaamiey

Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

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