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(再掲) 再考 SCAPIN677 第6項

  これは https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-3376.html の記事の再掲で、もとの記事は一部間違いがあったので加除訂正をしたのですが、そのままでは読みにくいので、加除訂正後の浄書版を書いておきます。内容は前回の記事と同じです。

             * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号
1946年1月29日

1 日本国外の総ての地域に対し、又その地域にある政府役人、雇傭員その他総ての者に対して、政治上又は行政上の権力を行使すること、及、行使しようと企てることは総て停止するよう日本帝国政府に指令する。
2 日本帝国政府は、巳に認可されている船舶の運航、通信、気象関係の常軌の作業を除き、当司令部から認可のない限り、日本帝国外の政府の役人、雇傭人其の他総ての者との間に目的の如何を問わず、通信を行うことは出来ない。
3 この指令の目的から日本と言う場合は次の定義による。
  日本の範囲に含まれる地域として
    日本の四主要島嶼(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含む約1千の隣接小島嶼
  日本の範囲から除かれる地域として
   (a)欝陵島、竹島、済州島。
   (b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。
   (c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島。
4 更に、日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域は次の通りである。
  (a)1914年の世界大戦以来、日本が委任統治その他の方法で、奪取又は占領した全太平洋諸島。
  (b)満洲、台湾、澎湖列島。
  (c)朝鮮及び(d)樺太。
5 この指令にある日本の定義は、特に指定する場合以外、今後当司令部から発せられるすべての指令、覚書又は命令に適用せられる。
6 この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。
7 日本帝国政府は、日本国内の政府機関にして、この指令の定義による日本国外の地域に関する機能を有する総てのものの報告を調整して当指令部に提出することを要する。この報告は関係各機関の機能、組織及職員の状態を含まなくてはならない。
8 右第7項に述べられた機関に関する報告は、総てこれを保持し何時でも当司令部の検閲を受けられるようにしておくことを要する。


 この第6項の意味については、一般に、「第6項では、この指令はポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定ではないことが明記されている」というふうに説明される。私も、竹島問題を調べ始めたころはそういうふうに思っていたのだが、実はどうもそうではなさそうだ。
 
 SCAPがこの指令はポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定ではないことを言いたかったのならば、はっきりとそのように書けば良かっただろう。例えば、「6 この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定ではない。」というふうに。ところが実際はそうではなくて、「ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」と言っている。「最終的決定」と解釈してはならないのではなくて「最終的決定に関する連合国側の政策を示すもの」と解釈してはならないということになっている。ちょっと違うんですよね。

  英文の第6項は「Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.」であり、「indication」の意味を辞書で引けば、指示、暗示、指摘、しるし、兆候、気配、証拠というような訳語が書かれている。

  「indication」の意味からすれば、「an indication of Allied policy」とは「連合国の政策の兆候」、すなわち領土の最終的決定に関する連合国の「意図」、「心づもり」、「内心の考え」というような意味なのだろう。つまり、第6項は、「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の意図(あるいは内心の考え、予定、基本的な考え方、方向性)を示すものと解釈してはならない。」ということになる。言い換えれば、「連合国は後に行う日本領土の最終的決定において、このSCAPIN677で区分しているように日本の区域を定めるつもりだと誤解するなよ」ということです。
 
  そうすると、この第6項は、「ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定というものは、このSCAPINとは別に存在する」という論理を当然の前提にしていることが分かります。「最終的決定というものは別にあるのだが、その内容がこのSCAPIN677のようになるだろうなんて勝手に推測するなよ」と言っているわけです。
  そもそも、当時の関係者は、SCAPINで「ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定」をするなんてことは、誰も考えていなかったでしょう。領土の最終的決定は国と国との講和条約によるのだ、というのは当時の関係国首脳、関係行政官、占領関係者たちの常識だったはずです。まあ、そういうことを日本国民大衆も常識として広く知っていたとは言えないにしても、理論的には自明のことです。そういう理論的に自明なことをSCAPIN677にわざわざ書き込むというのは、法令文としてはちょっと変なことです。だから「この指令は領土処分の最終的決定ではない」という当然のことは書かれませんでした。
  
  また、仮に、SCAPIN677に「この指令は領土処分の最終的決定ではない」と書いたとすると、それで万事OKかと言うと、そうでもないのです。そう書いてあれば、それを読んだ者はどう考えるか。「うん、これは最終的決定ではないということだが、そうは言っても、こういうふうに日本を分けたということは、結局、最終的にこういうふうにするつもりなんだろう」と考える者が発生することを防ぐことができません。第6項は、そういう見当違いの予断による人々の混乱や「結局、あそこの島々は外国に取られてしまうことになるんじゃないか」というような不安の発生を防ぐために必要であったはずです。だから第6項は、「最終的決定がこのSCAPIN677のようになるだろうなんて考えるなよ。それは全く別の話だよ。」という意味のことを規定したのです。

  まあ、SCAPIN677は既に何十年も前に役割を終えたものだから、その第6項の意味も今となってはどうでもいい話です、本来は。ところが、広く知られているとおり、竹島問題において韓国のおバカ研究者たちが「独島はSCAPIN677によって韓国の領土になった」などという妄言をまき散らすので、その間違いを指摘するために日本側としてもSCAPIN677に言及することが必要になっています。
  韓国側のこの妄言に対して、日本側からは、普通、「SCAPIN677は領土処分の最終決定ではない」ということと、「そもそも領土処分の最終決定は講和条約によるのであって、SCAPINは領土処分と関係が無い」という指摘が行われます。この二つは実質的意味としては同じことですが、より本質的な言い方は後者のほうです。領土処分の最終決定は講和条約によるのであって、SCAPINに領土処分の効力は無いから、当然SCAPIN677は領土処分の最終決定ではあり得ないという関係です。ただ、「第6項にこの指令は最終決定ではないと書いてある」というように第6項を持ち出すと、それはちょっと違うということになるようです。韓国側へ反論するに当たって第6項は使えないと思います。

  結局、「独島はSCAPIN677によって韓国の領土になった」というバカ話に対する適切な反論は、「SCAPIN677は占領のための暫定措置であって領土処分とは全く関係が無い。SCAPIN677が領土処分を行ったものだと言い張るならば、SCAPIN677がそういう法的効力を有することを国際法で証明せよ」ということでしょうかね。シン・ヨンハ大先生でも証明不可能でしょうけど。

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SCAPIN 677 日本の報道

日本の領域を指定
千島列島、小笠原等除外


(連合軍総司令部民間情報教育局2日午後4時半発表) 総司令部は、2日、日本政府に対し日本の版図外にある地域に対して政治及び行政上の権限を揮(ふる)うことを中止すべき旨命令するとともに、日本の版図を北海道、本州、九州、四国及び約一千に上る付属小島嶼と定義した。
  総司令部は、この命令において、連合軍総司令部の許可なき限り日本政府が日本国外にある官公吏その他と通信することを禁じた。これは、予め許可された海運関係の通信及び天気予報に関する日常の業務を除き、あらゆる目的のためにする通信に対して適用される。
  総司令部スポークスマンは、日本の版図の中に包含される地域は総司令部の管轄地域と一致すると言明している。日本領域として特に指定せられた島嶼には、津島諸島及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(但し口之島を除く)を含んでいるが、左の島嶼はこれを除く。
A 鬱陵島、竹ノ島及び済州島
B 北緯30度以南の琉球(南西)諸島(但し口之島を含む)、伊豆南方、小笠原及び火山(硫黄)列島その他外辺の太平洋諸島、大東島群(沖ノ鳥島、中ノ鳥島を含む)
C 千島列島、ハボマイ群島(水晶島、勇留島、秋勇留島、追別島、カナ島、多楽島を含む)、捨古丹島

  なお、指令によれば、日本政府の管轄より除外された地域には、前大戦以来日本が奪取または委任統治制その他によって占領した一切の太平洋島嶼及び満州、台湾、澎湖島、朝鮮及び樺太が含まれている。更に、総司令部は、「本指令は、ポツダム宣言第8条に掲げられた付属島嶼についての最終決定とは何ら関係は無い」旨述べている。なお、総司令部は、本指令によって日本領域外と宣言された地域で活動する日本国内の一切の政府機関に関する報告書を求求した。

(熊本日日新聞 昭和21年2月3日)
スキャピン677(2)


<コメント>
 ここでも総司令部はSCAPIN677と講和条約は何も関係がないと言っていますよ。指令を出した側が「そんなの関係ねー」と言っているのに、韓国の「独島研究者」たちはSCAPIN677で独島は韓国に返還されたとか言っています。

参考 韓国における報道はこちら
https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-994.html


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[イ・ソンミンの独島の話] [9] 日本、外交戦術に転換

[独島の話] 日、「独島、国際法廷へ行こう」 …韓、「領土紛争ない」

[イ・ソンミンの独島の話] [9] 日本、外交戦術に転換
日本、四回の外交覚書で国際法持ち出して攻勢
韓国は歴史的根拠を強調した反論覚書で一蹴

イ・ソンミン先任記者 朝鮮日報 2020.06.28
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/06/28/2020062800481.html


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ビョン・ヨンテ外務長官。日本の独島領有権主張に対して歴史的根拠を挙げて強硬に一蹴する声明を発表した。

  独島を駐日米空軍の爆撃演習場に指定してアメリカが独島を日本領土と認定するように誘導しようとする術策も韓国政府の抗議で効果を上げることができず、日本の役人たちが独島に集まって「独島は日本の領土」という標木を設置することも韓国政府の断固たる対応で失敗に帰すると、日本政府に残った方法は外交戦術しかなかった。日本は国際紛争を解決する手段として戦争と武力行使を禁止した平和憲法のために、独島問題に対しても物理力を行使できなかった。銃撃と迫撃砲まで発射する韓国の独島警備隊に対して日本の海上保安庁巡視船がまともに対応できないのはそのためだった。
  日本政府は、1954年9月25日、駐日韓国代表部に独島問題を国際司法裁判所 (ICJ・International Court of Justice) に持って行ってその判定に従おうという口述書を伝達した。 この口述書は「問題が国際法の基本原理の解釈を含んだ‘領有権紛争’である以上、紛争を判決するために国際裁判所に委託することが平等な解決策になる」と主張した。韓国と日本の間に独島領有権に関する「紛争」があると既定事実化したのだった。



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 1954年9月25日に日本政府が駐日韓国代表部に送って来た口述書。独島問題を国際司法裁判所に持って行こうという提案を含んでいる。


◇ビョン・ヨンテ長官、「日本が‘偽りの領土紛争’作り出している」声明発表
  韓国政府はこれに対して1954年10月28日、日本側の提案を断固として断る口述書を駐日韓国代表部を通じて日本政府に伝達した。この口述書は「韓国は独島に対して初めから領有権を持っていて、いかなる国際法廷でもその領有権証明を求めなければならない何の理由もない」として、「領土紛争が存在しないのに‘偽りの領土紛争’を作り出しているのはまさに日本だ」と反論した。そして、ビョン・ヨンテ外相はこれと関連して次のような声明を発表した。

 「独島は日本の韓国侵略に対する最初の犠牲物だ。解放と共に独島は再び私たちの胸に抱かれた。独島は韓国の独立の象徴だ。この島に手をつける者は全ての韓民族の頑強な抵抗を覚悟せよ! 独島はただいくつかの岩の塊りでなく、我が民族領海のイカリだ。これを失ってどうして独立を守ることができるだろうか! 日本が独島奪取を試みるのは韓国に対する再侵略を意味するのだ。」

  英文学教授の出身であるビョン・ヨンテは業務処理にとても几帳面で、声明文を直接整えて直すのに非常に精を尽くした。国際法を挙げて独島問題を国際司法裁判所に持って行こうという日本側の主張に対して彼が歴史的事実を強調して強力に反論した論理と情緒は、今でも独島に関する韓国政府の対応の基調になっている。日本は、以後にも、韓日会談が進行していた1962年に独島問題のICJ行きを主張したし、李明博大統領が独島を訪問した2012年にも同じ主張を行った。だが、韓国政府はその時ごとにこれを断固として拒否した。
  国内裁判は原告が訴訟を提起すれば被告は裁判に応じなければならないが、国際裁判は原告と被告の双方が同意しなければ裁判が成立しない。それでも日本が独島問題を国際裁判に付そうと主張するのは、独島が‘紛争地域’という印象を国際社会に広めて韓国と対等な位置に立とうとする下心だ。しかも日本はICJに強い影響力を及ぼしている。過去数十年の間、日本は引き続いてICJの裁判官を輩出したが韓国は一人もいなかった。さらに、日本はICJに最も多い支援金を出す国家だ。したがって、日本は損しても元々で、上手くすれば勝つことができるという下心で独島問題のICJ行きを主張しているのだ。

◇12年もかかって一段落した「独島外交覚書論争」
  日本は、これと共に韓国に独島問題に関する本格的な外交論争をかけて来た。1952年1月18日に韓国が平和線を宣言した直後から引き続き抗議した日本は、1953年7月13日、口述書の添付文書で「竹島に関する日本政府の見解」という長文の覚書を送って来た。歴史的事実と国際法の二つの側面から日本の独島領有権を主張するこの覚書に対して、韓国政府は1953年9月9日その内容に反論する長文の覚書を送った。すると日本政府は、1954年2月10日、再び韓国側覚書に反論する二番目の覚書を送って来て、韓国政府は1954年9月25日にこれに反論する覚書を送った。日本政府は1956年9月20日に三回目の覚書を送り、韓国政府は1959年1月7日にこれに反論する覚書を送った。すると、日本政府は1962年7月13日四回目の覚書を送って来て、これに対して韓国政府が1965年「日本側の独島領有権主張は一考の価値もない」と一蹴して独島問題に関する韓日間の往復文書攻防は終わった。


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韓国政府が日本政府の独島領有権主張に反論して送った2回目の外交覚書

  韓国と日本は七回にわたる外交覚書作成に相当な精魂を込めた。初めは2~3月ごとに反論覚書が作成されたのが6ヶ月に増えて、攻防が熾烈になるにつれ2~3年と長くなって、合計12年もかかった。独島外交覚書の作成には両国の外交官たちはもちろん、歴史学者と国際法学者が大挙参加した。韓国は、1947年8月第一次鬱陵島・独島学術調査隊に参加した後に「独島所属について」という論文を書いたシン・ソクホを始めとして、ユ・ホンニョル、イ・ソングン、チェ・ナムソンなど著名な歴史学者たちと独島問題に関して国際法的研究を切り開いたイ・ハンギ、パク・クァンスクなど国際法学者の助けを受けた。

◇独島関連の主な論点ほとんどが現れる
  韓日両国がやりとりした独島外交覚書には多くの論点が入っていた。その後に独島問題で争点になることの殆どがこの時に現れたと言っても過言ではない。両国の学者が争点に関して自国の立場を強化する資料と論理を探す過程で本格的な独島研究が始まった。
  論点の中で、最初は韓国の古文献に登場する于山島が独島かどうかということだった。韓国政府は『世宗実録』、 『東国輿地勝覧』などに出てくる于山島または三峯島が正に独島であり、これは韓国が独島を相当以前から知っていたし視察をしたという事実を示すと主張した。これに対して、日本政府は、于山島と三峯島は独島ではなく鬱陵島の別名だと主張した。



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 18世紀中葉にチョン・サンギが製作した東国大地図の鬱陵島付近の姿。鬱陵島の右側に「于山島」が描かれている。

  二番目の論点は、独島を日本が領土として管理したことがあるかというものだった。日本政府は、江戸幕府の3代将軍である徳川家光の時期に大谷・村川の二つの家に独島を下賜して、独島は鬱陵島に行く臨時の停泊地として使われたと主張した。これに対して、韓国政府は、江戸幕府が二つの家に付与した「渡海免許」は遠洋出漁の許可に過ぎないと主張した。
  三つ目の論点は、1693年に発生した安龍福拉致事件の解釈の差だった。韓国政府は、安龍福は鬱陵島と独島を侵す日本人たちに二つの島は韓国に属することを言って厳重警告したと主張した。これに対して日本政府は、安龍福の陳述は根拠のない仮想のものだと主張した。
  四つ目の論点は、1906年3月に島根県視察団が鬱陵島を訪問して1905年1月に日本が独島を島根県に編入したと口頭で通告した時、鬱島郡守沈興沢が中央政府に提出した報告書に関することだった。韓国政府は、この報告書に「本郡所属独島」という表現が出てくることを挙げて、当時独島は韓国領土だったと主張した。これに対して、日本政府は、沈興沢は島根県視察団を歓待したが、それは独島を韓国領土と考えなかったという証拠だと主張した。


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 1906年3月に鬱陵島郡守沈興沢が中央政府に送った報告書。日本が「本郡所属独島」を自分の領土に編入したと言っていると知らせた。


  五番目の論点は、日本政府が主張する独島の「固有領土論」と「先占論」だった。当初、日本政府は無主地であった独島を島根県告示を通じて日本領土に編入したと主張した。ところが、第3次覚書から、日本の固有領土であった独島を近代法の手続きによって領土編入手続きを再び取ったと主張を変えた。韓国政府はこの点をついて、「無主地先占論」と「固有領土論」が互いに矛盾すると指摘した。
  六つ目の論点は、独島を日本の行政区域から除外した連合国最高司令官指令(SCAPIN)第677号の解釈だった。日本政府は、これは独島の主権に関する最終決定ではなかったし、サンフランシスコ平和条約によって独島は日本領土に残ることになったと主張した。これに対して、韓国政府は、サンフランシスコ平和条約は日本の領土に関してSCAPIN第677号の内容を変更するいかなる決定もしなかったと主張した。
  10年以上続いた独島問題に関する韓国と日本の「外交覚書戦争」で、韓国は歴史的根拠、日本は国際法的根拠をそれぞれ強調し、互いに相手方の主張に反論するのに力を傾けた。韓国は、当時の外交的・学問的力量の顕著な格差にもかかわらず善戦したと評価される。独島問題を一線で担当した外交官たちの使命感と、それを積極的に助けた学者の献身的な努力の結果だった。



<コメント>
 うん、まあ、韓国政府がウソとごまかしを延々と続けて来た経緯を誇らしげに紹介してある記事です。


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[イ・ソンミンの独島の話] [8] 日本、独島を不法に侵す

[独島の話] 日本の官吏たちが押し寄せて「独島は日本領土」の表示板設置

2020.06.21 イ・ソンミン先任記者 朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/06/21/2020062100466.html


[イ・ソンミンの独島の話] [8] 日本、独島を不法に侵す
1953~54年中央・地方政府かわるがわる独島上陸
韓国は常駐警備隊派遣して武力で追い出す


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 1954年8月独島に設置された灯台と、その下の岩に彫られた「韓国領」の表示

  日本は、1945年8月の第二次世界大戦の敗戦以後、1952年1月に韓国が平和線を宣言する時まで、独島に対する領有権を公式に宣言したことがない。1947年6月に日本外務省が作ったパンフレットやアメリカを対象にした水面下工作では独島は日本領土だと主張したが、直接韓国を相手に独島領有権を前に出すことはなかった。連合国最高司令官指令(SCAPIN)第1033号によって日本船舶の独島接近が禁止されていたので、日本の役人たちが独島を訪れることもなかった。1949年7月と1951年5月、日本の民間人が漂流したり独島に立ち寄ったことがあるだけだった。
  ところが、1951年9月のサンフランシスコ平和条約調印を控えて、日本国内の雰囲気が変わり始めた。8月30日に島根県が対日平和条約で独島は日本領土ということを確認してほしいという陳情書を外務大臣に提出した。10月22日、日本の国会で外務省の高位当局者が、サンフランシスコ平和条約は独島を日本領土と確認したと発言した。この発言が出た直後の1951年11月、朝日新聞が日本の中央言論としては初めて独島を訪問して報道した。朝日新聞の取材記者とカメラマンは、11月13日午後鳥取県境港を出発し、翌日の朝に独島に到着した。彼らは取材結果を11月24日付朝日新聞に載せた。「日本に帰ってきた無人の竹島」というタイトルをつけた長文の記事は、独島には奇怪なカンチの群れが住んでいて、韓国人の遭難碑が設置されていると書いた。


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 第ニ次世界大戦敗戦後、日本の中央言論で初めて独島を踏査報道した朝日新聞1951年11月24日付/『独島1947』

  サンフランシスコ平和条約の締結を控えて独島と関連して韓国と繰り広げた外交折衝戦で優位に立ったと考えた日本は、韓国が予想もしなかった平和線を宣言して独島に対する実効的占有の意志を明確にするとすぐに慌てた。だが、独島が日本領土という主張の根拠が弱かったために直接的な対応は自制して、迂迴的な方法で独島紛争で有利な地歩を占めようとした。平和線宣言を非難する声明を続けて発表して、独島を駐日米空軍の爆撃演習場に指定するなどの術策がそういうものだった。

◇独島に日本の公権力行使することに方針転換
  しかし、1953年5月から日本の戦略が変わった。韓国政府の抗議を受けた米軍が独島を駐日米空軍の爆撃演習場から解除するとすぐに、独島に直接日本の公権力を行使することに方針を変えたのだった。地方政府はもちろん、中央政府の役人たちが相次いで独島に不法侵し始めた。 海上保安庁は独島付近に巡視船を派遣した。
  1953年5月28日、島根県の水産試験船が独島近海に現れた。船員など30人が乗っていて、そのうちの6人が独島に不法上陸した。当時、独島では韓国人漁師が魚を釣っていた。日本人たちは彼らと対話を試みたが、話が通じないので退いた。それから1ヶ月ほど経った6月25日、米国旗を掲揚した木造船一隻が独島に接近して9人が下りた。彼らは韓国の漁師たちと独島遭難漁民慰霊碑を撮影した後に立ち去った。
  二度にわたって独島事情を探索した日本は行動に出た。1953年6月27日、やはり米国旗を掲げた艦艇2隻が独島付近に到着し、30人にもなる多くの者たちが船から下りた。彼らは日本法務省入国管理局、国立警察島根県本部、島根県庁所属の役人たちで、拳銃とカメラを持って戦闘帽を着用していた。彼らは前後に黒い文字で「島根県隠地郡五箇村竹島」と書いた標柱2個と「注意:日本国民及び正当な手続きを経た外国人以外は日本政府の許可無しに領海(島嶼沿岸3里)内に入ることを禁じる」、「注意:竹島(沿岸島嶼を含む)の周囲500メートル以内は第1種共同漁業権が設定されているので無断採捕を禁じる。島根県」と書いた掲示板2個を、韓国政府が設置した独島遭難漁民慰霊碑を囲んで四方から包囲するように設置した。


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1953年6月27日独島を侵犯した日本の官吏たちが設置した「日本領土」標柱(右側)と掲示板/『独島問題概論』

  日本の度重なる独島不法侵犯は、韓国の世論を悪化させた。6・25韓国動乱(朝鮮戦争)が終わってもいない状況で独島を侵奪する日本の姿に対して、ある新聞は「火事場のこそどろのようだ」と憤慨した。国会と慶尚北道議会は、大統領に独島守護のための積極的な措置を促した。これに伴い、韓国政府は1953年7月8日、外務部・国防部・内務部・海軍など関連部署の局長級が参加する「独島問題に関する関係官連席会議」を開いて対策を用意した。海軍艦艇の派遣、灯台設置、測量標の設置、歴史的・地理学的調査の4項目が決定された。
  1953年7月11日、鬱陵島警察署はキム・ジンソン警衛、チェ・ホンシク警士、チェ・ヨンドク巡査で構成された「巡邏班」を独島に派遣した。彼らには軽機関銃2門が与えられた。彼らが独島に到着した翌日の7月12日、日本の海上保安庁巡視船が独島に接近した。巡邏班が韓国領海を侵したので鬱陵島警察署まで同行することを要求したが、日本の巡視船はこれを拒否して逃げた。巡邏班は停止を命令したが聞かないので軽機関銃を威嚇発射した。
  その後も、日本の役人たちは1953年8月~10月、韓国には知られなかったが何回も独島に不法上陸したり独島海域を侵した。このうち10月17日に独島近海に現れた日本巡視船には、独島問題に関する日本側の最高理論家である外務省事務官川上健三、日本帝国の陸軍大佐出身で日本右翼の代弁者であった辻政信衆議院議員などが乗っていた。日本の中堅外交官と重鎮政治家が直接独島視察に出たことは、この頃に独島問題に日本が傾けた関心と熱意を見せている。


◇韓日両国、領土表示板の設置と撤去を繰り返す
  独島を継続して侵す日本とこれを防ごうとする韓国の摩擦が克明に現れたのは、領土表示板設置をめぐって繰り広げられた攻防だった。1953年6月27日独島に日本領土標柱を設置した日本の役人たちは、1947年8月韓国山岳会の第一次鬱陵島・独島学術調査隊が設置した二つの韓国領土標木を抜いてしまった。日本人たちが設置した標柱は、一週間後の7月3日に慶尚北道警察局が撤去した。8月7日、日本が再び独島に不法上陸して日本領土標柱を設置したが、今回も9月17日鬱陵警察署が除去した。日本は10月6日に三度目に領土標柱を設置し、10月13~16日独島を訪れた韓国山岳会の第三次鬱陵島・独島学術調査隊がこれを撤去して韓国領土標石を設置した。だが、この標石は10月21日独島に来た日本の役人たちが撤去した。10月23日に日本が設置した四回目の領土標柱は、独島に入りにくい冬季を過ぎて翌年の1954年5月末に撤去された。わずか4ヶ月間に6度も独島に韓国と日本の領土標示板がかわるがわる設置されて撤去される「戦闘」が繰り広げられたのだった。



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 日本の官吏が設置した「日本領土」の標柱を韓国人が抜き取っている。

 1953年10月末以後は静かだった日本の独島不法侵犯は、1954年春になるとすぐに再開された。3月から6月まで島根県と鳥取県、海上保安庁の船舶が列をなして独島に不法上陸したり独島海域を侵した。これに対する韓国政府の対応も本格化した。1954年6月独島に常駐警備隊が派遣されて、彼らが居住する幕舎が建設された。8月には高さ6mの灯台を設置してアメリカ・英国・フランス・法王庁にこれを知らせた。また、警備用警戒所と無線通信施設も独島に置かれた。独島の灯台の下の岩には「韓国領」という大きな文字が彫られた。9月には独島の姿を示す記念切手も2ファン、5ファン、10ファンの三種類が発行された。日本政府は「日本領土である独島が描かれた韓国切手が貼られた郵便物は韓国に送り返さなければならない」と主張したが、実効を挙げられなかった。


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 1954年9月に発行された独島切手3種

◇二度銃撃事件、迫撃砲まで発射
  韓国と日本が独島関連活動を強化して緊張が高まる中、1954年8月23日に再び銃撃事件が発生した。日本海上保安庁の巡視船が独島に接近するとすぐに韓国の独島警備隊は600余発の銃撃を加え、日本の巡視船も応射して逃走した。この知らせは駐韓外交使節を通じて急速に広まった。この事件が起きた後、韓国政府は1954年8月31日の閣僚会議で「どんなことがあっても独島を日本の侵略から守るために、数百人の警官を常駐させる」と決議した。10月には独島に迫撃砲が設置された。11月21日、日本海上保安庁巡視船2隻が独島を再び侵すと、すぐに迫撃砲弾5発が発射された。
  韓国がこのように独島守護の強力な意志を物理力を動員して繰り返し明確にすると、日本はそれ以上独島を不法侵犯できなかった。韓国政府の断固たる対応が独島に対する日本の野心を改めて挫いたのだった。



<コメント>
 イ・ソンミン記者は、日本人が日本の船にアメリカ国旗を付けていたと言いたいのかな。そんなことが有り得ないのは明かだが。どういう情報によるものなのか。

 それから、日本の巡視船が応射したという記録はないようなのだが、これもどういう情報に基づくものなのか。



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[イ・ソンミンの独島の話] [7] 日本、再びアメリカを利用

[独島の話] 日、「独島米軍爆撃場指定で応戦」の術策

イ・ソンミン先任記者 2020.06.14 朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/06/14/2020061400460.html

[ イ・ソンミンの独島の話 ] [7] 日本、再びアメリカを利用
1948年に続き1952年9月駐日米空軍が独島爆撃
「独島は日本領土」アメリカが認めたように誤認させ



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  最初の独島爆撃事件が発生して2年になる1950年6月8日、独島東島のモンドル海岸で開かれた「遭難漁民慰霊碑」除幕式で我が海軍兵士たちが弔銃を撃っている。

  1952年9月独島で爆撃演習をした米軍機は駐日米空軍所属であるとする第二次鬱陵島・独島学術調査隊の推定は正しかった。韓国外務部は、1952年11月10日、駐韓米大使館に独島爆撃に対して厳重抗議して再発防止の約束を要求した。駐韓米大使館はこれを国連軍司令官に伝達して独島爆撃の中断を要請した。駐韓米大使館は、1952年12月4日、韓国外務部に独島に対する爆撃を中断する予定だと答えた。日本・東京にある米極東軍司令部は、1952年12月18日付で独島を米空軍爆撃場として使うことを中断し、1953年1月にこのような事実を韓国政府に通知した。

独島爆撃演習場指定、日本マスコミの報道から抜ける
  日本の領土でない独島を駐日米空軍の爆撃演習場に指定したのは、爆撃事件が起きる2ヶ月前である1952年7月26日に開かれた米日合同委員会だった。1951年9月8日に締結された米日安全保障条約と、その後続措置として1952年2月28日に調印された米日行政協定によって構成された米日合同委員会は、日本全域にわたって26ヶ所を米軍の海上演習場に指定した。 米日合同委員会の決定事項を入れた日本外務省告示第34号には「海上演習場空軍訓練区域第9」で「竹島爆撃訓練区域」が含まれていた。だが、日本の言論で報道された内容には独島は議論されなかったし、関連地図にも表示されなかった。
  韓国の研究者は、このように報道記事で独島だけぽこんと抜けた事実を挙げて、日本は半年前に韓国が宣言した平和線に対抗するために独島を駐日米空軍の爆撃演習場に指定する術策を働かせた後、これを秘密にしたと主張する。また、1952年9月駐日米空軍の3回の独島爆撃も日本の悪だくみによったものと疑う。ホン・ソングン東北アジア歴史財団研究委員は、「独島爆撃事件の国際法的争点分析」という論文で、「独島を駐日米空軍の爆撃演習場に指定した後でもほとんど爆撃演習は無かったが、韓国政府が派遣した第二次鬱陵島・独島学術調査隊の独島調査活動に合わせて3回も爆撃がなされたという点から、1952年9月の爆撃は学術調査隊の独島調査を阻止しようとする目的と決して関係が無くはない」と分析した。
  独島が駐日米空軍の爆撃演習場に指定される過程を調べると、このような主張が無理ではないという事実を確認することになる。1905年日本が独島を一方的に編入した島根県の出身である山本利寿議員は、米・日合同委員会開催の2ヶ月前である1952年5月23日の衆議院会議で、「聞くところによれば、政府では竹島を米空軍の海上爆撃演習地として予定しているということだが、それは、竹島を演習地として指定することによって日本の領土権を確保するという政治的意味合いを含んでいると考えるがどうか?」と尋ねた。これに対して外務省政務次官は「その考えのような線で進めている」と答えた。独島を駐日米軍の爆撃演習地として指定して、独島は日本領土という主張をアメリカが後押ししているように見えるようにするという計略を日本政府が整えていることを、高位当局者が直接確認したのだった。

日本外務省、言論資料集、「独島は韓国領土」表示
  日本が独島問題に再びアメリカを動員する策略を絞り出したのは、日本自体では独島に対する領有権を主張する根拠が無かったからだった。1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約では独島は韓国領土と明記されなかったが、それでも日本領土と決まったのでもなかった。1951年10月日本外務省がサンフランシスコ平和条約の批准要請書を衆議院に提出して添付した「日本領域参考図」は、独島を日本領土から除外して韓国領土と表示した。その方式は、1946年1月29日独島を鬱陵島と共に韓国の行政区域として明示した連合国最高司令官指令(SCAPIN)第677号に添付された地図と同一だった。また、1952年4月28日サンフランシスコ平和条約が発効した1ヶ月後の5月25日に日本の毎日新聞社が発行した『対日平和条約』という解説書に載せられた「日本領域図」も、やはり独島を日本領土から排除して韓国領土に表示した。このように、日本の政府とマスコミの担当者でさえ独島は日本領土という主張は無理だという事実を知っていた。そのために、駐日米大使館と駐日米軍が日本に好意的だという点を独島問題に利用することにしたのだった。


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 1951年10月、日本外務省が衆議院に提出したサンフランシスコ平和条約批准同意案に添付された「日本領域参考図」。1946年1月に発令された連合国最高司令官指令(SCAPIN)第677号添付地図のような方式で独島を韓国領土と表示している。


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 サンフランシスコ平和条約が発効した後の1952年5月に日本の毎日新聞社が発行した『対日平和条約』という解説書に載せられた「日本領域図」。やはり独島を韓国領土と表示している。


  幸いにも1952年9月の米軍機の独島爆撃で人命被害は発生しなかった。9月15日の第一次爆撃の時、独島の近隣には鬱陵島の缶詰め工場の所属船舶である光栄号が海女たちを動員してサザエ、アワビなどを採っていた。だが、海女と船員たちは飛行機の音を聞いてすぐに待避して被害を受けることはなかった。9月22日と24日の第二次、第三次爆撃は学術調査隊が独島に接近しなかったので被害はなかった。


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1952年9月22日の駐日米空軍機の第二次独島爆撃を報道した9月25日付朝鮮日報

  しかし、独島爆撃は当時の韓国人には大きなトラウマだった。その4年前である1948年6月8日、やはり米軍機が独島に爆弾を落として、近くで操業していた漁師16人が死亡して10人が重傷を負い、漁船20余隻が破壊される惨事が起きたからだ。
  1948年6月の独島爆撃も、やはり駐日米空軍によるものだった。1947年9月16日に発令された連合国最高司令官指令(SCAPIN)第1778号によって独島は駐日米空軍の爆撃演習地に指定されたが、韓国の漁民はもちろん駐韓米軍と米軍政もこれを正しく知ることができなかった。 独島爆撃事件が発生するとすぐに、左翼勢力の反米扇動に利用されることを憂慮したホッジ米軍政司令官は、ちょうど開院した大韓民国国会に丁重な謝罪書簡を発送する一方、東京のマッカーサーに秘密電文を送って独島を駐日米空軍の爆撃演習場から除外することを要請した。これに伴い、6月末に独島は駐日米空軍の爆撃演習場から除外された。そして、爆撃事件の現場である独島と鬱陵島、江原道に住んでいる被害者家族に調査団を送って賠償手続きを速かに進めた。

◇日本の漁民にはあらかじめ知らせて出漁を禁止させた
  韓国の研究者は、1947年9月独島を駐日米空軍の爆撃演習地に指定したSCAPIN第1778号も、やはり日本の工作に従ったものではなかったかと疑う。SCAPIN第677号によって日本の行政区域から除外されて、SCAPIN第1033号によって日本漁師の接近が禁止された独島を駐日米空軍の爆撃演習地に指定したことが納得できないためだ。ちょうど当時は、1947年6月日本外務省が独島と鬱陵島を日本領土だと主張するパンフレットを作ってアメリカ国務部と東京の連合国最高司令部を相手に大々的な宣伝を広げていた時期だった。チョン・ビョンジュン梨花女子大学教授は著書『独島1947』で、「1947~1948年の事例が1951~1952年の日本政府の策略の源泉になったか、あるいは二つの事例がいずれも日本の独島領有権確保のための準備された策略の結果であったかは明らかにならなかったが、独島の米空軍爆撃演習場指定、米空軍の爆撃、韓国漁民・漁船の被害などは二つの事例が正確に一致する」と指摘した。
  日本の計略がより一層怒りを呼ぶのは、自国の漁民には独島爆撃演習場指定を知らせて接近を禁止して、韓国漁民にはそのような措置がなかったという事実だ。1947年9月のSCAPIN第1778号は、独島に近い隠岐列島と本州の西部海岸の住民たちに爆撃演習が実施される二週間前にあらかじめ通知するように規定した。また、1952年8月の日本外務省告示第196号は独島近隣に対する漁船の出入りを禁止した。



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  1948年6月8日に発生した独島爆撃事件の犠牲者と被害漁船の写真を載せて大々的に報道した6月16日付朝鮮日報。朝鮮日報は終始この事件の報道を主導した。

  1948年6月の独島爆撃事件は独島に対する韓国人の関心を高めさせ、独島は我々の土地という共感を広めた。朝鮮日報を始めとする新聞は独島爆撃事件の被害を知らせる一方、独島が韓国領土であることを強調した。この連載の二回目に書いたように、第一次鬱陵島・独島学術調査隊の副団長だったホン・ジョンインが1948年6月17日付朝鮮日報に「東海の我が国土/悲しい流血の記録-踏査の回顧」という文を載せたのもこの時だった。国会でもこの問題が議論されたし、報道機関と政党・社会団体は一斉に真相究明と責任者の処罰、賠償を要求した。独島爆撃事件の犠牲者遺族に送る義援金と寄付が全国から続々と集まった。


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  1950年6月8日、独島で開かれた遭難漁民慰霊碑除幕式でチョ・ジェチョン慶尚北道知事が献花している。

  独島爆撃事件発生2周年を迎えた1950年6月8日、独島東島のモンドル海岸で慶尚北道知事チョ・ジェチョンなど100人余りが参加した中で「遭難漁民慰霊碑」の除幕式が開かれた。横43cm、縦136cm、幅19cmの碑石には被害漁民の御霊を慰労して独島が大韓民国領土であることを明らかにする言葉が彫られた。このようにして、独島はちょうど独立を取り戻した新生大韓民国の主権の象徴として浮び上がった。1952年の二回目の独島爆撃事件の反響が大きかったのはそのためだった。


<コメント>
 竹島が韓国の領土になったことは全く無いにも拘わらず、このイ・ソンミンという記者は独島は韓国のものという前提で一連の経過を見るから、「日本が術策を働かせた」などという妄想を公言することになる。

 1947年の竹島爆撃演習については、米軍としてはマッカーサー・ライン(SCAPIN1033)で日本人の竹島接近を禁止しているから、安全確保にはそれで十分だと思ったのだろう。その際、韓国人が竹島に来るかも知れないという可能性を考えなかったのはなぜなのかという疑問は残るが、まあこれは米軍のミスだったと言うべきか。

 1952年の竹島爆撃演習については事態はより単純で、米軍はサンフランシスコ講和条約で竹島が日本領と決定したことは分かっているから、日米合同委員会で決定した上で日本人に周知しておけば足りると考えたのは当然のこと。日本の領土なのだから韓国人が来るなんてことは想定外だったろう。

 それから、イ・ソンミン記者は「日本領域参考図」と毎日新聞の間違い地図を大真面目に紹介するおバカぶりを発揮している。

 しかし、まあ、こういうふうに日本の悪口を並べる記事に対しては、駐韓国日本大使館は少しくらい反論しませんかねえ。将来の国際司法裁判所における問題解決に備えて日本政府の手の内を軽々に見せてはいけないという事情はあるのだろうが、これはサンフランシスコ平和条約の解釈という比較的単純な話なのだから、試験的にでもちょっと反論して見たらどうかなあ。







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[イ・ソンミンの独島の話] [6] 李承晩、平和線を宣言

[独島の話] 対日平和条約の発効を控え、「実効的支配」の決断

2020.06.07 イ・ソンミン先任記者 朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/06/07/2020060700436.html


[ イ・ソンミンの独島の話 ] [6] 李承晩、平和線を宣言
マッカーサーラインに代わる「漁業保護管轄水域」推進
独島と大陸棚含む「海洋主権宣言」で強化される


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  1948年8月15日、大韓民国政府樹立祝典に李承晩大統領の招請で参加したマッカーサー連合軍総司令官。韓国は対日平和条約締結以後にもマッカーサーラインの存続を主張したが、受け入れられないのでさらに強力な平和線を宣言した。

  サンフランシスコ平和条約の韓国関連条項をめぐって韓国とアメリカの最後の協議が激しく進行した直後である1951年8月25日、避難首都釜山の慶南道庁に用意された臨時閣僚会議室に外務部、商工部、法務部、海軍本部などの実務局長・課長たちが集まった。彼らは、対日平和条約が発効して連合国最高司令部(SCAP)が解体されれば自然消滅する「マッカーサー・ライン」に対する後続対策を用意するために集まったのだった。当時、日本は世界最高水準の漁獲量を有する水産大国で、第二次世界大戦の敗戦以後は漁民の活動が萎縮していた。このような状況で日本漁船の操業地域を制限して来たマッカーサー・ラインが撤廃されれば、これまででもマッカーサー・ラインを侵した日本漁船が安心して韓国沿海を走り回ることは火を見るより明らかだった。漁船と漁具などで日本の漁民たちと比べられる状態では無かった韓国漁民が深刻な被害を受けることは、言う必要も無かった。それで、韓国政府は1951年4月から水産業を掌握する商工部を中心に対策準備に腐心していた。
  この会議で、商工部は「漁業保護管轄水域」を設定する方案を提示した。3海里領海線の外に韓国漁民たちの主要な漁場を保護する管轄水域を作ろうというものだった。当時、領海の外の公海は原則的に漁業活動は自由だった。だが、1945年9月、アメリカのトルーマン大統領はアメリカ沿岸に近い海を漁業資源保存水域に指定して、大陸棚の天然資源もアメリカの管轄権に属すると宣言した。続いて、メキシコ、パナマ、アルゼンチンなどの中南米諸国も隣接海域と大陸棚に対する権限の行使に出た。外国資料の調査を通じてこのような国際的流れを把握した外務部の助けを受けて、商工部が東海~南海~西海を連結する線を引いた。

◇商工部の「漁業管轄水域」に抜けていた独島、外務部が含ませる
  ところが、商工部が提示した案では独島が抜けていた。東側線は韓半島の最北端から始まって鬱陵島と独島の間を通り、巨済島と対馬の間を経て済州島の南側に達していた。商工部漁労課長としてこの案を作ったチ・チョルグンは、回顧録『平和線』(1979年・汎友社)で、「当初、この案を構想する時、独島は厳格に我々の領土であることをよく知っていながらも、独島の内に線を引くことになったのは、実際主な漁場が全てこの水域中にあったし、できるだけ日本に刺激を与えないで反発を防いで実利を収めようというところにあった」とその理由を明らかにした。独島を含ませれば韓半島沿岸から200海里ほどになって、とても広いという印象を与えるという点も考慮された。
  しかし、外務部は、漁業保護管轄水域に独島を含ませることを強力に主張した。独島を管轄水域外に置けば、独島は韓国領土ではないという誤った認識を与えることになるという理由だった。 外務部政務局長としてこの問題に深く関与した金東祚(キム・ドンジョ)は、回顧録『回想30年韓日会談』(1986年・中央日報社)で、「当時、諮問に応じた一部の人々は、純粋な漁業保護水域の設定のためならば独島を含むことは名分に合わないと反対したが、私は、今後韓日間で引き起こされるかもしれない独島紛糾に備えて主権行使の先例を残しておくことが必ず必要だと考えた」と明らかにした。


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漁業保護管轄水域を画定する時、外務部政務局長として商工部が準備した案で抜けていた独島を含ませることを主張した金東祚

 外務部政務局はサンフランシスコ平和条約業務にも関与していた。対日平和条約に独島が韓国領土として明記されないという事実を知ることになった外務部が次善の策として選択した方案が、独島を管轄水域に含ませることだった。チョン・ジェミン前外交部独島法律諮問官は、『国際法と共に読む独島現代史』(2013年・大韓民国歴史博物館)で、「このような観測と判断は未来を正確に予測したものであるだけでなく、国際法的にも非常に正確なことだった」として、「(平和線宣言は)対日平和条約締結の直後であり発効前に成り立ったもので、対日平和条約と関連しても、独島は韓国領ということを全世界に宣言した国際法上の単独行為」と分析した。独島問題に対する決定的瞬間にラスク書簡と関連して駐米韓国大使館が犯した大きな失策を、外務部本部が収拾に出たわけだった。
  外務部と商工部などは、対日平和条約の調印前に漁業保護管轄水域を宣言する計画だった。 それで案件を閣僚会議に緊急上程して、サンフランシスコ平和条約の締結の一日前である1951年9月7日に閣僚会議を通過した。だが、李承晩大統領はこれを裁可しなかった。これは、我々が先にマッカーサー・ラインをあきらめるような印象を与える必要は無いと判断したためと解釈される。

◇李承晩の指示で安保・国防の性格も補強
  ところが、それから4ヶ月が過ぎた1952年1月18日、既存の漁業保護に大陸棚資源の保存・利用が追加されて国防・安保の側面まで補強されてはるかに強化された性格の「隣接海洋に対する主権に関する大統領宣言」が宣言された。国務院布告第14号として李承晩大統領が署名してホ・ジョン国務総理、ビョン・ヨンテ外務部長官、イ・ギブン国防部長官、キム・フン商工部長官が副署したこの宣言は、「国家の福祉と防御を永遠に保障しなければならない要求によって、大韓民国大統領は次の通り宣言する」として「大韓民国の主権と保護下にある水域は、韓半島及びその付属島嶼の海岸と左の諸線を連結することによって造成される境界線間の海洋だ」と明らかにした。続けて、「咸鏡北道慶興郡牛岩嶺高頂」から東海岸、南海岸、西海岸を経て「マアン島西端から北へ韓満国境の西端と交差する点」まで9個の線を連結して大韓民国の管轄権と支配権が及ぶ範囲を明確にした。


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 1952年1月18日大韓民国官報に掲載された「隣接海洋に対する主権に関する大統領宣言」

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官報に掲載された「隣接海洋に対する主権に関する大統領宣言」に添付された付属地図

  なぜ李承晩大統領は半年もならずに判断を変えて、より強力な宣言をしたのだろうか? それは、アメリカが韓国の度重なる要請にもマッカーサー・ラインを維持する意思が無かったし、1951年10月に東京で開かれた韓日会談予備会談で日本が誠意の無い態度を見せたためだった。 この予備会談にも参加した金東祚は、先の回顧録に次のように書いた。
「私は、予備会談の進行と日本側の会談に臨む態度や我々の側の主張に対する反応を鋭意見守って、我々がこれに対応するカードとしては漁業資源保護水域宣言が絶対的に必要だという点を切実に感じた。それで、帰国の途次で保護水域をなぜ一日でも早く宣言しなければならないかを詳しく報告する一方、大統領の意中にしたがって、単純な漁業資源保存のレベルを越えて安保・国防レベルの性格も含ませて新しく宣言文を整えた。」

  1952年4月のサンフランシスコ平和条約の発効を3ヶ月後に控えて出て来た韓国の「隣接海洋に対する主権に関する大統領宣言」は大きな波紋を起こした。まず、日本は10日後の1952年1月28日、この宣言が国際法上の公海自由の原則に外れて、日本の領土である竹島(リアンクル岩)を含んでいると抗議する内容の外交書簡を送って来た。続いてアメリカも、2月11日、韓国が公海とその領空を排他的統制の下に置こうとするのではないかという抗議意思を伝達して来た。そして台湾はその年6月、英国は1953年1月、それぞれ抗議声明を出した。このように周辺国が反発するとすぐに、韓国政府は1953年2月8日「この線を設定した主目的は韓日両国の平和維持にある」という声明を発表した。この時から、韓国ではこの宣言で画定された海洋主権線を「平和線」と呼び始めた。
  韓国政府は、平和線の守護を通じて独島に対する「実効的支配」を確立しようとする強力な意志を現わした。李承晩大統領は、1952年7月18日、平和線を侵す外国船舶を拿捕しろと海軍に指示した。続いて10月4日、拿捕された外国船舶と船員を審判するために大統領緊急命令第12号で「捕獲審判令」が制定され、これに伴って捕獲審判所と高等捕獲審判所が設置された。 また、1953年12月には平和線を法的に後押しするために「漁業資源保護法」が制定された。

◇第二次鬱陵島・独島調査隊、米空軍機の独島爆撃で調査できず
  平和線宣言で独島に対する関心が高まる状況で、1952年9月、韓国山岳会が「第二次鬱陵島・独島学術調査隊」を派遣した。1947年8月の第一次学術調査隊副団長を引き受けた朝鮮日報主筆ホン・ジョンインを団長として、40人余りの各界専門家たちが参加して政府部署が総動員で後援した第二次学術調査隊の目的は、「独島が鬱陵島の附属島嶼であって我々の領土であることを明らかにすること」だった。
  9月17日、交通部所属の灯台巡航船チンナム号に乗って釜山港を出発した第二次鬱陵島・独島学術調査隊は、翌日午前に鬱陵島道洞港に到着した時、3日前の9月15日に米軍機と推定される飛行機が独島の西島に爆弾4発を投下したという消息を聞いた。調査隊は空軍と商工部に連絡して、「独島は米空軍の爆撃演習場ではない」という回答を受けた。これを確認した調査隊が9月22日に独島に接近した時、再び米軍機4機が現れて二時間以上独島に爆撃演習を実施した。独島上陸をあきらめて鬱陵島に戻った調査隊は、海軍と空軍を通じて米軍側と連絡を取った後9月24日再び独島調査を始めた。だが、今回も米軍機が独島で爆撃演習をしていて上陸できなかった。結局、独島調査を断念して帰ることにした調査隊は、爆撃は日本側の指図を受けた駐日米空軍によるものと推定した。





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[イ・ソンミンの独島の話] [5] 平和会談と独島(下)

[独島の話] 日本側に傾いて、最後に中立旋回したアメリカ

イ・ソンミン先任記者 2020.05.31 朝鮮日報 http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/05/31/2020053100418.html

[イ・ソンミンの独島の話] [5] サンフランシスコ平和会談と独島(下)
「ラスク書簡」、日本の資料に基づいて「独島は日本の領土」
韓日対立高まるとすぐにダレスが「アメリカは不介入」宣言


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 1951年8月、アメリカ国務部極東担当次官補として「私たちの情報によれば独島は日本の領土」という書簡を韓国に送ってきたラスク。1960年代のケネディ~ジョンソン政府で8年間国務長官を歴任した。


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 アイゼンハワー・アメリカ大統領と業務を議論しているダレス国務長官(右側)。彼は独島をめぐる韓日対立が高まるとすぐに、1953年12月、「アメリカは独島問題に介入しない」と宣言した。

  前回に書いたように、韓国が対日平和条約草案を伝達されたのは1951年3月27日だった。アメリカが1946年8月以来内部的に検討してきた対日平和条約草案を他の国家に初めて公開する時に、主な連合国14ヶ国、日本と共にその対象に含まれたのだ。 韓国が連合国の一員ではなかった点を考慮すれば異例なことだった。
  対日平和条約草案の重要性を把握した韓国政府は、4月16日、韓国の答申書を作成する「外交委員会」を構成した。チャン・ミョン(張勉)国務総理、ビョン・ヨンテ(卞栄泰)外務部長官、キム・ジュンニョン法務部長官、ホン・ジンギ法務部法務局長など政府側の人々とユ・ジンオ(兪鎮午)(翻訳者注:実際の発音はユ・ジノ)高麗大学総長を始めとする民間の専門家たちが参加した。兪鎮午は制憲憲法を基礎づけた法学者で、政府樹立後に初代法制処長を務めて法律実務にも明るかった。
  外交委員会が作った韓国の答申書は、1951年4月27日にアメリカ国務部に送付された。答申書には、▲韓国に平和条約署名国の資格を付与すること、▲在韓日本人の財産を没収した米軍政の措置を認めること、▲マッカーサー・ラインを存続させること、▲対馬を韓国に返還すること、などの要求事項が入れられた。独島に対する言及は無かった。 これは、対日平和条約草案がダレス特使の方針によって領土問題に対する具体的な言及が抜け落ちた状態なので、独島は当然に韓国領土だと考えたためだった。
  韓国のこのような要求に対するアメリカの反応は否定的だった。1951年7月9日、ヤン・ユチャン駐米大使がダレス特使に会った時、アメリカは、韓国は対日平和条約の署名国から排除され、対馬返還要求は棄却され、マッカーサー・ライン存続を平和条約に明示するのも難しいと通知した。そして1951年5月にアメリカと英国が新しく作った対日平和条約草案を伝達した。

◇兪鎮午と崔南善、「独島・波浪島を対日平和条約に入れるべき」と主張
  英米合同草案で日本が韓国に譲り渡す島として済州島・巨文島・鬱陵島を例示したことを発見した韓国政府は、問題があると判断した。外交委員として合同草案を検討した兪鎮午は、1951年7月下旬にある日刊紙に連載した「対日講和条約草案の検討」という文に次のように書いた。
  「ダレス草案の時には附属島嶼に関する表示が全く無かった。歴史的に韓国に所属して来て誰もが韓国領土と知っている附属島嶼は、当然韓国領土になるものであるから何の問題も無いが、今回の草案のように三つの島名を書き込んであるのを見れば、かえっておかしな感がある。万一、純形式的にこの条文を解釈するならば、それならその島々だけが韓国に返還されて残りの島々は依然として日本領土に残っているという臆説を持ち出す者がいるかも知れないためだ。 したがって、この条文はそういう臆説の余地を全く封ずるように改正されなければならず、万一、本土から離れた島名を例記する必要があるならば、いっそ独島のようなものを入れた方が良いだろう。独島は私たちの領土であることが明白だが、これを明記しておかなければ将来問題が起きる余地が無くはないためだ。」


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  高麗大学総長在任時に対日平和条約草案検討に参加した憲法学者兪鎮午。彼はアメリカ政府に独島を韓国領土と明記することを要求するようにした。

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 兪鎮午に独島が韓国領土という歴史的経緯を説明した歴史学者兼文人崔南善


兪鎮午に独島が韓国領土という歴史的経緯を説明した歴史学者兼文人崔南善
  兪鎮午に独島を明記する必要性を周知させた人は、歴史学者兼文人の崔南善だった。 兪鎮午は『思想界』 1966年2月号に載せた「韓日会談が開かれるまで(上)」という文で、「一番に訪ねて行ったのが崔南善氏宅だった。歴史的に見て私たちの領土と主張できる島々がどれどれかを知るためであった。六堂(崔南善)は果たして記憶力が良い人で、独島の経緯を直ちに私が確信を持つことができるほどに説明した。」と回顧した。崔南善はまた、対馬が韓国領土という主張は無理といったし、その代わりに済州島の南側にある「波浪島」を私たちの領土としておいた方が良いと薦めた。

(翻訳者注:「韓日会談が開かれるまで」の日本語訳はこちら)
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/02/1966-2.html

  1951年7月19日、再びダレス特使に会ったヤン・ユチャン駐米大使は、韓国政府の三種類の要求事項を入れた第二次答申書を伝達した。一つ目は、日本が放棄する島の例示の部分に独島と波浪島を追加することだった。二番目は韓国内の日本人財産の韓国移譲確認であり、三番目はマッカーサーラインの維持だった。

◇駐米韓国大使館、「独島は竹島岩付近にある」 間違って返事
  韓国側の要求事項を伝達されたアメリカ国務部は、担当部署にこれを検討するように指示した。1930年代から国務部で地理担当官として勤めたサミュエル・ヴォグスは、7月31日、「ワシントンにある全ての資料を探してみたが、二島(独島と波浪島)は確認できなかった」と報告した。彼は、その少し前の7月13日、日本が韓国に譲り渡す島々の例示の部分にリアンクル岩を追加しなければならないという報告書を作成した。そのような彼も、韓国がいう独島がリアンクル岩(日本名竹島)という事実を知ることができなかったのだ。


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  アメリカ国務部地理担当官サミュエル・ボグスが1951年7月31日に提出した報告書。リアンクル岩(竹島)と独島をそれぞれ違う島と把握している。

  1951年8月初め、対日平和条約最終案の作成を控えたアメリカ国務部は、最後に独島問題に関する確認作業に入った。国務部のある官僚は、駐米韓国大使館に問い合わせて、「大使館の官吏が私に、自分たちは独島は鬱陵島近隣あるいは竹島岩付近にあると信じて、波浪島もやはりそうだと思うと述べた」と報告書に書いた。6・25韓国動乱(朝鮮戦争)が真っ最中だった当時、駐米韓国大使館にはわずか3~4人が勤めていて、対日平和条約での韓国政府の主な関心事は在韓日本人の帰属財産問題とマッカーサーライン存続だった。そうは言っても、独島に対して無知だった一外交官の誤った返事は大きな副作用を産んだ。外交官一人の役割がどれほど重要なのかを見せる事例だった。アメリカ国務部は、以後駐韓米国大使館とやりとりした電文を通じて独島がつまりリアンクル岩(日本名竹島)という事実を知ることになった。だが、状況は韓国に不利になった。
  1951年8月10日、米国務部極東担当次官補ディーン・ラスクはヤン・ユチャン駐米大使に公文書を送って来た。「ラスク書簡」と呼ばれるこの公文書は、独島に関して次の通り書いている。
  「独島-あるいは竹島又はリアンクル岩として知られるーに関して言うならば、通常、人が居住しないこの岩塊は、私たちの情報によれば韓国の一部として扱われたことがなく、1905年以来日本島根県隠岐島司の管轄下にあった。韓国は、以前にこの島に対する権利を主張したことがないものと見られる。」


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  1951年8月10日にラスク米国務部次官補がヤン・ユチャン駐米大使に送ってきた書簡。「私たちの情報によれば、独島は韓国の一部として扱われたことがない」とある。

  ラスク書簡は、韓国が独島に対する正確な情報を提供できない状況で、日本が宣伝用に作った偽りの資料に一方的に依存してでたらめな内容を含んでいた。だが、日本はラスク書簡をサンフランシスコ平和条約で独島を日本領土と決めたと主張する主な論拠の一つとしている。そういう主張の妥当性については、別に詳しく調べる。
  ラスク書簡はその衝撃的な内容にも拘わらず、当時は特別な注目を浴びることができなかった。 韓国にきちんと知らせられなかっただけでなく、日本政府や駐日・駐韓米国大使館に通知されることもなかった。したがって、サンフランシスコ平和条約が締結された後、関係者たちもよく知らないまま1年以上も争点にならずに過ぎ去った。

◇駐日米国大使館、「ラスク書簡の公開を」と主張
  ラスク書簡が問題になったのは、1952年1月、李承晩大統領の平和線宣言で始まった韓国と日本の独島領有権紛争が、1952年9月独島で発生した米軍機爆撃事件で爆発してからだった。 アメリカ国務部と駐日・駐韓米国大使館がこの問題の処理方案を議論する過程でラスク書簡の存在が現れた。駐日米国大使館は、ラスク書簡を公開しなければならないと主張した。だが、そのような決定が韓・米・日関係の破局を持たらすことを憂慮した米国務部は、日本政府にはラスク書簡を知らせずに、韓国政府にだけラスク書簡を想起させて立場の緩和を誘導する方向を選んだ。アメリカの消極的な態度の中、1953年に入って韓日間の独島紛争は次第に水位が高まった。 日本は継続的に独島に不法侵入し、7月12日韓国警察が日本漁船を検問する過程で銃撃事件が発生した。こうした中、駐日米国大使館は高位外交官たちが総出動してラスク書簡を公開しなければならないと声を高めた。
  独島紛争で混乱が続くとすぐに、1953年1月、アメリカ国務長官に就任したダレスが事態収拾に出た。彼は、1953年11月19日駐日・駐韓米国大使館に送った電文で、「アメリカがこの国際的領土紛争で公開的に日本側に立つことが必要だとか望ましいとは考えられない。この問題に法律的に関係していなアメリカに向かって立場を明確に明らかにせよという日本政府の主張は、直ちに中断されなければならない」と明らかにした。続いて12月9日駐日・駐韓米大使館に再び電文を送って、「アメリカがラスク書簡を作成したといってもサンフランシスコ平和会談の決定と無関係なことであり、アメリカは独島問題に介入しない」と宣言した。最後の決定的な瞬間に手を引いたのだった。以後、アメリカは韓日間の独島紛争でずっと中立的立場を堅持している。



<コメント>
 こういう文章は本質的に意味が無いですね。「独島は韓国のもの」ということを当然の前提にして、一連の経過を自分に都合の良いように解釈しながら書いているだけです。
 
 ラスク書簡が「韓国にきちんと知らせられなかった」なんて言ってますが、大使殿に伝達したんでしょ。それ以上にどうしろと?

 1953.12.9 のダレス電文については、イ・ソンミン記者は、ダレスさんが「アメリカがラスク書簡を作成したといってもサンフランシスコ平和会談の決定と無関係なことであり」と言ったように書いているが、ダレスはそんなことは言っていない。つまり、これはイ・ソンミン記者のウソだ。

1953.12.9 のダレス電文
 原文 http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/08/1953-december-secret-security.html
 日本語訳 https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-1702.html







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再考 SCAPIN677 第6項 (一部訂正あり)

(この記事は読みにくいので、こちらに浄書版を作成しました。→ https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-3478.html)

※ 一部誤りがあったので修正しました。赤字部分は加筆したところです。(2020.06.11)

連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号
1946年1月29日

1 日本国外の総ての地域に対し、又その地域にある政府役人、雇傭員その他総ての者に対して、政治上又は行政上の権力を行使すること、及、行使しようと企てることは総て停止するよう日本帝国政府に指令する。
2 日本帝国政府は、巳に認可されている船舶の運航、通信、気象関係の常軌の作業を除き、当司令部から認可のない限り、日本帝国外の政府の役人、雇傭人其の他総ての者との間に目的の如何を問わず、通信を行うことは出来ない。
3 この指令の目的から日本と言う場合は次の定義による。
  日本の範囲に含まれる地域として
    日本の四主要島嶼(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含む約1千の隣接小島嶼
  日本の範囲から除かれる地域として
   (a)欝陵島、竹島、済州島。
   (b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。
   (c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島。
4 更に、日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域は次の通りである。
  (a)1914年の世界大戦以来、日本が委任統治その他の方法で、奪取又は占領した全太平洋諸島。
  (b)満洲、台湾、澎湖列島。
  (c)朝鮮及び(d)樺太。
5 この指令にある日本の定義は、特に指定する場合以外、今後当司令部から発せられるすべての指令、覚書又は命令に適用せられる。
6 この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。
7 日本帝国政府は、日本国内の政府機関にして、この指令の定義による日本国外の地域に関する機能を有する総てのものの報告を調整して当指令部に提出することを要する。この報告は関係各機関の機能、組織及職員の状態を含まなくてはならない。
8 右第7項に述べられた機関に関する報告は、総てこれを保持し何時でも当司令部の検閲を受けられるようにしておくことを要する。


 この第6項の意味については、一般に、「第6項では、この指令はポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定ではないことが明記されている」というふうに説明される。私も、竹島問題を調べ始めたころはそういうふうに思っていたのだが、実はどうもそうではなさそうだ。
 
 SCAPがこの指令はポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定ではないことを言いたかったのならば、はっきりとそのように書けば良かっただろう。例えば、「6 この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定ではない。」というふうに。ところが実際はそうではなくて、「ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」と言っている。「最終的決定」と解釈してはならないのではなくて「最終的決定に関する連合国側の政策を示すもの」と解釈してはならないということになっている。ちょっと違うんですよね。

  ここでは「政策」という言葉がポイントのようで、「政策」と翻訳されることになる英単語は普通は「policy」だろうが、英文の第6項は「Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.」であり、「policy」ではなく「indication」なんですね。「an indication of Allied policy」です。 「indication」の意味を辞書で引けば、指示、暗示、指摘、しるし、兆候、気配、証拠というような訳語が書かれている。「政策」という言葉に直結するわけではないものを「政策」と訳してあるのです。

  「indication」の意味からすれば、「an indication of Allied policy」とは「連合国の政策の兆候」、すなわち領土の最終的決定に関する連合国の「意図」、「心づもり」、「内心の考え」というような意味なのだろう。つまり、第6項は、「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の意図(あるいは内心の考え、予定、基本的な考え方、方向性)を示すものと解釈してはならない。」ということになる。言い換えれば、「連合国は後に行う日本領土の最終的決定において、このSCAPIN677で区分しているように日本の区域を定めるつもりだと誤解するなよ」ということです。その際、「意図」、「心づもり」、「内心の考え」などの類の言葉は法令用語としてはまあふさわしくないので、「政策」というそれっぽい訳語が採用されたのでしょう。
 
  そうすると、この第6項は、「ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定というものは、このSCAPINとは別に存在する」という論理を当然の前提にしていることが分かります。「最終的決定というものは別にあるのだが、その内容がこのSCAPIN677のようになるだろうなんて勝手に推測するなよ」と言っているわけです。
  そもそも、当時の関係者は、SCAPINで「ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定」をするなんてことは、誰も考えていなかったでしょう。領土の最終的決定は国と国との講和条約によるのだ、というのは当時の関係国首脳、関係行政官、占領関係者たちの常識だったはずです。まあ、そういうことを日本国民大衆も常識として広く知っていたとは言えないにしても、理論的には自明のことです。そういう理論的に自明なことをSCAPIN677にわざわざ書き込むというのは、法令文としてはちょっと変なことです。だから「この指令は領土処分の最終的決定ではない」という当然のことは書かれませんでした。
  
  また、仮に、SCAPIN677に「この指令は領土処分の最終的決定ではない」と書いたとすると、それで万事OKかと言うと、そうでもないのです。そう書いてあれば、それを読んだ者はどう考えるか。「うん、これは最終的決定ではないということだが、そうは言っても、こういうふうに日本を分けたということは、結局、最終的にこういうふうにするつもりなんだろう」と考える者が発生することを防ぐことができません。第6項は、そういう見当違いの予断による人々の混乱や「結局、あそこの島々は外国に取られてしまうことになるんじゃないか」というような不安の発生を防ぐために必要であったはずです。だから第6項は、「最終的決定がこのSCAPIN677のようになるだろうなんて考えるなよ。それは全く別の話だよ。」という意味のことを規定したのです。

  まあ、SCAPIN677は既に何十年も前に役割を終えたものだから、その第6項の意味も今となってはどうでもいい話です、本来は。ところが、広く知られているとおり、竹島問題において韓国のおバカ研究者たちが「独島はSCAPIN677によって韓国の領土になった」などという妄言をまき散らすので、その間違いを指摘するために日本側としてもSCAPIN677に言及することが必要になっています。
  韓国側のこの妄言に対して、日本側からは、普通、「SCAPIN677は領土処分の最終決定ではない」ということと、「そもそも領土処分の最終決定は講和条約によるのであって、SCAPINは領土処分と関係が無い」という指摘が行われます。この二つは実質的意味としては同じことですが、より本質的な言い方は後者のほうです。領土処分の最終決定は講和条約によるのであって、SCAPINに領土処分の効力は無いから、当然SCAPIN677は領土処分の最終決定ではあり得ないという関係です。ただ、「第6項にこの指令は最終決定ではないと書いてある」というように第6項を持ち出すと、それはちょっと違うということになるようです。韓国側へ反論するに当たって第6項は使えないと思います。

  結局、「独島はSCAPIN677によって韓国の領土になった」というバカ話に対する適切な反論は、「SCAPIN677は占領のための暫定措置であって領土処分とは全く関係が無い。SCAPIN677が領土処分を行ったものだと言い張るならば、SCAPIN677がそういう法的効力を有することを国際法で証明せよ」ということでしょうかね。シン・ヨンハ大先生でも証明不可能でしょうけど。



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講和条約 竹島 米英豪協議過程

領土・主権に関する資料収集(竹島に関連したこれまでの成果について)
2019年9月10日 公益財団法人日本国際問題研究所
http://www2.jiia.or.jp/pdf/JIC/10910-press_release_takeshima_front_page.pdf

その別紙
http://www2.jiia.or.jp/pdf/JIC/10910-press_release_takeshima_attached.pdf


講和条約受諾演説 1951.9.7

データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所
[文書名] サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説
[場所] サンフランシスコ
[年月日] 1951年9月7日
[出典] 外務省条約局法規課『平和条約の締結に関する調書VII』、118-122頁.
[備考] 
[全文]
 ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが国民に恒久的な制限を課することもなく、日本に完全な主権と平等と自由とを回復し、日本を自由且つ平等の一員として国際社会へ迎えるものであります。この平和条約は、復讐の条約ではなく、「和解」と「信頼」の文書であります。日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します。
 過去数日にわたつてこの会議の席上若干の代表団は、この条約に対して批判と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決にあつては、すべての国を完全に満足させることは、不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも、若干の点について苦情と憂慮を感じることを否定出来ないのであります。
 この条約は公正にして史上かつて見ざる寛大なものであります。従つて日本のおかれている地位を十分承知しておりますが、敢えて数点につき全権各位の注意を喚起せざるを得ないのはわが国民に対する私の責務と存ずるからであります。
 第一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。
 千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。
 千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。
 また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。
 その2は、経済に関する問題であります。日本はこの条約によって全領土の45パーセントをその資源とともに喪失するのであります。8,400万に及ぶ日本の人口は、残りの地域に閉じ込められしかも、その地域は、戦争のために荒廃し、主要都市は焼失しました。又、この平和条約は、莫大な在外資産を日本から取り去ります。条約第14条によれば戦争のために何の損害も受けなかつた国までが、日本人の個人財産を接収する権利を与えられます。斯くの如くにしてなお他の連合国に負担を生ぜしめないで特定の連合国に賠償を支払うことができるかどうか、甚だ懸念をもつものであります。
 しかし、日本は既に条約を受諾した以上は、誠意を以て、これが義務を履行せんとする決意であります。私は、日本の困難な条件の下になお問題の円満な解決のためになさんとする努力に対して、関係諸国が理解と支持を与えられることを要請するものであります。
 平和は繁栄を伴うものであります。しかし、繁栄なくしては、平和はありえないのであります。根底から破壊された日本経済は、合衆国の甚大なる援助をえて救われ、回復の途に進むことができました。日本は、進んで国際通商上の慣行を遵奉しつつ世界経済の繁栄に寄与する覚悟であります。そのために既に国内法制を整備致しましたが、今後もその完成につとめ、且つ、各種関係国際条約にすみやかに加入して、国際貿易の健全なる発展に参与する覚悟であります。
 この平和条約は、国際経済の面において、このような日本国民の念願を実現しうべき途を開いてはおります。しかし、この途は、連合国側で一方的に閉ざしうることにもなつています。これは、平和条約の本質上、やむを得ないことかも知れませんが、われわれ日本国民としては、すべての連合国が現実にこの途を最大限に開かれるよう希望してやまないのであります。
 私の演説を用意してから、今朝インドネシア外相から私に3つの質問をされたことを承知しました。質問は、他の代表もていきされた疑問を解明しようとするものであります。答は「しかり」であります。けだし、それは条約第14条及び第9条の公正な解釈だと思うからであります。この答がこの条約の下における日本の善意に対する他の国の疑問を解決するにたることを希望します。
 その3は、未引揚者の問題であります。この平和条約の締結は、34万に達する未引揚日本人の運命について、日本国民の憂慮を新にするものであります。私は、すべての連合国が国際連合を介し、または他の方法によつて、これらなお抑留されている日本人のすみやかなる帰還を実現するために、あらゆる援助と協力を与えられるよう、人道のために切望してやまないのであります。引揚に関する規定が特に起草の最終段階において平和条約に挿入されたことは、日本国民の甚しく満足とするところであります。
 上述のような憂慮すべき事由があるにもかかわらず、否、その故にこそ、日本は、いよいよもつて、この平和条約を締結することを希望しているのであります。日本国民は、日本が平等な主権国家として上述のような懸念を除去し、諸国の不満疑惑等を解消するために現在よりも大なる機会をもつことを期待するのであります。
 私はこの会議に代表されている諸国がなるべく多く平和条約に署名されることを希望してやみません。日本はこれらの国々と相互に信頼と理解ある関係を樹立し、且つ、相共に世界のデモクラシーと世界の自由を前進させる覚悟をもつものであります。
 日本代表団はインドとビルマが会議に連なつていないことを知り甚だ残念に思います。アジアに国をなすものとして日本は他のアジア諸国と緊密な友好と協力の関係を開きたいと熱望するものであります。それらの国々と日本は伝統、文化、思想ならびに理想を共にしているのであります。われわれ日本国民はまず善隣の良き一員となり、その繁栄と発展のために十分貢献し、もつて日本が国際社会の良き一員となることを覚悟するものであります。
 中国については、われわれも中国の不統一のためその代表がここに出席されることができなかつたことを最も残念に思うものであります。中国との貿易の日本経済において占める地位は重要ではありますが、過去6年間の経験が示しているように、しばしば事実よりもその重要性を誇張されておることであります。
 近時不幸にして共産主義的の圧迫と専制を伴う陰険な勢力が極東において不安と混乱を広め、且つ、各所に公然たる侵略に打つて出つつあります。日本の間近かにも迫つております。しかしわれわれ日本国民は何らの武装をもつておりません。この集団的侵攻に対しては日本国民としては、他の自由国家の集団的保護を求める外はないのであります。之れわれわれが合衆国との間に安全保障条約を締結せんとする理由であります。固よりわが国の独立は自力を以て保護する覚悟でありますが、敗余の日本としては自力を以てわが独立を守り得る国力の回復するまで、あるいは日本区域における国際の平和と安全とが国際連合の措置若しくはその他の集団安全保障制度によつて確保される日がくるまで米国軍の駐在を求めざるを得ないのであります。日本はかつては北方から迫る旧ロシア帝国主義の為めに千島列島と北海道は直接その侵略の危険にさらされたのであります。今日わが国はまたもや同じ方向から共産主義の脅威にさらされているのであります。平和条約が成立して占領が終了すると同時に、日本に力の真空状態が生じる場合に、安全保障の措置を講ずるは、民主日本の生存のために当然必要であるのみならず、アジアに平和と安定をもたらすための基礎条件であり、又、新しい戦争の危険を阻止して国際連合の理想を実現するために必要欠くべからざるものであります。日本国民は、ここに平和愛好諸国と提携して、国際の平和と安定に貢献することを誓うものであります。
 日本が前述の安全保障の措置をとりたりとて之をもつて直に日本の侵略の恐怖を惹き起こすべきいわれはありません。敗戦後多年の蓄積を失い海外領土と資源を取り上げられる日本には隣国に対して軍事的な脅威となる程の近代的な軍備をする力は全然ないのであります。この会議の開会式の席上トルーマン大統領も日本が過去6箇年にわたる連合国の占領下に総司令官マッカーサー元帥及びリッジウェー大将の賢明にして好意に満ちた指導を得て遂行した精神的再生のための徹底的な政治的及び社会的の改革ならびに物質的復興について語られましたが、今日の日本はもはや昨日の日本ではないのであります。新しい国民として平和デモクラシー、自由に貢献すべしとの各位の期待を決してゆるがせにしない覚悟であります。
 私は最後に過去を追懐し将来を展望したいと思います。日本は1854年アメリカ合衆国と和親条約を結び国際社会に導入されました。その後1世紀を経て、その間2回にわたる世界戦争があつて、極東の様相は一変しました。6年前に桑港に誕生した国際連合憲章の下に数多のアジアの新しき国家は相互依存して平和と繁栄を相ともに享受しようと努力しています。私は国民とともに対日平和条約の成立がこの努力の結実のひとつであることを信じ、且つ、あらゆる困難が除去されて日本もその輝しい国際連合の一員として、諸国によつて迎えられる日の一日も速からんことを祈つてやみません。何となれば、まさに憲章そのものの言葉の中に新日本の理想と決意の結晶が発見されるからであります。
 世界のどこにも将来の世代の人々を戦争の惨害から救うため全力を尽くそうという決意が日本以上に強いものはないのであります。
 われわれは、諸国の全権がさきの太平洋戦争において人類がなめた恐るべき苦痛と莫大なる物質的破壊を回顧せられるのを聞きました。われわれはこの人類の大災厄において古い日本が演じた役割を悲痛な気持をもつて回顧するものであります。
 私は、古い日本と申しましたが、それは古い日本の残骸の中から新しい日本が生れたからであります。
 わが国もさきの大戦によつて最も大きな破壊と破滅を受けたものの一つであります。この苦難によつてすべての野望、あらゆる征服の欲から洗い清められて、わが国民は極東ならびに全世界における隣邦諸国と平和のうちに住み、その社会組織をつくり直して、すべての者のためによりよい生活をつくらんとする希望にもえております。
 日本はその歴史に新しい頁をひらきました。われわは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります。われわれは平和、正義、進歩、自由に挺身する国々の間に伍して、これらの目的のために全力をささげることを誓うものであります。われわれは今後日本のみならず、全人類が協調と進歩の恵沢を享受せんことを祈るものであります。
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Chaamiey

Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

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