FC2ブログ

李栄薫教授 月刊朝鮮インタビュー 4

(続き)


高宗は王室の維持存続しか関心無し」
 
一部の歴史学者は、高宗を自主的改革を推進した開明君主として高く評価する。大韓帝国時代に高宗は一連の自主的近代化の努力をしたとしながら、これを「光武改革」と称賛したりもする。政治家たちもこれに呼応する。大韓帝国宣言120周年となる今年を迎えて、パク・ウォンスン ソウル市長は、ソウルの圜丘壇(ソウル中区にある朝鮮時代の祭壇)から貞洞に至る道を「大韓帝国の道」として造成すると言った。文在寅前民主党代表は新年を「大韓帝国120周年を迎える年」としながら、「高宗が遂げられなかった夢」を云々する話をした。文前代表の話をイ・ヨンフン教授に伝えると、すぐに彼はあきれるというように「ほぉ…彼がそのようなことを本当に言いましたか?」と言ってしばらく会話を閉じた。
 
 
  「光武改革」に対する肯定的評価をどう思いますか。
 
「高宗時代の史料を見た人は、そういうことは言えません。貨幣鋳造、通信、高麗人参税・鉱業税・漁業税・塩税など金になるものは全て、度支部(大蔵省)が管轄する国庫でなく皇室の財政に入りました。軍部が国防予算が足りないと言って高宗に助けを乞い、高宗は金を出しましたが単に下賜したのでなくて貸したのです。一言で言って、高宗は王室の維持と存続の外には関心がなかったし、王国を自身の家産と考えた人です。」
 
イ教授は、「高宗が開明君主であって彼が近代化の努力で相当な成果を挙げたという主張は、高宗時代の膨大な史料に対する分析無しに、教授という身分的威勢を利用して社会的名誉を得るための学問的詐欺に過ぎない」と断定した。
 
 
1948年の大韓民国の建国に対してはどうしても否定的な、いわゆる進歩と言われる人々が、1897年の大韓帝国宣言は愛情を持って見る理由は何ですか。
 
「朝鮮時代の性理学と部族主義的な民族主義の変態としか言うことができません」
 
 
朝鮮末期に追求した「独立」は「日本からの独立」ではなく「中国からの独立」だった、ということを分からない人が多いです。米国と日本に対しては大声を上げながら中国には何も言えない人も多いですね。
 
「朝鮮時代の延長で現在を感じる傾向がまだあります。盲目的に親中の立場を表明する国会議員たちもそうですが…。中国は経済が発展したとは言ってもまだ<私的自治の主体としての個人>を知らない非近代社会です。私たちが尊敬できる国ではありません。ソウル大学は、20147月に習近平中国国家主席が立ち寄った際に図書館で座った席に金鎖を巡らせて二人が座った席だという表示をして聖地化しています。こういうものを見れば、私たちの意識の中に暗黙的に小中華論的な傾向があるようです。」
 
 

 日本は定住型泥棒


 1998年、全南霊光のシン氏一族に伝わる古文書を調べるのに先立って、イ・ヨンフン教授とシン氏一族の人々が霊廟に報告している。


 
すると韓国の近代はいつから始まったわけですか。


「私は、1912年に朝鮮総督府が<朝鮮民事令>を公布したところから近代が始まったと見ます。近代とは、個人の財産権が保障されて<私的自治の主体としての個人>が認められる社会をいいます。これは法的には民法(Civil Law)を制定することで表現されます。」


イ・ヨンフン教授は、「朝鮮民事令の公布は解放以後から今日の私たちの経済・社会にまで影響を及ぼした事件で、鉄道や工場などのインフラ建設よりもはるかに重要だ」と強調した。


「なぜ、ある国は良い暮らしができて、ある国はできませんか? 新制度経済学を創始したロナルド・コース、ダグラス・ノースは、<私有財産を核心とする制度>の確立の有無に回答を求めました。私有財産の保障は民法が制定されてこそ可能です。」
 


そのような話をすれば「植民地近代化論」だという声を聞きます。


「部族主義的排他性から出て来る声です。日帝時代に近代化がなったのでなければ、私たちはいつから近代化したんですか? 日帝時代に進行した近代化が歪曲された近代化ならば、真の近代化はいつから進行したんでしょうか?
 我が国の歴史の本のどこを見ても、いつから近代が始まったのか記述したものがありません。韓国史の本のどこを見ても、今日の経済体制を成立させた歴史的事件や契機に関する大きな項目がないです。市場経済の中の人間は、身体の自由と財産権の主体としてすなわち自由人です。韓国はいつから自由人でしたか? 韓国で私有財産制度はいつ包括的に成立しましたか? このような質問を投げかければ答える学生がいないんです。韓国の歴史学、経済学、政治学、法学は答える準備ができていなかったり、とんでもない答えばかり言います。」


 
日本は私的自治を基盤とする経済的自由は認めたものの、政治的自由は全く認めなかったという点から、真の近代だと言うのは難しいのではないですか。


「それはもちろんです。私は日帝の植民統治が良かった、正しかったと言うわけではありません。日帝は、例えて言うならば<定住型泥棒>ということができます。一度に食いつぶしてしまおうとしたのではなく、最初から韓半島に座り込んで自分たちの土地に作ろうとしました。そのために自分たちの経済制度を移植したんです。日帝が制定したものではありましたが、解放後の大韓民国は、日帝が作っておいた民法が世界史的普遍性を持つものだと感じてそのまま継受しました。反面、北韓は日帝の残滓を徹底して清算すると言って、民法が無い社会、朝鮮時代に戻りましたよ。正にそこが韓国と北韓がその後それぞれ違う道を行くことになった運命の別れ目でした。」
 


朴正煕と韓国型国家革新体制


今年は朴正煕大統領誕生100周年です。解放以後、特に朴正煕時代以後の韓国の経済発展はどのように見なければならないでしょうか。


1963年から韓国経済が高度成長の道に入ったのは、労働集約的軽工業が日本から韓国に渡ってくる「地経学的」条件の変化によったのが大きいです。朴正煕政府はこのような機会を逃さずに、輸出を主な動力とする高度成長の国家革新体制を構築しました。肥料、セメント、精油、化学などの基礎工業に続いて労働集約的軽工業と重化学工業を次々と建設して、世界市場を狙って大規模な投資を敢行しました。大規模投資に伴う非効率さと浪費が無いではなかったですが、経営成果が輸出実績で評価されたので、低い水準で統制ができました。政府・企業・労働者の間の相互誘引と協力の体制が、このような国家革新体制を後押ししました。今日の私たちの経済が体験している困難は、1987年の民主化以後、権威主義時代に構築された韓国型国家革新体制が崩れたけれども新しい国家革新体制を作り出すことができていないところに求めなければなりません。」


(終)




定年退職した経済史学者イ・ヨンフンソウル大学名誉教授
「資本主義萌芽論は大韓民国否定につながる主張」
2017.03.30 月刊朝鮮







 




スポンサーサイト



李栄薫教授 月刊朝鮮インタビュー 3

(続き)

イ・ヨンフン教授は、「このような発見は私がマルクス主義から遠ざかる一つの契機になった言う
 
「マルクス主義がいう「世界史の基本法則」によれば、人類社会は原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義に進んで行くというでしょう。その影響を受けた従来の通説によれば、統一新羅時代を奴隷制の全盛期と、以後高麗時代からは奴隷制の衰退期と見ました。 ところが私が発見した古文書によれば、朝鮮では14世紀から奴隷制が拡大し始めて、1617世紀が奴隷制の全盛期であったことが明らかになりました。こういう現象はマルクス主義の史的唯物論では説明できませんでした。 それは、歴史を理論の枠組みに組み入れて合わせる、いわゆる‘プロクルステスのベッド’の典型でした。事実を知って、次第にマルクス主義から遠ざからないわけにはいきませんでした。」
 
 
最終的にマルクス主義と決別したのはいつだったのですか。
 
1993年でしたか、民主化のための教授協議会から脱退して運動圏教授という荷札を離しました。518光州民主化運動に対する声明書が送られて来たのですが、光州の流血惨劇に対するアメリカの責任を問い詰める内容がありました。韓国をアメリカの植民地であり半封建社会と見なす、私にはなじみのある論理でした。会員たちの意志も確かめずに指導部が一方的に声明を発表する形態にも不満で、脱退届を提出しました。それ以後も「人間の顔をした社会主義」に対する未練はずっと持っていました。そうするうちに、1997IMF事態以後今日の韓国経済の実態を覗き見ることになって、企業と市場、法と制度、社会的信頼の重要性などについて知るようになり、自由主義者として背を向けることになりましたよ。」
 
 
 

 玉山書院の支出簿



1996年、歴史学会が主催した朝鮮時代の奴婢制に対するセミナーで発表するイ・ヨンフン教授

  
  その多かった奴婢はどこへ行ったのですか。


17世紀前半以後、朝鮮は日本と中国間で中継貿易をしながらしばらく経済的繁栄を享受します。それによって農村に定期の市が成立して、貨幣が流通しました。集約農法が成熟して商品生産が促進されました。農家の自立性が向上するにつれて奴婢人口が減少し、小規模家族と世帯が小農として自立することになります。 奴婢人口の減少によって農場は徐々に解体されたわけです。それと共に、先に話した自立型小農が現れることになるわけですね。」


 
― お言葉のとおりならば、朝鮮末期にいわゆる「資本主義萌芽」ないし「近代化の芽」が現れたのですか。


1718世紀には安定と繁栄を享受したものの、このような状況は19世紀になって突然悪化します。100年間の安定と繁栄で人口が増加し、燃料を得るために、あるいは山を開墾して畑を作るために、山の木々を濫伐して山林が荒れ果てます。その結果洪水になって日照りに対する対応力が落ちて、農業生産性が低下して飢謹がしばしば発生します。19世紀は経済水準はずっと悪化して騒動が度重なるが、朝鮮王朝はこれを克服するほどの統治能力を見せませんでした。1860年代に朝鮮の経済は底を打っていました。朝鮮は日帝の侵略以前に滅びたも同然でした。」


  


イ・ヨンフン教授は、「19世紀の古文書を見れば、経済状況が悪くなっているのが目に見える」という。


「慶北慶州の玉山書院に所蔵されている書院の支出簿を年度別に並べて見れば、帳簿の紙質が段々悪くなって、本を綴じる紐も絹から紙に変わります。経済が悪くなれば人間の教養水準も低下するのか、帳簿を書いた文字の水準も教養人の達筆から子供の拙筆に低下しているのが見えます。」


 
結局、「資本主義萌芽かったということですか。


  「普通、織布業が農家の家内副業から社会的副業の一環として分離して農村工業として成立することを資本主義萌芽の出現と見ます。朝鮮ではそのようなことがありません。小農が富農と貧農に分化する代わりに小農に落ち着いて行ったことも、‘資本主義萌芽’が無かったということを示す例です。」


 



資本主義萌芽論」の政治学



   2000年、慶北醴泉龍門面マッチル村で古文書を調べるイ・ヨンフン教授(右端)


 


― それなら、解放から70年を超えて「資本主義の萌芽」を発見しようと努めて来た韓国史学界は空しい苦労をしたようですね。


  「幻想の中で生きて来たわけです。アメリカのカーター. J. エッカートは、韓国人が彼らの歴史に産業革命の種を探そうと努力するのはオレンジの木でリンゴを探すようだ、と皮肉りました。」


  


― 「資本主義萌芽論」がそんなに永く世を風靡した理由は何ですか。


  「その政治的意味合いが強烈だったためです。日本に合併される前に私たちの歴史が正常な道を歩いていたという歴史学者の主張が、現代韓国人の民族主義情緒を満足させたからです。」


 
 イ・ヨンフン教授は、「資本主義萌芽論は、韓国の政治の現実を説明する理論としても役立った」と言う。


  「資本主義萌芽論は、18世紀以来資本主義の萌芽が成熟するにつれ、封建体制を打破するための二通りの努力が現れたと主張します。一つは、19世紀の民乱と甲午農民戦争に見ることができるように<下からの近代化路線>であり、他の一つは封建的支配階層が試みた<上からの近代化路線>ということでしょう。このような努力は全て日帝の侵略で挫折したが、解放後に、農民階級の革命的路線は北韓が、支配階級の改良主義路線は韓国が継承したと主張します。
 このような萌芽論の政治学によれば、1948年に建国した大韓民国は、朝鮮封建体制の支配階級と日帝時代に成長した隷属資本家たちが彼らの既得権を守るために民族分断を押し切って建てた反民族的・半封建的な国家体制であり、大韓民国は統一と共に解体されるべき暫定的な偽善の体制だ>という結論に到達することになります。」





(続く)




李栄薫教授 月刊朝鮮インタビュー 2

(続き)


「おい、この朝鮮の奴らども!」
 


 1978年イム・チャンスン先生の泰東古典研究所で漢学を勉強した時期のイ・ヨンフン教授(右側手前)
 
 
 
  何の仕事をしたんですか。
 
「その会社ではプラスチック容器も作っていたんですが、射出機から出て来る製品の終わりに飛び出してきた部分を整える仕事をしました。でも訓練もさせずにすぐに現場に出すので、どうしたらいいのか分からんでしょ? そのまま大ざっぱに容器を箱に入れて送り出しましたよ。」
 
 
  そうやっていて問題は起きなかったんですか。
 
「起きないはずがないですよ。少し後にその品物が返品になりました。在日同胞である社長が従業員を集めて、ぎゃあぎゃあ大声を出したのです。「オイ、この朝鮮の奴らども! 私の友人は江南に投機しているが、私はそれでもこの国の製造業を発展させたいと思って工場をしているが、みな返品されて来た!」と言いながら「オイ、この朝鮮ノムども! この朝鮮ノムドラ! 」という調子です。その時は内心「あの親日派の奴、いつかただでは置かないぞ」と意気込んだものですが、今考えればその人が真の愛国者でした。」
 
 
  運動はどれくらい継続しましたか。
 
「工場活動から帰って来ても、デモで演説したりしてしばらく熱心にしましたよ。その時相手の学生会長がキム・サンゴン前京畿道教育長でした。 そうするうちに197110月に衛戍令(反政府運動の激しい大学が休業させられた)が下されて除籍されましたよ。朴正煕大統領が全国の大学で110人を除籍させて絶対に復学させないと宣言しました。28師団で軍服務をして帰ってきて、その間に政府の方針が緩和されていたので1976年に復学しました。ですが、既に一緒に学校に通った友達もいなくて、運動に興味を無くすことになりました。」
 
 
  経済史はどういう経緯で選択することになったのですか。
 
「しばらくは目標なしで大学に通いました。それでもアン・ビョンジク教授の韓国経済史が一番面白かったです。アン教授を訪ねて行って「大学院に進学して韓国経済史をしたい」と言ったんです。アン教授はすぐに「それならば書堂に入らなければならない」と言って、イム・チャンスン先生の泰東古典研究所に入れたのです。3年間で四書三経を全部覚えました。そうすると漢文に接する時に恐れがなくなったのです。アン教授が私を書堂に入れたのは、私の人生で最も重要なことの一つでした。」 
 
 

アジア革命の主体としての貧農
 
若い時にはマルクス主義に立って経済史研究を始めたんですよね
 
 「日帝時代の白南雲以来、経済史研究は基本的にマルクス主義的指向を帯びてきました。ある日、日本の佐々木潤之介という学者が書いた論文を読んで大きな感銘を受けました。 「アジア革命の主体として貧農が歴史的に形成、発展してきた過程を追求することが、アジア革命の時代を生きる歴史学徒に与えられた任務」という内容でした。私が経済史学者としてなすべき仕事を探し当てた感じでした。 ちょうど韓国では、キム・ヨンソプ教授が1819世紀以来農民層が富農と貧農の二つの階層に分裂したと主張して、大きい賛同を得ていました。」
 
 
経営型富農の登場で資本主義の萌芽が朝鮮でも現れたという主張でしょう。
 
「私は、キム教授の主張は実証的根拠が不充分だと考えていました。 佐々木の影響もあって、1819世紀の農民分裂の実態を本格的に明らかにすることに決心しましたよ。1980年からソウル大学の奎章閣に入りびたりました。1819世紀の農民の階層別動向を示す資料を収集しました。同一地域で年度別に作成された秋収記、賭只記のような地主の帳簿など20件余りの地域事例を分析対象にして、時間の推移とともに現れる変化を追跡しましたよ。」
 
 
  その結果はどのように現れましたか。
 
「当初の予想とは違う状況でした。マルクス主義的伝統では小農が富農と貧農に分化するといいます。だが、朝鮮末期の農民はそれとは反対に、標準的な耕作規模の小農階層に収斂していました。198384年に発表した二つの論文で、私は、「自立的小農の発展」という新しい学説を主張しました。1985年には<朝鮮後期の土地所有と農業経営>という論文で博士学位を受けました。この論文を見てイ・スクン嶺南大学教授が連絡をしてきました。」
 
 
 ― イ・スクン教授はどんな方でしょうか。
 
「その方は《慶北地方古文書集成》という本を出した人です。一緒に嶺南地域の両班家に伝わっている古文書を研究しようとおっしゃったのです。その古文書を見て目がひっくり返りました。おかげで198690年は途方もない知的体験ができました。何よりも私を驚かせたのは、ものすごい奴婢の数字でした。両班の家の1516世紀の相続文書に書かれた奴婢の数は想像を超越します。」
 


 
朝鮮人口の40が奴婢
 

  どの程度なんですか。
 
1516世紀人口の3040に達します。
 
 
 ― 歴史学で中世ないし近世とする朝鮮時代に、奴婢がそんなに多かったという話ですか。
 
「中央官僚を兼ねている場合、200 300(奴婢を数える単位)は普通でした。 800口、1000口を持っている場合、さらに1万口を持っている場合もありました。地方でも、少なくとも奴婢を7080口は持ってこそ羽振りが良かったのです。反面、古代ローマや19世紀の南部の農場でも、奴隷の規模は100口を超えることは少なかったです。」
 
 
 ― 奴婢1人の財産価値はどの程度でしたか。
 
「朝鮮時代には奴婢1口の値は馬一匹の価格、あるいは666日の労働価値に該当しました。この頃の一日の日当を5万ウォンと見当を付ければ、奴婢1人の価格は3300万ウォンぐらいになる計算でしょう。200口の奴婢を持っている者は、それだけでも66億ウォン程度の財産を持ったようなものでした。」
 
 
― その多くの奴婢はどこから現れたものですか。
 
「高麗時代までで言っても、王室、貴族、寺院などで働く少数の家内奴婢がいましたが、多くても全体人口の10%は超えなかったです。朝鮮王朝に入って、それぞれの人間に特定の役を付与して、それにより両班・庶民・奴婢の身分に差別する身分制社会を作りました。これに伴って、高麗時代の中央の貴族、官僚、中央軍などが農村に下って行って「老荘」を作る中で、貧しい農民が農場に付属する奴婢に転落しました。」
 

(続く)




<コメント>

 人口の30~40%が奴婢だったという歴史があったから、現代の韓国も北朝鮮も他人を奴隷のように扱う傾向が残っているのだろうか。

 しかし、アン・ビョンジク先生の勧めで中国古典を勉強したことが古文書の分析に大きく役立って、史料に基づいて発言するイ・ヨンフンという人を作ったんだなあ。





李栄薫教授 月刊朝鮮インタビュー 1

定年退職した経済史学者イ・ヨンフンソウル大学名誉教授
「資本主義萌芽論は大韓民国否定につながる主張」

2017.03.30 月刊朝鮮
http://monthly.chosun.com/client/news/viw.asp?ctcd=E&nNewsNumb=201704100022
 
ソウル大学時代はキム・グンテの下でキム・ムンスなどと学生運動

古文書を通じて朝鮮末期の経済実態を見てマルクス主義から脱する

 1516世紀人口の3040%が奴婢、朝鮮は古代ローマや南北戦争前のアメリカ南部よりも激しい奴隷制社会」

「高宗が開明君主という主張は史料分析なしで、社会的名誉を得るための学問的詐欺に過ぎず」

 

 
イ・ヨンフン(李栄薫・66)ソウル大学経済学部教授が2月末に定年退職した。彼は地方に伝わっていた各種古文書を分析し、従来のマルクス主義に立った経済史認識をひっくり返す研究結果を多く生み出した経済史学者だ。左偏向教科書の問題点を正した『代案教科書韓国近現代史』の編纂を主導し、大韓民国の成果を肯定する『大韓民国史』を著述した。李承晩学堂、チョン・キュジェTVなどでの講演を通じて、若者たちに正しい歴史認識を伝えるために努力してきた。昨年12月には一生の研究結果を集大成した『韓国経済史』(1,2)を出版した。
 
ソウル冠岳区奉天洞の落星垈経済研究所にイ・ヨンフン教授を訪ねた。落星垈経済研究所は、アン・ビョンジクソウル大学名誉教授、イ・テグン成均館大学名誉教授などの経済史学者が1987年に設立した研究所。世間では「植民地近代化論者」たちの集団として知られているこの研究所の草創期から参加したイ教授は、現在この研究所の理事長だ。
イ・ヨンフン教授の研究室の机には数十冊のパンフレットが置かれていた。何の本かと尋ねた。「明礼宮の支出記録簿」という返事が返って来た。
 
 
―明礼宮は何をする所ですか。
 
「宮中の食料を供給した宮房で、王妃が管轄しました。この支出記録簿は、19世紀の宮中の支出内訳と市場事情を見ることができる資料です。」
 
イ教授は、1880年代初期からの支出記録簿を示して話した。
 
「この時から本の厚さが突然厚くなっているでしょう?  高宗と明成皇后の贅沢が激しくなっていることを示します。こういうものだけ見ても、高宗や明成皇后を褒め称えるのがどれくらいおかしい話なのかが分かります。」
 
イ・ヨンフン教授は支出記録簿の中の一冊を取り出して、その内容を説明し始めた。しばらく説明を聞いて、彼の青年時代に話を向けた。
 
 
 キム・グンテ指導の下偽装就業したことも



 「民族経済論」を主張した経済学者パク・ヒョンチェ教授(中央)と共に、パク教授が少年パルチザンとして活動した白鵝山に登山した時の写真。左はカン・ナムフン現韓神大学教授、右がイ・ヨンフン教授


―大学時代は運動圏にいたと聞きました。どのように運動圏に足を踏み入れることになりましたか。


「大学に行けば高級な知的経験をすることができると思っていましたが、実際に入って見れば非常に失望しました。国語、英語、数学などの科目が続くのが、高等学校の延長という気がしたのです。そのような折り、商学部の学生たちのサークルである理論経済学会(本来経友会だったが統一革命党事件以後改称)に入って見たら、私が考えていた大学の姿がそこにあったのです。「社会科学入門」の講読をするのに日本の岩波文庫から出た左派書籍を教材として使ったのですが、大学の講義室で満たされずにいたものを充填できました。理論経済学会のセミナーに参加して次第に運動圏活動をすることになりました。」


イ・ヨンフン教授は、当時のセミナーを指導していた先輩たちとして、4年先輩であったチャン・ミョングク明日新聞発行人、イ・グンシク ソウル市立大学名誉教授などを挙げた。キム・テファン前労働部長官も先輩だったが、彼は「この程度は知ってこそひとかどの知識人になることができる」と言いながら、50冊の本のリストをイ・ヨンフン教授に与えたという。
 


  運動圏活動は熱心にしましたか。


  「当時、上層幹部はキム・グンテ(故人、・前開かれたウリ党議長)先輩とシム・ジェグォン(現共に民主党国会議員)先輩でした。 キム・グンテ先輩は理論家型、シム・ジェグォン先輩は活動家型でした。 私はキム・グンテ先輩の連絡兵のような役割をしました。高麗大学、梨花女子大学などへ印刷物を伝達する仕事をしましたよ。」
 


  その時キム・グンテは社会主義を指向していたんですか。


 「曖昧ですが、社会主義指向性はあったと見ます。キム・グンテ先輩は金大中氏ともコネクションがありました。金大中氏に会って来た話をしたこともありますよ。19714月に大統領選挙が終わった直後には、「民衆革命の雰囲気がソウル市内に一杯だ」という話をしたのです。キム・グンテ先輩は金大中氏の《大衆経済論》執筆を助けたパク・ヒョンチェ教授とも繋がりがありましたよ。」
 


  北韓と繋がっていましたか。


 「そうではありませんでした。毛沢東主義を追従する自然発生的な社会主義者でした。」
 


  工場に偽装就業したこともありますね。


19718月にキム・グンテ先輩が私、キム・ムンス(前京畿道知事)、イ・チェオン(全南大学教授)などを呼んで、‘もう農活は古いので九老工業団地に行け’と言ったのです。」


 ― どこに行って仕事をしましたか。


「ノルピョペイントで仕事をしました。二ヶ月も耐えられなかったです。以後ずっと労働運動をしたキム・ムンスは本当にすごいです。」


 
― キム・ムンス前知事とは親しかったのですか。


「高校で同じクラスでした。 親しかったんですよ。」




 
(続く)







イ・ヨンフン教授の著作がまた表彰

イ・ヨンフン前ソウル大学教授 月峰著作賞
 
2017-03-30東亜日報


 









   イ・ヨンフン前ソウル大学経済学部教授(66・写真)が著書『韓国経済史Ⅰ-韓国人の歴史的展開』(一潮閣)で第42回月峰著作賞の受賞者に選ばれた。授賞式は414日午後4時ソウル鍾路区のソウル歴史博物館で開かれる。

 
 
 

月峰著作賞(ウィキペディア、私たち皆の百科事典)
 月峰著作賞は、日帝強占期に時代日報、朝鮮日報編集局長などを歴任した民族運動家月峰韓基岳(18981941)先生を賛えるために1975年に制定された賞だ。峰韓基岳先生記念事業会と出版社一潮閣は、1975年に月峰著作賞を制定した。月峰著作賞の授賞式は、上海臨時政府樹立を記念して毎年4月10日前後に開かれる。





<コメント>
ということは、左派系統の賞ということかな。過去の受賞者の中にはシン・ヨンハ大先生とかイ・テジンさんの名前もありました(笑)。
まあ、左派系統からも認められた、ということならけっこうなことです。









李栄薫教授 朝鮮の近代化を語る(3)

(続き)

1948年の大韓民国建国の意味をどのように見ているか。

  「大韓民国の成立は、近代文明を受け入れて、近代化の第2の波として人間を政治的自由人に作るこの上なく大きい変革に属する。大韓民国成立の当時、日本が作って総督府が施行した民法を翻訳した水準をそのまま書き取った。恥ずかしいけれどもこれを直視しなければならない。反面、北韓は経済的、社会的近代化の全ての法と制度を廃棄してしまった。その結果「朝鮮王朝」に回帰してしまって文明の行き止まりに突き当たった。私を批判する人々は多いが、歴史を冷徹に見ればこれが事実だ。「38度線の北側」は共産主義者などが統治する体制で、人間の私的自治の主体としての個人の権利を否定する。したがって、韓国が完全な近代国民国家として歴史を完成するためには、北韓同胞も自由な個人として立てるようにしなければならない。この範疇を除いてそれぞれ異なる政治体制を認める線で連邦的に統一するのはありえない。 幻想に過ぎない。」

 
― 政治的混乱、低成長はなぜ派生したと見るのか。

「今の状況は、一言で言って対立の時代だ。高度成長期には政府と企業と従業員が協力した。高度成長は運が良いとか制度が良いというだけでなるものではない。‘国家的革新体制’がよく作動した結果だ。一つの国家の各主体が相互誘引の動機を持って強力な協力体制を構築したから可能だった結果だ。ところがこのような協力体制が崩壊した。民族主義、民衆主義のためだ。財閥、大規模企業集団というものは韓国だけの独特の革新体制の産物だ。このことに対する理解が足りず、あたかも財閥が特典や政経癒着を通じて不正な利益だけを手にして来た、というような根拠のない民衆主義的スローガンが政治を支配し始めて、その政治的信念を共有する集団が政治権力を掌握してから企業を規制して抑圧し始めた。このように、政府と企業が相互対立的であり企業を抑圧した非常に象徴的な事件が、まさに大宇グループの解体ということができる。」

 
― 企業を協力パートナーではない一方的制裁対象としてだけ見ているという意味のようだが。

 「企業の処罰を見ても、財産刑で償うことが可能な水準の罪目を持って拘束など身体刑を加えている。企業抑圧的な政治環境で、企業と従業員の関係も相互誘引的協力体系が崩れた。大企業と公企業の強硬な労組は彼らだけの特権を追求する労働集団を作った。中小企業以下に落ちれば従業員の位置づけが不安で、労組組織率はかえって落ちて保護される手段がない。このような傾向が20年余り続いてきた。今後これを変えなければ相対的な高成長時代も絶対訪れないだろう。」
 
― 早期の大統領選挙が差し迫った。過去30年間、5年単任の大統領制が繰り返されたが「功罪」をどのように見るか。

  「国家経済の指向点に対するビジョンがなかった。 経済民主化が過去高度成長期のビジョン、スローガンを消し去った後には、全ての経済政策が‘内部指向的’になってしまった。1980年代の中・後半から貿易収支が黒字に戻ったので、先進国に到達したように勘違いした。ところが、内部指向的経済政策を用いる国家には先進化した国家がない。高度成長期の‘外部指向的政策’を一段階引き上げて、文化自体の国際化、社会の完全な開放を成し遂げることによって、輸出だけでは達成できない部分を人的交流と資本交流を通じて埋めて東北アジアの中心に位置づける政策を行うべきだった。そうなったとすれば青年失業が発生する理由も無かっただろう。今でも輸出主導型自立的国家経済樹立という方向をより一層アップグレードして、国際化した社会で韓国社会を脱皮させられるように総合的な先進化プランを推進しなければならない。そのためには強力な政治リーダーシップが必要だ。日本との不必要な歴史紛争も賢明な線で終結して、協力体制を健全に復旧しなければならない。日本と協力を強化すれば中国に対するテコも大きくなる。私たちは世界第ニの経済大国と第三の経済大国の間にある。日本は世界第一の工業技術国家だ。有利な周辺条件を活用すれば発展の機会があると見る。」

 
― 東北アジア情勢、経済と関連して、こじれている高高度ミサイル防御体系(THAAD)論議は解決法があるだろうか。
  「韓国の対北政策があまりにも甘くて、(囲碁の)駄目を詰めたのだ。 今からでも立場を明確にして、日本とアメリカを中心にする路線を確かにしなければならない。これが明らかでないために、中国は(韓国を)圧迫してもかまわないと判断するのだ。韓国の路線を明確に表明すれば、かえって中国からもっと大きな協力を引き出せるはずだ。強靭な政治的リーダーシップが不足していて今のような状況が広がっている。」
 

― 次期政府がスタートして早急に解決しなければならない経済懸案は。

  「一日も早く日本との関係を健全な協力体制に復旧することが重要だ。対内的には、企業と健全な協力関係を構築しなければならない。特典を与えろというのではなく、企業と韓国経済の未来ビジョンを共有する政策環境を作れという意味だ。全ての政策の中心に企業を置いて、企業の隘路を解決して、企業の開発を助けて企業の投資を支援する方向で、経済政策を企業寄りに切り替えなければならない。 そうすると雇用問題も自然に解決する。次期政府が執権すれば「企業圧迫」がさらに強化されると思うが、それでは希望がない。」

 
李前教授は、大統領罷免以後の政局に対して重い話題を投げかけた。「単純な政治的危機ではなく、大韓民国の近代国民国家建設プロジェクト上に深刻な危機が発生したもの」と規定した。全ての国家が近代化70年に際して危機を体験する前轍を踏んでいるといった。政争レベルの対立が弾劾に飛び火したことは、永く大韓民国の民主政治史に大きな傷として残るだろうと語った。

彼は、「大韓民国は今後大変難しくなるだろう。しかし、それが歴史の常軌だと考える」とし、「近代化、先進化ということは絶対に軽々しいものではなく、このように挫折を体験することが歴史の正常な形態であることを証明しているだけだ」と長い余韻を残した。

 
インタビュー=イ・ミンジョン部長(経済産業部)
 

(終)





[経済]パワーインタビュー

「民族・民衆主義のために労使政協力体制が崩壊…低成長を呼ぶ」

 2017331 文化日報

http://www.munhwa.com/news/view.html?no=2017033101032903016001








李栄薫教授 朝鮮の近代化を語る(2)

[経済]パワーインタビュー
「民族・民衆主義のために労使政協力体制が崩壊…低成長を呼ぶ」
2017331 文化日報
(続き)

19世紀まででも民族概念は無かったと見るのか。

  「そう見るのが正しいと考える。 民族という言葉自体が、20世紀になって日本から輸入された。1907年に初めて皇城新聞に民族という表現が登場して、31運動の時に普遍化した。民族は外来語辞典にあった。朝鮮の両班は「中華世界のジェントルマン」と自分たちを認識した。下層民らと完全に違う存在として身を処した。中国に天子があり、朝鮮の王(諸侯)があって、その下に両班がいると考えた。朝鮮半島の人々だけが運命共同体だとか民族だという認識はなかったと見る。」
 
― 高麗は474年間、朝鮮は518年間統治した。 単一王朝の永続性はどのように理解しなければならないのか。
  「韓国社会は自然的、人種的条件においてとても同質的な社会だ。 異民族が殆どいない。多様な異民族が混じって生きれば社会的緊張が高まって摩擦が強くなる。高麗や朝鮮王朝の統治能力が特別だったからというよりは、このような条件のために中央集権性が非常に強力に作用して長期存続することができた。ゲルマン族の移動のような大きな挑戦や、異民族に征服されて本来の王朝が消えたとか文化を抹殺された経験もない。そのおかげで中央集権が長く維持された。」
 
― 朝鮮の崩壊と日本の侵略の過程をどのように説明できるか。

  「当時は一国争覇、弱肉強食の帝国主義時代だ。自身を守ることのできない民族は消滅した。朝鮮王朝は、自身を防御する意志や軍事力、国際感覚が無かった。甲午更張(18941896)の時、高宗は人民の生命と財産を保護する法を作るといったがそれを守らなかった。身分制度を撤廃して両班の特典を無くし、国民軍隊を組織して死ぬか生きるかで日本、ロシアと戦争をしたなら、韓半島のように規模が大きい国が植民地になったわけがない。国王の権力を立憲制に変えて人民の財産、生命をむやみに奪い取ることができなくするなどの改革を行うべきだったのに、高宗はそれを拒否した。中国が滅びるとすぐにロシアと日本が韓半島を巡って角逐を行ったが、日本の立場では朝鮮は近い将来ロシアの植民地になることがあると考えて、放棄できない日本の戦略的要衝地と見なしたのでロシアと戦争を行った。アメリカ、英国などの国際社会は、戦争後にその戦利品として韓半島を日本に渡した。」

 

李前教授の説明は、侵略は正当化することができないが、内部の問題も決して度外視してはいけないという意味に聞こえた。当時の朝鮮王朝は、改革どころか後にはむしろ弾圧した。

李前教授は「農民の一部は日本との併合にむしろ賛成する場合もあった」として、「裁判無しに人を殺して抑圧する王朝より日本がより良いとまで考えるようになったのだが、それが隠すことのできない私たちの歴史の悲劇であり矛盾だ」と語った。
 




























1970年代初めには運動圏の学生だったイ・ヨンフン前ソウル大学経済学部教授は、「若い時には民族主義に心酔していたが、年齢50を過ぎるまで多くの本を読んで勉強した結果、その頚木から抜け出すことができた」と語る。 クァク・ソンホ記者

 


― 土地収奪のような問題はどのように見るか。

  「私は悪口を多く言われるが、一貫して主張していることがある。 日帝は土地調査事業を通じて土地を収奪したことがない。教科書では日帝が全国土の40%を土地調査を通じて収奪したと書いているが、それは事実ではないと言ったところそれこそ大騷ぎが起こった。結局、この記述は教科書から消えた。1967年から40年近く、無い事実で国民を教育してきたわけだ。土地の40%を奪って国有地としたとか米の50%を積み出したということは事実ではない。群山港にある野積施設や倉庫などは輸出機構だ。日本では米価が朝鮮の平均よりも30%高いので、日本に米を輸出したのだ。日本に輸出された米の半分ほどは日本人地主が輸出した。市場経済体制が作動していると理解されず、総督府が収奪したと考えるのだ。このように40年間余り教えて来ると、韓国人はその時代にどんなことがあったのか正確に知らずに収奪の記憶だけが大量に積もった。」

 

― なぜそういうふうに教えることになったと見るか。

  日帝を克服して胎動した歴史学が、民族性を介入させた議論と解釈を作り出したためだ1960年代後半から1990年代を経つつ、収奪論はますます強化された。 一時代の歴史学が民族主義歴史学へ完全に傾倒した。それで、その時代を冷静に、客観的、科学的に評価できない。単純にその時代を「野蛮の時代」、「奴隷」の状態としてだけ記憶するのは誤りだ。その時代に韓国人は近代的私的主体として、個人として成立した。全ての文明の進歩は伝統文明と外来文明の衝突を通じて発展して来たし、20世紀は私たちにとってそのような歴史だったということを強調したい。 もちろん、日帝によって移植された近代は完全な近代ではなかった。私的主体として色々な権利は認められたが、政治的権利は認められなかったためだ。それが植民地的特質だ。解放以後、アメリカを通じて近代化の第二の波が寄せた時、韓国人は政治的自由も享有する真の意味の私的自治の主体として成立した。この上なく大きい文明史的転換に属する。」

 

李前教授は、このくだりで、自身の学問的アプローチと結果に対して日帝統治を美化していると考える者たちに対して、「実に惜しい」との感を表した。反日感情にだけ囚われて歴史自体を客観的に見ることができず、日本によって近代文明が移植されたという内容一つだけを持って日帝を美化しているように(自身の学問的接近、見解、研究結果を)曲解していると反論した。自身の歴史観が曲げられていることについても、民族主義、民衆主義に偏った偏狭な評価だと指摘した。近代文明の本質を正しく理解して歴史発展の複雑性、矛盾性を理解する手続きが省略されたところから始まったものと分析した。外来文明の衝撃がなく外部の影響が排除された歴史は停滞したり消滅して発展を期待できないが、我が国の場合、日帝、アメリカ文明の形態で発現した厳正な事実を無視して、単純に奪われ殴られたとだけ認識すれば、結局先進化の道ははるかに遠いと語った。

 

彼は、「本にも書いたが、日本の民法を朝鮮でも施行するという朝鮮民事令が1912年に出たが、民法が成立すればこれを近代社会と呼ぶ」と言った。日本が韓国に民法を施行したのは韓国人のためとしてではなくて韓国支配のためのものだったが、韓国近代社会成立の最も重要な地点であることは明らかだと述べた。制度を通じて、賃金を与えて労働力と資源を活用し、形式的でも私的主体の権利を認めて効果的に支配したということが核心だという。話題を、その延長線上でもある解放以後と現代に広げた。


(続く)

李栄薫教授 朝鮮の近代化を語る(1)

[経済]パワーインタビュー
「民族・民衆主義のために労使政協力体制が崩壊…低成長を呼ぶ」
 
2017331 文化日報
 
 

 




10年をかけて古代から現代まで我が国の3000年を経済学的観点から独自に研究した『韓国経済史Ⅰ・Ⅱ』を出版したイ・ヨンフン前ソウル大学経済学部教授が、去る20日、ソウル冠岳区奉天路の落星垈経済研究所で韓国の近代化の生成過程と背景、意味などを説明している。 クァク・ソンホ記者
 
 
 
『韓国経済史』完刊 イ・ヨンフン前ソウル大学教授

韓国経済史学会には最も論争的な人物が1人存在する。彼と「対称点」に立つ学界、市民社会団体、労組などは、「ニューライト運動の成功のためにに猛活躍した人物」、「歪曲された歴史観の所有者」、「奇怪な主張と自己矛盾的論理の展開者」として批判的な視線を送る。ある自治団体の公務員労組は彼の講義を拒否することもあった。今年ソウル大学経済学部を定年退任したニューライト系列の代表的経済学者である李栄薫(イ・ヨンフン)(66)前教授に集中した「矢」だ。 だが、また他の一方では、人が持たない識見と努力、予知力で学問的所信を発揮する学者、自由民主主義の守護者、鋭い警句の大衆的歴史講師として光を当てている。ある時代を生きてこのように交錯した評価の対象になることは容易でもないのみならず、似た例も多くはない。マルクス主義に心酔し、民主化運動で除籍され偽装就業をした民主化運動第一世代から保守史学者に転向した履歴はさらに異彩を放つ。公開の場所で胸ぐらを掴まれて引きずられたかと思えば、インターネットの誹謗文での侮辱も体験した。民族主義の幻想を植え付けた誤った歴史教育を正さなければならないと教科書フォーラムの共同代表を引き受けたし、日本の植民統治が結果的に韓国の近代化に寄与したという「植民地近代化論」を主に主張した。

 李前教授は、最近、紀元前3世紀から現在までの韓国経済の長い時間の流れを整理した大作『韓国経済史Ⅰ・Ⅱ』(一潮閣)という著書で再び注目されていている。 講壇からは退いたが公開講義も活発だ。彼が説明して深く掘り下げている経済史学的観点で韓国経済の根源は何であり、自身に対する世間の評価に対してはどんな反論を広げるのか気になった。韓国経済の軌跡、流れをどのように追って眺めるのかという点も同じだ。 去る20日、ソウル冠岳区奉天路の落星垈経済研究所でこの研究所の理事長を引き受けている李前教授に会った。濃い眉が印象的な老学者は話し始めると澱みがなかった。

 

― 『韓国経済史Ⅰ・Ⅱ』を長くかけて精魂を込めて書いたと聞くが。

  「二巻合わせて1,380ページだ。10年かかった。 当初、某出版社から韓国経済史関連の大学講義に適合した教材を書いてくれと言われて始めた。ところが、書き始めて1年半ほど過ぎて完成したのだが、見ればあまりにも不充分で図式的だった。 出版を諦めて全面的な研究書を書かなければならないと決心した。当時の20032004年は韓国経済史の研究が急激に変化していた時期で、新しい学説などがたくさん登場した。例えば、朝鮮末期物価史、物価賃金利率など経済統計がちょうど開発されるなど数量的資料に基礎を置いた研究が進行していた。新しく変化した新しい情報に基づいて全面的な再構成が必要だと考えたし、文明が始まって以後3000年近くになる韓国の経済史を研究書という水準で完成することになった。」

 

 ― 強調したかった内容は何か。

  「私たち韓国人の存在形態、家族形態だ。「社会的存在形態」、「国家的存在形態」が時代ごとに着実に発展してきたという点を究明したかった。韓国史を4つの時代に区分した。第一時代は紀元前3世紀から紀元後7世紀で、集落の時代、村の時代だ。 この時代の小規模世帯は、社会生活や生産過程など国家の数値単位としては役割を担うことができなかった。第二時代は814世紀で、「丁」の時代だ。統一新羅、高麗の時期で、この時代は集落ではなく、多くて15個程度の小規模世帯が一つの複合体として結合する「ハウス ホールド コンプレックス(HouseholdComplex)」が生産と国家的数値の単位を形成した。 第三時代は1519世紀で、「戸」の時代だ。 朝鮮時代に世帯複合体が解体されて小規模家族、小農が生産と国家的数値の基本単位になった。20世紀からは個人の時代である第四時代に区分した。この時代に韓国人は近代的家族と個人として成立することになる。」

(キム・ジェホ全南大学経済学部教授は、これに対して、マルクス主義的歴史法則、三分制のようなヨーロッパ中心主義的時代区分とは合わず、(李前教授は)完全に新しい時代区分を提示したと言った。キム・ナンニョン東国大学経済学科教授は、「全体の論旨が非常に個性的で、既存の歴史評価や叙述方式から抜け出ている」と分析した。)
 
― 小農経済の成立が与える意味があるか。

  「個別小規模家族が生産単位として自立した小農経済が成立したところは、世界史的に多くない。 西ヨーロッパ、アジアでは日本・韓国・中国南部程度だ。小規模家族が生産と社会生活、国家的数値の基本単位になるには、高い水準の集約的「小農農法」が成立するべきだが容易ではない。小農経済が形成されるためには非常に綿密な計画が必要で、実践力、状況変化に対応できる適応力、強靭な勤労規律などが必要だ。これらが集まって韓国社会が持った社会的資本の基礎になった。 歴史的発展過程の所産といえる。」

  李前教授は、「韓国人の家族的、社会的、国家的存在形態が4つの時代にわたって近代的個人に至るまで徐々に着実に進化して来た」という点を明らかにすることに傍点を置いたと説明した。この本は「第42月峰著作賞」の受賞作に選ばれた。 李前教授は414日に賞を受ける。
 
― 今回の本でも植民地近代化論を強調している。「日本の韓半島支配は近代文明の移植の過程だった」と明らかにしたことに対して昔から批判の声があるが。
  「韓国人がまだ民族主義的感情に埋没しているからだ。 歴史は決して一つの民族単位や文化単位で孤立的には発展しない。 紀元前3世紀に北韓地域にある寺院が設置されたし、その前の紀元前4世紀には遼東・遼西地域の青銅器文化が古朝鮮と共に韓半島に流入した。それが韓半島に広がって、紀元23世紀までに国家という一つの政治体制、組織を作った。13世紀ごろのモンゴルの支配は韓国文明史に大きな変化と発展を呼び起こした。以前とは違うように文明水準が高まった。性理学的世界観や国家観が流入し、朝鮮王朝創建の基礎になった。朝鮮王朝の成立自体も韓半島だけのこととしては説明しにくいという意味だ。儒教自体が外来文明だ。19世紀の開港以後の140150年間は、西洋で発生した近代文明が宣教師、日帝、アメリカ等を通して流入する過程を経た。大きく広い歴史的見解を持たなければならない。近代文明の本質は「私的自治の主体」(民法用語)としての個人の成立だ。身体の自由と財産権の主体としての個人が成立して社会経済的基礎単位になるのが近代文明だ。」

(続く)


 

イ・ヨンフン教授 定年退職へ

「経済史学の二大山脈」イ・ヨンフン、ヤン・ドンヒュ ソウル大学教授定年退任
 
2017-02-07 韓国経済
 
 
30年間国内経済史学会を導く
イ・ヨンフン、植民地近代化論の土台を提供
ヤン・ドンヒュ、大恐慌研究の世界的権威
 
「個人と法に対する理解不在が現時局混乱の原因」
 
経済史学分野の権威に数えられる二人の経済学者が共に講壇を離れる。今月28日に定年退任するソウル大学経済学部のイ・ヨンフン教授(65)とヤン・ドンヒュ教授(65)がその主人公だ。 彼らは30年を超えて東洋・西洋経済史学会を引っ張ってきた。













イ教授は、6日、「23002400年に達する韓国経済史の因果関係を実証的に明らかにすることに力を注いだ」として「現代韓国人と経済単位である家計の歴史的な発展の過程が主な関心事だった」と所感を明らかにした。彼は、植民地近代化論(韓国現代文明論)の理論的基礎を準備したニューライト系列の代表的学者だ。 先月、定年退任に先立って自身の研究を集大成した『韓国経済史』を出した。
イ教授は、日帝強占期は、日本の意図ではなかったが韓半島に近代的資本主義を流入させ、そういう「経験的蓄積」が解放後の高度成長につながることに寄与したと主張してきた。朝鮮後期の古文書と史料を発掘して統計化し、既存の韓国史学界の資本主義萌芽論、内在的発展論に反論した。国内歴史学界の脱民族主義化と多様性に寄与したという評価を受ける。 彼は、「現在の時局混乱の根本的原因は、近代文明の核心価値である自由な‘個人’とこれを統合する‘法’に対する理解不在のため」とし、「植民地時期と解放後の権威主義的近代化において、韓国社会には相変らず自由と法治が正しく位置することができなかった」と指摘した。
 イ教授は、定年退任後も理事長職にある民間研究所である落星垈経済研究所で研究を継続する予定だ。彼は「19世紀漢城の市場構造と物価を通じて見た経済変動が最近の関心事」として「研究だけでなく、これまで出した専門書を易しく書いた大衆書も執筆する計画」と話した。
 
 ヤン教授は大恐慌研究の世界的権威者に挙げられる。彼は、1930年代アメリカ大恐慌の原因を金本位制に代表される当時の国際通貨制度の脆弱性と各国の調整されなかった政策結果と分析した。2008年のグローバル金融危機時は、ヘッジファンド・投資銀行など「影の金融(シャドー・バンキング)システム」を危機の原因と分析した。ヤン教授は、「既存の公式的金融経路が効力を発揮できないことに備えて危険管理的な対応が必要だ」と診断することもした。彼は『大恐慌時代』、『20世紀経済史』、『経済学散歩』など専門書と教養書を兼ねた多様な著作を残した。
ヤン教授は、世の中を分析する洞察力は誰よりも鋭い経済学者と評価される。定年退任後にはソウル大名誉教授を引き受ける。彼は「静かに引退したい」としてインタビュー要請を断った。




<コメント>
一区切りか。この人はほんとにいい仕事をして来た。このブログの原点もイ・ヨンフン教授です。
 このブログの初めての記事 「収奪論批判」


イ・ヨンフン教授名言録




イ・ヨンフン教授と歴史対談 ④「歴史には費用がかからない成功は無い」

[企画] イ・ヨンフン教授と歴史対談 ④
 
 
大韓民国の歴史の常識に挑戦する ④(終)産業化と朴正煕政権に対する評価
「歴史には費用がかからない成功は無い」
 
[韓国経済新聞] 2011520
 
 
 
去る14日、汝矣島自由企業院で開かれたイ・ヨンフン教授との歴史対談の最後の主題は、「産業化と朴正煕政権に対する評価」だった。
イ教授は、朴正煕大統領の輸出に対する信念と開発に対する執念、輸出の一線で革新を遂行した企業家たち、つらい労働を遂行して熟練と技術を身につけた労働者たちの貢献を、経済開発を導いた原動力として挙げた。
歴史対談を終えて、イ教授は、「費用がかからない成功はない」と、成功と過ちを併せて評価する歴史に対する公正な姿勢を求めた。


(問 キム・スンジェ)419民主革命があってから1年と少し過ぎて516クーデターが起きました。張勉政府にもう少し時間があったなら、混乱を克服して社会を安定させることができたのではなかったでしょうか?
 
(答)私もそんな仮定を完全に否定したくはありません。ですが、516クーデターあるいは軍事革命は、1950年代の韓国の政治・社会の矛盾構造の中である程度必然でもあったのです。
625戦争を経て、軍部は、韓国における他の社会集団に比べて最も有能でよく組職された集団に成長しました。1950年代の混乱の中で、419以前から「祖国近代化」の強烈な志向を持った若い将校たちはクーデターの機会を模索しました。
419以後、軍部では、佐官クラスの将校たちが315不正選挙に責任のある腐敗して無能な指導部の退陣を要求した事件がありました。要求が拒否されると、彼らは軍部において清廉なイメージで名望を得ていた朴正煕陸軍少将を中心に結集したのです。彼らのクーデター計画は、419以後に政治的、社会的混乱が深化するともっと弾力を受けました。
516クーデターは、近代化の遅滞による危機、軍部の膨脹による社会組職の不均衡、419 以後の大きな混乱を背景にしていたのです。
 
 
(問 イ・スンス)朴正煕政権の経済政策が成功できた理由は何だと見ますか?
 
(答)軍部がクーデターを行った最大の理由の一つは、極度に疲弊した民生の解決でした。
軍事政権は、政権を取ると直ちに開発計画を立て、執行する主体として経済企画院を設立した後、1962年から第1次経済開発5ヶ年計画を推進します。1964年あたりからは輸出主導工業化に開発戦略を大きく修正します。
以後、1965年から、毎月、輸出振興拡大会議と月間経済動向報告という二つの会議を召集して、官界、業界、学界の専門家たちが政策を検討して調整するシステムを構築します。1965年から朴大統領が逝去する1979年まで、ほとんど毎月欠かさず会議が開かれたが、他の後進国で似たような例は捜しにくいです。
また、韓国経済が成功することができたのには、国際市場の有利な環境も大きい役割を果たしました。1964年からGATTの第7次ケネディラウンドが成立し、主要国家の関税率を半分に低くすることで世界の自由貿易が大きく活性化しました。それによって、後進国が先進国に労働集約的工業産品を輸出する市場が開かれました。まさにその時、朴正煕政府は、それまでの自立的な輸入代替工業化から開放的な輸出主導工業化に機敏に開発路線を切り替えました。
多くの反対にもかかわらず、日本との国交正常化も推進しました。その結果、日本の資本•技術•部品と韓国の労働力、アメリカの市場を連結させる巨大な国際的市場の連関が創出されたのです。


(問 ファン・イネ)政府の市場介入は、特権や不正腐敗などを生みませんか?
 
(答)政府が経済に介入をするようになれば、必ず副作用が発生します。官僚たちが収集する情報の不完全性と資金を分配する権限を持った官僚たちの道徳的な緩みのためです。朴正煕時代の時もそんな問題が発生して社会的問題になったりしました。
しかし、大きく見て韓国政府の経済介入は失敗を最小化したと言えますが、それは成果と実績という客観的な基準に即して資金を配分したからです。輸出金融が典型的にそうでしたが、輸出業者が外国から信用状さえ受けて来れば非常に有利な条件の金融が提供されたのです。すなわち、輸出と言う客観的な成果を基準にして資金が分配されたから、政府介入による失敗を最小化することができました。
そんな基準を厳格に維持したのは朴正煕政府の道徳能力と言うか、開発に対する執念、それらを支えた精神的緊張がそれだけ強かったからだと言えます。
 
 
(問 キム・スンジェ)当時の経済成長の成果は資本家階層がすべて占めて、労働者たちは劣悪な環境に置かれていたのではないですか?
 
(答)経済成長の初期の過程で多くの労働者たちが劣悪な作業環境で長時間の低賃金労働に苦しみました。しかし、産業化の初期のそのような労働環境は、世界の経済史でほとんど普遍的な現象でしょう。韓国は、むしろそういう問題を短期間で乗り越えたわけだが、それは輸出市場を舞台として高度成長の道を歩んだからです。最近の研究によれば、196080年代の労働者たちの実質賃金は、労働生産性の上昇速度に合わせて常に上がりました。また、他の実証研究によれば、都市勤労者たちの賃金所得の分配構造は世界的に良好な水準でした。経済が急速に膨脹した時期なので就業の機会がそれだけ多かったのです。都市勤労者たちの所得分配が不公平になり始めるのは、高度成長が終わった1997年以後です。
 

(問 キム・チョロン)当時の高度成長を朴正煕個人だけの功績にはできないでしょう。
 
(答)その時代にあったすべての歴史的成果を朴正煕個人の功績とすることは妥当ではないです。たぶん、より大きな功績を残したのは革新を遂行した企業家たちだと言えます。また、産業の現場でつらい労働を遂行して熟練と技術を身につけた労働者たちの貢献も、高く評価しなければなりません。朴正煕は指揮棒を取った人としてそれなりの役割を務めたのです。とは言っても、誰でもできたという役割ではなかったでしょう。
当時、朴正煕の開発政策に対して多くの批判がありました。例えば1967年と1971年の大統領選挙で、野党は大企業株式の大衆化、中小企業と農業の発展を優先する大衆経済論を主張しました。どちらが正しいのか国民の判断も簡単ではありませんでした。政治的選択によってはいくらでもそんな方向に行くこともできました。
実際、多くの後進国がそういう路線を歩いたりしたんですが、大部分の場合失敗してしまいました。やっぱり、正解は広い世界市場を相手とした規模の経済を達成することができる大企業を育成することでしたが、それが当時としては果して正解なのかそれとも国をつぶしてしまう行為なのか、確かではなかったのです。そんな中、朴正煕大統領は輸出だけが生きる道だという確信を持って14年間その道だけをずっと推進したんですが、それはそんなに簡単なことではなかったのです。
 
(問 キム・ヒョンス)対談を整理する意味で、歴史を眺める態度について話していただけますか。
 
(答)今日の韓国になるまで、歴史的成功を成す過程で暗い歴史や犠牲も少なくなかったです。516クーデター、十月維新、518民主抗争などがそういう例です。それらは、今日の成就を成すために韓国人たちが支払った費用だと思います。費用を支払わなくてもいい成功と言うのは、歴史では有りえないですね。だから、特定の時代が成した歴史の功績とその時代が犯した歴史の過ちはコインの表裏のような関係として一緒に評価されるべきだと思います。
すなわち、批判は批判としてしながら功績は功績のとおり評価することが、歴史に対する公正な姿勢だと思います。そんな視点から1948年以後の大韓民国の建国史を眺めれば、少ない費用で多くの成就を成した歴史であることが分かるようになります。大きく見れば、偉大な成就の歴史だったのですよ。我が国民が、皆、そういう明るく肯定的な歴史意識で一つになることを願っているのです。
 
整理=イ・ユミ 「バイト」記者
 
プロフィール

Chaamiey

Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

最新記事
最新コメント
カレンダー
03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
来訪者数
カテゴリ
検索フォーム
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR