FC2ブログ

[イ・ソンミンの独島の話] [4] 平和会談と独島(上)

[独島の話] 日本に配慮した平和条約、独島紛争の火種残す

2020.05.24 イ・ソンミン先任記者 朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/05/24/2020052400426.html


[イ・ソンミンの独島の話] [4] サンフランシスコ平和会談と独島(上)
カイロ宣言の精神に従った「独島は韓国領」の規定
米、政治的考慮の末に条約文に明示せず



 2020052400426_0.jpg
1943年11月、エジプト・カイロで席を共にした蒋介石中華民国総統、ルーズベルト アメリカ大統領、チャーチル英国総理(左側から)。三人は「日本は暴力と貪欲で掌握した全ての領土を手放さなければならない」と宣言した。

 1941年12月7日、日本の真珠湾空襲で始まった太平洋戦争は、1945年8月15日、日本の無条件降伏で終わった。だが、戦争を公式に終結するには交戦当事国の間で平和条約(Peace Treaty)が締結されなければならなかった。連合国の日本占領統治が安定期に入った1946年、アメリカでは日本といつ平和条約を締結するのかについて論争が広がった。国務部は早く平和条約を結ばなければならないという立場だった。国防部の前身である戦争部は、日本を根本的に変化させるためには平和条約を長期間先送りしなければならないと主張した。東京のマッカーサーは、軍の長期占領が持たらす副作用を憂慮して国務部の立場を支持した。結局、1946年8月、国務部と戦争部が合同で構成した対日条約作業団がスタートした。

最初の平和条約草案、「日本は独島を出すべき」明示
  作業団が対日平和条約の草案を作成する過程での核心事項の一つは、日本の領土問題だった。侵略戦争を通じて広範囲に拡大した日本の支配領域をどこまで認めるべきかが、焦眉の関心事として台頭したのだった。日本は、当然、この問題に全力を投球していた。中国・韓国・ソ連などの隣接国も大きな関心を持って敏感な反応を見せた。
  これと関連して、対日条約作業団が基本指針としたのは「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」の領土関連条項だった。1943年11月にエジプト・カイロで会ったルーズベルト アメリカ大統領、チャーチル英国総理、蒋介石中華民国総統は、「日本が1914年第一次世界大戦開始以後に奪取または占領した太平洋の島嶼一切を剥奪する。満州、台湾及び澎湖島など日本が清国から盗んだ全ての領土は中華民国に返還する。また、日本は暴力(violence)と貪欲(greed)で掌握した全ての他の領土から追い出される」と宣言した。太平洋戦争が終わる直前の1945年7月、やはりルーズベルト、チャーチル、蒋介石が発表したポツダム宣言の8項は「カイロ宣言の全ての条項は履行されるものであり、日本の主権は本州・北海道・九州・四国と連合国が決める小さな島々に限定されるだろう」と明らかにした。
  1947年1月、対日平和条約草案が初めて作られた。領土条項を入れた第1章の第1条は「日本の領土的限界は1894年1月1日に存在していたもので、以下の条項で設定される内容に従属する。」と規定した。これは、カイロ宣言で日本が中国に返還しなければならない地域の占領基準日とした日清戦争を他の地域にも適用したものだった。日本が1894年以後「暴力と貪欲」で掌握した領土は全部出さなければならないという意味だった。続いて第2条は中国、第3条はソ連に譲渡される地域を明らかにし、第4条で韓国に関して次の通り記述した。
  「日本は、ここに韓国と済州島・巨文島・鬱陵島・独島を含む韓国近海の全ての小島嶼に対する権利(rights)と権原(titles)を放棄する。」
  以後、対日平和条約草案は数回にわたって内部検討と修正を経た。だが、独島を韓国領土に含ませる内容は変わらなかった。アメリカの対日平和条約早期締結方針は、他の主な連合国だったソ連と中国の反対で失敗に終わった。これに伴い、対日条約作業団の活動は1948年1月に中断状態に入った。しかし、その後、中国と北朝鮮政権の樹立など東北アジア情勢が急変するとすぐに、1949年9月、アメリカは英国など近い国家の協力を受けて対日平和条約を再び推進するように方針を立てた。対日条約作業団の活動が再開された。
  1949年11月2日、いよいよ対日平和条約案が完成した。作業団と国務部のレベルを越えて、国防部と連合国最高司令部(SCAP)に送付された最初の文書だった。対日平和条約草案の独島関連の部分は1947年1月に初めて作成されて以来一度も変わりがなかったので、今回も当然独島を韓国領土と明記した。そして、このような内容は添付された地図でも明示された。



  2020052400426_1.jpg
1949年11月2日にアメリカ国務部が国防部と連合国最高司令部に送った対日平和条約中に添付された地図。日本と韓国の領土を境界線と経度ー緯度、地名を通じて明らかに表示した。


  2020052400426_2.jpg
1949年11月2日に完成した対日平和条約中に添付された地図で独島関連の部分を拡大したもの。韓国領土境界線の内側に鬱陵島と独島の名称と位置が明記された。

◇シーボルドの電文後に「独島は日本領土」に変わる
  しかし、連合国最高司令部の意見を取りまとめる過程で重大な変化が発生した。前回の文でも書いたが、駐日米政治顧問兼SCAP外交局長ウィリアム・シーボルドが「リアンクル岩(竹島)に対する再考を建議する。この島に対する日本の主張は古く妥当性があると考えられる」という返信を送ったのだ。彼は11月14日と19日の二度も国務部に電文と緊急文書を送って「独島を日本領土としなければならない」と主張した。この主張には何の根拠資料も提示されていなかったが、マッカーサーの権威に便乗した彼の文書は効力を発揮した。
  1949年12月29日に作業団が再び作った平和条約草案では、独島は日本領土に含まれた。 また、ソ連と領土紛争がある北方4島の中で歯舞と色丹が日本領土と規定された。それだけでなく、日本領土を境界線をひいて表示してそれを地図として添付する方式も事実上消えた。日本に有利なこれら全ての変化がシーボルドの建議に従ったものだった。
  しかし、対日平和条約草案は、1950年5月ジョン・フォスター・ダレスが対日平和条約担当のアメリカ大統領特使に任命されたことで完全に枠組みを別にすることになった。ダレスは対日平和条約は「懲罰」でなく「和解」に基礎を置くべきと考えた。その上、間も無く勃発した6・25韓国動乱(朝鮮戦争)は日本の戦略的地位を高めた。これに伴い、対日平和条約は最大限に日本に配慮して簡単に作ることに方針が旋回した。領土条項も、カイロ・ポツダム宣言の精神から抜け出して、日本の領土について具体的に明示しないことにした。1950年8月7日に再び作成された対日平和条約草案では、日本領土に含まれたり排除される地域に関する言及は全て消えた。

◇連合国に伝達したアメリカ草案は領土規定無し
  1951年3月27日、アメリカは対日平和条約草案を主な連合国14ヶ国と日本・韓国に伝達した。アメリカが他の国家に初めて公開した平和条約案だった。この草案の韓国関連の部分には、日本が放棄する領土に関する何の規定もなかった。
  一方、英国とオーストラリア・ニュージーランド・カナダなど英連邦国家は独自に対日平和条約を準備していた。彼らは1947年8月(キャンベラ)、1950年1月(コロンボ)、1951年1月(ロンドン)など三回にわたって会議を開き、英国を中心に実務作業団を構成して平和条約案を準備した。 彼らは草案を繰り返し修正した後、最終平和条約の案を1951年4月7日英連邦8ヶ国に回覧した。
英連邦の対日平和条約案は、日本の領土を緯度と経度、地名を明記して境界線をひいて明らかにしていた。韓国に関しては、済州島・鬱陵島・独島が日本領土から排除されることを明示した。そして、このような内容は添付された地図でも明らかに表記された。英連邦はアメリカと違ってカイロ・ポツダム宣言の精神に忠実に従ったのだ。




 2020052400426_3.jpg
  1951年4月7日英国が英連邦8ヶ国に通知した対日平和条約案に添付された地図。日本の領域を緯度と経度、地名を明記して海に境界線をひいて明示した。


 2020052400426_4.jpg
  英国の対日平和条約案に添付された地図で鬱陵島と独島の部分を拡大したもの。日本領土を明示した境界線の外にある。

  アメリカと英国は対日平和条約の最終案をめぐって協議に入った。その結果、両国は領土問題に対して境界線をひかない代わりに具体的な地名を列挙することで合意した。このように領土を例示する方式は国家間の紛争を起こす余地が多かった。それで、これに対する意見を取りまとめる過程で、ニュージーランドは英連邦草案のように緯度と経度で正確に境界線をひく方式が望ましいと指摘した。だが、アメリカは「日本の周囲に連続線をひいて日本を垣根で囲うように見えるのは日本人に心理的不利益を与える」として応じなかった。

◇英米合同草案、韓国領土として済州島・巨文島・鬱陵島を例示
  1951年5月3日に作成された英米合同草案は韓国と関連して、「日本は韓国(済州島・巨文島・鬱陵島を含む)に対する全ての権利・権原・請求権を放棄する」と規定した。それまで常に韓国領土と言及されていた独島が抜け落ちたのだ。これは、虎視耽々と独島を狙っている日本に領土紛争を提起する火種を残したものだった。実際、以後の韓日間の独島紛争において、この条項の解釈は尖鋭な争点の一つになった。これについては後に詳しく調べることにする。
  対日平和条約案は、以後、部分的な修正を経て最終確定し、1951年9月4~8日にアメリカ・サンフランシスコで開かれた平和会議に提出された。この会議には対日交戦国のうち中国とインドなどを除く52ヶ国が参加し、ソ連・ポーランド・チェコスロバキアを除いた49ヶ国の代表が条約文に署名した。




スポンサーサイト



テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

[イ・ソンミンの独島の話] [3] 日本、再び独島を狙う

[独島の話] 虚偽の宣伝物を作った日本政府、これをまき散らした米外交官

イ・ソンミン先任記者 2020.05.17 朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/05/17/2020051700503.html


[イ・ソンミンの独島の話] [3] 日本、再び独島を狙う
日本外務省 「鬱陵島・独島は日本領土」パンフレット製作
「駐日米国大使」シーボルドがアメリカとマッカーサー司令部に配布


2020051700503_0.jpg
 1951年1月、東京のあるレセプション会場で席を共にしたダレス米大統領特使、シーボルド駐日米政治顧問、吉田茂日本総理(左側から)。親日的だったシーボルドは、独島問題で露骨に日本の肩を持った。

  独島付近で漁をしていた韓国漁船を日本漁船が攻撃したことが韓国に知らされて独島問題が関心事として浮上した1947年6月、日本外務省は『日本本土に隣接した小島嶼(Minor Islands Adjacent to Japan Proper)第4冊(Part IV)』という英文パンフレットを刊行した。1946年11月に第1冊、1947年3月に第2・3冊がそれぞれ刊行されたこのパンフレットは、第二次世界大戦を公式に終結させる連合国と日本の平和条約締結を控えて、日本が周辺の島々の領土帰属を自己に有利となるように連合国側に宣伝するためのものだった。第二次世界大戦が終わった後の日本に対する処理方針を明らかにした1945年7月26日ポツダム宣言の第8項は、「日本国の主権は本州・北海道・九州・四国及び我々が決定する小さな島々(Minor Islands)に限定されるだろう」と明らかにした。日本は、連合国に、まさにその「小さな島々」に対する自己の立場を知らせようとしたのだった。このような意図は、地理的隣接性を表現したものと感じられる英文パンフレットの題名よりも、一緒に刊行された日本語パンフレットの題名『日本の付属小島』により明確に表れた。このパンフレットの第1冊はソ連と領土紛争がある千島列島南端の「北方領土」、第2冊は沖縄など中国海の島々、第3冊は小笠原諸島など日本の南側の島々を扱い、第4冊は太平洋と東海の島々を収録した。
  ところが、驚くべきことに、『日本の付属小島』第4冊に鬱陵島と独島が入っていた。日本は連合国に独島だけでなく鬱陵島まで日本領土だと主張したのだった。これは、パンフレットに共に収録された地図にもそのまま反映された。東海は「日本海(Japan Sea)」と表記して、鬱陵島は「Utsuryo」、独島は「Take」という日本の名前を付けた。

(翻訳者茶々:いや、別に日本政府は鬱陵島の領有権を主張したわけではないので、そんなに驚かんでよろしい。)

 2020051700503_1.jpg
  1947年6月日本外務省が作った『日本の付属小島』第4冊に添付された地図。鬱陵島と独島を日本領土に表示している。


  冊子の本文は、鬱陵島と独島についてそれぞれ次の通り記述している。

(鬱陵島) 日本は1004年から鬱陵島をウルマ島と呼んだ。韓国政府は1400年以来この島に対して空島政策に固執した。その間、日本人がこの島に進出して日本の漁業基地になった。17世紀始めから韓国と日本の間でこの島の所有権をめぐる交渉が行われ、1697年に日本の幕府は日本人が鬱陵島に行くことを禁止した。だが、韓国は以後も空島政策を変えなかった。19世紀後半、日本人は鬱陵島開発を主張して渡って行き、韓国政府も自ら開発しようとしたが特別な結果を出すことができなかった。1910年、日本の韓国併合で鬱陵島は日本の領土になった。

(独島) 日本は古代から独島の存在を知っていた。1904年、島根県隠岐島の住民たちが鬱陵島を基地として活用して独島でアシカ猟を始めた。鬱陵島は韓国の名称があるが独島は韓国名が無くて、韓国で作った地図に現れない。

  この叙述は、鬱陵島については事実と虚偽を巧妙に混ぜて、全体的に日本に有利に認識されるように書かれた。独島についてはほとんどが虚偽の記述だった。日本の外務省がこのようなでたらめな内容を入れた冊子を作ったのは、当時の日本が鬱陵島はもちろん独島付近にも接近できない状況をどうにかしてひっくり返してみようとする必死のあがきだった。
  第二次世界大戦で日本が崩壊した後に日本に進駐した米軍は、連合国最高司令部(SCAP・Supreme Commander for Allied Powers)を通じて日本を占領統治した。司令官だったマッカーサーの名前を取ってマッカーサー司令部とも呼ばれたSCAPは、連合国最高司令官指令(SCAPIN・SCAP Instruction)で具体的な行政指示を与えた。1946年1月29日に発表されたSCAPIN第677号はSCAPが管轄する日本と韓国の行政区域を指定して、独島を済州島・鬱陵島と共に韓国に含ませた。続いて、1946年6月22日に発表されたSCAPIN第1033号は、日本の船舶が独島12海里以内に接近することを禁止した。「マッカーサー・ライン」と呼ばれたこの海洋線は、独島に対する日本の実効的支配を公式に遮断する結果を産んだ。


2020051700503_2.jpg
 1946年1月29日連合国最高司令部が発表したSCAPIN第677号に添付された地図。独島を鬱陵島と共に韓国の行政区域として明示した。

2020051700503_3.jpg
 SCAPIN第677号に添付された地図のうち鬱陵島と独島の部分を拡大したもの。

  このように明白に韓国領土である鬱陵島と独島を日本領土だと主張するとんでもない冊子を作った者は誰だったろうか? 光復直後の独島問題に精通したチョン・ビョンジュン梨花女子大学教授は、著書『独島1947』で当時の日本外務省で領土問題を専門担当していた川上健三だとした。 戦後日本の独島研究と対応の核心人物だった彼が、1906年に島根県が鬱陵島と独島の調査結果を含めて出版した『竹島及び鬱陵島』という本を参照して作ったということだ。
  川上健三(1909~1995)は、京都帝国大学史学科を卒業した後、第二次世界大戦当時は参謀本部と大東亜省で勤務した。日本帝国主義の論理と体質が身についた彼は、敗戦後に外務省に入って隣接国との領土紛争に関する報告書作成を担当した。彼は後日ソ連公使を務め、退任後にも外務省の業務を助けた。
  博学な歴史・地理・国際法の知識に基づいて「条約問題の権威者」として活動した川上は、独島問題でも明確な足跡を残した。彼は、1950年代に韓日間で独島紛争が発生するとすぐに日本側の声明作成を主導した。彼が1953年8月に出した『竹島の領有』は、当時まで日本が蓄積した独島関連の事実と論理を日本側の立場で総合整理したものだった。彼はその後も独島問題に関する探求を続け、1966年に『竹島の歴史地理学的研究』を再び出版した。この本は、今でも独島問題に関する日本の公式の立場を代弁するものと評価されている。川上健三は、今後、独島問題の真実を正して行くこの連載のあちこちに登場するだろう。例え敵陣の理論家であって多くの部分で事実を歪曲して隠したとしても、彼なりに自国の国益のために渾身の力を傾けた彼の名前を記憶しておこう。
  鬱陵島と独島は日本の領土だと主張する日本外務省が作った冊子は、3ヶ月後の1947年9月にアメリカ国務部に20部が発送された。東京の連合国最高司令部にも10部余りが配付された。 日本の領土決定に影響を及ぼしかねない有力機関に日本側の立場を込めたパンフレットがばらまかれるのに決定的な役割をした人物は、東京にいたアメリカ外交官シーボルドだった。ウィリアム・シーボルド(William Sebald、1901~1980)は米海軍士官学校出身で、軍人と弁護士を経て1945年12月に外交官に転身し、その時から1952年4月まで東京で勤務して大きな影響力を発揮した。日本語に堪能で、夫人が日系英国人であり多くの日本の有力者たちを友人としていた彼は、代表的な知日・親日アメリカ人だった。下級外交官から出発した彼は、マッカーサーの信任によって早く昇進した。中国通であり反日的人物で連合国最高司令部で大変重要な職責にあった駐日米政治顧問とSCAP外交局長を兼任したジョージ・アチソンが1947年8月に飛行機墜落事故で死亡して、その後を経歴と年齢が不足するシーボルドが受け継いだことは、日本には幸いであり韓国には不幸だった。
  日本外務省の幹部たちは、事実上駐日米国大使の役割をしたシーボルドを常に訪問して日本が作った報告書を伝達した。彼らは真夜中に密かに会うこともあった。シーボルドは日本側の公式文書を本国に伝達することに止まらず、積極的に日本の肩を持った。彼は、1949年11月にアメリカ国務部が対日平和条約第5次草案で独島を済州島・巨文島・鬱陵島と共に日本の領土から排除すると、すぐに「リアンクール岩(竹島)に対する再考を建議する。この島に対する日本の主張は古く、妥当性があると考えられる」という電文を送った。1952年1月に李承晩大統領が平和線を宣言して独島問題が韓日間の争点として浮上した時も、アメリカ国務長官に送った電文で「独島は日本領土が合っている」と主張した。
  韓国がまだ政府も樹立できない状態で内部的に理念対立と混乱が続いている中、独島を再び狙う日本の組織的かつ執拗な動きが始まった。そして、この問題に大きな影響力を持った東京の連合国最高司令部の中心には親日的なアメリカ高位外交官が陣取っていた。今や韓国の意志とは関係なく、独島領有権をめぐって韓日間の全面対決が近づいていた。そして、その舞台は連合国と日本の平和会談が開かれるアメリカ・サンフランシスコであった。



<コメント>
 このイ・ソンミンという人は保守系新聞代表の朝鮮日報の記者ではあってもガチガチの反日主義者のようで、随所に思い込みによる間違いや悪意ある歪曲表現がありますね。イ・ヨンフン教授の新著『反日種族主義との闘争』ではこの人も「反日種族主義者」に分類されちゃってますよ。

 まず、日本政府が鬱陵島の領有権を主張したというのが間違いで、あれは鬱陵島がそこにあるから説明しただけですよ。日本海の中の陸地から遠く離れたところに鬱陵島と竹島という二つの島があるから、二つとも説明しておかないとアメリカとしては日本が鬱陵島についてどう考えているか分からないですからね。それに、けっこう客観的な説明ではないですか。「1910年、日本の韓国併合で鬱陵島は日本の領土になった。」と書いてあるんだから、誰だって「あ、これはもともと韓国の領土ね」と分かる話です。

 それと、何しろ「反日種族主義者」ですから、当然、SCAPIN677で領土が決まったという浅はかな論理に従っています。









テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

[イ・ソンミンの独島の話] [2] 1947年鬱陵島・独島学術調査隊(下)

[独島の話] [2] 「独島は韓国の地」大きな成果を残した知識人三人

2020.05.10 イ・ソンミン先任記者 朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/05/10/2020051000399.html

[イ・ソンミンの独島の話]
[2] 1947年鬱陵島・独島学術調査隊(下)
言論人ホン・ジョンイン、史学者シン・ソクホ、国語学者パン・ジョンヒョン
独島に関する国民の認識を高め、学術研究の礎石を置く


  ソウルに戻った鬱陵島・独島学術調査隊は、調査結果を知らせる活動に入った。まず、1947年9月2日に国立科学博物館で講演会が開かれた。ホン・ジョンイン、パン・ジョンヒョン、キム・ウォンヨン、石宙明たちが発表を行った。そして、11月10日から18日までトンファデパート(現新世界百貨店)で展覧会が開催された。鬱陵島・独島の写真、動植物・鉱物標本、考古学・民俗学資料などが展示されて8万5000人が観覧した。ソウルに続いて釜山(11月30日~12月4日)と大邱(12月6日~10日)でも展覧会が開かれた。
  学術調査隊に参加した人々の活動も活発だった。その中でも、特に言論人ホン・ジョンイン、歴史学者シン・ソクホ、国語学者パン・ジョンヒョンなど三人の知識人が目立った。朝鮮山岳会の副会長であり学術調査隊の副隊長であったホン・ジョンイン(洪鍾仁1903~1998)は、漢城日報に1947年9月21日付から26日付まで四回にわたって「鬱陵島学術調査隊報告記」を掲載した。調査隊の任務・編成・日程・事業・結論・保護施策等を含むこの報告書は、「鬱陵島から東南方向の海上46海里にある無人島でその帰属が問題になるだろうと伝えられる独島行きは、実行前までは外部発表を終始保留していたが、これは私たちが当初から計画して来た奇襲的な旅程だった」と明らかにした。


2020051000399_0.jpg
 1953年10月「第3次鬱陵島、独島調査隊」の隊長として独島に花崗岩の標石を設置した後に確認するホン・ジョンイン/韓国山岳会

  ホン・ジョンインは3ヶ月前まで朝鮮日報の編集局長の任にあった重鎮の言論人だった。当時も朝鮮日報で仕事をしていた彼が他の新聞に報告記を載せたのは、鬱陵島・独島学術調査隊の派遣が南朝鮮過渡政府の事業だったためだ。光復後に創刊された漢城日報は、過渡政府民政長官アン・ジェホンが社長だったので米軍政の機関紙の役割をしていた。それで、調査隊の公式報告書だとするホン・ジョンインの文章がこの新聞に掲載されたのだった。
  ホン・ジョンインは、報告記の他にも独島に関する多くの文を書いて国民の認識を高めた。彼は、翌1948年6月17日付け朝鮮日報に「東海の私の国土/悲しい流血の記録-踏査の回顧」という文を載せた。駐日米空軍機が独島を演習爆撃して多くの犠牲者が発生した直後だった。独島の写真が付いたこの文は、「我が民族を愛するという精神は国土を愛するという精神を離れては有り得ない」とし、「今でも独島の東側の島には我々山岳会と過渡政府の調査隊が立てた明確な標柱が立っているだろう」と書いた。


2020051000399_1.jpg
 1948年6月朝鮮日報に載せられたホン・ジョンインの1年前の独島調査回顧記事

  ホン・ジョンインは更に何度も独島を尋ねた。1952年9月17日~28日に韓国山岳会が「第2次鬱陵島・独島学術調査隊」を派遣した時は、団長を引き受けた。当時の彼の職責は朝鮮日報主筆だった。今回も政府の部署が総動員で後援した国家的レベルの調査だった。だが、調査隊が独島付近に接近した時に米空軍機が独島に爆弾を投下したため、上陸をあきらめなければならなかった。
  韓国山岳会は、1953年10月11日~17日に三回目の「鬱陵島・独島学術調査隊」を派遣した。このときも、団長は朝鮮日報主筆ホン・ジョンインだった。調査隊は10月13日に独島に到着したが、天気が急変したために撤収した。10月15日に再び独島を尋ねた調査隊は一夜を夜営して、日本が立てておいた「島根県隠地郡五箇村竹島」という標木を抜き取って、その前年に作ったが設置することができなかった花崗岩の標石を立てた。標石は、前面に「ドクト、獨島、LIANCOURT」、裏面に「韓国山岳会鬱陵島・独島学術調査団Alpine Association」と刻んでいた。そして、初めて独島に対する測量作業を始めた。独島の東島は高さ99.4m、周囲800m、面積5万㎡、西島は高さ174m、周囲1km、面積6万5000㎡だった。
  ホン・ジョンインは、このときは朝鮮日報に1953年10月22日付から27日付まで四回の「独島に行って来て」という踏査記を連載した。彼はまた、1956年7月に高等学校山岳部の学生197人を率いて独島を尋ねた後、8月22日~30日付朝鮮日報に「航海1000マイル/学徒海洋訓練記」を八回連載した。10月24日付朝鮮日報には、学生海洋訓練報告展が開かれることを契機に「鬱陵島と独島」というコラムを載せた。

  国史館館長である歴史学者シン・ソクホ(申奭鎬1904~1981)は、一年後である1948年12月に学術誌『史海』創刊号に「独島所属について」という論文を発表した。光復後に独島問題を初めて学術的に扱ったこの文の冒頭では、「筆者は昨年8月16日から約2週間、民政長官アン・ジェホン先生の命令を受けて独島を実地調査したことがあるので、この一文を草して独島が本来我が国に属する島であったことを明確にしようと思う」と明らかにした。続いて「独島の地勢と産物」 「独島の名称」、「三峰島と独島」、「鬱陵島所属問題と独島」、「鬱陵島開拓と独島」、「日本の独島強奪」、「日本領有以後の独島」等の項目に分けて独島を歴史的・資料的・研究家的に考察した。 そして、結論の部分で次のように要約した。
▲独島は、朝鮮時代成宗時の三峰島と同一の島で、15世紀から我が国の領土になった。
▲粛宗の時、日本は鬱陵島を朝鮮領土と承認したので、その属島である独島も朝鮮領土と承認したのだ。
▲日本が1905年に独島を強奪した後でも、日本政府及び準政府機関の記録と日本の学者たちは独島を朝鮮の属島と認めた。
▲現在の連合軍司令部がひいたマッカーサーラインでも独島は韓国の漁区に属している。

2020051000399_2.jpg
  シン・ソクホが1948年12月に発表した「独島所属について」の論文に添付された地図。独島がマッカーサーラインで韓国区域に含まれたことを表示している。
(翻訳者注:「独島所属について」の全文日本語訳はこちら↓)
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/12/blog-post.html

  シン・ソクホがこの論文で考証して主張した内容は、1950年代に韓国と日本の独島紛争が発生した時、韓国側の論理の根幹を成すことになる。チョン・ビョンジュン梨花女子大学教授は、著書『独島1947』(2010年・トルペゲ)で、「シン・ソクホの文は1947~1948年の時点で作成された独島領有権関連資料・根拠の集大成であり、独島研究の始原を開いた記念碑的なものだった」と評価した。
  以後、シン・ソクホは高麗大学教授として独島関連資料を収集して日本側主張に反論する論拠として外交部に提供した。彼は、独島問題が韓日会談で重要議題に浮び上がるとすぐに、『思想界』 1960年8月号に「独島の来歴」という文を載せた。この文は、1905年日本が独島を島根県に編入した措置に対して「強盗行為でなければ詐欺行為」と叱責した。

(翻訳者注:「独島の来歴」の全文日本語訳はこちら↓)
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/12/1960-part-1.html
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/01/1960-part-2.html


  また一つ、鬱陵島・独島調査隊員が書いた重要な文は、ソウル大学教授であった国語学者パン・ジョンヒョン(方鍾鉉)が1947年『京城大学予科新聞』第13号に載せた「独島の一日」だ。その前年の夏に独島を尋ねたときに書いた日記だった。日帝期に朝鮮日報に勤めて国語学関連の論説を多く発表した彼は、当時共に仕事をしていたホン・ジョンインとの縁で調査隊に合流したと見られる。彼は、「問題の独島!気になる独島!私たちは鬱陵島を調べる前にまず独島から探査することにした」と始まる文で独島調査の全過程を実感できるように描いた。

2020051000399_3.jpg
国語学者パン・ジョンヒョン。独島という名称が漢字語「石島」と関連する事実を明らかにした。 /朝鮮DB

  学術的な性格ではないこの文章が後日大きな意味を持つことになるのは、「独島」という名前が漢字語「石島」から由来したものと解釈したためだ。方言の専門家であったパン・ジョンヒョンは、全羅南道の海岸地方では「石」を「ドク」と発音するとして、独島という名称が「トクソム」、「トルソム」、「ソクト(石島)」と関連すると見た。当時では推定だったこのような解釈は、1960年代後半に至って大韓帝国勅令第41号の存在が知られて再び注目されることになった。1900年10月に頒布されたこの勅令は、鬱陵島の所轄区域を「鬱陵全島と竹島・石島」と規定した。独島が石島とも表記されたという事実が明らかになったのだ。鬱陵島と独島の研究に一生を捧げたソン・ビョンギ檀国大学教授は、勅令第41号を見ることなくこのような推定をしたパン・ジョンヒョンの解釈を「卓見」と高く評価した。
  パン・ジョンヒョンの解釈は歴史的事実とも符合する。鬱陵島に住民移住が再開された1880年代中盤以前、そこに行き来した人の多数は全羅南道出身だった。17世紀末以来鬱陵島に往来して漁業・採取活動をした彼らは、石が多い独島を「トクソム」と呼び、それが「独島」、「石島」と表記された。言論人・歴史学者・国語学者として自己の分野で専門性を発揮して独島の探求と認識の拡散に先んじた知識人が、1947年8月の初めての独島調査隊に含まれたことは大いなる幸甚だった。 次の回で詳細に見るが、この頃の日本が帝国主義時期に育てた強大な外交力量を投じて独島を欲しがっていた点を勘案すれば、より一層そうだった。



テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

[イ・ソンミンの独島の話] [1] 1947年鬱陵島・独島学術調査隊(上)

  イ・ヨンフン教授がその著書『反日種族主義』の「独島、反日種族主義の最高の象徴」において、韓国には独島を韓国の固有の領土と主張できるような根拠は無いと書いたことに対して、朝鮮日報のイ・ソンミンという記者が、韓国の独島研究者たちの主張(つまりウソばかりの主張)を急遽勉強して、『週刊朝鮮』に何回か反論文を書きました。それに対して、イ・ヨンフン教授は新著『反日種族主義との闘争』で再反論をしています。
  それに対してイ・ソンミン記者がまた何と言い返すのかはまだこれからのことですが、それとは別に、にわかに「独島問題の専門家」になったらしいイ・ソンミン記者は、朝鮮日報に独島問題の連載を始めました。その趣旨として、次のような説明があります。

  「独島をめぐる韓国と日本の対立は一編の大河ドラマのようだ。数多くの執念に満ちた人物が登場して、色々な争点をめぐって激論と攻防が行き来する。そして舞台の上には主人公である韓日両国だけでなく、審判格であるアメリカを中心とする国際社会がある。1945年の日帝崩壊以後に本格化した「独島問題」の歴史と現況を、これまで良く知られていなかった内容を含めてストーリー・テリング方式で毎週日曜日に連載する。」(編集者)

 嶺南大学の空想的領土問題専門誌『独島研究』なんかは一般の韓国国民はほとんど見ないでしょうが、こちらは朝鮮日報ですから、どちらかと言えば保守派に属する人たちが多数この記事を読んでいることになります。そして、「そうか、そうか、そーだったのか」と思っていることでしょう。それで、どういうことが書いてあるのか、一応見ておくことにしましょう。


[独島の話] [1]その年の夏、「独島守護」の偉大な第一歩を踏み出した

イ・ソンミン先任記者  2020.05.03  朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/05/03/2020050300295.html

[イ・ソンミンの独島の話] [1] 1947年鬱陵島・独島学術調査隊(上)
光復後初めての大規模調査…各界専門家など80人余が参加
独島に領土標木設置、「沈興沢報告書」発見など成果


