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竹島編入と抗議不存在(7)

6. 結び
 永島の論文は、統監府体制の下で日本の独島編入に対する韓国の抗議不存在が日本の独島編入を黙認または承認したと見る余地があるという点を立証しようとすることだ。そのために、永島は統監府時代での韓日外交の「内政化」を通じて韓日間の連絡(疎通)構造が強化されたし、そういう構造の下で韓国は十分に(自由に)日本の編入措置に対して抗議することができた。そのために外交権が剥奪された状態だったために抗議をすることができなかったという韓国の「常套的」主張は「実体の実態とは正反対だ」と断定する(96)。
 このような認識は、例え韓日間に見解の差があるとは言っても、統監府統治の本質や実体に対する理解が不足していたり誤った理解に起因すると判断される。統監府が韓国の内政をほとんど掌握した状態において、日本の政策に反する行為をすることはほとんど不可能だったと推論することが自然だ。1905年11月の日本の強圧的な乙巳条約の締結過程において見られるように、韓国の抗議があったとしても日本政府がこれを受け入れたかも疑問だ。したがって、永島の論文は、統監府と韓国政府の間に技術的で実務的な事項に関連した書類往来があったという点を(自由な)連絡構造の強化と見るのは非常に不適切な分析と言える。
  統監府体制という垂直的で強圧的な体制の下での連絡構造の強化が韓国政府の自律性を育てて自由な意思表出を簡単にしたという推論は、一般論からかけ離れたもので成立し難い。永島は連絡構造の強化を韓日間外交の「内政化」と定義したが、彼がいう「内政化」とは日本の韓国「隷属化」の別の表現であるだけだ。
  最後に、例え永島が主張する状況の中で韓国の抗議の不存在が立証されるとしても、それが直ちに日本の独島編入を黙認して正当化することに連結されはしない。間接的で偶然に韓国が日本の独島編入の事実を認知した1906年5月以後から韓国の主権が完全に喪失される1910年8月までの約4年余りの期間に韓国が沈黙したという理由だけで、日本が独島に新しい権原を創設することは難しいという点を強調する。韓国が独島領有権を放棄したり譲渡したことがない状態では、韓国の抗議の不存在があったとしても4年余りの短い期間だけで日本が新しい権原を確立するのは不可能だ。このような意味で永島の主張は実益がないと言えよう。

(終)

日本の独島編入と韓国の抗議不存在に関する検討
永島広紀 「「内政」化する韓日の「外交」」に対する反論
イ・ソンファン/啓明大学人文国際学部日本学専攻教授
嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第29号 (2020.12.30) p7



<コメント>
 さて、イ・ソンファンさんは、統監府や日本政府が韓国からの抗議を圧殺した具体例の一つも言及することなく、ただただ「当時韓国が日本政府(統監府)に向かって自由に抗議の声を出すことは不可能だったと見るのが合理的推論だ」、「統監府が韓国の内政をほとんど掌握した状態において、日本の政策に反する行為をすることはほとんど不可能だったと推論することが自然だ。」という推論を強調しています。つまり、「自分はそうであったと思いたいのだ!!」という願望を論文の形式で述べてあるということになります。(ハーグ密使事件の結果、高宗が退位させられたことだけは書いてありますがね、あれはあまりにひどい背信行為だったからそうなったのであって、きちんとした抗議には当たらないですよ。)

  しかしながら、イ・ソンファンさんのこの推論は全く成立しないのです。なぜならば、韓国政府が統監府に抗議した事例が確認されているのだから。例の、竹辺浦海軍望楼跡地売買事件と早稲田大学学長処分要求事件(これはpuracyakaさんの御教示)ですね。イ・ソンファンさんは、このブログにそんなことが書いてあるなんてことは知らなくても当然だとしても、イ・ヨンフン教授が『反日種族主義との闘争』でこの二つの抗議事例を紹介しているのを知らないのか? 「独島研究家」ならば、他の問題と共に竹島問題についても韓国内の通説を否定するイ・ヨンフン教授の本は当然読むべきもので、読んでないなら怠慢、読んだのなら自分の願望に反する証拠は無視したことになる。
 (ついでに言えば、竹辺浦海軍望楼跡地売買事件はもともとシン・ヨンハ大先生の論文ですよ。大先輩の労作を無視しちゃったらダメじゃないか。)

 どちらにしても、この論文は最初から成立していないことを長々と書いてあるだけ。それも、自信たっぷりに。ちょっとひど過ぎない?




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竹島編入と抗議不存在(6)

  太政官指令が対外的宣言に該当するのかという議論はあり得るが(注43)、日本政府が独島と鬱陵島を日本の領土ではないと明らかにすることによって独島に対する韓国の領有権を認めたのは間違いのない事実だ。例えば、マンキエ・エクレオ事件(Minquiers and Ecrehos case)で、国際司法裁判所はフランス当局者間に往来した内部文書から、マンキエ諸島は英国領だと認めた事実をフランスの公式的立場と認定した(注44)。筆者は、他の文で、鬱陵島争界合意と太政官指令を合わせて朝日/韓日国境体制と命名した(注45)。鬱陵島争界合意と太政官指令はその後効力を停止したり消滅させる措置が取られた形跡がなく、ずっと効力を維持していた。したがって、1905年に日本が独島編入措置を取った時点でも鬱陵島争界合意と太政官指令は有効に作動していたのだ

(注43) これに対しても、太政官指令は独島と鬱陵島が日本の領土ではないとしただけで、独島は韓国の領土としたのではないとの主張もある。これは太政官指令が全面的に鬱陵島争界合意を継承したという歴史的根源を見逃した解釈だ。また、太政官指令が鬱陵島と独島を一緒に取り扱っているのは独島と鬱陵島の帰属先を同一に見なしているためだ。
(注44) キム・ソクヒョン(2012) 前の論文p43
(注45) イ・ソンファン(2017) 「朝日/韓日国境条約体制と独島」 『独島研究』 23号 (嶺南大学独島研究所)

  次のような事例でもそれを立証することができる。1881年11月12日島根県知事が提出した「松島開拓願」を受け付けた内務省は、許可の可否を決めるために鬱陵島争界関連文書を添付して外務省に国境関連問題で朝鮮政府と交渉があったかを問い合わせた。鬱陵島争界関連文書を添付したのは、鬱陵島争界以後領有権と関連して朝鮮政府と新しい交渉があったかを確認するためだ。これに対して、12月1日、外務省は「朝鮮国鬱陵島すなわち竹島と松島(朝鮮国欝陵島即竹島松島、鬱陵島と独島)に対する特別な変更」はないと回答する。これを基礎に内務省は1882年1月31日付で「最前指令(1877年の太政官指令-引用者)のとおり竹島と松島(鬱陵島と独島)は本邦と関係がないので開拓願の件は許可できない」と却下する(注46)
  内務省のこのような措置は、1699年の鬱陵島争界合意とそれを継承した太政官指令が日本政府によって有効に作動していることを明確に示している。また、韓日政府の許可なしで無分別に鬱陵島に渡海している日本人の撤収のために鬱陵島に派遣された、山口県の官憲である山本修身が外務省に上げた復命書(1883年9月)でもこのような事実が確認される。復命書には、退去を要求する朝鮮官憲に日本人たちが「鬱陵島は貴国(朝鮮-引用者)の土地という朝鮮と日本政府の間の条約があるので・・・・」と話してやむを得ず撤収する記録がある(注47)。ここで「条約」とは1699年の鬱陵島争界合意を指す。歴史的に鬱陵島領有をめぐって朝鮮と日本の間の条約と呼ぶほどのものは、鬱陵島争界合意の他には存在しないからだ。ここで、鬱陵島に渡海した日本人たちが「条約」という用語を使っているという点に注目する必要がある。それは、鬱陵島に渡海する日本人たちが1699年の鬱陵島争界合意を近代国際法上の「(国境)条約」と認識していたことを明確に示しているからだ。


(注46) 杉原隆(2011) 「明治10年太政官指令-竹島外一島之儀ハ本邦関係無之をめぐる諸問題」 第2期 「竹島問題に関する調査研究」中間報告書(平成23年2月)」 (竹島問題研究会) p15〜16
(注47) 木京睦人「明治十六年蔚陵島一件」 『山口県地方史研究』第88号 2002年10月 (山口県地方史学会) p81

  以後も、日本は鬱陵島争界合意や太政官指令を破棄したり変更する等の措置を取らなかった。 「一度合意すれば、国境は持続する」(Once agreed,the boundary stands)という国境神聖の原則に照らして見れば、朝鮮と日本の間に独島と鬱陵島に対する新しい合意がなかったので鬱陵島争界合意は持続するのだ。国境条約の性格を勘案すれば今でも鬱陵島争界合意は持続していて、これに基づいた独島に対する韓国の法的権原も有効だ。
  このように1905年時点に鬱陵島争界合意と太政官指令が作動していたという事実、すなわち韓国の法的権原が存在している状態で、日本政府が独島を編入して中井養三郎に漁業権を許可するなど1905年以後独島に対して管轄権を実効的に行使したとしても、これは朝鮮の法的権原の上に行使された一時的占有に過ぎない。鬱陵島争界合意という一種の国境条約によって確立された朝鮮の法的権原と日本の実効的占有支配(effective possession)が相反することになっただけのことだ。
  こういう場合、問題は日本の行為が新しい権原を創設できるのかどうかだ。国際司法裁判所(ICJ)は、ナイジェリアとカメルーンの紛争で、新しい実効的行為は既に存在する法的権原を代替することはできないと明らかにしている(注48)。日本の編入は正当な権原の創設につながらないということだ。また、ナイジェリアとカメルーン間の領土及び国境画定事件で、2002年、国際司法裁判所は、カメルーンの条約上の権原が存在する状況で、ナイジェリアが主張する約20年間の実効支配は「どのような場合でもとても短い期間(20年)」(in any event far too short, even according to the theory relied on by it)として、カメルーンの条約上の権原が引き続き存在していることを認めた(注49)。これを援用すれば、1906年から1910年の間に例え韓国の抗議がなかったとしても、日本の独島編入とその後の実効支配があっても、独島に対する韓国の法的(条約上の)権原は有効なので日本の法的権原は創設されない。
  さらに、日本が1699年以後ずっと独島の韓国領有を承認した以上、1905年以後1910年までの5年という短い期間の実効支配だけでは、歴史的凝固(historical consolidation)すなわち取得時効を援用できない(注50)。

(注48)キム・チェヒョン(2009) 「カメルーンとナイジェリア間Bakassi半島の主権に関する紛争解決の分析及び評価」 『国際法学会論叢』54(3) (大韓国際法学会) p391 ; 許淑娟(2012) 『領域権原論-領域支配の実効性と正当性』 (東京大学出版会) p257
(注49)パク・ヒョンジン(2016) 『独島領土主権研究』 (京仁文化社) p122、324
(注50)占有と取得時効に関してはキム・ソクヒョン(2012) 前の論文参照

  かえって、凝固理論を適用するならば、1699年以来約200年以上韓国の領有権を認めて来た日本の行為は、独島に対する権原を自発的に遺棄または放棄(abandonment,dereliction,renunciation)したことに該当する。反対に日本の承認によって独島に対する韓国の権原が歴史的に凝固するのだ。
  要約すれば、鬱陵島争界の合意と太政官指令が有効な以上、いかなる場合でも日本は独島に対する新しい権原は創設できない。このような観点から日本の独島編入とその後の行為は違法な征服ないしは不法占拠に該当して、その行為が新しい権原を作るのではない。このような諸側面に照らして見れば、永島が立証しようとした統監府体制下の韓国の抗議不存在は、独島領有権問題には実質的な意味が無いことと言える



<コメント>
 まあ、どうしようもない妄想のオン・パレードですが、その中から一つだけ、ひどい錯乱を指摘しておきます。「注46」を引用してある問題です。

  「注46」の「明治10年太政官指令-竹島外一島之儀ハ本邦関係無之をめぐる諸問題」p15~16は「松島」という名前で開拓申請のあった鬱陵島についての話です。今の竹島のことなど全く出て来ません。にも拘わらず、イ・ソンファン先生はその「松島=鬱陵島」に関する一連の話を根拠として、内務省は「竹島と松島(鬱陵島と独島)は本邦と関係がないと回答した」という結論にしました。人の文章を読めないにもほどがある、とでも言うしかないですよ。外務省の回答の「朝鮮国欝陵島即竹島松島」は「朝鮮の鬱陵島で、我が国では竹島とも松島とも呼んでいる」の意味ですが、イ・ソンファンさんにそんなことが理解できるはずもなく、「鬱陵島と独島」だと超誤読をしてあります。






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竹島編入と抗議不存在(5)

日本の独島編入と韓国の抗議不存在に関する検討
永島広紀 「「内政」化する韓日の「外交」」に対する反論
イ・ソンファン/啓明大学人文国際学部日本学専攻教授
嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第29号 (2020.12.30) p7


 ここで問題になるのは、日本の独島編入が無主地先占なのか時効取得なのかだ。日本は独島編入のための閣議決定では無主地先占を標榜したが、その後日本政府は、固有領土論との矛盾を避けるためなのか、1950、60年代初めに韓国政府に送った口上書などで公式的には無主地先占(occupation)という用語を使わなかった(注27)。このような側面から、日本の主張は実質的には時効取得を念頭に置いたものであり、黙認を重視するのもやはり時効取得を想定した議論と見なければならない。日本が時効取得を念頭に置いて韓国の抗議不存在を強調するのは、独島が無主地ではなかったということを物語り、閣議決定での無主地先占論が妥当ではなかったということを表わしているのだ。(翻訳者茶々:妄想全開)
  独島に対して韓国と日本が共に固有領土論と歴史的権原を主張している状況において、独島が無主地である可能性はほとんどない。独島は韓国の領土でなければ日本の領土、すなわち二つのうちの一つか韓日の共同所有ということだ。どの場合でも独島は無主地ではない。独島が無主地ではなく、日本が韓国の抗議の有無に焦点を合わせるのは、独島が韓国の領土だったということを前提とするのと同じことだ。日本が主張するように、独島が日本の固有領土で、歴史的権原を強化したり疑問の余地をなくすために領有意思を再確認しようとする意図から1905年の編入措置を通じて確実な近代国際法的権原に変えたとすれば(注28)、韓国の抗議の有無はニ次的である。その代わりに日本は歴史的権原や編入の合法性の完結性を立証しなければならないが、どれ一つ完全でないために韓日間で論争が続いているのだ。


(注27)イ・チュンソン(2018) 「国家行為としての抗議(protest)に対する国際法的検討:領土問題を中心に」 『国際法学会論叢』63(3) (大韓国際法学会) p35
(注28)朴培根(2006) 「日本による島嶼先占の諸先例-竹島/独島に対する領域権原を中心として」 『国際法外交雑誌』105(2) (日本国際法学会) p35;皆川洗(1963) 「竹島紛争と国際判例」 前原光雄教授還暦記念論文集刊行委員会編『国際法学の諸問題』 (慶応通信) p363

  独島が無主地ではなくて韓国の領土だったことを示唆する日本の記録も存在する。日本の独島編入に決定的契機を提供した中井養三郎が日本政府の斡旋を受けて大韓帝国政府に独島漁業独占権を請願しようとした事実があって(注29)、また、韓国領である可能性がある独島を編入する場合、他の国が「韓国併呑の野心がある」と疑うことを憂慮して内務省が領土編入に反対した記録もある(注30)。内務省は、日本が独島編入措置を取る28年前の1877年に「鬱陵島と独島は日本の領土ではない」と明らかにして独島を韓国領土と認定した太政官指令を発した主体でもある(注31)。このような事実は、日本が独島が無主地ではなかったことを内部的に十分に認知していたことを示唆する大きな課題だ。
  もちろん、日本の閣議決定のとおり無主地先占を主張しても、韓国の沈黙や黙認が全く意味がないのではない。占有の対象が無主地なのか他国の領土なのかについては、理論的には区分されるが実質的には差がない(注32)。国内法上で先占は一回的占有で完成されるが、領土取得としての先占は相当期間にわたる平穏な占有の持続を要求するので、結局、(取得)時効との区別が曖昧になる。時効は本質的に原所有国の主権を侵害する行為であるから先占よりはさらに厳格で長期間の占有が必要だという見解があるが(注33)、一定期間の実効占有を要するという点で先占と時効は差がなくなる。

(注29)中井養三郎(1909) 「事業経営概要」 ; キム・スヒ(2014) 「日本の独島強占を‘記録化’した中井養三郎文書 解題と資料紹介」 『独島研究』17 (嶺南大学独島研究所) p414、416
(注30)上の資料及びキム・スヒ(2014) p415、416
(注31)イ・ソンファン他(2016) 『日本太政官と独島』 (知性人) 参照
(注32) M. Shaw(2003), International Law、7th ed. (Cambridge Univ. press) 426
(注33)イ・チュンソン(2018) 前の論文p29。D.H. N. Johnson(1952),“Acquisitive Prescription
in International Law” The BritishYearbook of International Law、349

  そうすると、永島が強調するように、韓国が(恣意的に)抗議をしなかったということが立証されれば日本の独島領有権が確認されるのだろうか?(翻訳者茶々:永島論文はそげなことゆーとらんよ) これに対しては次のような事項を問い詰めなければならない。まず、永島論文と同じ趣旨で、日本政府は1953年7月13日韓国に送った口上書で、「韓国が独島に対して歴史的で行政的に正当な権限を有していたとすれば、日本政府に抗議するに妨げなかった」と指摘している(注34)。日本が主張するように、当時の韓国は何の妨害や障害もない状況で日本に抗議をしなかったのかの可否だ。これについては先立って述べたとおりだ。
  二番目に、領有権取得のためには「一定期間平穏な占有」を維持するべきだが、これは一定期間抗議があってはならないという意味だ。今までこの点に対しては抗議の存否だけを問い詰めて、「一定期間」に対する議論はほとんどなかった。言い換えれば、ある程度の期間のうちに抗議をしなかったり沈黙していればそれが黙認または承認と推定されることになるのか、に関しては議論がなかった。その理由は、抗議の意志表示はいつまでにしなければならないのかという確立された理論がなくて、具体的事情によって決定される問題であるためだろう(注35)。黙認を推定するほどの十分な長期間を意味すると言えるだろう(注36)。

(注34) Korean Government’s Refutation of the Japanese Government’s Views concerning Dokdo(Takeshima) dated July 13,1953.(September 9.1953)
(注35) E. de Vattel,The Law of Nationsor Principles of Natural Law Applied to the Conducted
and to the Affairs of Nations and Sovereign,vol. Ⅲ、translation of the Edition of 1758 by Charles G. Fenwick (Washington,Carnegie of Washington、1916) pp、156,158?159 ; キム・ソクヒョン(2012) 前の論文p15再引用
(注36) 時効の完成期間に対しては100年、80年、50年、30年など多様な見解が存在する。キム・ソクヒョン(2012) 上の論文 p50

  上の最初と二番目の事項を総合して考慮すれば、韓国政府が不完全に、あるいは間接的ながら日本の独島編入の事実を認知した(少なくとも日本が公式に韓国政府に通告したことはなく、鬱陵郡守沈興沢の報告でこれを認知することになった) 1906年5月以後から1910年8月韓日併合の時までの約4年余りの期間、韓国政府が抗議をしないで沈黙していたといって、韓国が日本の独島編入を黙認または承認したと断定するのは難しい。説明すれば、沈興沢の報告直後に参政大臣朴斉純が直ちに下した指令第3号で見るように、韓国政府が日本の独島編入を否認する意志が明確に確認されて、主権が制限または剥奪された状態で約4年余りの期間の間沈黙した事実を持って日本の独島編入を正当化することは難しい。先立って繰り返して言及した通り、当時日本は外交と内政で韓国の主権を制約していて、直ちに抗議をしなかったという事実を独島領有権獲得の材料にしようとする発想は適当ではない。
  延長線上で、次のような議論も可能だ。1945年解放後、連合国軍最高司令部(GHQ)はSCAPIN 677号(1946年1月)と1033号(1946年6月)で独島を韓国の領土と認定したし、その後独島はずっと韓国の管轄下にあった。少なくとも1952年平和線が公布されるまでの約7年間、日本は(アメリカに対しては外務省のパンフレットやシーボルドの意見書等を通して独島領有の意思を表わしたが)韓国の独島管轄に対して何の抗議もしなかった。このような事実を客観化して解釈すれば次のとおりだ。解放後韓国の独島管轄は、1905年日本の独島編入に対する抗議の行為に該当し得るし、解放後日本が韓国の独島管轄に対して抗議をしなかったのは、韓国の実効的支配を黙認または認めたものと言えるはずだ。このような側面では、かえって日本の抗議不存在に対する問題提起が可能だ。(あえて比喩をしようとするなら、韓国に対する日本の統監府支配やGHQ占領下の日本でも似ていると見ることができるという点も考慮しなければならないだろう)。
(←翻訳者注:ここの助詞の使い方は良く分からん。)

5. 日本の独島編入とその後の措置に対する評価
 続いて次のような議論も必要だ。筆者は、1699年の鬱陵島争界合意(渡海禁止令)と1877年の太政官指令を根拠として独島に対する韓国の法的権原に関して強調した(注37)。鬱陵島争界合意は、17世紀末鬱陵島争界(日本では「竹島一件」という)を通じて朝鮮と日本の間で独島と鬱陵島の朝鮮領有を合意した外交文書をいう。鬱陵島争界という名称に見るように、日本では鬱陵島争界合意は鬱陵島の領有権だけを取り扱って独島に対する言及はなかったという主張もあるが(日本外務省ホームページにも「鬱陵島渡海は禁止したが独島渡海は禁止しなかった」としていて(注38))、その後韓国と日本の多数の研究で鬱陵島争界合意に独島が含まれていたという事実が立証されている(注39)。すなわち、日本政府(幕府)は鬱陵島だけでなく独島に対しても朝鮮の領有権を認めて渡海を禁止したし、実際にその後日本人の独島渡海はなかった。太政官指令は、1877年に日本政府が独島と鬱陵島を日本領土から排除すると明らかにした文書だ。太政官指令が日本政府の一方的な決定であっても、当時の日本の公式的な意思を確認するものであることは明らかで、太政官指令が鬱陵島争界合意を継承したという点では一方的行為としての国際法的含意を有している(注 40)。太政官指令は条約の性格を有している鬱陵島争界合意を継承して国内的に切り替えた国内法令と見ることができるので、一方的行為としての国際法的効果があるのだ(注41)。一方的行為というのは、国家の対外的宣言を通じて自らの義務を負担したり権利を放棄するもので、他の法主体の意思に関係なく一定の法的効果を発生させることをいう(注42)。


(注37)イ・ソンファン(2017) 「日本の太政官指令と独島編入に対する法制史的検討」 『国際法学会論叢』62(3) (大韓国際法学会) ;イ・ソンファン(2019) 「太政官指令をめぐる議論の再検討 チェ・チョルヨン、柳美林 “1877年太政官指令の歴史的・国際法的争点検討”に対する反論」 『国際法学会論叢』64(2)(大韓国際法学会)
(注 38) https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/pdfs/takeshima_point.pdf(検索日:2020.1 0.13)
(注39)内藤正中(2011) 「1905年の竹島問題」 『北東アジア文化研究』34 (取短期大学北東アジア文化総合研究所) p6~8 ; 池内敏(2012) 『竹島問題とは何か』 (名古屋大学出版会) p30 ;パク・ジヨン(2017) 「日本山陰地方民と鬱陵島・独島渡海禁止令について」 『独島研究』26 (嶺南大学独島研究所) p384~385
(注40)イ・ソンファン(2019) 前の論文p149
(注41)イ・ソンファン(2019) 前の論文p149
(注42)キム・ソクヒョン(2006) 「国家の一方的行為の法的地位-UN国際法委員会の作業を中心に-」 『国際法評論』23号 (国際法評論学会) p108~110


<コメント>
 何か、イ・ソンファンさんも言うことがハチャメチャになってきたなあ。ツッコミどころが多すぎて一々書く気がしない。ま、どの話もこのブログでは韓国側の間違いを指摘したことがあるものばかりだし(ただし時効の話は新説の珍説なのでまだだが)。

 なお、日本政府が1953年7月13日韓国に送った口上書で、「韓国が独島に対して歴史的で行政的に正当な権限を有していたとすれば、日本政府に抗議するに妨げなかった」と述べたというのは、私が持っている資料では確認できなかった。ただ、この文章でも、日本政府は抗議の不存在を「竹島は韓国の領土ではなかったんでしょ?」ということと結び付けているわけだ。



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竹島編入と抗議不存在(4)

 永島は、韓国が外交権を剥奪されて保護国になった後には官庁間の連絡関係と日本と韓国王室の関係はかえって密接になったし(永島がいう「皇室間外交」)、このような側面で、保護国下で韓日間の連絡通路はかえって強化されたという。また「明治天皇の韓国皇室に対する格別の配慮」に言及している。「連絡通路の強化」と「格別の配慮」をどういう意味で使ったのか疑わしい。例えば、韓日併合条約第3条と第4条では、日本皇帝は韓国皇帝と皇族に相当な名誉と待遇を享有するようにして必要な資金を供与するとなっているが、これを「格別の配慮」と見て、韓日併合後の韓国皇室の「業務」を掌握するために日本宮内省管轄下に李王職を設置したことを「連絡通路の強化」と解釈するようだ。このような表面的で形式的な「連絡通路の強化」と「格別の配慮」が自由な意思表出と伝達につながったと見るのはナンセンスだ。格別の配慮は懐柔策の一環であり、李王職の設置は韓国王室に対する統制機構だっただけだ。
 永島は、外交権剥奪以前の韓国の外交が、日本の保護国になった以後(日本の)内政に吸収されることによって韓日間の外交は「内政化」したという論理を展開している。彼の論旨によれば、外交の内政化は国家間の儀礼も手順を踏まなくても良いので、国家間の外交問題を意思疎通がはるかに容易な内政問題として扱うことができるようになったので、独島編入問題も自由に扱われて韓国の抗議も可能だったということだ。当時の韓国が独島問題に対して日本に抗議できる機会とルートははるかに多くなって「強化」されたということを強調するのだ。可能な話なのか。国家間の境界が崩れた植民地下では、全てのものが帝国の「内政」に収束されて接触と疎通の機会が多くなる。そのために被植民国の抗議がはるかに容易になるという論理のようだが、現実的には正反対だ。永島の表現によれば外交が内政化することによって「連絡パイプがかえって強化された」ということは(103)、実質的には支配構造が強化されて垂直的連絡パイプが緊密になったという意味だ。永島が主張する表面的で形式的な韓日間外交の「内政化」とは、実質的には日本の韓国「隷属化」であるだけだ。したがって、外交の内政化が決して円滑な抗議や水平的疎通の強化を意味しない。むしろその反対に解釈することが妥当だ。内政化は支配体制強化の一環と見るべきで、支配体制強化は抑圧の常時化を招いて、疎通と抗議を不可能にすると理解するのが整合性がある。
  永島の論文により彼の結論を批判的に解釈すれば次のとおりだ。「統監府を通じないでカウンターパートである内部と事務連絡などが可能だった」という点を挙げて、「韓国は外交権を剥奪されたので日本政府に抗議することが不可能だった」ということは事実ではなく成立しないという(96)彼の論法は飛躍だ。通信管理局が韓国政府の内部と疎通ができたのだから、独島編入に対しても韓国政府または内部は日本政府に十分に抗議できたという主張であるようだ。ここでいう「事務連絡」などは、「韓国通信機関委託に関する取極書」に基づいた通信業務に関連する実務や技術的な部分に関連したことを意味するだけだ。このような緊密な連絡を通じて、日本は統監府統治の効率性を高めるために通信業務をより一層円滑に運営する必要がある。通信業務に関連した実務や技術的な連絡が可能だったといって、日本の独島編入に対して外交的抗議が可能だったと解釈するのは無理な推論だ。
 実務や技術的業務のための連絡と高度な政治性を帯びる外交的抗議という全く違うレベルの事項を同じ水準で論じること自体が合理的ではない。極端な例で言えば、総督府内の韓国人公務員が総督府の日本人職員と業務連絡が緊密に成り立つといって、韓国人公務員が総督府の日本人職員や総督府に向かって韓国の独立について自由に議論や抗議をすることができたのだと予断するようだ。現実的ではない。総督府下では韓日間の内政化がさらに強化されたが、なぜ韓国は日本に自由に独立要求をしなかったかを尋ねているのと違わない。

4. 領有権問題における抗議の不存在について
 主観的な推論を多少加味して、永島論文の論旨と意味を整理すれば次のとおりだ。日本の統監府統治は韓日間の外交を内政化して政府間の連絡通路を強化した。したがって、韓国政府の意志が日本に伝えられる機会と可能性はかえって大きくなった。それにも関わらず、韓国政府が日本の独島編入に抗議をしないのは韓国政府が日本の独島編入を黙認したり承認したと見ることができる。したがって、日本の独島編入は合法的で正当なのだと主張するのが永島の論文の要旨だ。永島は、韓国が抗議をしなかった、または抗議をできなかった「沈黙」を「黙認」に置き換えている。沈黙と黙認の法的効果に関しては論議がある。沈黙は意志表示をしなかったというだけで、黙認は暗黙的承認を意味する。永島の論旨は、当時の日本の独島編入状況を極めて正常なものと見なしてから出発するのだ。
  彼の論旨を理解するために当時の状況を簡単に整理すれば次のとおりだ。島根県第三部長神西由太郎と中井養三郎一行は、独島調査のために1906年3月26日隠岐を出発した。そして独島調査を終えた後、風浪に会って「偶然に」 3月27日鬱陵島に到着する(注21)。一行は翌日沈興沢鬱陵郡守を訪問して、日本領土になった独島を視察してここに来たという趣旨の話をする。これを伝え聞いた沈興沢は、翌日、神西一行が来て「独島が日本の領地になった(独島が今為日本領地)」と言ったので、これを報告するので検討を望むと李明来江原道観察使代理に報告した(注22)。李明来の報告(5月7日受付第325号)を受けた参政大臣朴斉純は、5月20日付指令第3号で「独島領地説は全く根拠がないが、該島(独島)の状況と日本人がどのように行動したかを再び調査して報告せよ」(来報閲悉 独島領地之説は全属無根だが、該島形便と日人如何行動を更為査報すること)と指示する(注23)。


(注21) 『山陰新聞』 1906年4月1日
(注22) http://blog.naver.com/isoword/110140364870(検索日:2020.10.23)
(注23)オム・チャンホ(2007) 「開化期独島の研究成果と争点」 『韓国史学報』28(高麗史学会) p310;各観察道案第1冊 光武10年4月29日の条 「報告書号外に対する指令第3号」

 ここで知ることができるのは、沈興沢が日本の独島編入の事実を「偶然に」知ることになったということだ。もし独島視察に出た神西一行が風浪に遭わなかったなら独島(翻訳者注:鬱陵島のまちがいかな)に立ち寄らなかったわけで、沈興沢も日本の独島編入の事実を知ることができなかっただろう。また一つは、朴斉純が独島領地説は全く根拠がないが独島の様子と日本人の動向を再び調査して報告しろといったことで、韓国政府が日本の独島編入を承認したり黙認する意思がなかったということを公式に確認することができる。これを総合すれば、日本の独島編入の事実を偶然に知ることになった韓国政府は日本の独島編入を否定して事実調査を指示したが、日本政府に公式抗議をするまでは至っていないのだ。
  推論をすれば、日本政府から公式通知を受けなかった朝鮮政府は日本の独島編入を確定的事実として認識できず、「説」(独島領地之説)と認識していたし、これを確認するために「島の状態と日本人の行動をよく調べて報告せよ」とした。朝鮮政府のこのような措置は、日本の独島編入を確認して抗議をするための準備作業だったと見ることができる。さらに言えば、抗議のための準備を進めたが、先に述べた通り統監府下で醸成された政治的状況のために抗議をすることができなかったと見ても無理ではない。
 日本は編入の事実を官報にも掲載しないなど編入に対する公示が充分でなかった。何より重要なのは、韓国が知らないまま編入をしたという点だ。日本が主張するように、無主地先占の場合に周辺国または関連国に対する通告義務に関しては論議がある。しかし、後述するように、独島が韓国の領土である可能性を認知していながら隣国である韓国に対して通告をしない点などに照らして見た時、日本の措置が充分でなかったという点に関しては非難の余地がある。これは日本の研究者も一部認める部分だ(注24)。これを永島の論文と関連して言えば、韓日間の外交が内政化した統監府下でも、日本は韓国に対して独島編入の事実を公式に知らせたことがないという点を指摘する必要がある。英国とノルウェーの間の直線基線問題を扱った1951年の国際司法裁判所の判決に見るように、黙認を主張するためには「相手方国家が十分に認知している状況(公然性)」でなければならないのだが(注25)、朴斉純の指示から見た時、公然性があるとは見難い。言い換えれば、日本は直接通告することもなかったし、韓国が偶然に知ることになった事項を置いて抗議しなかったという事実だけを強調するのは、日本は正式に通告する意思がなかったが、充分でもなく偶然に認知をすることになった韓国は直ちに抗議をするべきだったと主張するようだ。「偶然」に便乗して領土編入を正当化しようとする行為と見ることができる。日本が正式に通告をして主権が制約されていなかったとすれば韓国は抗議をしたということは、朴斉純の指令でも十分に確認することができる。
  日本が正式に通告をしたとすれば、神西が風浪に遭わなかったとすれば、独島問題はどのように展開したか? 永島を始めとして日本側が韓国の沈黙を問題にするのは、次のような含意がある。領土問題で沈黙や黙認が問題になるのは、先占と時効取得(acquisitive prescription)においてだ。先占の場合には先占の合法性と正当性が核心であり、黙認は実効的支配を強化する要素であり法的権利主張のための本質的要素を構成しない。しかし、時効取得の場合は占有が平和的に「一定期間」持続することが権原主張のための不可欠の核心要素だ。黙認の存在が認められなければ取得時効を援用できないのだ(注26)。

(注24)濱田太郎(1997) 「竹島(独島)紛争の再検討ー竹島(独島)紛争と国際法、国際政治 ―(二)」『法学硏究論集』 (亜細亜大学大学院法学研究科) p135〜136
(注25) http://m.blog.daum.net/1life1love/2038100(検索日:2020.11.03)
(注26)キム・ソクヒョン(2012) 「時効による領有権取得」 『国際法学会論叢』57(4) (大韓国際法学会) p47


<コメント>
 はい、妄想が炸裂し始めましたよ。イ・ソンファンさんは「それにも関わらず、韓国政府が日本の独島編入に抗議をしないのは韓国政府が日本の独島編入を黙認したり承認したと見ることができる。したがって、日本の独島編入は合法的で正当なのだと主張するのが永島の論文の要旨だ」と言うけれども、そんなことを永島論文のどっから読み出すのかね。

 韓国政府の黙認とか承認があったから日本の竹島編入は合法で正当なのだ、なんてことを日本側で主張する人っているの?
 問題はそれ以前の話であって、「竹島は韓国の領土ではなかったから抗議しなかったんでしょ?」という単純な話ですよ。

 イ・ソンファンさんの心の中には1905年時点で独島は韓国の領土であったという間違った認識があるから、韓国政府が黙認とか承認をしたとかしなかったとかいう発想が出て来るのです。





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竹島編入と抗議不存在(3)

日本の独島編入と韓国の抗議不存在に関する検討
永島広紀 「「内政」化する韓日の「外交」」(注1)に対する反論
イ・ソンファン/啓明大学人文国際学部日本学専攻教授
嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第29号 (2020.12.30) p7

3. 永島の論旨に対する評価
  永島の論旨が成立するためには、統監府統治の本質を把握しなければならない。これについて永島は、「統監府がいかなる人的規模を持っていかなる業務を行ったのかに関しては驚くほど研究が進行されておら」ず、統監府時代を総督府時代の前史程度で取り扱っていると指摘する(94)。韓国と日本での研究が総督府の植民地支配に集中しているという永島の指摘に一定部分同意するが、これはまた別の意味では、統監府時代や総督府時代にあっての日本の韓国支配が本質的に大差なかったために「前史」程度で扱われていると見ることができる。それは置くとしても、統監府と総督府時代に対する評価は、伊藤博文に対する両国での評価が象徴するように両国の見解の違いが顕著だ。これについての議論は本論文の主な対象ではないので、詳しい言及は省略する。 ただ、論旨展開のために統監府統治の本質を把握する必要があるので、事実に立って次の事項を簡略に整理しておく。
  まず、露日戦争の直後である当時の韓国は、ほとんど日本の戦時軍事体制下にあったという点を指摘しておきたい。露日戦争が終わったにも関わらず、日本は韓国駐屯軍をより一層強化した。 1905年10月には従来の後備兵中心の朝鮮駐箚軍を撤収して、戦時中に新しく編成した13師団と15師団を韓国に派遣して、咸興と平壌にそれぞれ司令部を設置する(注8)。そして戦時中に実施された軍律もずっと維持する(注9)。韓国は露日戦争期の戦時体制が続いていたのだ。このような状態で、日本は1905年11月に強圧的に乙巳(「保護」)条約を締結して韓国の外交権を剥奪して保護国化した。日本軍による戦時体制下で韓国政府が何をすることができたかは推し量って察することができる。一般的に、統監府時代は日本が韓国の外交権だけを剥奪したものと認識されている。乙巳条約第3条には「統監は全面的に外交に関する事項を管理するために京城に駐在」するとして統監と統監府の役割を限定している。しかし、永島論文で統監府の通信管理局が韓国の通信業務を掌握していることで分かるように、統監府は韓国の外交だけでなく内政も外交に関連があるという論理で実質的に内政まで掌握していた(注10)。


(注8) 金正明(1967)  朝鮮駐箚軍歴史:日韓外交資料集成 別冊1 (巖南堂書店) p87~96。大江志乃夫(2001) 『世界史としての日露戦争』 (立風書房) p701~702
(注9)ソ・ミンギョ(2018) 「日帝強占期 龍山基地の軍事戦略的機能について-1904年露日戦争から1930年代満州事変期の‘朝鮮軍’の役割と機能-」 『ソウルと歴史』 98号 (ソウル歴史編纂院) p241
(注10) 外務省編(1958) 『日本外交文書』 (日本国際連合会) p506、517 ;イ・ソンファン、イトウ・ユキオ(2010) 『韓国と伊藤博文』 (仙人) p238

 「統監府及び理事庁官制」(1905.12.20 勅令第267号)には、統監は外交権とは全く関連がない「韓国守備軍の司令官に対し兵力の使用を命じることができる」となっている。また、中央政府の外交権だけを代理するためには、各地方の理事庁は必要ではない。理事庁は外交と全く関係ない日本軍の出兵を要請することができるし、理事庁令を発布して罰金、拘留または過料の罰則を賦課できる権限を有していた(統監府及び理事庁官制第25条)。これは、理事庁が実質的な地方統治機構だったということを意味する(注11)。1906年6月から始まった第1期警察強化政策を通じて十三道の観察府所在地に警務顧問支部を設置して、全国26ヶ所に分遣所、122ヶ所に分派所を設置した(注12)。これは、規模は多少小さいが、韓国の警察と同じ組織形態を備えていたものだ。日本が実質的に韓国警察を「指導」監督していたのだ。そして中央政府では伊藤統監が韓国の閣議に「直接参加してこれを‘指導’」していたし(注13)、統監官舎では韓国の各部大臣が参加する「韓国施政改善に関する協議会」を開催して韓国の内政を掌握していた(注14)。伊藤博文が在任する3年6ヶ月の間に77回の施政改善協議会が開催されたが、これは1ヶ月に二回の割合だ。伊藤博文自身も1905年11月と12月の演説で、「韓国国民に対して外交権および国防権を日本に‘譲歩’するようにして独立を有名無実にさせた」と公言している(注15)。

(注11)ハン・ジホン(2017) 「1906~1910年統監府理事庁研究」(淑明女子大学大学院博士論文)
(注12)金正明(1964) 『日韓外交資料集成』第8冊 (巌南堂書店) p137~139、145 ; 松田利彦(2009)『日本の朝鮮植民地支配と警察』 (校倉書房)(イ・チョンミン、イ・ギョンシク、キム・ヒョン翻訳〔2020〕、『日本の朝鮮植民地支配と警察』 (京仁文化社)
(注13)木村幹(キム・セドク翻訳、2017) 『大韓帝国の崩壊と影』(チェイエンシ) p381
(注14)伊藤之雄(2010) 『伊藤博文と韓国統治』 イ・ソンファン、イトウ・ユキオ(2010) 前の本 p32
(注15)博文館編集局編(1910) 『伊藤博文演全集』 (博文館) p277~281 (翻訳者注:「伊藤博文演説集」かな?)

  統監府に外交と関連がない総務長官、農相工務総長、警務総長などを置いていたのは、韓国の内政を掌握するためだ。そして高宗に対しては、木村幹が指摘するように、伊藤博文は高宗の外国公使との面会に長谷川好道韓国駐在軍司令官の同席を要求したし、王宮の警備も日本の顧問警察が担当することにしていた(注16)。1906年7月7日には宮禁令を下して宮廷の六門に日本人巡査を配置して出入りを統制した(注17)。伊藤博文は1905年11月15日乙巳条約締結のための特使として韓国に来た時、高宗に反日指向の儒学者との接近を警告して一挙手一投足を「日本軍が探知している」と威嚇したことがある(注18)。このような状況は、高宗が常時的に日本の監視と威嚇の下にあったことを物語る。このような状態で永島がいう自律的な皇室外交は可能ではないと見るのが自然だ。
  上のような状況を考慮すれば、当時韓国が日本政府(統監府)に向かって自由に抗議の声を出すことは不可能だったと見るのが合理的推論だ。乙巳条約締結当時にハン・ギュソルなどが強く反対したにもかかわらず伊藤博文は威圧的に条約を成立させた事実に照らしてみれば、ある程度推論が可能だ。その延長線上で考えれば、韓国政府が日本の独島編入に対して抗議をしてもそれが正常に受け入れられるわけがなかったという点も事実に近いだろう。このように威圧的な状況を作っておいて韓国が抗議をしなかったということを問題にするのは納得するには難しい。したがって、永島の分析は、統監府統治の本質に対する誤った理解や形式だけを見て実質的意味を無視した一方的解釈から来る誤りと見える。


(注16)木村幹(2017) 前の本p380~381
(注17)金正明(1964) 『日韓外交資料集成』第6冊(上) (厳南堂書店) p242~244 ; 同じ本 第8冊p123~133
(注18) 春畝公追頌会(1940) 伊藤博文伝〈下巻〉 春畝公追頌会p689 ; 伊藤之雄(2010),前の論文p33

  2008年、国際司法裁判所(ICJ)はペドゥラ・ブランカ、ミドル・ロックス及びサウスレッジの領有権判決で、英国の被保護領だったマレーシアが英国に対して反対意見を出すのが難しかったという点も考慮しなければならないという意見を表明した(注19)。統監府と韓国政府の間に往復文書があったということだけで統監府統治=保護政治が肯定的に作用して韓国の自律性を強化したように解釈するのは、当時、表面的には韓国の「文明化」を大切にするとして、実質的には韓国の植民地化を推進したことと同じ二律背反的な論理だ。統監府と韓国政府の間に往復文書があったという部分的で形式的な現象を持って、統監府統治の本質を肯定的に評価する認識の誤りと見える。これは部分で全体を説明する方式であり、表面的・形式的なことで実質的内容を規定する論理だ。しかし部分の合計が必ず全体を規定するのではなくて、形式と内容が必ず一致するのではないという一般論を抜け出した過度な解釈だ。
  以上のような議論を前提に、永島が提示する事項に対して具体的に検討すれば下記のとおりだ。まず、彼が指摘している高宗の外交活動は、先に述べた通り、概して統監府の統制下で行われた儀礼的なものが大部分で、皇室訪問などには伊藤博文など日本側の要人が同行していた。 (永島が論文で提示している日本皇室の特使派遣は、大部分が独島編入の事実が韓国に知らされる前に行われたものだ。) だから、独島編入のような日本政府の政策に正面から反発する抗議などは難しかっただろう。そんなことをした場合、高宗の地位まで脅威を受けただろう。永島は1907年のハーグ密使事件を高宗の積極的な外交活動の例に挙げているが(102)、この事件を口実として高宗は日本によって強制退位させられたというのは広く知られた事実だ。事前にロシアの招請を受けてハーグ万国平和会議に密使を派遣したことが王位退位に連結される状況で(注20)、自由な外交活動が可能だったと見るのは誤った解釈だ。時間差はあるが、ハーグ密使事件に照らして見れば、独島編入に対する抗議がいかなる結果を招いたかは推し量って察することができる

(注19) The Pedra Branca Case, Declaration of Judge Ranjeva. para. 2 ;キム・ヨンファン(2008) 「ペドラ・ブランカ、ミドルロックス及びサウスレッジの領有権に関するICJ判例分析」 「国際法学会論叢」53(2) (大韓国際法学会) p25 再引用
(注20) ハン・ソンミン(2015) 「第2回ハーグ万国平和会議特使に対する日本の対応」 『韓日関係史研究』51 (韓日関係史学会) p366~368

(この項 続く)


<コメント>
 「当時韓国が日本政府(統監府)に向かって自由に抗議の声を出すことは不可能だったと見るのが合理的推論だ」というのが、この論文でイ・ソンファンさんが一番言いたいことですが、もちろん間違いです。竹辺浦の海軍望楼跡地売買事件と早稲田大学学長処分要求事件について、イ・ソンファンさんは言及しません。

 ハーグ密使事件が竹島問題の中で取り上げられることはめったにないので、ちょっとコメントを入れときます。

 元の永島論文では、高宗が多くの日本人その他外国人との謁見を行っていた事例を紹介した後に「仮に竹島/独島の領有が韓国の廟堂内で問題化していたのであれば、さまざまなチャンネルを駆使して抗議することが可能であったはずであるが、少なくとも皇帝たる高宗にそのような素振を確認することは出来ないのである。実際、1907 年に高宗は日本の「侵略」を世界に訴えるべくハーグに密使を派遣しているのであるから…。」と述べてあって、あまり明確にではないが、ハーグ密使事件においても、高宗は日本の竹島領土編入を問題にしなかったではないか、という趣旨を書いてあるようだ。

 これに対するイ・ソンファンさんの反論は、反論になっているようでなっていない。彼が言っているのは、密使事件のために高宗は退位させられる羽目になったのに、竹島編入を知った時に抗議なんかしたらどんな目に遭わされたか分かったもんじゃない、竹島のことなんか言えるはずがなかった、ということです。この言い方は永島論文の論旨に気づかなかったか、あるいは気づいても知らんふりをしたのか分からないですが、どっちにせよ、なぜ高宗は密使たちに「日本は独島を侵奪した」と言わせなかったのか、という問いに対する答えにはなっていない。何てったって、密使たちは思いっ切り日本非難をするために送り出されたんですからね。

「ハーグ密使も竹島のことは言わなかった」 https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-1132.html








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竹島編入と抗議不存在(2)

2. 永島論文の要約と論点
 永島論文の内容と論点を簡略に整理すれば、以下のとおりだ。1906年7月13日付『皇城新聞』と『大韓毎日申報』雑報欄には「鬱島郡(鬱陵郡)の配置転末」と「池田公函」という題名の記事がそれぞれ載っている。『皇城新聞』の記事は、統監府が韓国の内部に鬱島郡の設置時期と管轄島嶼について照会をして内部が回答した内容を含んでいる。『大韓毎日申報』の記事は、統監府の通信管理局長池田十三郎が「江原道三渉郡から分設した鬱島郡の面名と洞号及び設置年月日を明らかにして録交せよ」と問い合わせた事実だけを報道して、内部の回答内容に対する言及はない。
 二つの新聞の報道内容を総合すれば、通信管理局長池田十三郎が鬱島郡の設立時期と管轄島嶼を問い合わせて、これに対して内部が答えたということだ。『皇城新聞』 記事では、統監府の照会に対して内部は鬱島郡の管轄島嶼を「竹島 石島」と回答したことになっている。つまり、内部は大韓帝国勅令41号を回答の根拠としたのだ。ここで、永島は、『皇城新聞』 記事にある石島とはどの島なのか、すなわち独島なのかという疑問を提起しているが(93、本文括弧の中の数字は永島論文のページ)、それ以上具体的議論はしなかった。その直前に沈興沢が「本郡所属独島」と政府に報告したにもかかわらず独島ではなくて石島がなぜ再び登場するのかという疑問と共に、勅令41号の石島と独島は一致しないということを指摘しようとするものと推測される。
  統監府が鬱島郡の設立時期と管轄島嶼を公式照会したことに対して内部は公式的な勅令41号で答えたのであり、もし内部が管轄島嶼を「竹島 石島」と言わずに「竹島 独島」としたなら勅令41号が問題化するはずだ。また、永島は、この新聞記事が、時期的に日本の独島編入を認知した沈興沢の報告を受けた李明来江原道観察使代理が1906年4月29日政府に報告した事実が1906年5月9日の『大韓毎日申報』と『皇城新聞』に報道された直後に出て来たという点を挙げて、記事は日本の独島編入措置と関連があり得ると推測しながらも直接的な関連性は否定している(97~98)。すなわち、陰謀説的な見解として、統監府が日本の独島編入に対する韓国政府の反応を調べて見るために鬱陵郡の設置時期及び管轄範囲などを照会をした可能性があると推論する。
 日本政府が韓国政府に独島編入を正式に通告もしない状況で、彼の指摘のとおり迂回的に韓国政府の反応を探索しようとしたとすれば、日本政府(統監府)のこのような態度は不適切だ。独島は落島なので通信関連業務とは関連がない地域だ。だから統監府が独島を念頭に置いて通信関連業務のために鬱陵郡の設立時期や管轄範囲を問い合わせるのは自然ではない。このような点から見れば、通信関連業務を口実にして鬱陵郡の管轄範囲に独島が含まれるかを間接的に確認しようとする意図があったと見える。 韓国領である独島を編入したことに対して、韓国の反応に一種の不安感を有していたためだろうか。陰謀説的な視点から見れば、もしこのような探索を通じて日本の独島編入に対して韓国政府が日本に抗議する意志があるということが探知されれば、韓国政府の抗議を事前に遮断しようとする目的があったのではないかと考えて見ることができる。
  論文での永島の関心は、当時、統監府通信管理局長である池田十三郎が、鬱陵郡に対して韓国政府に問い合わせた事実を端緒にして、当時保護国下にあった大韓帝国と統監府(日本政府)の交渉状態を検証しようとするところにある。検証の目的は、1905年乙巳(「保護」)条約で外交権を剥奪されたので日本の独島編入に対して外交的抗議をすることができなかったという韓国側主張の真偽を確かめてみるためにだ。このために、永島は、1905年4月1日に調印された「韓国通信機関委託に関する取極書」により韓国の通信機関を管轄している統監府外局である通信管理局の組織と運営を分析する。
  通信管理局が管轄する地方の郵逓所は韓国の地方官吏たちが運営と管理の主体であり、その官吏たちは韓国政府(内部)の所属だ。そのために通信管理局を始めとする統監府外局は「独自のカウントパート(韓国の内部-引用者)を持っていたし、官庁間の事務連絡に関することは必ずしも統監府本府を通じないで直接談判ができた。」と指摘する(96)。続いて、彼は、このような状況を勘案すれば、「保護国下で韓国は外交権を剥奪されたので日本政府に抗議することは不可能だった」という「お決まりの」主張は「実体とは完全に正反対であり、かえってカウントパート間でより一層緊密な連絡関係を構築していたと言わざるを得ない」(96)と多少性急な結論を下している。
 すなわち、韓国の外交権を掌握した統監府本府の他にも通信管理局のような多様な連絡ルートがあったが、韓国が外交権を剥奪されたので抗議をすることができなかった、またはしなかったという主張は事実に符合しないだけでなく(96)、「史料的な根拠も欠如した非常に苦しい弁明であることが明らかだ」(103)と決めつけている。これを前提に、永島はその後の記述で、奎章閣所蔵の統監府来案(目録番号:奎17849)と統監府来去案(目録番号:奎17850)を使って両国政府の機関間の「緊密な連絡関係を構築していた」という例を提示する。統監府来案と統監府来去案には、1906~1908年ごろに統監府総務長官と韓国政府内部の間の往復文書ファイルがある。
  まず彼は、文書ファイルには「少なくとも統監府本庁(永島は本庁と本府を混用している)と韓国の議政府(内閣)の間に領土問題として鬱陵島や独島を議論した形跡はない」(99)と指摘する。そして、統監府と韓国政府の間では多くの文書をやりとりしたが、国家として最も重要だということができる領土問題が抜け落ちた理由は何かという疑問を提起する。これに対しては、次のような解釈が可能だ。一つは、統監府の総務長官と韓国政府の内部は基本的に韓国の内政に関連した業務を取り扱う機関であり、領土問題に対する抗議など外交問題を扱いはしない。そのために、統監府来案や統監府来去案はほとんど韓国統治すなわち内政に関連した非政治的で技術的、実務的な内容が大部分であろう。また一つは、乙巳条約の強圧的締結などの例に照らしてみた時、韓国の国政を掌握している統監府に対して日本政府の政策に正面から反論する領土問題を提起しても意味がないという韓国政府の判断が作用した可能性もある。これは、領土問題が簡単に扱われる問題ではなかったことや、そういう敏感な問題を扱うことができないほど統監府の韓国支配が威圧的であったことを示すものだと言うことができる。
  実際、当時の韓国には独島問題よりも一層重大な問題であり、外交権を剥奪した日本が韓国を代理して中国と激しく外交交渉を行っていた間島領有権問題に関しても、統監府と韓国政府が相談した形跡はほとんど見られない。付け加えれば、統監府と韓国政府間の間島問題に関しては、韓国施政改善に関する協議会の記録(注5)と旧韓国外交文書付属文書8間島案(注6)等に残っている。これら記録を調べれば、統監府の一方的な指示や、間島の韓国人情況を知らせる間島派出所の報告書などが大部分であり、領有権に関連した内容はない。さらに、統監府は、1909年9月4日に締結された間島協約を約2ヶ月が過ぎた11月1日に、協約締結に関する経緯説明もなしで、朝鮮政府(内閣総理大臣李完用)に通告しているだけだ。

(注5)金正明編(1967) 『日韓外交資料集成』第5、6巻 (巌南堂書店)
(注6)アジア問題研究所(1972) 『旧韓国外交関係附属文書』第8巻:間島案 (高麗大学出版部)

  このような事実から、当時の韓国の領土問題は日本の一方的な措置で行われ、「外交」行為という理由で韓国の介入が許されなかった状況であったことを推測することができる。反対に、統監府が設置されて韓国政府と多くの文書を往復したにも関わらず、日本は独島編入の事実を公式的でも非公式的でも韓国政府になぜ知らせなかったのか、間島領有権問題をなぜ緊密に協議しなかったかなどに対する疑問もある。永島の推論の範囲を超えることができないが、統監府(日本政府)が鬱陵郡の管轄範囲すなわち独島が韓国領であるか否かについて疑問を有していたとすれば、後述するように、「内政」の一環として韓国政府に対して十分に問い合わせて確認できただろう。
  また、論文では、ハワイで韓国人殺人事件が発生した時、統監府は駐ホノルル領事館を通じて被疑者減刑のために努めたし、一定の成果もあったと指摘している。これは「日本政府が韓国を保護国にした以上、日本は邦人(韓国人)保護という国際法的責務を負っていたし、韓国で主張する‘外交権喪失’は、実は対外的な邦人保護義務とその履行義務が移管されたという意味を含むものだ」(99)と記述しているが、何を言おうとするものなのか意味が多少不明だ。永島論文の全体論旨から見た時、日本政府(統監府)はこのように「親切で忠実に」または「善良な意志」を持って韓国の外交権を代理していたという点を浮き立たせて、このように「親切で善意を持っている」統監府に対してなぜ独島問題を抗議しなかったのかと言おうとしたものと理解できるようだ。
  これと関連しては若干の議論が必要だ。海外での日本の「邦人(韓国人)保護」は国際法的責務というよりは乙巳条約第1条に規定されていることであり、海外韓国人の保護措置は、国際社会と韓国政府に対して韓国の外交権や保護権を「誠実」に履行しているということを示すための形式的な措置であり得る。韓国の保護国化を国際的(表面的)に正当化するための行動に過ぎないことだ。 当時、日本の韓国支配政策に対する国際的評価を非常に憂慮していた伊藤博文統監を始めとする日本政府としては、極めて当然の行動だ(注7)。それを独島編入に対する抗議問題に連結させるのは論理的飛躍だ。


(注7)伊藤は保護政治に対する国際的評価を意識して、1906年に英字新聞ソウルプレス(The Seoul Press)を買収して統監府機関紙とした。ソウルプレス(SeoulPress)は国際的に親日世論形成に大きく寄与したと評価される。李修京・朴仁植(2008) 「ソウルプレス(The Seoul Press)と朝鮮植民地統治政策の一考察」 『東京学芸大学紀要』 社会科学系Ⅰ 59号 (東京学芸大学)。そして、統監府は1907年から韓国改革に対する英文報告書(AnnualReport on Reforms and Progress in Chosen)を作成して西欧の公使館に配布していた。

  統監府と韓国政府間の文書往復を示す他の事例として、韓国の法部が江原道平昌郡の郵便所主事を兼ねた郷長を逮捕したことに対して統監府が抗議した文書を例に挙げている。統監府の通信管理局長が韓国政府の法部大臣に郵便所の韓国人官吏を逮捕した経緯の説明を要求して、これを事前に通告しなかったことに対して抗議する文書だ。このような抗議を、永島は「日本側が韓国官僚を保護」した事例として提示している(103)。これは韓国官僚を保護するためというよりは、永島も書いているように、韓国人職員の逮捕で郵便所の「業務に大きな支障を招来」することを憂慮した実務的な措置と見るべきだろう。また、「日本側が韓国官僚の保護」措置を取るのは内政干渉に該当することであり、当時統監府が韓国の内政を掌握しているという証拠でもある。統監府外局が統監府本府を通じないで法部大臣に直接抗議の公文書を送るのも通常的ではない。統監府と韓国政府の実質的な位階を見せる資料といえる。
  最後に、永島は、徳寿宮李太王実紀に出てくる高宗の外国使節(日本公使、統監などを含む)面会記録を利用して高宗の「活発な」皇室外交を紹介している。統監府設置以後も、高宗は統監、日本公使と頻繁に面会していたし、アメリカ及びドイツ公使、前清国公使、イタリア艦長などとも面会して多様な外交活動をしていたというのだ。これについて、永島は、「大韓帝国の‘外交権喪失’は日本政府または第三国に対する連絡ルートが途絶えたことを意味するのではなくて、(……)日本だけでなく各国の使節などに対して皇帝(皇室)は頻繁に謁見をしていたことが確認される」と描写している(103)。すなわち、日本を始めとして公使館は撤収したが、領事を存続している外国との連絡は自由だったために、独島問題を始めとして韓国が外交的抗議をするのは制限がなかったと推論するのだ。高宗はイ・ジヨン(内部大臣)、イ・ジェワン(完順君)などを日本皇室に特使として派遣するなど皇室間にも多様なルートがあったという指摘もする。これを、永島は、「日本側、特に明治天皇は韓国の皇室に対して格別の配慮をしていたということは知られている。それなら‘皇室間外交’という面を考慮すれば、保護国化で日韓間の連絡パイプはかえって強化されたとまで言うことができるはずだ。正に外交が‘内政’化して行ったということができる。」と評価する(103)。明治天皇の「格別の配慮」があったので、韓国皇室は自由に日本皇室に日本の独島編入に対する不当さを訴えたり抗議を表わすことができたという含意だ。永島の他の表現を借りれば、上のような高宗の活発な外交活動に照らしてみれば、高宗は韓国政府(内閣)の意志または通常の外交ルートを通じずとも皇室「外交が可能」であった(100、103)ために、高宗に意志さえあれば、日本の独島編入の不当性を十分に問題提起ができたと推測するのだ。


<コメント>
 下線部分、この長い下らない論文の中で、ここだけは私の見方とイ・ソンファン教授の見方は同じだ。
 統監府の中枢部から鬱島郡の配置の経緯に関する質問を送ったら、「何で6年も前の一地方のことを聞くんですか?」と聞かれるとちょっと説明に困ったでしょう。まさか「領土編入に関して確認するためだ」なんて言えませんからね。その点、鬱陵島の通信組織の改正をする予定があった通信監理局ならば、「いや、今度の組織改正のためにちょっと必要なんでね」と言えたでしょう。以上、「陰謀」をめぐらせてみました(笑)





テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

竹島編入と抗議不存在(1)

日本の独島編入と韓国の抗議不存在に関する検討
永島広紀 「「内政」化する韓日の「外交」」(注1)に対する反論


イ・ソンファン/啓明大学人文国際学部日本学専攻教授
嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第29号 (2020.12.30) p7
http://dokdo.yu.ac.kr/bbs/view.php?no=54&board=b01&re_vars=Ym9hcmQ9YjAxJlBIUFNFU1NJRD1lYzcxOGM5Mzk0OTI0MjNhMzM3MDhmM2NhZTk0ZDdmOSY=


* この論文は、2019年大韓民国教育部及び韓国研究財団の支援を受けて行った研究である。(NRF2019S1A 5B8A02103036)
(注1) 永島広紀(2020) 「「内政」化する日韓の「外交」ー公文書の往来状況に見る統監府「保護」下 の大韓帝国ー」 第4期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書 竹島問題研究会 p93〜106

目次
1. はじめに
2. 永島論文の要約と論点
3. 永島の論旨に対する評価
4. 領有権問題における抗議の不存在について
5. 日本の独島編入とその後の措置に対する評価
6. 結び


<抄録>
  永島広紀の論文は、統監府体制の下で、日本の独島編入に対する韓国の抗議の不存在が日本の独島編入を黙認または承認したものだ、という点を立証しようとするものだ。永島は統監府と韓国政府の間に行われた実務的な書類の往来を韓日間外交の「内政化」と定義し、外交の内政化は韓日政府間の関係を緊密にして韓国政府の意志表出を簡単にしたものだと推論する。統監府体制という垂直的で強圧的な支配体制下での連絡構造の強化は、むしろ日本の韓国「隷属化」を深化させただけのことだ。このような側面を考慮すれば、彼の主張は統監府統治の本質や実体に対する理解不足から来る誤った判断だ。
  例え永島の主張のとおり韓国の抗議の不存在が立証されるとしても、それが直ちに日本の独島編入の正当化に連結されはしない。韓国政府が日本の独島編入の事実を認知した1906年5月以後から韓国の主権が完全に喪失される1910年8月までの約4年余りの間、韓国が沈黙したという理由だけで日本が独島に対して新しい権原を設立できないという点を強調する。領有権を放棄したり譲渡していない状態では、抗議の不存在があったとしても、4年余りの短い期間の実効的支配だけでは新しい権原を確立できないというのが国際司法裁判所(ICJ)の見解だ。


1. はじめに
  韓日間の独島研究には多様な争点が存在して、攻防も激しい。永島広紀氏(以下敬称略)の「「内政」化する日韓の「外交」-公文書の往来状況に見る統監府「保護」下の大韓帝国-」という論文は、色々な争点の中から、日本の独島編入後、韓国(当時の国号は大韓帝国だが、便宜上韓国とする)が日本に抗議(protest)をできなかった、またはしなかった点について論じている。
  この問題は日本の独島編入に対する合法性と正当性の問題と関連するので、韓日の主張は尖鋭に対立している。韓国は、日本に外交権を剥奪された状態だったために抗議をすることができなかったという立場だ。これに対して、日本は、「編入当時の両国の力関係から見た時、韓国の立場に同情の余地はある。 (しかし) ……1905年2月以後の日本の行為に対して(韓国が)抗議できる位置になかったからといって、それが直ちに(日本の独島編入が)無効になったり」、韓国の黙認(acquiesce)が正当化されるのではないと主張する(注2)。すなわち、日本は、当時の韓日関係は無視したまま、韓国の沈黙を黙認ないしは暗黙的承認(implicit recognition)と解釈している。


(注2)太寿堂(1998) 『領土帰属の国際法』 (東信堂) p45

  永島論文はそこから一歩進んで、韓国は統監府の支配下でも日本の独島編入に対して十分に抗議できる状況にあったと強調して韓国の主張に反論している。具体的には、統監府統治下での韓国政府と統監府の間の文書往来を検討して、当時の韓国は十分に抗議をすることができる状況にあったことを浮き立たせて、その延長線上で韓国は抗議をすることができなかったという主張を否定している。
  独島問題と関連して永島の論文が上のような主張をするのは、次のような含意がある。まず、日本が独島編入に対する韓国の抗議の有無を問題にするのは、その前1905年2月の日本の独島編入を既定事実化するためのものと見られる。論理的に見れば、独島編入の正当性と合法性を先に突き詰めてから、その後に抗議の存否を検討することが順序という側面では本末が転倒したことといえる。それでも永島が韓国の抗議の不存在を論じるのは、独島編入に対して韓国が抗議をしなかつたことを立証すれば、韓国が日本の独島編入を黙認ないしは承認(approval)したと見なすことができて、さらには遡及して日本の独島編入を合法的なものと正当化することができるためだ。 言い替えれば、日本の独島編入措置に対しては韓日間で激しい国際法的な論争が展開しているのに、永島論文は独島編入に対する法的な欠陥や無効(defective or invalid)を韓国の抗議の不存在(absence of protest)を通じて治癒しようとする目的意識を強く内包しているのだ。「一抹の不安を有している」(注3)独島編入措置を事後的に治癒しようとするこのような努力は、日本の独島編入措置の不法/不当性を露呈していると見ることができる。


(注3)中野徹也(2012) 「1905年日本による竹島領土編入措置の法的性質」 関西大学法学論集61(5) 関西大学法学会p56

  二番目に、永島論文が韓国は抗議をすることのできない状況ではなかったという点に焦点を合わせるのは、日本の独島編入と共にその後の実行措置が国際法的にどのように評価されるのかが独島問題で重要なためだ。もし1905年以後の日本の措置が韓国の主権を制約した状態で行われたのならそれは正当な評価を受けにくいし(注4)、独島編入の不完全性も除去されない。つまり、独島編入措置と同様に、その後の日本が取った措置も独島に対する正当な管轄権行使と認められない可能性がある。これを補完するためには、1905年に韓国が形式的には外交権が剥奪されたが、実質的に韓日間には自由な接触と疎通が成り立っていたし、そういう状況で韓国が抗議をしなかったという点を立証して、1905年以後の日本の措置が正当なものと評価される必要があるのだ。

(注4)中野澈也(2012) 上の論文 p62

  三番目に、この問題は統監府の統治に対する評価にも直結する。永島の主張が成立すれば、統監府の韓国支配は日本の韓国に対する善意の「保護」政治だったと評価できることになる。すなわち、統監府の韓国支配は植民地化を指向する抑圧体制でなく、言葉どおり韓国を保護するための措置と解釈されることだ。一般論的な側面から、英国のエジプトやインド支配に見るように、当時の帝国主義時代において他国に対する善意の保護政治は成立しにくいことであったという点をまず指摘しておこうと思う。
 以上のような議論を前提として、本稿では永島の文を批判的に分析し、これと関連して韓国の抗議不存在が独島問題においていかなる意味を持つのかについても検討する。



<コメント>
 下線部分はイ・ソンファン教授のそもそもの思い違いを良く表していますね。日本側が抗議がなかったことを論じるのは、1998年(今から20年以上前)の太寿堂鼎さんの見解はどうだか知らないが、何も竹島編入の正当化などということのためではなくて(もともと単純に正当です)、韓国側が「抗議ができなかった」とウソを言うから「それはウソですよね?」と指摘するだけのことです。その含意というなら、「抗議しなかったのは竹島/独島を韓国領土だとは思っていなかったからでしょ?」ということであって、「日本の編入時点で独島は無主地ではなく韓国の領土であった」という主張がウソだということを指摘するのが本質的な意味ですよ。
 
 しかし、イ・ソンファン教授は、以下、自分で作り立てたこの論文の「含意」を対象として、国際法が何たらという論法を駆使して批判して行きます。日本の竹島領土編入は先占ではなくて「時効取得」ではないかというような奇想天外な話まで出てきますよ。続きに乞うご期待(悪い意味で)



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竹島について言いたかったこと


  竹島問題を知るようになってあちこちの資料を読む中で、これは言っておきたいなと思うことがいくつか生じて来たわけですが、それらについて一通り文章を書くことができました。以下の項目です。これで、差し当たり竹島問題についてぜひ言っておきたいことは書き終わりました。




<太政官指令の読み方について>

太政官指令「竹島外一島」の解釈手順

太政官指令「竹島外一島」が示していたもの

「竹島外一島」の語られない問題

「竹島外一島とは何か」の立証根拠  (2018.05.26追加)


<名古屋大学池内敏教授の『竹島-もうひとつの日韓関係史』に対する反論(特に、外務省の固有領土論に対する変てこな批判に対する反論)>

竹島は「わが国固有の領土」ではないのか




<竹島問題は実は1906年に決着していたという事実>

韓国は110年前に竹島の領有権を放棄した? 謎多き「石島」の真実




<韓国が日本の竹島編入に抗議したくてもできなかったというのもウソであること>

なぜ韓国は110年前の「竹島」編入に抗議しなかったのか




<外務省の竹島広報文の読み方>

「無主地先占論」と「固有領土論」(1~3)




<韓国政府が根拠としている石島=独島説は実は韓国政府自身が否認していたという事実>

石島は独島ではない! 韓国政府は確認ずみ





<韓国政府の本音を日本の外務省は良く分かっている>


韓国政府が国際裁判を拒否する本当の理由




<竹島紛争をどう見るか>

竹島紛争の解決に対する姿勢 (1~4)






おまけ
<「独島」の地図を一枚も持たない韓国が歴史的に独島はどーのと言っても説得力が無いでしょうが>


七重八重 説はあれども 独島の 図の一つだに 無きぞかなしき 

  (日韓交流狂歌集 かえれ竹島編 )



「無主地先占論」と「固有領土論」 3

「無主地先占論」と「固有領土論」の関係

残る批判だが、先に引用した韓国側の批判の中に「独島が自国の固有の領土であるという主張と「無主地先占論」を根拠として独島を編入したという主張が互いに矛盾するということに気付いたため」とか「無主地先占論の主張が自身の主張の2つ目である独島の日本固有領土主張と衝突することになって」という表現があった。韓国の批判者たちは、日本政府の「竹島は日本固有の領土」という主張と1905年閣議決定の考え方である「無主地先占」は矛盾すると思っているわけだ。
そして、こういう批判を見れば、どうも彼らは、日本政府が「無主地先占論」と「固有領土論」という矛盾する二つの領有根拠を主張していると見ているように思われる。だが、「無主地先占論」は領有権の根拠かも知れないが、「固有領土論」というものはそうではない。
先に引用した日本政府の定義によれば、「竹島は日本固有の領土」という意味は「竹島は、一度も他の国の領土となったことがない我が国の領土である」ということだ。これは領有権の根拠を説明する言葉ではない。これは「竹島は日本の領土」という単純な事実の説明に少しばかりの修飾を加えた表現であり、先にも述べたように、竹島は明らかに日本の領土であると強調しているに過ぎないものだ。それは竹島の「状態」を説明する形容句であり、領有権の根拠として述べられているのではなく、領有権の根拠が的確に存在することを別途確認した上で述べられる竹島領有権についての「総合評価」あるいは「結論」なのだ。
竹島は、江戸時代の日本人による利用及び1905年の領土編入決定とそれに続く実効支配という歴史の全体が「竹島は日本固有の領土」と言える状況を構成しているのであり、言うならば「無主地先占論」は「固有領土論」に溶け込んでいる。「無主地先占論」と「固有領土論」というものは存在するレベルがそもそも異なっているのであって、したがって矛盾するということもない。韓国の「独島研究者」たちは、この二つが矛盾すると見て外務省の主張の大弱点を掴んだつもりでいるようなのだが、それは全くの間違いで、彼らは外務省の説明の意味を全く理解できないまま批判しているわけだ。
 
 
「無主地先占」が説明されない理由
 
 日本政府の主張の意味を考えつつ韓国側の批判に反論すれば以上のようになるのだが、もう一つ、少し踏み込んで、外務省が閣議決定を竹島領有権の重要な根拠として提示するものの、その中の「無主地先占」の論理を積極的に説明せずに「領有意思の再確認」という別の観点から説明するという方法を取っている理由について考えて見たい。「領有意思の再確認」という説明自体は理解できるとしても、なぜ文書上明らかな「無主地先占」ということを説明しないのだろうかという疑問があるかも知れないと考えるからだ。
先に結論を言うと、それは、竹島の領有権を説明する上では、「無主地先占」という論理によったことよりも、その結果として竹島を公式に日本の領土とすることを決定したことの方がより重要だからなのだろう。
 竹島紛争に対処する日本政府は、日本には竹島領有権が確かにあるということを主張し説明すべき立場だ。ところで、竹島領土編入の閣議決定は「無主地を先占する」という方式によることと、それによって「竹島を日本の領土と決定する」という二つの要素で構成されているのだが、竹島領有権を説明する上ではどちらがより本質的な事項だろうか。
 国際法の解説では、国家が領土を取得する形式あるいは態様として、発見、先占、添付、割譲、併合、征服、時効などがあることがしばしば説明されるが、ここにあるように、先占(無主地先占)は領土を取得する際の形式ないし態様の一つだ。日本には確かに竹島の領有権があるということを示す上では、そういう領有に至った際の形式よりも、形式は何であれ、確かに日本の領土とすることを決定したことのほうがより本質的で重要なことだろう。外務省が無主地先占に触れずに領土編入を決定したことのほうを強調しているのは、一つにはそういう考えがあるものと思われる。
 それに、竹島の歴史というものを考えた場合、一つの特徴があって、それは、1905年の無主地先占方式による領土編入決定だけでも十分な領有根拠になるのだが、1952年に発生した竹島紛争に対処するために日本政府が竹島の歴史をさらに調べて行った結果、より古い江戸時代に日本人が自由に竹島を利用することによって事実上日本の領土である状態が成立していたという史実が確認されたことだ。そういう事実が確認された以上、1905年の無主地先占方式による領土編入決定は、単に無主地先占であると説明するよりは、既に生じていた領有権を領土編入の決定によって「再確認」してより強固にものとした、という説明の方が歴史の流れに沿った説明になるのではないだろうか。
領土というものは国家にとっての最重要事項の一つだから、一国の政府の領土に対する認識というものは常に首尾一貫していると思われがちだ。大抵の場合はそうだろうが、政府といえども気づかないことはある。明治政府は江戸時代の竹島の歴史には気がつかなかったために、無主地扱いをした。もし知っていたならば、おそらく閣議決定文書の書き方は変わっていただろう。江戸時代の史実と明治政府の判断との間には多少の齟齬と言えるようなものがあるというのが竹島の歴史の一つの特徴――もちろん、その齟齬のようなものは日本の竹島領有権をいささかも損なうものではないが――なのだが、現代の日本政府は、明治政府が気がつかなかったことも含めて全体を説明する立場にある。そこから出てきた説明方法が現在の説明文だ。竹島の歴史を知った上で読めば、無理なく理解できるものだろう。
 
 
おわりに

以上のように見てくれば、竹島領有権についての外務省の説明には格別無理なところも矛盾するところもなく、竹島の歴史を踏まえた妥当なものになっていると言える。韓国の「独島研究者」たちには、研究する前に「ドクトヌンウリタン(独島は韓国の領土)」という絶対に正しい(と彼らが信じている)結論があるので、日本政府の主張を読んでもそれが正しいことを説明しているとは考えることができない。だから、表面的な理解から矛盾しているように見えるものがあれば、その意味を深く考えることなく本稿で取り上げたような短絡的な批判を投げ掛けて来ることになる。だが、「固有の領土」とか「再確認」などというのは要するに説明の仕方だ。外務省がそういう説明をする背景には、はっきりした領有権の根拠がある。説明の仕方は批判できても――その批判自体、でたらめなものだが――背景にある領有権の根拠は揺らぐことはない。それは過去の史実なのだから。

(平成2938日 記)






 

「無主地先占論」と「固有領土論」 2

  これらの批判を整理すると、(1)日本政府は「竹島は日本固有の領土」と言うが、それは閣議決定の「無主地先占」と矛盾する、(2)日本政府はその矛盾をごまかすために竹島の領有意思を「再確認した」と説明するようになった、(3)しかし閣議決定には「再確認」などとは書かれていない、(4)固有の領土ならば改めて領土編入するなど有り得ない、ということになるだろう。そして、つまるところは「竹島は日本固有の領土」という日本政府の主張は虚偽だと言いたいようだ。
そして、そういう批判の正しさ()を裏付けるかのように、外務省の説明においては、閣議決定の内容が「無主地先占」であることには全く言及がない。閣議決定文書の画像は掲示されているが、こういう古い文書になじみのない人にとっては、そこから「無主地先占」の論理を読み出すことは難しいかも知れない。外務省は、閣議決定は竹島領有権の重要な根拠だから提示はするものの、その中の「無主地先占」の論理はあまり知られたくないと思っているのだ、と言えないこともないような説明の仕方になっている。
 何やら分が悪そうに見える外務省の説明なのだが、上に引用したような批判は果たして当たっているのだろうか。もちろん、そうではない。これらの批判は、いずれも外務省の説明の文脈を読み取れないことによる的外れなものだ。
 
 
「再確認」の意味
 
 まず、1905年の閣議決定は「無主地先占」の法理に立っているにも拘わらず、外務省がこれを領有意思の「再確認」と説明していることについて考えて見る。
結論を一言で言えば、これは、竹島の歴史において1905年の閣議決定というものが有している意味ないし意義を表現しているものだ。具体的に言えば次のようなことだ。
竹島(江戸時代には松島と呼ばれた)は江戸時代に日本人が自由に利用していた実績によって事実上日本の領土と言える状態になっていた(外務省はこれを「領有権を確立」と表現している)。ただし、その当時の中央政府(徳川幕府)が竹島を日本の領土として支配管理するという明確な手続きを取っていたわけではない。だから、それは、後年になってもし竹島の領有権が国際的に問題となるような事態が生じたときに、果たしてそれだけで日本の領土だという主張が通用するかどうかははっきりしないという、多少の不安要素も含んだものだったと言える。
 ところが、1905年の閣議決定による竹島領土編入によって、そういう不安要素は取り払われた。既に生じていた事実上の領有権を国際法上も通用する形に更新したことになるのだが、それは、事実上の日本領土という状態にあった竹島について、それを領有するという意思を1905年の明治政府がはっきりと示したということでもある。竹島の歴史全体を眺めて見ればそういうふうに言えるのであって、外務省はそういうことを指して領有意思の「再確認」と言っているものと考えられる。
 ここで重要なことは、外務省が竹島の領有意思を「再確認」した主体を何と表現しているのかということだ。
 
「こうした中、我が国は、1905(明治38)1月の閣議決定により竹島を島根県に編入し、領有意思を再確認すると共に、官有地台帳への登録、あしか猟の・・・・・・」
 
領有意思を再確認した主体は「我が国」なのであって、「1905年の明治政府」とは言っていないのだ。この「我が国」とは一時点の日本を指すものではなく、過去も現在も含めた歴史の主体である日本という国の存在を意味しているのだろう。1905年当時の明治政府は、閣議決定文書から分かるとおり、竹島を全くの無主地と思ってそれを先占するつもりで領土に編入した。それは事実だ。決して「領有意思を再確認するのだ」などという意図で編入を決定したわけではない。ただ、それを後の時代になって振り返って見れば、1905年の領土編入は、日本という国が竹島を領有する意思を再確認したものだったと評価することができるのだ。そういう読み方をすれば、外務省の「再確認」という説明は特に違和感なく理解できるのではないだろうか。
 そうすると、「閣議決定文には再確認とは書かれていない」と言う批判がいかに無意味なものであるかも御理解いただけるだろう。「再確認」とは閣議決定の中身の話ではなく、その閣議決定が有する歴史上の意義についての説明なのであり、閣議決定を少し離れたところから見てその意味を評価した表現なのだ。外務省の竹島領有権の説明は、根拠を列挙するというよりは、竹島の歴史を通じた一つのストーリーのように表現されていることに批判者たちは気付くべきだろう。
 
 
「固有の領土」を編入したわけではない
 
 次の批判のポイント、すなわち「固有の領土」だったら編入する必要がない、という指摘について検討して見る。
 結論を言えば、これはそのとおりだ。批判者が言うように「固有領土を編入するバカな国」はたぶんどこにもない。もちろん、日本という国もそんなことはしなかった。
 ここで、「竹島は日本固有の領土」と言っているのは一体誰なのか、ということを考えて見たい。そんなことを言うと、何を言い出すのか、日本政府に決まっているではないかといぶかる向きもあろうが、これは「竹島は日本固有の領土」という説明を理解する上でけっこう重要なことだと筆者は考えている。
「竹島は日本固有の領土」と言っているのは誰か。それは「現代の日本政府」だ。「現代の日本政府」という意味は、1952年の李ライン宣言によって韓国が竹島を主権範囲に囲い込んだことによって発生した竹島紛争に対処している日本政府ということだ。
「日本固有の領土」という言葉の意味については、筆者は以前にこのiRONNAに投稿した『竹島は「日本固有の領土」ではないのか』という文において、日本政府の定義づけを引用して意見を述べたことがある。日本政府の説明は、「政府としては、一般的に、一度も他の国の領土となったことがない領土という意味で、『固有の領土』という表現を用いている」、「竹島は、我が国固有の領土である」というものだった。この二つの説明を合わせれば「竹島は、一度も他の国の領土となったことがない我が国の領土である」ということになる。そして、これは、別の角度から言えば「古くからの日本の領土である」という意味でもあるし、韓国が「独島は韓国の領土である」と主張することに対して「韓国の領土になったことなど一度もない純然たる日本の領土である」と反論し、明らかな日本の領土であることを強調する表現でもある。
そして、強調表現というものは普段は使う必要がない。強調することが必要になったときに使うことになる。江戸幕府は今の竹島について「日本固有の領土だ」と誰に対しても言う必要がなかった。朝鮮国との間でも他の国との間でも今の竹島の所属が問題になったことはなかったのだから、そんなことを考えるべき状況が存在しなかった。竹島領土編入を決定した1905年当時の明治政府にも「竹島は日本固有の領土だ」と誰かに対して強調すべき事情はなかった。そのころの明治政府は「無主地を先占する(した)」と思っていたのだし、それに対して他国から抗議なども無かったのだから。
ところが、1952年に韓国が竹島を李ライン内に取り込んだことで竹島紛争が発生する。そして、日韓政府間の往復文書による論争で日本政府が竹島は日本の領土であることを丁寧に説明しても韓国政府が一向に理解しないので、日本政府は「竹島は日本固有の領土」と強調することになった。つまり、「竹島は日本固有の領土」という主張は現代の日本政府が竹島紛争に対処する上で言っていることなのであって、明治の政府が竹島のことを「日本固有の領土」などと認識した上で領土編入を決定したのではない。閣議決定文にあるとおり、それは無主地と考えての先占だった。
日本の竹島領土編入に対して「世の中にどこの国が自らの領土であるのが明らかな土地を再度自分の土地だとして編入する国があるのか?」というような批判を言うのは、日本政府の「日本固有の領土」という言葉の意味合いを全く理解できていないための幼稚な批判だ。
 現代の日本政府が「竹島は日本固有の領土」と言っているからといって、それがすなわち過去のその時どきの中央政府がいつも「竹島は日本固有の領土」と考えていたことを意味するわけではない。史実は、過去の日本の中央政府には長い間そんなことを考えるべき状況が無かった。だが、竹島紛争が発生した現代において、改めて竹島という島の過去の歴史を点検して見れば「竹島は日本固有の領土」(過去に他の国の領土となったことは一度もない純然たる日本の領土)と言えるだけの史実が確認できるから、現代の日本政府がそう主張していることなのだ。竹島は、江戸時代の日本人による利用及び1905年の領土編入決定とそれに続く実効支配という歴史を経た結果、「日本固有の領土」と言える存在になったのだった。


(続く)



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Author:Chaamiey
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