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「石島は明らかに独島」 新証拠出る (見出し詐欺)

「石島は明らかに独島」 新証拠出る
勅令41号の内容は1968年公開…その前にも学者は石島と呼んだ

2020.10.27 朝鮮日報
https://www.chosun.com/culture-life/relion-academia/2020/10/27/PPRP4XJ7SBG6BO4QJ3SX336VWA/


  25日は「120周年独島の日」だった。この日は1900年10月25日制定された大韓帝国の「勅令第41号」が石島を鬱島郡(鬱陵島)の管轄区域中に置くと明示したことを記念する日だ。韓国側は「石島」が独島の別表記という立場だが、日本側は違うと主張する。

20201027001980.jpg
 独島(石島)を鬱陵島の管轄区域として明示した1900年10月25日の「勅令第41号」

  「石島は明らかに独島」であることを立証する新しい根拠が提示された。独島研究者である柳美林ハンア文化研究所長は、去る24日、独立記念館開催の学術会議発表文で「1968年以前までは勅令第41号の内容は知られていなかったが、多くの学者が石島を独島の別の名前と認識していた」と明らかにした。
  1950年代、日本が独島領有権を主張する時、韓国外務部は独島が鬱陵島の行政区域に編入されたという公的記録を入手することに失敗した。しかし、1968年、法学者であるイ・ハンギ ソウル大学教授が大韓帝国議政府総務局が刊行した「法規類編續貳」から該当の部分を捜し出したことによって勅令第41号の内容が初めて知られることになった。
  その時までは誰も勅令第41号が「石島は鬱島郡の管轄」としたことを分からなかったのだ。ところが、1968年以前にもパン・ジョンヒョン、イ・スンニョン、ホン・イソプ、パク・クァンスク、ファン・サンギ、ユ・ホンニョル、パク・デリョンなど多くの学者が「石島」を独島の別の名前だと紹介していた。勅令第41号を見て「石島」を独島だと主張したのではなく、初めから独島の別の名前が石島だったことになる。19世紀末、湖南出身の住民たちが「トルソム」という意味でこの島を「トクソム」と呼び、その意味を取って表記したのが「石島」、音を取って書いたのが「独島」であった。

ユ・ソクチェ記者


<コメント>
 さっぱり分からん記事だ。短いし、これで記事になるのか?





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テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

1906年鬱島郡の範囲を示す地図?

小嶋日向守さんの探索による情報です。これはなかなかの大発見だと思います。
 


萬歳報という新聞の1906713日の記事
 
 
◎各郡地形更圖
統監府에서内部公文하야各郡地圖一一送交하야其面積洞里를다시그려다디라
 
<仮訳>
統監府から内部(内務部)に公文が送られて、各郡の地図を一つ一つ送付して、その面積と面()洞里(村あるいは大字といったところか)を改めて書き出せ書き出したとのこと。
 (■は現在使われていないハングル文字なので良く分からないのですが、推測としては過去形のほうが合っているように思います。)


<コメント> 
1906713日という日は、皇城新聞が例の「鬱島郡の配置顛末」の記事を掲載したのと同じ日付です。ということは、統監府は鬱島郡について質問するのとほぼ同時に各郡の地図や行政区分についても質問していたということになります。
統監府としては、日本の竹島領土編入で妙な話が広まって鬱島郡の範囲などを確かめることになったが、もともと各郡の基本的な情報は必要だからこの際全部を集めておこう、ということだったんでしょうかね。 

 それで、鬱島郡を含めた各郡の地図が統監府に送られたはずですが、鬱島郡の範囲については、既に「鬱島郡の配置顛末」の件で韓国政府は統監府に対して竹島を含まない趣旨の回答を送っていたのだから、小嶋日向守さんのコメントにもあるように、各郡地図の鬱島郡地図にも竹島は無いと考えるのが自然です。

で、その地図が確認されるならば、これまででもウソであることが明らかになっている現代の韓国政府の主張――1900年勅令41号の石島が独島である――がさらに目に見える形で否定されることになるのですが、問題はその地図が現存しているかどうか、です。
統監府にあった書類は終戦時の混乱の中で廃棄されたか、あるいは韓国側に接収されたか、どうなったのか分かりません。ただ、1906年という年は日本が韓国に対する干渉を強め始めたころなので、各郡の地図というものは統監府にとって重要な資料であったと共に、日本本国の政府にとっても役に立つもののはずだから、統監府で写しが作成されて日本本国に送られた、ということは無かっただろうか、それが今総務省か外務省あたりに残っているということはないだろうか、などとちょっと希望的観測をしてしまいますね。
もちろん、韓国政府が統監府に送付したものの控えを持っていたという可能性もあります。それが実際にあったかどうか、あったとしてそれは現在もあるのかないのか、いろいろ分からないですが、ともかくこれは面白い情報です。
 




 

1901年帝国新聞は「ヤンコ島」

 小嶋日向守さんの御紹介です。

 1901年4月1日の韓国の帝国新聞は「ヤンコ島」という島のことを報道しています。



翻訳試案(かなり怪しい)

○鬱陵島東南三十里海中のヤンコという島を日本が得たが、その島は天下地図に上がっておらず、産物は魚物で、海中の物が一番多く、漁夫たちを大いに・・・・・するという。


(「日本で」の後の言葉が鍵です。韓国語を良く分かる人による解読が必要です。)

<追記>
「日本で・・・・・・が、」の部分は「日本が得たが、」となるそうです。




  韓国政府の説明によれば、竹島は1900年10月25日の大韓帝国勅令41号に「石島」という名称で規定されたそうですが、この記事ではヤンコと言っていますね。




下の新聞の3面中段の中ほど


帝国新聞 光武5年(1901年)4月1日












資料出処
大韓民国新聞アーカイブ

その中の



<追記>
matsuさんの2014.9.9のコメント

柳美林・チェウンソク
『近代日本の地理誌に現れた鬱陵島・独島認識』韓国水産開発院、2010.12

82~83p
 これを立証するほどの資料が1901年4月1日帝国新聞の記事だ。ここに‘ヤンコ’という島名前が初めて見えるが、この‘ヤンコ’が“鬱陵島東南三十里海中にある”とした。しかしここで30里を朝鮮の里程で見るならば独島でない竹島(訳注:竹嶼)を示すと見ることができる。だがここで言う30里が上の『韓海通漁指針』で言う“鬱陵島から東南方で約30里”とある内容と関係があるならば、帝国新聞の30里は300里をいうことだ。それならこれは独島を示す言葉になるが、韓国の新聞で日本の里数を言ったと見るのも難しい。‘ヤンコ’を独島と見る場合、この島を日本が得たといった点は、1900年を前後した時期に照らしてみる時、事実とは合わない点がある。


石島≠独島 余話

久しぶりに Wikipedia  の「石島(韓国)
 
を見てみたら、石島は独島ではないことについての私の指摘が2点採用されていた。うれしいことですが、ウィキペディアは一個人のブログの意見を採用するんですかね。
 
 
 その2点の一つめは、沈興澤は、島根県の一行から竹島編入のことを知らされて、上司に「独島が日本の領土になったそうです」と報告したわけですが、独島が勅令の「石島」であるのならば、沈興澤が勅令で定められた「石島」という公式用語を使わなかったのはおかしい、というものです。
 
石島はどこか(4)」
 
 
 
 
 二つめは、韓国政府自らが独島は石島ではないことを認めている『独島問題概論』の記事ですね。
 
  「石島は独島ではない! 韓国政府は確認ずみ」
 
ただ、この二つめについては、「議論を呼んでいる」とまとめてあるのですが、残念ながらこのブログで言っているだけでして、他のどこでも議論を呼んではいませんね()
 
 
 
 

世界人が独島問題を理解するためのポイント16-10

「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」
シン・ヨンハ
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf
 
10 1900年、大韓帝国は勅令第41号により、独島を韓国領土として西洋国際法を参照して世界に再び公表しました。
 
(1)鬱陵島は開港場ではなかったにもかかわらず、日本人たちが不法入島して居住し始め、日本政府もこれを幇助したので、大韓帝国は、19006月、内務部調査官禹用鼎、釜山海関税理士フランス系イギリス人ラポート(E. Laporte)と日本人官吏駐釜山日本領事館副領事赤塚正助などで構成された国際調査団を鬱陵島の現場に派遣して、現地の実態を調査することにしました。

1899年<大韓全図>、大韓帝国学務部で製作配布した標準地図で、独島が鬱陵島の東方に位置して経度と緯度が当時の基準で表示されている(イ・チャン教授提供)
 
<翻訳者茶々:>
当時の基準で? これがウワサに聞くウリカトル図法か。
 
 
調査団の報告を受けた後、大韓帝国は、19001025日、勅令第41号として地方官制を改正し、従来江原道蔚珍県に属した鬱陵島と独島を、今度は独立させて鬱陵島とその付属島嶼を「鬱島郡」に格上げさせ、鬱島郡の管轄地域を鬱陵島と竹島(竹嶼島)石島(独島)と法定しました。そして、この地方官制改正の事実を、中央政府の「官報」19001027日付けで国際告示しました。
大韓帝国の1900年勅令第41号の国際告示によって、鬱陵島と独島(石島)の大韓帝国領有が、西洋国際法としても再び世界に公布されたのです。もちろん、この時に日本側は何の反対意見その他の意見も無かったのです
 

1900年、大韓帝国勅令第41号を収録した「官報」。1900年、鬱陵島と竹島、石島を管轄する行政区域として鬱島郡を設置するという大韓帝国勅令第41号を掲載しました。
 
 
(2)この時、独島を従来の名称の「于山島」とせず「石島(独島)」と表記したのは、空島政策が廃止されて1883年から合法的に入って来た鬱陵島民たちが、方言で石(Rock, Stone)を「ドク」と発音し、独島をドルソム(Rock islet)という意味の地域方言として「ドクソム」と呼んだからです。「ドルソム」は意味を取れば「石島」となり、音を取れば漢字で「独島」と表記していたが、意味を取って「石島」と表記したのでした。
また、この時、国際法に明るかった調査団のフランス系イギリス人ラポート(E. Laporte)は独島が「Liancourt Rocks」という西洋の呼称もあることを知っていて、これも「リアンクル石島」になるので、併せて石島と表記したものと解釈されます。
実際、日本海軍省の水路局が1882年に発行した『日支韓航路里程一覧図』では「于山島」を「リアンコルド石」と表記しました。すなわち韓国語の「ドクソム(ドルソム)」は、意味によって漢字表記すれば「石島」となり、音で漢字表記すれば「独島」になるのです。「独島」は、大韓帝国鬱島郡守の行政統治期間に、日本では「リアンコ島」と呼んでいました。これは、日本海軍省が鬱陵島の名称を従来独島に付けていた「松島」(Matsushima)に変えたために独島には名前がなくなり、「リアンクルド石」という西洋の名称を借りて用いたのです。
 
 
(3)日本外務省の「2008-10のポイント」の(6)は、「独島」の名称は1906年鬱島郡守沈興澤の報告書で初めて出る呼称だと主張していますが、これは事実ではありません
日本側が露日戦争の時、独島に日本海軍の望楼を設置する調査のため、軍艦新高号を派遣した時、鬱陵島で聞き取りした情報として、新高号は、1904925日付け報告で、「リアンコルド岩は韓国人はこれを獨島と書き、日本人漁夫たちはリアンコ島と呼ぶ」と報告しました。
 

鬱陵道民が独島(于山島)を「独島」と書き、日本人たちは「リアンコ島」と呼んだことを記録した1904925日付け日本軍艦新高号報告 (シン・ヨンハ教授提供)
 
 鬱陵島の韓国人たちは、1904年以前から既に独島を「独島(Dokdo)」と書いていたのです。
 
 
(4)日本側が1906年に大韓帝国政府に鬱陵島所属の島々を質問して来た時、大韓帝国政府は、19001025日、政府会議を経て郡守を配置したが、鬱陵島の付属島嶼は竹島(竹嶼島を意味)と石島で、その距離は合せて200余里(80km)と回答しました。鬱陵島から100里あるいは 200里離れた所にある島は東海には 独島しかないので、石島がすなわち独島であることはさらに再確認されるのです。
 

 石島が鬱陵島から200余里(80km) 離れた島であることを明らかにして石島がすなわち独島であることを証明した大韓帝国内務部の公文書を報道した皇城新聞1906713日付けの記事
 
 
 
<コメント>
 
1900年大韓帝国皇帝勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正する件

第一条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること
第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること

 
 韓国政府も研究者も、この「石島」が今の竹島/独島だと言っているわけですが、これがウソであることはほぼ明らかだと言っていいでしょう。
 まず、石島が竹島/独島の位置に描かれた地図とか、石島が竹島/独島の姿をしている島であることを示す説明書きなど、石島に関する資料は現在まで韓国側から何一つ公開されていない。そんなものは無いからか、若しくは、石島は鬱陵島近接の観音島であることがバレてしまうために隠蔽されているのか、のどちらかだろう。石島が竹島/独島であると口で言うだけであって、証明はされていない。
 逆に、韓国政府や関係者の過去の行動は、石島が竹島/独島であるというには矛盾があり過ぎる。
  竹島が日本に編入されたことを1906年3月に知った後の韓国政府関係者の反応の中に、竹島/独島が勅令に規定された石島であることを示唆する発言は全くない。戦後のサンフランシスコ講和条約締結をめぐる韓国政府の応対の中でも勅令第41号の件は全く持ち出されなかった。
 
 プロパガンダ大先生は、上の文章を禹用鼎の日韓合同調査団の派遣から書き起こして、いかにも現地調査を踏まえて竹島/独島を「石島」として郡の管轄に含めたのだという印象を与えようとしているように見えるのだが、調査団はこのときに竹島/独島までは行っていない。調査しなかった遠くの離れ小島を管轄に入れたというのは説得力ゼロ。
 
 勅令を定める際の伺い書きにも竹島/独島のことは何も触れられていない。
 
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守と改正することに関する請議書
 右該島は東溟に特立し大陸から遠隔であるが、開国504年に島監を設置して島民を保護し事務を管掌させており、島監季周の報牒と本部視察官禹用鼎、東萊稅務司の視察錄を參互節査したところ、該島地方は縦が八十里ほど、は五十里という。
 四圍壁の中に巨山があって北より南に至る。その間に大川あり、広さ深さは舟を幾つか容れることができ、その土は肥沃で民は素朴であり、この数十年、人口は蕃殖し、戸数は四百余戸あり、墾田は万余斗落ある。
  居民の農作一年の収量は、藷二万余包、大麦二万余包、 黃豆一万余包、小麦五千包という。大まかに戸数、田数と穀数を陸地の山郡と比較すれば、数は及ばないが甚しく劣るものでもない。
  最近、外国人が来て交易し、交際上のことも有り、島監と称するのでは行政上の障害もあるため、鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正するのが妥当であるので、この段、勅令案を会議に提出する。

光武四年十月二十二日
                            議政府賛政內部大臣 李乾夏
議政府議政 尹容善 閣下 査照
 
 
 
 要するに、現在まで明らかになっている事情によれば、石島=独島の事実は証明されておらず、逆にそれを否定する状況証拠は多数あるという現状です。もし誰かがこの状況で石島は独島であるのか否か判断を下さなければならないとしたら、石島は独島であるという結論はまず出せない。
 
 勅令41号の公布手続について、「大韓帝国の1900年勅令第41号の国際告示によって、鬱陵島と独島(石島)の大韓帝国領有が、西洋国際法としても再び世界に公布されたのです。」と誇らしげに書いてあるが、読んでも島がどこにあるのかも分からない書き方の規定ではとても国際告示とは言えない
 
 外務省の2008-10のポイント」の(6)は、「独島」の名称は1906年鬱島郡守沈興澤の報告書で初めて出る呼称だと主張しています、とあるが、外務省の該当ページにはそんなことは書いてないようで、これは何の間違いだろうか。軍艦新高の報告書のコピーを持ってきて赤線を引いて、いかにも何か日本の主張の弱点を突いているかのような印象を与えたいのだろうが、これは、要するに1904年の時点で韓国人たちが竹島のことを独島と呼んでいたことが分かるというだけのことであって、韓国の領有権に何の関係もない資料です。
 
 
 鬱島郡の配置顛末については、記事の全文は次のとおり。

  統監府から内部に公照された江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と郡廳設始年月を示明せよとの故に答酬され、光武二年五月二十日に鬱陵島統監として設置され、光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置したが、郡庁は台霞洞に置き、該郡所管島は竹島と石島で、東西が六十里で南北が四十里なので、合せて二百余里だという。
 
 大先生は、「二百余里」が鬱陵島から竹島/独島までの距離だと説明しているが、「東西が六十里で南北が四十里なので」という説明のつかない部分を完全カットしている。「東西が六十里で南北が四十里なので、合せて二百余里」という言い方は明らかに「距離」ではなく何かの「範囲」を示しているわけで、この文章からは鬱陵島から92km離れた竹島/独島のことを説明する意図は全く読み取れません。
 

独島よ、いい加減に出て来てくれないか?

韓国政府が独島領有の法的根拠として挙げる例の勅令第41号

1900年大韓帝国皇帝勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正するの件
第一条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること
第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること




本日、この勅令を制定する際の制定上奏文が Dokdo-or-Takeshima? のブログで紹介されました。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/02/1900-oct-22-petition-by.html


ざっと訳するとこんな感じです。

鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守と改正することに関する請議書

 右該島は東溟に特立し大陸から遠隔であるが、開国504年に島監を設置して島民を保護し事務を管掌させており、島監季周の報牒と本部視察官禹用鼎、東萊稅務司の視察錄を參互節査したところ、該島地方は縦が八十里ほど、は五十里という。 四圍壁の中に巨山があって北より南に至る。その間に大川あり、広さ深さは舟を幾つか容れることができ、その土は肥沃で民は素朴であり、この数十年、人口は蕃殖し、戸数は四百余戸あり、墾田は万余斗落ある。
 居民の農作一年の収量は、藷二万余包、大麦二万余包、 黃豆一万余包、小麦五千包という。大まかに戸数、田数と穀数を陸地の山郡と比較すれば、数は及ばないが甚しく劣るのでもない。
 最近、外国人が来て交易し、交際上のことも有り、島監と称するのでは行政上の障害もあるため、鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正するのが妥当であるので、この段、勅令案を会議に提出する。
光武四年十月二十二日
         議政府賛政內部大臣 李乾夏
議政府議政 尹容善 閣下 査照






この文章のどこに、90km離れた無人島を管轄に入れるという発想が窺えるだろうか?

「観音島はまるで石柱」 島嶼巡礼 鬱陵島方面(八)




島嶼巡礼 鬱陵島方面(八)
東亜日報 1928.9.8

避難処あり、ここが藥草東山
通路は数十尺の藺草
俗人は住めない海上の天国


見るほどに奇岩怪石、行くほどに断崖絶壁
  ここがそこみたいで、そこがここみたいで(すでにもう見たようで、これまで見たものとはまた違い)、ちっとも飽きがこない。むしろ何回も見たくなり、見ればみるほど、色々なものが神気であり、奇妙なのが、鬱陵島海辺の一周である。昨日話した台霞洞から、道洞まで回ろうとすると、この島の三分の二になるが、この沿岸は、海金剛よりも確実に景色が良い。三兄弟のように仲良く、4~500尺の石柱の岩が、あちこちに立っているあいだをぬけると、「鄭ドリ」船倉がある。ここには誰も船を入れたものがなかったが、「鄭ドリ」という船乗りが初めて船を入れたところで、「鄭ドリ」船倉と呼ぶのだという。

海中から鋼を採掘 鄭ドリ船倉の景気
  (俗に)「山から金が出、鉄が出る」と言うが、ここの浦口では、海から実際に金が出、鉄も出る。それは昨年1月23日の明け方のことである。3000トンになる日本の商船「二見丸」が、豆や粟やその他の貨物をたくさん積んで、ウラジオストックから日本に行く途中、冬の雪寒風をうけ、どこにいるかを見失った状態で、明け方に鬱陵島の三兄弟岩にぶつかり、そのまま沈没した。保険会社が引き揚げる途中であったが、私がここを過ぎた時も、しきりに作業中だった。損害が、数百万ウォンに達するといい、作業人夫は約300余名。みなこの島の人で、一日の賃金が2円50銭ずつというから、最近、仕事がなかったこの島にとっては、良い景気だった。


石柱の上に観音島、海上にそびえ立つ
  その横には、高さが三百五十尺の切り立った島があるが、四方から見れば石柱がこの島を支えており、その中には石仏形状の岩がいくつもあることから、この島を観音島と呼ぶ。陸地の石柱で建てた大きな建物とそっくりだ。そこから少し船で行ったところに竹島という島があるが、この島は、鬱陵島に次ぐ島司がいる島だという。この島もまた四辺から見れば○○二百五十余尺の絶壁で、船を着ける所としては窟のような岩の下しかない。この島は周囲が10余里で、面積5万4000坪、二尋(ひろ)三尋になる多くの竹が取り囲み、その中は雑木が生い茂っている。  
竹林の奥に鶏の声、武陵桃園に○○
  この島の○○上っていこうとすれば○○○○岩の間を縄梯子を登り、落ちれば深く○○○海○○、この窟の間を約六十尺の縄梯子を使って行き来する。そして登って見れば、○○○○○○○○椿の香りの中をまた数十間○○○○「ウンアー」と薬草を食べる牛の声が聞こえ、その横のトウモロコシ畑は声高いニワトリが何羽か鳴く声が聞こえてくる。桃花源記に書かれている武陵桃源はここではないか、そんな思いが浮かんでくる。  

薬草東山一家戸、事実上この島の島司
  この島には竹島島司がいるが、それは朴在天氏だ。この島は鬱陵島とは別天地として、朴氏の家一戸があるだけで、この島の島司と呼ぶのもそのためだ。朴氏は無人島のこの島に初めて入ったときに、トウモロコシ○十八斗、甘藷二十斗を持ち込み、その年から耕作を始め、今日では○○○○○○○○。無人島時代のこの島にも縄梯子だけはあったというが、これは陸地にはない数十余種の薬草があって、国の命を受けてここに薬草を採りに来たといい、日本人が鬱陵島を竹島と呼ぶのもこのためだという。
  この島の島司の朴氏は滅多に人と出会うことがなく、ソウルの人間が来たというのでとても喜んでいる様子で○○○○○○○○、○○○○甘藷を煮てトウモロコシを○○○○。そして時勢の話から始めて○○○○○○○○○○○通った話、話題はこれから宗教の話を始め、記者が写真を撮ろうとすると聖書と賛美歌を手にして写ろうとした。
  この島の牧師であり鬱陵島の牧師で、彼は温和であり謙遜的な態度で○○○○のようだ。彼は昼には畑で賛美歌を歌い、夜には月の光と○○○○○○○聖書を読み、家の者を集めて説教をする。賛美歌の「避難所あり、災難に遭うときはここに来よ」という句節のように、避難処をまさにここに定めたということだ。



(翻訳はMatsuさんの翻訳も部分拝借)




<コメント>
  さあて、やっと出てきましたよ、鬱陵島の附属島の話。ただし竹島/独島ではなく、鬱陵島に近接する竹島(チュクト)と観音島のことですが。
  ところで、実はこの記事は、既に2008年7月、杉野洋明さんが確認してブログに発表しています。
  1900年の大韓帝国皇帝勅令第41号において、鬱島郡が管轄するのは「鬱陵全島と竹島、石島」と定められていて、韓国側はこの「石島」が現在の「竹島/独島」のことで、明確に領有の意思を公示したのだと言っています。日本側ではそれはあやしいと思いつつも、韓国側の法令のことであり、関連の資料も明らかになっていないので、石島がどこなのかはなかなか断言できずにいるのですが、当然、「石島は観音島ではないのか」という推論も出てきます。


1900年大韓帝国皇帝勅令第41号
第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/66/88/chaamiey/folder/1586138/img_1586138_49197915_0?1243239404


  そういう推論を牽制するかのように、半月城氏が「この島が石島と呼ばれた形跡はまったくありません。」と書いたりする(半月城通信 No.95 2003.5.29)ので、杉野さんが、いやいや観音島と「石」というものを結びつける材料はありますよ、といってこの記事を紹介したわけです。
http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10113508151.html


 この記事では、「四方から見れば石柱がこの島を支えており、その中には石仏形状の岩がいくつもあることから、この島を観音島と呼ぶ。陸地の石柱で建てた大きな建物とそっくりだ。」とあって、観音島と「石」というイメージとの結びつきとして、島の外観・構造が石のようだということと、島の上に「石仏」のような岩があるという二点が報告されていますが、島の様子がそういうものであるならば、「勅令第41号の石島は観音島のことではないか」と推論することは別段おかしいものではない、と言えます。

 私は「石島はどこか」という過去スレで「石島はすなわち独島であるという韓国側の主張は怪し過ぎる」と書いて来ましたが、では石島はどの島のことかと問われれば、やはり観音島のことだろうと思っています。



  なお、ついでの話ですが、竹島(チュクト)も観音島も竹島/独島も、写真で見れば、どれも「石島」と呼ぶなら呼んでまったくおかしくない島ではありますね。






観音島




竹島(チュクト)


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/66/88/chaamiey/folder/1586138/img_1586138_48725291_0?1238771584
竹島/独島

石島はどこか(4)


  韓国側のいう「勅令第41号の石島が独島(竹島)である」という主張があやし過ぎて話しにならないということを書いていますが、今日はその理由の3つめです。


1900年(明治33年)大韓帝国皇帝勅令第41号
第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること

1905年(明治38年)1月28日 日本政府 竹島編入の閣議決定
1905年(明治38年)2月22日 島根県告示第40号で竹島編入を公告



  日本の竹島編入から一年余り経った1906年 3月 28日、島根県の隠岐島司一行が竹島を視察した際に鬱陵島に立ち寄り、鬱島郡守・沈興沢を表敬訪問し、竹島を新たに日本領土に編入したことを知らせました。韓国側はこのことによって初めて竹島の日本編入を知ることになります。


  郡守・沈興沢は、一行が去った翌日の1906年3月29日(旧暦 3月 5日)、彼の直属の上官である江原道観察使に次のような報告を送ります。


『鬱島郡守沈興沢の報告書』(1906.3.29)
  本郡所属独島が本部外洋百余里ほどにあるが、本月初四日辰時ごろに輪送船一隻が来て島内道洞浦に停泊し、日本官人一行が官舍に来て言うに、独島がこのたび日本領地となったので視察に来てそのついでに来島したとのこと。一行は、日本島根県隠岐島司東文輔、事務官神西由太郎、税務監督局長吉田平吾、分署長警部影山岩八郎、巡査一人、会議員一人、医師技士各一人、そのほか隨員十余人で、先ず人口や土地の状況を尋ね、次に人員と経費、諸般の事務の状況を記録して去った。以上報告するので御確認いただきたい。
光武十年丙午陰三月五日



  ここで、沈興沢は竹島について「本郡所属独島」と言っています。つまり、沈興沢は竹島/独島を「本郡所属」と考えていたのだということが分かります。韓国側に言わせれば、勅令で「石島」としたのは独島なのだから沈興沢が独島を「本郡所属」と考えるのは当たり前だということになります。しかし「石島=独島」は何も証明がありません。それで、日本側から言うと、沈興沢が竹島/独島を「本郡所属」と考えていた理由は、現在のところ不明です。



  で、今日の本題ですが、上の沈興沢の報告には明らかにおかしいところがあります。


  韓国側が「石島=独島」とする根拠は、要するに、この島は現地の方言で「ドクト(石の島)」と呼ばれていたので、勅令ではそれを漢字で「石島」と表現したのだ、ということですが、まあ、ここではそれがホントでもうそでもいいですが、結局、勅令には「石島」と規定されたわけです。つまり、鬱島郡守沈興沢は、大韓帝国皇帝陛下から「鬱陵全島」と「竹島(チュクト)」と「石島」の管理を命じられていたことになります。

  そのうちの「石島」に当たる島が日本に盗られたとして、それを「独島が盗られました」なんて勅令にない言葉を用いて報告するもんでしょうかね? 有り得ないことですね。勅令無視もいいところです。そんな報告をしたら、「独島って何だ? 勅令には書いてないぞ」ってことになりませんかね?


  皇帝陛下から管理を命じられた島が外国に盗られたなんてことになったのなら、一大事です。そんな重大な事態にあって、郡守たる者が勅令無視の表現を用いて報告を書くはずがなかろう、というのが、「石島=独島」という韓国側の主張があまりにもあやしいと考える3つめの理由です。


  なお、ついでに言えば、上の沈興沢の報告書からは、「皇帝陛下から管理を命じられていた島が外国に盗られた」という緊迫感は全く感じられませんねえ。もし「石島」が盗られたのだったのならば、もっと報告書の書きようがあるでしょうが。「緊急事態につき速報申し上げる。日本が本郡石島を日本の領土とする極めて不当なことが発生・・・・・・」

  ついでのついでに言えば、「皇帝陛下から管理を命じられていた島が日本に盗られた」のならば、その場で相手の日本人に向かって何か一言ぐらいは言うもんでしょう。

「その島は石島であり、大韓帝国の領土ですぞ。何か間違いが生じているのではござらぬか?」

  しかし、そのときの記録によれば、沈興沢が竹島領土編入について何か問題視した発言はなかったようです。


(続く)

石島はどこか(3)



         張漢相「蔚陵島事蹟」の一節




1900年大韓帝国皇帝勅令第41号

鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正するの件

第一条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること

第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること



  観音島は大した島ではないから管轄区域として明示する必要はなかったのだと韓国側は言いますが、一応「島」と言える程度の大きさのものを敢えて規定せずにおくというのは不自然です。仮に、ホントに竹島/独島を管轄区域として表示したのだとすれば、観音島も併せて3つ書いておくのが自然です。

 以上、勅令の「石島」は現在の竹島/独島だとする主張があやし過ぎる一番目の理由でした。



  理由の2番目行きます。


  そうは言っても、行政の管轄区域は地形のみで判断するというわけにも行きません。人が住んでいるか、もしくは、住んでいないとしても生産活動や交通の拠点として利用されているならば、たとえ92km離れた岩島でも管轄することを明示しておく必要はあります。

  そういう観点から3つの島を見てみると、まず竹島(チュクト)は、狭いながらも人が何人かぐらいは住むことが可能な島であり、かつては竹が群生していてそれを伐採したとか、今は畑なんぞもあるらしくて、それに鬱陵島に近いし、これはまあ管理対象として明示しておくべきものでしょう。

  観音島は、生産活動はできない島で、しかもちょっと船を着けて気軽に立ち寄るというような地形でもなく、島の上に登るには「よじのぼる」動作が必要みたいですね。そういう意味では、人間による利用というのは普通はない。せいぜい、泥棒が追われて一時的に逃げ込むくらいの利用はできるかも知れないというところです。でもまあ、本島から目と鼻の先の島ですから、その島に関してどういう事態が生じるか分からないのだから、管轄区域として明示しておくべきものでしょう。


  では、問題の竹島/独島はどうか。これは簡単です。1900年にこの勅令が制定される以前に、韓国では、竹島/独島に関しては何も知りませんでした。竹島/独島に関する何の記録も地図も無いのです。まあ、強いて言えば、鬱陵島から竹島/独島を見たという記録がただ一点存在します。次のようなものです。

「登中峯則南北兩峯岌崇相面此所謂三峯也西望大關嶺逶迤之狀東望海中有一島杳在辰方而其大未滿蔚島三分之一不過三百餘里北至二十餘里南近四十餘里・・・・」

  これは、1694年に鬱陵島の調査を命じられた張漢相という人が調査後にまとめた「蔚陵島事蹟」というレポートに書いてあります。鬱陵島の中央の山(今の聖人峰)に登って四方を眺めた、島の南北に峰が続いていて三峰と言っている、西を見ると朝鮮半島の山波が見え、東を見たら、東南の海中に島が一つあるのが見える、大きさは鬱陵島の3分の1ぐらいで距離は300余里に過ぎない、鬱陵島の北の端までは20里ぐらいで・・・・・

  という具合で、要するに遠くに島が見えたということに過ぎないのであって、それがどういう島で鬱陵島との関係はどうだとか朝鮮の領土であるとかないとか、そういう類のことは何にも書いてありません。見えはしたけれども、関心はなかったのです。


 この一件以外には何もなしです。もっとも、現代の韓国人は竹島/独島に関する古地図、古文献は山のようにあると言っていますが、それは全てウソとこじつけの山です。例えばこんなものですね。
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/44987472.html


  結局、1900年時点の韓国では竹島/独島のことを知っていたという記録は全くないわけです。知らないものを管轄区域として皇帝陛下が勅令でお定めになる? そんなことは有り得ません。

  だいたい、この勅令はどういう意味を持っていたかというと、19世紀末ごろの鬱陵島には日本人が大勢押しかけて、樹木を勝手に伐採したり漁をしたりして地元住民とトラブルが起きており、いささか無法行為をやっているという状況でした。それで韓国側と日本側の合同調査団(朝鮮側視察官 禹用鼎、日本側は釜山領事館補 赤塚正助)が鬱陵島に派遣され、いろいろ調べた結果を元にして勅令が定められたのですが、勅令ではそれまでは「島監」というのが島の責任者だったのを「郡守」とした、つまり行政区域を「郡に格上げ」して、中央政府が目を光らせやすくしたという重要な制度改正でした。そういう重要な法律制定に当たり、知りもしない竹島/独島のことを規定するなんて考えられますか? この合同調査団は、もちろん竹島/独島には行っていないのです。


  以上、「知らないものについては法律に規定できない」というのが、勅令にいう「石島」が竹島/独島のことであるという主張があやし過ぎる2番目の理由です。


(続く)

石島はどこか(2)


1900年大韓帝国皇帝勅令第41号
第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること



  鬱陵島に付属する島のうち2つを管轄区域として規定するなら、地形的に見て、竹島(チュクト)と観音島を規定するのがごく普通の発想ではないでしょうかね。




竹島(チュクト)面積 0.208k㎡ 



  もしそうでなく、韓国側が言うように皇帝の勅令第41号の「竹島、石島」が竹島(チュクト)と独島(竹島)を規定したものであり、観音島は規定していないのだとすれば、任命される鬱島郡守殿は困ったことでしょう。


  「眼の前に島が二つあって、大きい方の島は管轄区域として明示されているが、小さい方の島は明示されていないなあ、あれは俺の責任範囲じゃないっていうことかねえ。どうなってんだろ。上の方に手紙を送って問い合わせてみようかなあ・・・・・・。」


  勅令は法律ですから最低限の明確さが求められます。命を受けた者が疑問を持つような定め方はおかしいのです。上の勅令には観音島のことは書いてないのだという主張は、地図を一見しただけで無理筋だということが分かります。


 もっとも、勅令の石島は独島(竹島)のことだという人たちは、観音島が書かれていないと解釈することになるわけですが、その理由として、岬の先の100mにもならないすぐ先にある小さな島はわざわざ管轄区域として明示するまでもないから書かなかっただけだ。鬱陵島のまわりには地図にも書かれない岩はいっぱいある。観音島はそういう岩と同じ扱いであり、そういう多くの岩は「鬱陵全島」という表現に含まれているのだ、と言ったりします。





奇岩「三仙岩」
こういうのは管轄区域として明示されていなくても不思議ではない。






 観音島 面積 0.071k㎡

  観音島は確かに大きくはないけれども、無視するには大き過ぎると思いますが。


(続く)
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Chaamiey

Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

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