  1947年8月18日午前7時、朝鮮山岳会(韓国山岳会の前身)が組織した「鬱陵島・独島学術調査隊」が慶尚北道の浦項港を出発した。海岸警備隊所属の警備艇大田(テジョン)号に搭乗した学術調査隊は、隊長を引き受けた朝鮮山岳会長ソン・ソクハ(民俗学者)を始めとして、国語学者パン・ジョンヒョン、考古学者キム・ウォンヨン、漢学者イム・チャンスン、言論人ホン・ジョンインなどの社会科学班、「蝶博士」として有名な昆虫学者石宙明、植物学者イ・ヨンノなどの動植物学班、農林班、地質鉱物班、医学班、報道班、電気通信班など63人で構成された。これに、南朝鮮過渡政府から派遣された国史館館長シン・ソクホ、外務処日本課長チュ・インボン、文教部編集士イ・ポンス、水産局技術士ハン・キジュンなど公務員4人が合流した。そして、途中で立ち寄った大邱と浦項で慶尚北道と警察の職員が追加されて、合計80人余りに増えた。
  鬱陵島と独島に光復後初めて大規模学術調査隊が派遣されたのは、その年の4月に独島近海で漁をしていた我が漁船が日本漁船の攻撃を受けたことが契機になった。1947年6月20日、大邱で発行されている『大邱時報』に「倭賊日人のバカげたたわ言」という刺激的な見出しでこの事実が報道され、続いて7月下旬に中央日刊紙も関連記事を載せ始め、独島問題は国家的関心事として浮び上がった。


2020050300295_0.jpg
 独島付近で日本の漁船が韓国の漁船を攻撃した事実を報道した「大邱時報」1947年6月20日付けの記事
(翻訳者注:この記事の日本語訳はこちら https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-1775.html )

  ちょうど日本でも独島問題に関心が高まっていた。第二次世界大戦の終戦後、敗戦国日本に対する管理を受け持った極東委員会(Far Eastern Commission、13ヶ国で構成)は、1947年7月11日、「日本の主権は本州・北海道・九州・四国の諸島と今後決定される周囲の諸小島に限定される」という「対日基本政策」を発表した。これは、日本に占領軍として進駐した米軍が1945年9月5日の「対日方針」を通じて「日本の主権は本州・北海道・九州・四国の四大島に限られる」と明らかにしたのとは違った。「周囲の諸小島」に独島を含ませたかった日本では、独島は日本領土という主張が起きた。
  当時、38度線以南地域の行政責任者であった南朝鮮過渡政府民政長官アン・ジェホンは、歴史学者であり言論人として韓日間の対立要因である独島問題が重要な峠に差しかかったという事実を直感した。彼は、専門家たちとの会議を経て独島に調査団を派遣することにした。だが、米軍政下で日本との外交的摩擦を避けるために、朝鮮山岳会が調査隊を送るという形式を取ることにした。
  日帝期に活動した朝鮮人登山家が中心となって光復直後の1945年9月15日に発足した朝鮮山岳会は、単純な登山同好人の組織ではなく、国土調査と探険を通じて取り戻した国と民族愛を実践する団体であった。彼らは創立後初めての課題として日帝が蹂躪した国土を探査する「国土究明事業」を始めて、漢拏山、五台山、小白山を順に探査した。鬱陵島・独島調査隊の派遣は彼らが行った四回目の国土究明事業だった。
  8月18日午後6時に鬱陵島の道洞港に到着した学術調査隊は、一日を休みとして講演会と歓談会などを開いた。そして、翌8月20日の明け方に再び大田号に乗って独島に向かった。今でも同じことだが、独島上陸の可否は天気に左右される。風が強かったり波が起きれば近寄り難い。しかも、当時は接岸施設も無かった時なので、より一層独島に接近することは容易では無かった。幸いにもこの日は天気が良くて風や波は強くなかった。天の恵みだった。

2020050300295_1.jpg
 1947年8月18日鬱陵島に到着した鬱陵島・独島学術調査隊 /韓国山岳会

  午前9時を少し過ぎて独島付近に到着した学術調査隊は、東島と西島の間に大田号を止めた後、小さな舟に乗り換えて東島に上陸した。東島の西側の浜辺で荷物を解いて、動植物の標本採集、目測測量、地形把握、写真撮影などの調査活動を行った後、再び小さな舟に乗って西島へ向かった。彼らは西島で海獅子(アシカ)の子三匹を捉えた。鬱陵島の住民たちが「カジェ」と呼ぶ海獅子は独島周辺に群れをなして生きていた。

(アシカの部分の魚拓)
  오전 9시가 조금 지나 독도 부근에 도착한 학술조사대는 동도와 서도 사이에 대전호를 멈춘 후 작은 배로 갈아타고 동도에 상륙했다. 동도의 서쪽 해변에 짐을 풀고 동식물 표본 채집, 목측 측량, 지형 파악, 사진 촬영 등 조사 활동을 벌인 뒤 다시 작은 배를 타고 서도로 향했다. 이들은 서도에서 바다사자 새끼 세 마리를 잡았다. 울릉도 주민들이 ‘가제’라고 부르는 바다사자는 독도 주변에 무리를 지어 살고 있었다.

  学術調査隊は独島の東島に「朝鮮鬱陵島南面独島」、「鬱陵島独島学術調査隊紀念」と書いた二本の標木を立てた。独島が韓国領土であることを表示した最初の施設だった。午後3時半ごろ独島の調査活動を終えた一行は、再び鬱陵島道洞港に戻った。


2020050300295_2.jpg
  朝鮮山岳会が1947年8月独島に初めて設置した韓国領土の標木

  基本課題である独島の調査を終えた学術調査隊は、8月21日から25日まで鬱陵島で聖人峯の踏査、医療診療、特別講演会などを行った。この期間に、南朝鮮過渡政府から派遣された人々は後日重要な意味を持つことになる大きな成果を上げた。歴史学者である国史館館長シン・ソクホが鬱陵郡庁で発見した「沈興沢報告書」と、外務処日本課長チュ・インボンによる鬱陵島老人ホン・ジェヒョンの独島関連の証言収録だった。
  「沈興沢報告書」は、1905年日本の独島侵奪の時、鬱陵島郡守がこの事実を知るや否や政府に送った報告書だ。先に述べた『大邱時報』の記事には「韓末当時の国政が極度に疲弊した合間を利用して、光武10年陰暦3月4日に日本人がこの島嶼を飲み込もうと島根県から代表団が鬱陵島に交渉に来たことがあったが、当時、同島司は道当局にこの転末を報告すると共に善処を請託して来た文書がまだ残っている」という一節があった。
  日本は1905年1月28日の内閣会議で一方的に独島を島根県に編入する決定をした。続いて2月22日に「竹島編入に関する島根県告示第40号」を発表した。だが、この告示は島根県の『県報』と地方新聞である『山陰新聞』に小さく掲載されただけで中央政府が発行する『官報』には公示されなかった。したがって、当時は我が政府はこれを知ることができなかった。
  朝鮮政府が日本の独島侵奪の事実を知ることになったのは、1906年3月28日、島根県の官吏一行が独島を訪問して帰る途中で鬱陵島に立ち寄って、「日本が独島を領土に編入して、管理責任者が視察した」と通知した時だった。この事実を聞いた鬱島郡守沈興沢はすぐ翌日に直属の上司である江原道観察使に「‘本郡所属独島’を日本が領地に編入したという」という緊急報告書を上げた。 『大邱時報』の記事によれば、その報告書が40年が過ぎたその時まで残っているということだった。
  鬱陵郡庁を探したシン・ソクホは、古い文書の山から「沈興沢報告書」の副本を捜し出した。 1950年代以後に本格化する韓日間の独島紛争で我が方の有力な証拠に使われる「沈興沢報告書」が光を見た瞬間だった。彼は、翌1948年12月の学術誌『史海』創刊号に載せた「独島所属について」という論文でその内容を公開した。
  「沈興沢報告書」は韓国側の文書としては「独島」という名称が初めて現れて、大韓帝国政府が独島を我が領土と認識していたことを示す貴重な資料だ。だが、シン・ソクホが確認したこの報告書副本はその後いつか失われ、研究者たちは心配した。そうするうちに、1978年8月、ソウル大学奎章閣で独島関連の資料を調査したソン・ビョンギ檀国大学教授が、沈興沢の報告を受けた江原道観察使がさらに議政府の参政大臣に送った報告書を発見した。その中に「沈興沢報告書」の内容がそのまま含まれていた。こうして「沈興沢報告書」は再び私たちの手に戻った。


2020050300295_3.jpg
  1906年3月、江原道観察使が議政府に上げた独島関連報告書。鬱島郡守沈興沢が日本の独島侵奪を報告した内容がそのまま入っている。


  当時85才だったホン・ジェヒョンの独島関連証言は、韓国外務部が1955年に刊行した資料集『独島問題概論』に収録されている。ホン・ジェヒョンは、永く空島政策を取っていた鬱陵島に再び住民移住が再開された1880年代中盤に父について一家が江陵から渡って来た。移住当時に20代始めだった彼は、鬱陵島と独島の歴史を見守った生き証人だった。彼の証言内容の中で独島と関連するものは次のとおりだった。

▲独島が鬱陵島の属島ということは、鬱陵島の開拓当時から島民の誰もが分かる事実だった。
▲私も他の人たちと共に1903年から四、五回、ワカメ採取やアシカ(カジェ)狩猟のために独島に行ってきた。
▲独島は天気が良ければ鬱陵島から見ることができて、東海で漂流する漁船は独島に漂着することがたびたびあったので、独島に対する鬱陵島民の関心は非常に大きい。
▲光武10年に日本の官吏一行が鬱陵島に来て独島を日本所有だと無理に主張した事実は、私も知っている。 (…)当時これを伝え聞いた島民や漁業者などは非常に憤慨した。

  ホン・ジェヒョンの証言は、客観的な歴史的事実と符合するものだった。そして、韓国と日本の間に独島紛争が始まるころの独島に対する鬱陵島住民たちの認識を示す証言であり、価値が高かった。
  鬱陵島で9泊10日の日程を送って期待した以上の大きい成果を上げた「鬱陵島・独島学術調査隊」は、1947年8月26日朝に道洞港を離れてその日の夜に浦項港に到着した。そして翌日浦項を出発し、大邱を経て8月28日にソウルに戻った。
<続く>
  

テーマ : 韓国
ジャンル : 海外情報

「独島韓国領」初表示 1947年写真

「独島韓国領初めての表示」 1947年標木写真原本公開
 
2016/08/10 連合ニュース
 
「朝鮮慶尚北道鬱陵島南面独島」と書いて…領有権確認
イ・サンヒョン民族和解協議会体育委員、学術調査隊の撮影物を韓国学中央研究院に寄託
 
(ソウル=聯合ニュース)キム・ケヨン記者=「朝鮮慶尚北道欝陵島南面独島」「Aug 20 1947 KoreaAlpine Association(1947820日朝鮮山岳会)
19478月、朝鮮山岳会傘下の鬱陵島学術調査隊が独島東島に設置した標木に書かれた文面だ。この標木は独島が韓国領であることを表示した最初の施設物に数えられる。




当時の独島標木の文面が鮮明に写された原本写真が確認された。韓国学中央研究院は、イ・サンヒョン民族和解協力汎国民協議会体育委員から寄託された独島標木の写真を10日公開した。写真を見れば、学術調査隊は右側の標木に漢字で「朝鮮慶尚北道鬱陵島南面独島」と書いて独島領有権を確認した。左側の標木には標木を立てた日と朝鮮山岳会の名称を英文で表記した。同標木の他の面の文字は、暗いが「鬱陵島学術調査隊独島調査記念」と推定される。写真は横23.5㎝、縦29.3㎝大きさで印画された原本だ。謄写本と推定される写真が公開されたことがあるが、写真が暗くて文面を識別できなかった。
この写真は学術調査隊に報道班として参加した写真家チェ・ケボク先生一行が撮影したものと分かった。チェ・ケボク先生の写真集「ヨンソンモッの春」を見れば、当時、報道班は学術調査以後ドンファ百貨店(現新世界百貨店)で展示会を開くこともした。しかし、写真資料が625戦争の時ほとんど消失したと本には記録されている。




 当時調査隊員12人が三つ岩を背景に独島の東島で撮影した団体写真も初めて公開された。これらの写真は、イ氏が朝鮮山岳会の後身である韓国山岳会で活動した父親を通じて入手して所蔵していて韓中研に寄託した。キム・ヨンス東北アジア歴史財団独島東海研究室長は、「独島が韓国領土であることをどういう表現で確認しようとしたのか知ることができる資料」とし、「当時、独島の価値を認知して具体的な調査をして守護しようとしたことを見せる象徴的意味がある」と話した。
学術調査隊が立てた標木は、1953年頃に独島に不法上陸した日本人が撤去したと推定される。山岳会は、当時日本人が設置した標木を同年10月に除去して花こう岩の標石を立てた。この標石まで日本人によって撤去されるなど両国が神経戦を行った。解放直後に設立された朝鮮山岳会は単純な登山団体ではなく、学界・言論界など知識人の国土調査・研究団体だった。初代会長である民俗学者ソン・ソクハ先生は震檀学会(翻訳者注:震檀は朝鮮の古称)の創立に参与し、国立民族博物館長を務めた。




学術調査隊は、歴史・地理・経済・社会・考古・民俗・言語学など人文社会科学と動物・植物学、農林・地質鉱物・医学など各界分野の専門家63人が参加した大規模組織に編成された。臨時政府と慶尚北道からも人材を支援された。同年4月、日本人が独島を不法占拠するなど紛争が激化する兆しを見せると直ちに臨時政府次元で領有権確認の作業に出たのだ。このため調査を隠密に推進して、表面には「鬱陵島学術調査」を前に出した。
チョン・ビョンジュン梨花女子大学教授は、著書『独島1947』で「独島調査隊の最重要の活動は、独島の基礎的調査と独島の韓国領確認作業だった」とし、「(これを通じて)韓国社会の世論主導者が独島問題の重要性と紛争の可能性、韓国領有権の歴史、証拠文献、日本侵略の具体的実状などを明確に認識することになった」と説明した。イ氏は、「日本が防衛白書でまたも独島を日本領土と規定した状況で、国民が独島にもう少し関心を持ってもらえばいい」と語った。

 



<コメント>
うん、まあ、この標木は、1947年8月時点で韓国人たちが竹島を自国領と思っていたということの証拠にはなるのだろう。



関連記事





朝鮮山岳会の会長、宋錫夏による調査報告書 1948.1
KOREA(古色蒼然な歴史的遺跡 陵島を捜して)


獨島問題概論 第一章  独島についての史的考察
第三節 8・15解放後の独島の地位    三 韓国民の独島に対する関心
(1)第一次学術調査団派遣

http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/51513655.html









クラーク線 1952年

新警備線から独島は除外
 

1952929日 東亜日報 
http://newslibrary.naver.com/viewer/index.nhn?publishDate=1952-09-29&officeId=00020&pageNo=1

 

「クラーク」司令部では、作戦海域と韓国水域警備線を画定して27日に発表したが、同警備線に関しては、去る11日、アメリカ極東艦隊司令部韓国水域封司令官「キン○○」少将を通じて韓国政府に伝達したという。取材したところによれば、新たに決定された韓国水域警備線は、東海においては鬱陵島・独島間を南下、対馬島と釜山の間を通過して済州島南方から黄海に北上する線だといい、獨島海域が抜けたことを除けば大体において韓国政府が宣言した海洋主権線と差がないもので、沿岸二十里の外になっているという。









<コメント>
  「韓国政府が宣言した海洋主権線」はつまり李ライン。


  1952年9月ならばサンフランシスコ講和条約発効から5ヶ月後であり、同条約で竹島は日本領として処理されたことは米軍ももちろん分かっていたはずだから、鬱陵島と竹島の間に線を引いたのは当然のことですね。


  しかしまあ、この東亜の記事はえらく淡々としていますねえ。「獨島海域が抜けたことを除けば大体において韓国政府が宣言した海洋主権線と差がないもので」だそうですが、当時は竹島のことなど大して気にかけていなかったみたいですねー。「独島は韓国独立の象徴」じゃなかったかな。






 

1957年韓国の検定ずみ教科書

Makotoさん御紹介のニュース



韓国の検定教科書で“墓穴” 
教科書「わが国の地理」で竹島が“範囲外”

zakzak 2015.04.06



  韓国が、不法占拠を続ける島根県・竹島(韓国名・独島)について、大きな墓穴を掘ったといえる検定教科書を出版していた。自国の東端を、竹島より西側として記述しており、竹島を自国領から除外していたのだ。日本政府が国際司法裁判所(ICJ)に提訴する際、韓国のウソを打ち破る補完証拠になるのか。

 注目の教科書は、1957年に発行された中学生用の社会生活科の教科書「わが国の地理」。現在もソウル市内にある教科書出版社「一潮閣」から出されたもので、「韓国文教部(現・教育部、日本の文科省に相当)検定済み」と表紙や前書きに明記されている。

 領土問題に関心がある西日本在住の男性が大阪市内の古書店で発見し、2000円で購入した。「朝鮮大学校蔵書」という印もあり、北朝鮮系の朝鮮大学校(東京都小平市)から流出したようだ。

 教科書では「わが国(韓国)の位置」を「東端…東経130度41分22秒」と記載していた。つまり、韓国が現在、東端と主張する竹島の位置(東経131度52分)から約130キロも西側(韓国寄り)が、自国の東端と教えていたわけだ。

 この教科書が注目されるのは、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領=当時=が日本海に一方的に「李承晩ライン」をひいた52年から5年後に出版されていることだ。韓国政府は54年に海洋警察隊を島に常駐させ、現在に至る不法占拠につなげているが、57年の出版時点でも、韓国は「竹島領有」を子供たちに教えることに自信がなかったとも受け取れる。
朝鮮半島の地図は約20枚使用されているが、竹島が出てくるのは、日本の漁船の操業禁止区域を示した地図1枚のみ。地誌の説明もあり、わずか4行だが「独島」という項目もあった。

 そこには、「昔からわが国の領土であることが確かにもかかわらず、近海の漁場を狙う日本人どもが自分たちの土地だと主張して問題になっている」という説明に続き、「この島は人の住まない2つの岩に過ぎない」と、あまり重要でもなさそうな記述になっている。

 現在、韓国は官製パンフレットで「わが民族誇りの地」「先祖の魂をそっくりそのまま宿している、われわれの希望の拠り所」などと、太古の昔から聖地だったかのように仰々しく崇めている。同じ国の政府が認めた記述とは思えない価値観の変貌ぶりだ。

 竹島問題に詳しい拓殖大学の下條正男教授は「韓国は当時、竹島を占拠して、自国領という捏造工作を進めていた。こういう(墓穴を掘ったような)資料はたくさんあり、この教科書も失敗作の1つだ。問題は、日本政府が適切に反論してこなかったこと。日本漁船が拿捕され、日本人漁師が抑留された背景もあったのだろう。ただ、国家主権では妥協してはならない。韓国を論破する戦略・戦術を整えるべきだ」と語っている。





動かぬ証拠

 
 最近どこかで見た面白いジョーク
 
 
 
 
 
 
 「韓国には独島が韓国の固有領土であることを示す動かぬ証拠がある。!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 「動かぬ証拠なので、国際司法裁判所には持っていけない。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

戦後初めての「独島」報道

 
 さてさて、「ドクトヌンウリタンの謎」、つまり、韓国人たちがいつごろからどういうふうに「独島は韓国の領土だ」と考えるようになったのかを探求する作業は、ある程度の資料は集めて見たものの未解明の状態です。さしあたってこれ以上の資料は無いので、とりあえずのまとめでも書いて見ることにします。
 
 今まで分かっているところでは、次の記事が韓国における戦後最初の「独島」の報道だそうです。(https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-1093.html ←ここで紹介していますが、再掲します。) 
 
 
 
 
「倭賊日人の驚くべき消息 鬱陵島近海の小島を自分の島だと 漁区として所有」『大邱時報』(1947.6.20)

 
  解放後、満2年近い今日に至るまで、祖国の彊土は南北に分割され、この地の同族たちは左右に分裂し、主権の無い民の切ない悲哀が胸深く沁みる昨今、永遠に忘れられない侵略鬼、強盗である日本が、この国の情勢が混乱している隙をついて、また祖国の一島嶼を奪おうとする毒牙を磨いているという悪辣な消息が一つ伝わり、三千万同胞の激憤をよんでいる
 すなわち、奸凶な侵略鬼日本が魔手を伸ばしたところは、慶北道内の鬱陵島の東方約49里地点にある独島という島で、この島は左島と右島の2つの島に分かれており、左島は周囲1哩半、右島は周囲半哩にすぎない無人の小島ではあるが、海狗、○虎、鰒貝、甘藿などの産地として有名であるというが、この我々の島嶼を、海賊日本が、自分たちの本土から128哩も離れているのに、ずうずうしくも身のほどもわきまえず、自分たちの島であるとして、最近では、島根県境港の日本人某が自分の漁区として所有している模様で、今年4月、鬱陵島の漁船1隻が独島近海に出漁した時、この漁船に対して機銃掃射を敢行したという。
 それでは、ここで、この2つの島嶼が祖国の一部分である由来を調査してみれば、韓末当時、国情が極度に疲弊した隙をついて、光武10年陰暦3月4日、日本人たちがこの島嶼を併呑しようと、島根県から代表団が鬱陵島に交渉に来たことがあったが、当時、同島司は、道当局にこの顛末を報告すると同時に善処を請託してきた文書が、いまだに残っており、本道知事・崔熙松氏は、この証拠文献と実情を19日、中央当局に送達し、国土の寸土といえども完全に防衛することと、この独島の所在を広く世界に知らせるように要請したという。
 
 
 
<コメント>
 この記者さんは、基本的に日本に対してすさまじい敵対心を持っていた人のようですが、それはいいとして、 まず「三千万同胞の激憤をよんでいる」という言い方ですが、これを文字どおりに理解するならば、竹島についての日本人の何かの活動が韓国内に広く知られていて、多くの韓国人が怒っているという状況が既に発生しているはずです。ところがそういう報道は見つかっていない。ということは、これは「激憤をよんでいる」という事実があるのではなく、「激憤を呼ぶ事態である」という気持ちを記者がこのように表現したのではなかろうかと思われます。
 「すなわち」以下の竹島についての紹介も、いかにも初めて聞いて、それを初めて読者に知らせるような書きぶりです。
 
 次に、この記事では「日本人が独島を奪おうとしている」と言う認識が表明されているわけですが、その根拠となっているのは、要するに鬱陵島の役所に残っていた1906年の鬱島郡守沈興沢の「本郡所属の独島が日本領になった」という例の報告書の控えを見たからなんですね。記事では、最初から「独島は当然に韓国の領土だ」というような書きぶりであるわけですが、取材の過程で沈興沢の報告書を知ったのでそれを根拠にしているだけなのです。
 
 この当時はマッカーサーラインによって日本人は竹島に行けない時代だったので、韓国人たちは何となく独島は自分たちの領土だと思っていたわけでしょうが、そういうときに沈興沢の報告書を発見して、「そうだったのか、倭人どもは40年前に我らの領土を侵奪し、今再びそれを盗ろうとしているのだ」とでも思ったのでしょう。
 そして、その情報は着実に広まるし、当然韓国政府にも伝わって「本郡所属独島」という認識が定着した、というようなことだったのではないかと思います。
 
 この時点で、韓国人たちは、竹島は島根県が日本の領土として平穏に実効支配をして来た事実も、また、沈興沢の報告書に対して結局韓国政府が何の具体的措置も取らなかったことも知りません。「本郡所属独島」という沈興沢の思い込みによる言葉が「ドクトヌンウリタン教」の原典として絶大なる威力を発揮してしまったようです。
 
 
 
 
 
 
 

独島を初めて測量(6)

(続き)
 
慶尚北道の保身主義
 日本の「竹島の日」制定で騒がしかった2005年の815日は光復60周年を迎える日だった。この日が近付くと慶尚北道は素早く韓国山岳会の領土標石と独島遭難漁民慰霊碑を修復して独島に設置する行事を開いた。そして3年が過ぎた2008730日、独島に職員を送って彼らが修復した韓国山岳会の領土標石を撤去した。撤去理由はこの標石にアルファベットで「LIANCOURT」と書かれているということただ一つだった
 
  20087月、アメリカ議会図書館が独島を示す蔵書分類名称を「独島」から「リアンクール」に変えようとしていることが知られると、国内でこれを批判する世論が高くなった。この論難は、ブッシュ大統領が「無かったことにせよ」と指示することであっけなく整理された。
  ところが、慶尚北道は、この論争のほこ先が2005年に韓国山岳会の領土標石を修復した自分たちに向かって来はしないかという心配から、韓国山岳会の標石を撤去した。そして、700万ウォンをかけて「LIAN COURT」の代わりに「DOKDO, KOREA」を刻んだ標石を作って2009年中に再び設置するという計画を立てた。 この時、慶尚北道は大きな間違いを一つ犯した。
 
 この標石を壊そうとするなら、まず韓国山岳会の同意を得ることが必要だ。ところが、慶尚北道は、標石を壊した翌日(731)、「標石文の中で LIANCOURTは国際紛争となる余地が憂慮されるから変更設置したいので、貴山岳会の意見を回答してほしい。」と言う内容の照会文を韓国山岳会に送った。先に標石を壊しておいて「意見を回答してほしい」と言う、先後が当たらない公文書を送ったのだ。
  これについて、慶尚北道の担当官吏は、「公文書を送る前に韓国山岳会側と協議して、標石を撤去して新たに設置することに同意を受けた。御存知の通り官公庁では決裁を受けるのに時間が長くかかるから公文書発送が遅くなって、先に標石を撤去することになった。」と明かした。
 
 韓国山岳会のチェ・ホンゴン会長は、最初の記者との電話取材では、「私たちは理事会を開いて同意した。韓国山岳会の英文は COREAN ALPINE CLUBだから、KOREA  ALPINE ASSOCIATION も固有英文に変えたら良いという意見を送った。」と明らかにした。
韓国山岳会は理事会議事録を公開している。 記者は韓国山岳会の理事会議事録を皆探して見たが、どの議事録にも慶尚北道の標石撤去と変更に同意すると決議したり決定したりしたものは無かった。しかし、チェ会長が率いる韓国山岳会が慶尚北道の公文書に対して回答を送ったのは事実だった。韓国山岳会の回答には、チェ会長の言葉のように COREAN ALPINE CLUBに変えてくれと言う内容が書かれていた。慶尚北道側はこの回答821日に受け付けたと明らかにした。
 
この時は、既に記者が『週刊東亜』を通じて、「慶尚北道が韓国山岳会の同意を得て、独島にある最初のハングル領土標石復元物を LIANCOURTと言う文字が刻まれているという理由一つだけで撤去した。」と報道した後だったから、韓国山岳会では論難が起きていた。すると、チェ会長が率いる韓国山岳会は、慶尚北道に「なぜ慶尚北道は私たちの同意も得ずに独島領土標石を撤去したのか。私たちは『週刊東亜』の記事を通じて慶尚北道が独島標石を撤去した事実を初めて知った。」と言う内容の公文書を929付けで慶尚北道に送った。チェ会長側は、「DOKDO, KOREA」が書き込まれた標石を新たに製作することには同意したが既存の標石を撤去することには同意したことがない、と言葉遊びのような公文書を送ったのだ。
 これに対して、慶尚北道の関係者は、「我々は、確かに韓国山岳会の口頭による同意を受けて 730にこの標石を撤去した。」と主張している。
 
  韓国山岳会と慶尚北道の争いは、「リアンクール」という単語のために起きた。「リアンクール」は国際海図に上がっている独島の名前であって、日本の名前ではない。1953、韓国山岳会は、国際海図において「リアンクール」となっているのが韓国の独島だとしてこの標石を設置したのだが、彼らは逆に解釈してこの事態をもたらした。
  独島領有権を強固にするためには、私たちは、独島を守って来た歴史を整理しなければならない。歴史は、良くできたことはもちろん、間違ったことも明らかにしておかなければならない。しかし、いくら考えても、1953年に韓国山岳会がリアンクールという単語が入ったハングル標石を設置したのは過ちではない。この標石には韓国で最初に独島を測量したという歴史的な背景が込められていたのに、保身主義から2008年の慶尚北道と韓国山岳会はこの標石を撤去した。
 
  独島領有権問題に関連し我が社会が最も警戒しなければならないのは、独島ポピュリズムだ。問題になったからと言って経緯を良く調べずに歴史を破壊する国は、正しい道に進むことができない。 今からでも独島領有権の歴史を正しく建てなければならない。
 
▼独島事件日誌
1945815日 韓国、日本から光復
1946622日 連合軍司令部、指令1033号でマッカーサーライン宣布
1947820日 朝鮮山岳会、独島に上陸して領土杭を設置
1947 9月   米軍、独島を米空軍機と海軍機の爆撃練習場に指定
194868日  米空軍 B-29 編隊の独島爆撃で韓国漁民14人死亡。以後、米軍独島爆撃演習は中断。
1948815日 韓国、米軍政を終わらせて独立政府樹立
195068日  チョ・ジェチョン慶尚北道知事、独島に独島遭難漁民慰霊碑を建立
1950625日  625戦争勃発
1950628日 ソウル陥落。以後、釜山へ首都を移転
1950915日 仁川上陸作戦成功
1950928日 ソウルを回復して還都
195114日 ソウル再び陥落
1951315日 ソウル再回復
1952118日 李承晩大統領、平和線を宣言
1952 2月 日 米行政協定締結
1952428日 日本、米軍政を終わらせて独立
1952523日 日本外務次官、衆院で独島を米軍演場として提供すると発言。
19526月末  日本公務員、独島に上陸して日本領土標柱を立てる
1952917日 韓国山岳会、独島の調査のためにジンナム号で釜山出港
1952922日 ジンナム号、独島近くで米軍機の独島爆撃を目撃して鬱陵島へ帰港
1953227日 米軍、独島を今後は爆撃演習場として使わないと発表
1953625日 日本の公務員、独島に上陸して四番目の日本領土標柱を立てる
1953727日  625戦争停戦
1953815日 韓国、ソウルを再び首都とする
19531011日 韓国山岳会、独島調査のため海軍905艇に乗って釜山を出港、鬱陵島到着。
19531013日  905艇、領土標石と鬱陵警察署長を乗せて独島へ出航、悪天候のため回航。日本巡視船「ながら」と遭遇
19531014日 韓国山岳会、905艇で独島に上陸、各種の調査を実施
19531015日 韓国山岳会、独島領土標石を設置して鬱陵島へ撤収
19531016日 「ながら」艦の日本公務員、韓国山岳会の領土標石を撤去
19544月    独島義勇守備隊、独島に入り常在守護を開始
19541022日 キム・ジョンウォン慶北警察局長の独島訪問の時、独島義勇守備隊ホ・ハクト隊員が墜落死。
19551230日 独島義勇守備隊、独島防御を慶北警察に引き継ぎ。
1965622日 日韓基本条約締結
19651218日 日韓基本条約の発効により両国国交回復
2005222日 日本島根県、「竹島の日」を制定
2005815日 慶尚北道、韓国山岳会の領土標石と独島遭難漁民慰霊碑を復元
2008730日 慶尚北道、LIANCOURTという単語があるとして韓国山岳会の領土標石を破壊
 
 
イ・ジョンフン/東亜日報出版局専門記者
 
 
[発掘公開] 1953年、独島を初めて測量したパク・ピョンジュ先生
[新東亜] 2009-01-23
(翻訳終わり)
 
 
 
 
 

 どうよ、この杜撰さ、というか、目の前のことだけを見て反応する思考方式。これが改善されれば日韓関係もちょっとはましになると思うんだけどねえ。
 
 
 無理だって分かって言ってんだろ?
 
 

 んー、そりゃまあ、ね。でも、この記者さんて、ちゃんと裏付けとりながら書いてたよね。そこのところをウチの飼い主は気に入ってたみたいよ。
 
 

 ウラを取るって当たり前のことだろ? ふだんからウラを取らないニュースばっかり見過ぎてるから、こんな当たり前の記事がえらく良さそうに見えるってわけだ。こんなのを気に入ってるようじゃ甘いかも知んねーな。
 たださ、この記者が最後に「問題になったからと言って経緯を良く調べずに歴史を破壊する国は、正しい道に進むことができない」って言ってるのは評価してもいいぜ。ただし、それが対日関係でもそういうふうに考えることができるならば、って条件が付くけどな。
 
 
 
プロフィール

Chaamiey

Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

最新記事
最新コメント
カレンダー
03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
来訪者数
カテゴリ
検索フォーム
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR