鬱島郡設置の請議書
下条論文の中の以下の部分
the petition which was submitted by 李乾夏, a Minister of Internal Affairs of Korea, 3 days before the Ordinance NO.41 was promulgated. Since it specified Ullengdo, which later became Uldo County, has "80 ri(32km) in length and 50 ri(20km) in width" and its special products are "potatoes, barley, soybeans and wheat."
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それは「勅令第41号」が発布される三日前、内部大臣の李乾夏が提出した請議書が証左となる。欝島郡となる欝陵島は「縦八十里ばかり、横五十里と為す」と明記され、欝陵島の特産は「馬鈴薯、大麦、大豆、小麦」とされているからだ。
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とありますが、この「内部大臣の李乾夏が提出した請議書」は、1900年 10月 22日の「各部請議書存案17」「鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正することを請う」という文書です。つぎのサイトにあります。
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=NIKH.DB-mk_007_017_000_0130
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제목 울릉도를 울도로 개칭하고 도감을 군수로 개정하기를 청함
문서번호 鬱陵島? 鬱島로 改稱고 島監을 郡守로 改正에 關 請議書
발송일 光武四年十月二十二日(1900년 10월 22일)
발송자 議政府贊政內部大臣 李乾夏
수신자 議政府議政 尹容善 閤下 査照
右? 該島가 東溟에 特立야 大陸이 遠隔온바 開國五百四年에 島監을 設置야 島民을 保護고 事務? 管掌케 該島監 季周의 報牒과 本部視察官 禹用鼎과 東萊稅務司의 視察錄을 參互節査온즉 該地方이 蹤可八十里오 爲五十里라 四圍峭壁에 中有巨山야 自北止南고 間有大川야 深廣이 幾容舟楫고 其土가 沃腴고 其民이 質野야 自數十年來로 民蓄이 蕃殖야 戶數가 爲四百餘家오 墾田이 爲萬餘斗落이라 居民의 一年農作擔包數爻가 藷爲二萬餘包오 大麥이 爲二萬餘包오 黃豆爲一萬餘包오 小麥이 爲五千包라 오니 大率戶數와 田數와 穀數?陸處山郡에 較計 오면 數或不及이오나 不甚相左더러 挽近外國人이 往來交易야 交際上도 亦有온지라 島監이라 稱號오미 行政上에 果有妨碍기로 鬱陵島? 鬱島라 改稱고 島監을 郡守로 改正오미 妥當기 此段勅令案을 會議에 提呈事.
勅令 第四十一號
鬱陵島를 鬱島로 改稱고 島監을 郡守로 改正 件
第一條 鬱陵島를 鬱島라 改稱야 江原道에 附屬고 島監을 郡守로 改正야
官制中에 編入고 郡等은 五等으로 事.
第二條 郡廳位置? 台霞洞으로 定고 區域은 鬱陵全島와 竹島石島? 管轄 事
第三條 開國五百四年八月十六日官報中 官廳事項欄內 鬱陵島以下十九字? 刪去고 開國五百五年勅令第三十六號第五條江原道二十六郡의 六字? 七字로 改正고 安峽郡下에 鬱島郡三字? 添入 事.
第四條 經費? 五等郡으로 磨鍊호 現今間인즉 吏額이 未備고 庶事草創기로 該島收稅中으로 姑先磨鍊 事.
第五條 未盡 諸條? 本島開拓을 隨야 次第磨鍊 事.
附則
第六條 本令은 頒布日로부터 施行 事.
議政府贊政 內部大臣 李乾夏
議政府議政 尹容善 閤下 査照
光武四年十月二十二日
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例によって「・」は、旧体字使用による文字化けです。性能の良いソフトでハングルが表示できるパソコンなら、旧字体で見えるのかもしれません。
後半は、「勅令四十一号」の文面ですが、これを勅令として決定してください、という趣旨の文書です。
ここで「該地方이 蹤可八十里오 爲五十里라」=「その地方は、縦八十里ばかり、横五十里と為す」とあります。すなわち、これがまさに、勅令四十一号の第二条にいう、鬱島郡の「区域は鬱陵全島と竹島石島を管轄する事」という時の「管轄の範囲」を表すことになります。そうすると、「石島」は、あくまで、この範囲の中ということになり、韓国側の主張する「石島=独島」ではありえないことになります。
これは、「勅令四十一号」に直接関わる文書であり、とてつもなく強い証拠だと思います。
実は、この史料自体は、ずいぶん昔から知られていたもので、韓国の学者たちも論文に引用しています。なぜその時に、この「該地方이 蹤可八十里오 爲五十里라」にまったく触れていないのか、とても不思議です。
この文書全体を解釈してみます。文字化けは、判る範囲で( )で補いました。わからない言葉も多いです。
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題目
울릉도를 울도로 개칭하고 도감을 군수로 개정하기를 청함
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正することを請う
文書番号(これは間違い。番号ではなく、これも題目である)
鬱陵島? 鬱島로 改稱고 島監을 郡守로 改正에 關 請議書
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正することに関する請議書
発送日 光武四年十月二十二日(1900년 10월 22일)
発送者 議政府贊政內部大臣 李乾夏
受信者 議政府議政 尹容善 閤下 査照
右(는) 該島가 東溟에 特立(하)야 大陸이 遠隔(하)온바
右は、該島が、東溟(東海?)に 特立し、大陸の遠隔にあるが、
開國五百四年에 島監을 設置(하)야 島民을 保護(하)고 事務를 管掌케
開國五百四年に島監を設置して、島民を保護し、事務を管掌させてきたが、
(開国504年は、1392の李成桂の朝鮮建国から数えて504年。すなわち、1895年(高宗32)(明治28)のこと。この文書(1900年)の5年前になる。)
該島監 季周의 報牒과
該島監 季周の 報牒と
本部視察官 禹用鼎과 東萊稅務司의 視察錄을 參互節査(하)온즉
本部(内部)の視察官の禹用鼎と、東萊の稅務司(釜山の稅務司であるラポーテのこと)の視察錄を 參互節査したところ、
該地方이 蹤可八十里오 爲五十里라
その地の広さは、縦は80里もあるべく、横は50里で、
四圍峭壁에 中有巨山(하)야 自北止南(하)고
四圍の峭壁の中に、巨山が有って、北より南に走り、
間有大川(하)야 深廣이 幾容舟楫(하)고
間には大川が有って、その深さと廣さは、舟楫を幾つも(?)容れることができ、
其土가 沃腴(하)고 其民이 質野(하)야
其の土は沃腴で、 其の民は質野(?)であり、
自數十年來로 民蓄이 蕃殖(하)야
数十年以来より、 民蓄は 蕃殖(?)であり、
戶數가 爲四百餘家오 墾田이 爲萬餘斗落이라
戸数が四百余家となり、墾田が一万斗落余であり(「斗落」は面積の単位)
居民의 一年農作擔包數爻가
居民の 一年の農作の擔包數爻(?)は
藷爲二萬餘包오 大麥이 爲二萬餘包오 黃豆爲一萬餘包오 小麥이 爲五千包라 (하)오니
藷(じゃがいも)が二万余包であり、大麦が 二万余包であり、黃豆(大豆)が一万余包であり、小麦が 五千包であるというから、
大率戶數와 田數와 穀數?
おおよそ、戸数と田数、穀數を
陸處山郡에 較計(하)오면 數或不及이오나 不甚相左(하)더러
陸處にある山郡と 比較計算してみれば、 数は或いは及ばないかもしれないが、 甚だしくは相左せず(?)
挽近外國人이 往來交易(하)야 交際上도 亦有(하)온지라
最近、外国人が 往來・交易するので、交際上のことも、 また有ることなので、
島監이라 稱號(하)오미 行政上에 果有妨碍기로
島監という称号では、 行政上に あるいは妨碍があるかもしれないので、
鬱陵島(를) 鬱島라 改稱
鬱陵島を、鬱島と改稱し、
島監을 郡守로 改正(하)오미 妥當기
島監を 郡守と 改正するのが妥當であると考えられるので、
此段勅令案을 會議에 提呈事.
此段の勅令案を 會議に 提呈する事である。
(以下、勅令の案文)
勅令 第四十一號
鬱陵島를 鬱島로 改稱고 島監을 郡守로 改正 件
第二條 鬱陵島를 鬱島라 改稱야 江原道에 附屬고 島監을 郡守로 改正야
官制中에 編入고 郡等은 五等으로 事.
第二條 郡廳位置? 台霞洞으로 定고 區域은 鬱陵全島와 竹島石島? 管轄 事
第三條 開國五百四年八月十六日官報中 官廳事項欄內 鬱陵島以下十九字? 刪去고 開國五百五年勅令第三十六號第五條江原道二十六郡의 六字? 七字로 改正고 安峽郡下에 鬱島郡三字? 添入 事.
第四條 經費? 五等郡으로 磨鍊호 現今間인즉 吏額이 未備고 庶事草創기로 該島收稅中으로 姑先磨鍊 事.
第五條 未盡 諸條? 本島開拓을 隨야 次第磨鍊 事.
附則
第六條 本令은 頒布日로부터 施行 事.
議政府贊政 內部大臣 李乾夏
議政府議政 尹容善 閤下 査照
光武四年十月二十二日
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前述のように、この史料は、ずいぶん昔から知られていたもので、韓国の学者たちも、引用しています。たとえば、宋炳基『鬱陵島と独島』(1999)第4章「鬱陵島の地方官制編入と石島」
(もとの論文は、同名で『国史舘論叢』23 国史編纂委員会 1991)
(116p)(原文韓国語)
・・・内部[内務省]から正式に議政府に設郡請議書、すなわち「鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守と改正についての請議書」を提出したのは、この年(1900、光武4)の10月下旬(22日)になってからだった。(注94)
(注94) 「各部請議書案」17、奎章閣所蔵
鬱陵島視察委員・禹用鼎の報告書と、島監・季周の牒報、そして、釜山海関税務司署理・ラポーテが提出した視察録を参照して作成されたこの請議書は、鬱陵島に郡を設置すべき理由として、次の二つをあげている。すなわち、(1)鬱陵島は戸数が400余戸、墾田が10000余斗落、1年の農産が、じゃがいも20000余包、大麦20000余包、大豆10000余包、小麦5000包にもなり、内陸の山郡と比較しても大きな差異がなく、(注95)、(2)外国人たちが、往来・交易しており、現行の島監体制では行政上、障害になる、ということであった。(注96)
(注95) 禹用鼎の「鬱島記」には、墾田(田土)が7700余斗落となっており、10000余斗落とは差異があり、農産物収穫量については言及されていない。こうした点を勘案すると(1)はラポーテの「視察録」を主に参照したのではないかと思われる。
(注96) 注94と同じ
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以上のように、宋炳基教授はこの記録に詳しく言及しながらも、「縦80里、横50里」については、まったく触れていません。宋炳基教授ともなれば、当時の度量衡を知らないはずはなく、「鬱陵島」の範囲、すなわち、「鬱島郡と改称されるべき範囲」を、この論文でまったく無視しているのは、一体、どういうことなのでしょうか。
また、愼廈教授も、1989年の段階で、「朝鮮王朝の独島領有と日本帝国主義の独島侵略」『韓国独立運動史研究』3 独立記念館(1989)(のち、1996『独島の民族領土史研究』 第3章 139~240に再録)という長い論文を書いていますが、この中で、この資料について言及しています。そして彼も、この「縦80里、横50里」には、まったく触れていません。
1989年の論文は、ネット上で閲覧可能です。
http://i815.or.kr/media_data/thesis/1989/198902.html
(翻訳しておきます)
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このような状態で、大韓帝国内部[内務省]は、従来、監務を置く事にしていた鬱陵島の官制改正案を修正し、郡を設置することに決意して、起案し、137)、 1900年(光武4)10月22日、「鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正することに関する請議書」を内閣会議に次のように提出した。
注137)『各部請議書存案』(議政府編) 第17編 光武4年10月22日條
울릉도(鬱陵島)를 울도(鬱島)로 개칭(改稱)하고 도감(島監)을 군수(郡守)로 개정(改正)에 관(關)한 청의서(請議書)
(以下、この文書を引用)
内部大臣李乾夏のこのような設郡請議書は、1900年 10月24日、議政府会議(内閣会議)で、8対0の満場一致で通過した。ここに、大韓帝国政府は、1900年10月25日付で、勅令第41号として、全文6条からなる「鬱陵島を鬱島に改称し島監を郡守に改正する件」を次のように『官報』にも載せて全国に頒布した.
(以下、勅令第四十一号)
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と、明らかに「注137」でこの文書を引用していますが、「縦80里、横50里」には、まったく触れていません。
この2人の学者の論文は、今の韓国側の主張の骨格をなしているものであり、これを批判し、論破していけば、韓国人の「思いこみ」を正すことが出来ると思います。それにしても、この「縦80里、横50里」は、勅令41号に直接かかわるだけに、決定的ともいえる証拠だと思います。沈興澤さえも、独島は「在於外洋百余里」と言っているので、80里からは、はみ出してしまいます。
石島=独島説は、これにて完全にアウト。ゲーム・オーバーだと思いますが、それぞれ1989年と1991年という論文執筆の段階で、この資料を知っていたことになる愼廈、宋炳基という韓国の二人の碩学が、いったいどうやって、石島=独島説を唱え続けてきたのか、とても不思議です。
有馬警部報告書 明治36年
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B11091460600?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2011100415452450487&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&;
50 / 67コマ
判読起こしです。
前畧
報告書
本島二近数年、郡守不在之處、今回郡守 沈興澤ナル者、卑賤等ト回船来島致シ、駐在所近邊韓家ニ駐在シ、従来ノ郡守所在地ハ当所ヨリ三里洞ノ黄土浦ナリシモ、此際当村ニ郡衙ヲ建設スル計劃ノ由ニ有之候。昨二十七日、郡守来リ、今回内部大臣ノ命ニ依リ、本島ノ材木伐採方一切禁止ノ筈ニ付、貴國民人モ以後差止メラレ度旨申来ニ依リ、我人民カ本島ニ来リ諸事業ニ従事スルハ十数年来ノ慣習ニシテ貴国政府モ認メ居ル所ナラン。然ルニ今俄ニ貴意ニ應シテ、之レカ事業ヲ差止メルコト本官ノ独断ヲ以テ難致旨、答辨シタルニ、郡守ハ右事情内部ニ報告セント辞シ去レリ。
一、同日、本邦人、濱岡升五郎ハ、韓人、李生資ノ大豆百六十石、釜山附近長鬐ニ運送ノ約束ヲ為シ、積荷準備中、郡守ハ、右荷主 李生資ニ、日本人ノ舟ニ荷物ヲ積載スルコト不相成旨ヲ達シタリトノ訴アルニ依リ、直ニ郡守ニ對シ、其不可ヲ説キ右命令ヲ解除セシメ搭載スルコトニ相成候。
右及報告候也
明治三十六年四月廿八日
在欝陵島駐在所詰
警部有馬高孝
領事幣原喜重郎 殿
迩今、本邦人同品材木伐採ノ為メ山中ニ入込ミ居ルモノ三十四、五名ニ有之候。
メモ 「迩今」の判読は不明確です。
本邦人ノ渡航並在留取締ノ件
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B11091460300?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2011100415452450487&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&
この51 / 97
契約証 (以下略)
52 / 97 このコマと次のコマだけ書き起こします。
一、輸出税ノ件
輸出品ニ対シテハ前島監呉相鎰ト在島日本人
トノ間ニ別紙ノ如キ条約文アリテ輸出額ノ二分ヲ
大豆ヲ以テ輸出毎ニ輸出税トシテ島監ニ納メ現島
監季周モ今日迠此条約ニ依テ徴税シ居レリ
(一字訂正)■税物品ニハ制限ナキモ槻木材ヲ含ムヤ否ヤ明
瞭ナラズ 納税ニ対スル呉島監ヨリノ領収書ハ散
逸シテ僅カニ別紙一葉ヲ得 又 黄島監理ヨリ日本人
濱口ニ対シテ滞納ヲ督促シタル文書一枚ヲ得タリ
現島監季周ハ之レニ対シテ領収証ヲ發スルハ穏
當ナラス 又政府ニ露顕乄(シテ)論責セラルヽ恐アリ(十六字挿入)
ト云フテ未タ一枚モ發シタルコトナキヲ以テ在島
日本人ハ総代ヲ以テ今後領収証引換ニアラサレバ
大豆ヲ渡サストテ島監ニ向テ 掛合中ナリ
輸出ノ際ニハ島監ノ方ヨリ二人ヲ派シテ立合ハシムル例ナ
リ島監ハ小官等ノ納税ノ事実アリヤ否ヤノ問ニ対
シテ初メハ取リタルコトナシト云ヒ後ニハ二年間口銭トシテ
取リタリト云ヒ最後ニハ遂ニ是迄年々口銭トシテ受取
来リタル旨ヲ立會取調ノ際ニ白状セリ聞取書ニハ
島監昨年及一昨年ノ二年間受取リタリトアレトモ島
監ハ日本語ヲ以テ是迄引続キ受取リタルコトヲ小官
ニ白状セリ
輸入ニ對シテハ納税シタルコトナシ
53 / 97
約条文
一、欝陵島々監 日商向
約条如左
盟 約 [印]
一、本島貿易 大豆太 (日本韓国) 百分二従
日商納税以許之
右條約依各自交換之事
日本暦 明治三十二年旧四月一日
韓国暦 光武三年四月初一日
大韓国欝陵島々監 呉相鎰
大日本国商人
脇田●●●
古木●●
畑本●●
外二十名
佐々木●●●
濱岡●●●
以下略
メモ 明治三十二年旧暦四月一日は、1899年 5月 10日 水曜日です。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B11091460300?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2011100415452450487&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&
から重要頁を書き起こしました。
もしこの史料を「柳美林」式に解釈すると、日本の島根県の裁判を受けていることから、竹島のみならず、鬱陵島も日本の施政下にあった証拠にでっち上げることが出来ような史料です。私はそこまで乱暴なことは言いませんが、当時の日本人が鬱陵島のケヤキの木を伐採するときに、朝鮮人人夫を雇用して、代価を支払い、さらに朝鮮側の島監に対して、輸出税としてきちんと「大豆」を上納していたのに、嘘ばかり吐いて、領収書さえ書かずにいた、当時の島監たちの様子がはっきりわかる史料です。
17 / 97コマ
賣下証
一、槻木一本 代金五拾円也
右正ニ賣下候也
己亥五月二十一日
欝陵島々監 呉相鎰 ㊞
脇田庄太郎
メモ 己亥は、明治三十二年(1899年)
旧暦五月二十一日は、新暦6月 28日
印判写しは角形のみ?
48 / 97コマ
賣下証
一、槻木伐条銭五百両併捧上也
右賣下事
己亥四月二十五日
欝陵島々監 呉相鎰
日本 畑本公
メモ 己亥旧四月二十五日は、西暦1899年 6月 3日
51 / 97コマ (読み易さを考えて、句読点と改行を補っています)
契約証
一、本島ニ於テ、槻木八十株製材スルニ付、此度貴殿方ヲ雇入レ、左ノ如ク定約ス。
一、製材ハ盤板ト角材トシ、製材賃ハ凢テ製材塲ノ海岸ニ於テ、盤板ナレバ十分ノ五(壱万材ニ対シ五千材ノ割)、角材ナレバ十分ノ四.五(壱万材ニ対シ四千五百材ノ割)ヲ、通知ノ日ヨリ、降雨日ヲ除キ、十五日内ニ払渡ス事。若シ期限内不払ノ時ハ、製材物貴殿方ニ於テ随意ニ任ス。
一、製材塲所ハ海岸ニ去ル、大凢日本里三十丁。
一、製材期限ハ来ル、明治三十三年旧三月満日・光武四年三月満日、限トス。
但シ期限内終業ニ至ラザル時ハ更ニ熟議ノ上決定ス。
一、前条違約セシ時ハ韓銭一千両為損害払渡ス。
右契約、堅ク遵守スル為メ、一札差入置キ候也。
明治三十二年十一月二十日
光武三年十一月二十日
韓国欝陵島苧洞 田士能
仝国仝島南陽洞 製材擔當人 黄應九
仝国仝島道洞 製材擔當人 鄭尚元
総代人 中西秋太郎殿
迄迠約定三月満日終業ニ至ラサルニ付、双方熟議ヲ遂ケ七月満日限ニ更約ス
田士能
メモ 明治三十二年旧暦十一月二十日は、1899年 12月 22日 金曜です。
52 / 97 コマ
(昨日の翻刻に一文字遺漏がありましたので、補足し句読点と改行を施しました)
一、輸出税ノ件
輸出品ニ対シテハ、前島監、呉相鎰ト在島日本人トノ間ニ、別紙ノ如キ、条約文アリテ、輸出額ノ二分ヲ大豆ヲ以テ、輸出毎ニ、輸出税トシテ、島監ニ納メ、現島監、季周モ今日迠此条約ニ依テ、徴税シ居レリ。
(「貨」の誤記を一字訂正して)、課税物品ニハ、制限ナキモ槻木材ヲ含ムヤ否ヤ明瞭ナラズ。納税ニ対スル、呉島監ヨリノ領収書ハ散逸シテ、僅カニ、別紙一葉ヲ得、又、黄島監理ヨリ日本人濱口ニ対シテ、滞納ヲ督促シタル文書一枚ヲ得タリ。
現島監、季周ハ之レニ対シテ、領収証ヲ發スルハ穏當ナラズ。又政府ニ露顕乄(シテ)論責セラルヽ恐アリ(十六字挿入)ト云フテ、未ダ一枚モ發シタルコトナキヲ以テ、在島日本人ハ総代ヲ以テ、今後領収証引換ニアラザレバ大豆ヲ渡サズトテ、島監ニ向テ、掛合中ナリ。
輸出ノ際ニハ、島監ノ方ヨリ、二人ヲ派シテ、立合ハシムル例ナリ。島監ハ、小官等ノ納税ノ事実アリヤ否ヤ、ノ問ニ対シテ、初メハ取リタルコトナシト云ヒ、後ニハ、二年間口銭トシテ取リタリ、ト云ヒ、最後ニハ遂ニ、是迄年々口銭トシテ受取来リタル旨ヲ、立會取調ノ際ニ白状セリ。聞取書ニハ、島監、昨年及一昨年ノ二年間受取リタリ、トアレドモ島監ハ、日本語ヲ以テ、是迄引続キ受取リタルコトヲ小官ニ白状セリ。
輸入ニ對シテハ納税シタルコトナシ。
2012年8月のKBSの番組では、「鬱陵島に出入りする全ての貨物・税金をかける内容が示されています。」と大嘘の字幕がハングルで書かれていますが、日本側から船舶で鬱陵島に搬入される物資という意味の「輸入ニ對シテハ納税シタルコトナシ」という、この記述から、それが大嘘であることがわかります。
もちろん、「独島で漁業活動をしていた日本人が大韓帝国に税金を収めたという文書」ではなく、鬱陵島のケヤキの木を伐採・製材して日本に舶送する際に、島監の季周が、「領収証を発行することは、穏当なことではありません。もし韓国政府に露見したら、責任を取らされて責めを負う恐れがありますからと言って、いまだに領収書を一枚も発行したことがないので、在島の日本人が酷いではないかと怒って掛合っている。」ということなのです。
帝国新聞
1898年8月10日創刊、1910年8月2日廃刊
所蔵処 ソウル大学図書館
[ネイバー知識百科] [帝國新聞]
http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=548048&cid=1642&categoryId=1642
韓末の代表的な民族主義的性格の日刊新聞で、原名は「チェグクシンムン」だ。 1898年8月8日に農商工部から新聞刊行の認可を受け、8月10日に創刊号を発行した。この時社長は資本金を単独出資したイ・ジョンイル(李鍾一)で、編集・製作はユ・ヨンソク(柳永錫)、イ・ジョンミョン(李鍾冕)、チャン・ヒョグン(張孝根)などが担当し、李承晩が主筆として活躍し、械機・鋳字などの施設はシム・サンイク(沈相翊)の支援を受けた。
1903年に前軍部参書官であったチェ・ガン(崔岡)が運営資金を支援して一時社長に就任し、そのころにキム・ドゥヒョン(金斗鉉)が総務として、キム・サンヨン(金祥演)、チェ・ヨンシク(崔寧軾)などが記載員(今の記者)として活躍した。
そして1907年以後には経営難を緩和して新聞事業を拡張するために、愛国啓蒙運動団体である西友学会会長だったチョン・ウンボク(鄭雲復)が編集主筆に就任し、記者では朴チョンドン、イ・インジク(李人稙)、イ・ヘジョ(李海朝)などが活躍した。
漢陽洞に本社を置いたこの新聞は、開明・開化の最も良い手段、すなわち開化媒体を新聞だと考え、民族的な自主精神の培養と大衆の知識啓発という創刊趣旨の下、中流以下の民衆及び婦女子をその対象にした。
編集体制はハングル専用で、創刊当時には今日のB4判型の半分の大きさ程度の2段制だったが、1904年以後にはB4版の大きさの4段制に拡大し、1907年からは6段制とより大きくなった。
毎日4面が発行され、おおむね1面に論説、2面に官報代掲・雑報、3面に海外通信・広告、そして4面に広告がのせられた その他に、今日の読者投稿に当たる奇書が1面や3面に多くの紙面を占めてしばしば掲載された。発行部数は概して2,000部内外だったが、最も多く発行された1907年には4,000余部近くになったが、経営難の時は1,000余部程度しか発行されなかった。
この新聞が発刊された時期は日本勢力が我が国の内政まで干渉した時だったが、そのような状況でも無能な政府と官吏の腐敗及び日本勢力の国権浸透に対して常に鋭く批判した。1904年2月23日に強制締結された韓日議定書に対しては「施政改正の忠告権は、結局、侵略の第一歩」と論駁して反対し、1905年11月には日本の御用団体である一進会に対し痛烈に論駁するなど民族紙としての面目を示した。
また、この時期は読者の認識も不足していて、購読料・広告収入などもきちんと入らなかったし、当時は交通・通信施設が不十分なために全国的な補給網を確保できないため経営難を克服できず、1907年9月20日から休刊することになった。
これに対し有志と読者たちが義援金を送って「帝国新聞賛成会」が設立されて支援運動を展開したことによりその年10月3日に復刊されたが、1910年6月1日から再び休刊状態に入って結局8月2日に廃刊した。
このように12年間刊行されたこの新聞の新聞史的意義は、同時期に少し早く刊行された≪皇城新聞≫が少数の漢字解読層を対象にした特殊層の新聞であるとすれば、この新聞はハングルだけを使い一般民衆を対象にした大衆新聞であったという点だ。すなわち、一般民衆と婦女子階層が簡単に読むことができたので、彼らを啓蒙するのに重要な役割を果たすことができたのだ。 特に、経営難で常に困難を経験しながらも果敢な論調で国権回復と民衆啓蒙機関としての役割を自認し、当時の新聞としては永く発行されたので国民啓蒙の実質的な力になった。
さらに、ハングル使用の一般化で民族言語の発展にも大きく寄与したと評価される。 現在の創刊号から1907年10月22日付までソウル大学図書館などに所蔵されているが、脱落した部分が多い。
戦艦対馬日誌
十月二十一日(金)竹敷
AM BC ⊕ 0-1
PM BC NNW2-1 30.11 29.96 71.62
炭水補充
午后一時三十分 千穂哨区二向ケ出港
午后一時五十分 浪速尾崎ニ囬航 二時四十五分 千早哨區ヨリ入港
本日午后十時 第二戰隊ハ八雲ヲ哨區ニ残シ他ハ皈途ニ就ク
十月二十二日(圡)竹敷
AM B NW 4-2
PM BC NN-W 1 30.25 30.14 59.52
本日他艦舩火災操練信号兵喇叭稽古ヲ施行ス
午前七時十五分 新大連ヨリ入港
四戰機密第二五九號ヲ受領ス要㫖左ノ如シ
仙頭對島艦長ニ與フル訓令 三十七年十月廿二日 於尾崎 旗艦笠置
貴艦ハ明二十三日迠便出港 二十四日午前 松島ニ ※(ママ)
ニ着シ仝望樓増築工事ニ従事セル諸員ヲ収容シ尚ホ竹濱及蔚嵜ニ寄港シ仝望樓増築工事ニ従事セル諸員ヲ収容シ帰港スヘシ
十月廿三日(日)自 竹敷 至 欝陵島
AM. BC NE 2
PM. BC NE-SW 1-2 30.32 29.22 62 50
体格検査
午前九時三十分 松島方面ニ向ケ竹敷出發
十月二十四日(月)欝陵嶋 附近
AM BC SW 3-4
PM BC NW 4-1 30.29 30.14 65.61
午前七時松島東望樓ニ接近漂泊シ第一第二「カッター」ヲ卸シ人夫収容ニ着手ス 風強ク波キノミナラス舩(フナ)ツキ悪シキ為メ非常ナル困難ヲ以テ十時半辛フシテ収容ヲ了シ西望樓ニ向フ 十一時二十五分西望樓ニ接近シ第一第二「カッター」第二傳馬舩ヲ卸ロシ人夫収容ニ着手ス 正午右結了 竹辺湾ニ向ヒ進航ヲ起ス
松島ニニ収容セシ人夫
東望樓 二十三名 西望樓 十八名 }計 四十一名
午后五時竹辺湾着 第一第二「カッター」ヲ派遣シ人夫二十二名 技手一名 ヲ収容シ 午后六時蔚ニ向フ
十月二十五日(火)自蔚 至 竹敷
AM UC SE-NW 1
PM BC NW 1 30.26 30.14 70.61
午前八時半蔚着 第一第二「カッター」ヲ派遣シ人夫十三名ヲ収容シ 九時四十分竹敷ニ向フ 午后六時 竹敷入港
在泊艦舩
(尾)出雲 吾妻 八雲 千穂 安平丸 一、三号砲艦 六十七号艇 鴻 鷗
(竹敷)浪速 千早 二、四号砲艦 第十一艇隊 第十七艇隊
十月廿六日(水)竹敷
AM BC⋖⊕ U-1
PM B ⊕ U-1 30. 23 30.15 66.58
午前七時千早哨区ニ向ケ出港 春日丸哨區ヨリ入港午后零時五十分浪速哨區ニ向ケ出港 仝時本艦尾ニ回航
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※(二十六日後半・二十七日前半の日誌の一部が欠損しているようです)
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三時笠置哨区ヨリ竹敷入港
本日砲術練習號ヲ施行ス
十月廿八日(金)尾
AM BC ⊕0-1
PM UCR NWW1-2 30.23 30.18 66.57
午后一時哨區ニ向ケ尾出港
本日砲術練習號内筒砲射撃ヲ施行ス
千早ハ本日午后C哨區ヨリ修理ノ為メ佐世保ニ赴ク
釜山蔚崎間電信本日開通
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka38/tsushimawarship-1904/02.jpg
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka38/tsushimawarship-1904/03.jpg
国立公文書館アジア歴史資料センター 軍艦対馬戦時日誌(5)
https://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C09050402800?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E6%88%A6%E6%99%82%E6%97%A5%E8%AA%8C&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&
12~17齣目
卞栄泰(ビョン・ヨンテ)声明の探索
「独島は、日本の韓国侵略における最初の犠牲物である。解放とともに、独島はまた我が懐に抱かれた。独島は韓国独立の象徴である。この島に手をつける者は、全ての韓民族の頑強な抵抗を覚悟せよ。独島はただの数個の岩の塊でなく、我が民族の栄誉の錨である。これを失って、どうして独立を守ることができるだろうか。日本が独島奪取をはかることは、韓国再侵略を意味するのである。」という卞栄泰声明が紹介されている『韓國外交秘史』のmatsuさんによる翻訳
関係コメント
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2013/11/disposition-of-korean-scholar.html?showComment=1388726292008#c4405924500407380701
水路誌は領土とは無関係 by 海上保安庁
近代日本の水路誌に現れた鬱陵島・独島認識 4
その後、『日本水路誌』第10巻は編纂が中止され、そのかわり朝鮮沿岸に関連した部分は1933年『朝鮮沿岸水路誌』第1巻、第2巻として刊行された。鬱陵島と独島は第1巻「第3編朝鮮東岸」の「鬱陵島および竹島 (欝陵島及竹島)」の項目に「鬱陵島 [松島]」および「竹島 [タケシマ]」という名前で並んで掲載された。
鬱陵島および竹島 (欝陵島及竹島)
鬱陵島 [松島] (海図306分図)
龍湫岬の69度約73里にある周囲22里の半円形の島で、全島多数の尖鋭な円錘形の山を成し樹木が鬱蒼としている。ところがその海岸付近は住民が増加するにつれ、あるいはこれを焼却して耕地を切り開いたり濫伐することによって随所に裸山が見える。
○島の中央部すなわち北緯37度30分、東経130度52分の地点に高さ985メートルの一峰・聖人峯 (ナラ山)があり、高く聳え立っている。道洞港 間巌末の北東側2.5海里(浬)に位置して北風ないし西風を避けるが、東風ないし南風が強く吹けば停泊するのに困難だ。
○海底の傾斜が急で、特に海岸800メートルを離れて水深182メートルで、海の底(底質)の砂または岩によって良好な停泊地(錨地)とはいい難い。
○海岸から250ないし280メートル離れて、水深32ないし36メートル地点に1等駆逐艦1隻をしばらく停泊させられるし、底辺は岩になって海底の傾斜が急なので錨を下す時に注意を怠ってはいけない。ただし錨を海底に下すには問題がないという。(注42)
(注42) 欝陵島及竹島
欝陵島[松島](海圖306分圖).
龍湫岬ノ69度約73浬ニ在ル周囲22浬ノ半円形島ニシテ全島数多ノ尖鋭ナル尖鋭ナル圓錐形山ヨリ成リ樹木稜茂ス、然レドモ其ノ海岸附近ハ住民ノ増加スルニ従ヒ或ハ之ヲ焼却シテ耕地ヲ開キ或ハ濫伐セシヲ以テ処々ニ禿山ヲ見ル○島ノ中央部即チ北緯37皮30分、東経130皮52分ノ処ニハ高サ986米ノ1峯聖人峯<羅里山>アリテ巍然聳立ス。道洞港 間巖末ノ北東方2.5里ニ位シ北乃至西ノ風ヲ保障スレドモ東乃至南風強吹スルトキハ碇泊困難ナリ○海底ノ傾斜ノ傾斜急ニシテ距岸800米ニシテ水深182米アリ、底質沙又ハ岩ニシテ良好ナル錨地トハ言ヒ難シ○距岸250乃至280米、水深32乃至36米ノ処ニ1等駆逐艦1隻ヲ漸錨泊セシメ得ベシ、低質岩ニシテ海底ノ傾斜急ナルヲ以テ走錨ニ対シ注意ヲ怠ルベカラズ但シ錨海底ニ拘ル憂ナシト謂フ。
(水路部, 『朝鮮沿岸水路誌』第一巻, 1933年1月, pp.86-87).
竹島 [タケシマ]
この島は日本海上の一つの小群嶼にして、島根県隠岐島前から概略86海里(浬)、鬱陵島から東南東側約50海里(浬)に位置し、幅1鏈程度の狭い水道で東西に向かい合う2島と、その周囲に分布する多くの小嶼で構成される(第89ページ対面大景図第25および第26を参照)。その西方島は、海面上に高さ約157メートルで飴棒状を成し、東方島は比較的低く、その頂上に平坦な地帯がある。また、周囲の諸小嶼は概して扁平な岩で、若干水面から露出して、大きいのは本当に数十畳(注43)を敷くほどの広さだ。2島は全部粗末な岩塊(禿岩)で海風に露出してひと株の樹木もなく、東側島には若干の野草が育つだけだ。また、島岸は断崖絶壁で、軟質の石層になって、奇異な洞窟が多く、ほとんど登ることはできない。そこでこれら洞窟および小嶼は海驢の密集地となる。(注44)
このような事実は、日本沿海の漁民と、海軍省を除いた日本政府が、今まで一般的に、独島 (松島)を鬱陵島 (竹島)の付属島として認識していたことと一脈相通じる点だ。
鬱陵島と独島の関係性を現わした日本の記録
日 記録内容 文献 備考
1659.6.21.竹嶋近辺松嶋 「控帳」「大谷家文書」
1660.9.5. 竹嶋之内松嶋「大谷家文書」
1662.9.8.竹嶋近所之小嶋「大谷家文書」
1870.4.15.松島は竹島の隣島(松島ハ竹島ノ隣島ニテ)「朝鮮国交際始末内探書」『日本外交文書』
1877.3.20.竹島外一島太政官指令文 鬱陵島と独島を一つのセットと考える
1878と.12.松島は鬱陵島の属島(欝陵島ノ属島)「竹島考証」 外務省公信局長田辺太一の意見書を見れば、江戸時代、幕府の竹島渡海免許という名目で鬱陵島にむやみに渡海して鬱陵島の資源を奪取した大谷・村川両家の独島認識は、「竹嶋之内松嶋」「竹嶋近辺松嶋」あるいは「竹嶋近所之小嶋」として、これらの漁民は鬱陵島の付属した島として独島を見たことがわかる。また、日本外務省が朝鮮の内偵のために派遣した高官(注46)の報告書『朝鮮国交際始末内探書』においても、松島 (独島)は竹島 (鬱陵島)の隣島(松島ハ竹島ノ隣島ニテ)と見ていたし、鬱陵島-竹島-松島の名称混乱があった時、日本外務省公信局長・田辺太一の意見書でも「松島 (独島)は鬱陵島の属島(欝陵島ノ属島)」という認識を持っていた。(注47)
日清戦争によって新しく取得した領土、台湾を『日本水路誌』に編入した事実や、大韓帝国を強制併合した後『朝鮮水路誌』を『日本水路誌』に統合した事実は、水路誌が国境画定の単位で編纂されていたことを物語るもので、これは弁解の余地がない厳然たる事実である。
また、独島強奪を試みた後の1907年6月『日本水路誌』第1改訂版では、先立って3月に発行した『朝鮮水路誌』に竹島 (=独島)を含ませていることを一歩遅れて認知して、竹島 [Liancourt rocks]と訂正している。これは海軍の軍事戦略上の必要性によって独島を編入しながら相変らず朝鮮の領域であることを認め、『朝鮮水路誌』に独島を含ませているものだ。これもまた弁解の余地はない。
ソン・フィヨン
『大邱史学』106号(大邱史学会 2012) 141~170ページ
近代日本の水路誌に現れた鬱陵島・独島認識 3
この『寰瀛水路誌』は、各国の沿岸に対する情報が次第に拡大し、その編材が各国水路誌の形態に変わって1889年その編纂が中断されるに至った。その代わり発行されたのが『朝鮮水路誌』『日本水路誌』『シナ水路誌』などのような国家領域別の水路誌であった。
『朝鮮水路誌』は初版が1894年11月に発行され、朝鮮が独立国家としてある間、継続して刊行された。そうするうちに1910年、我が国が日本の植民地になるとすぐに、この水路誌の発行を中断して、1911年から『日本水路誌』に含ませて刊行した。『朝鮮水路誌』でも『寰瀛水路誌』と同じように、独島を「リアンコルト列岩」という項目で掲載している。
(注31) リアンコールト列岩
此列岩は洋紀1849年佛国船リアンコールト号初て之を発見し船名を取りリアンコールト列岩と名つく。其後1854年露国フレガット形艦パラス号は此列岩をメナライ及ヲリヴツァ列岩と称し、1855年英艦ホルネット号は此列岩を探検してホルネット列島と名つけり。該艦長フォルシィスの言に據れば此列岩は北緯37度14分、東経131度55分の處に位する二坐の不毛岩嶼にして鳥糞常に嶼上に堆積し、嶼色島めに白し而して北西彳西至南東彳東の長さ凡一里に嶼の間距離1/4里にして見たるところ一礁脈ありて之を連結す。西嶼は海面上高さ凡四一〇呎にして形糖塔の如し。東嶼は較低くして平頂なり。此列岩附近水頗る深きか如しと雖も、其位置は實に函館に向て日本海を航行する船舶の直水道に當れるを以て頗る危險なりとす。(水路部, 『朝鮮水路誌』全, 1894年11月, pp.255-256).
ここで内容は『寰瀛水路誌』のそれと大きく異ならない。しかし国家別、領土別に区分した『朝鮮水路誌』でも、独島を「リアンコルト列岩」と記録して、明確に朝鮮の領土と見なしていることを確認することができる。水路と島嶼の測量を実施し、陸軍の陸地測量部とともに日本の国境を画定する機関だったとすることができる日本海軍水路部は、自らが発行する『日本水路誌』では厳密に日本の領土だけを取り扱うことができた。1897年に発行した『日本水路誌』第4巻 本州北西岸に独島に対する記述は全くなく、隠岐島までだけを扱っているのだ。ところが『朝鮮水路誌』第2版は、1899年に刊行されたが、「第4編 朝鮮東岸」に「リアンコルト列岩」と「鬱陵島」が並んで掲載されている(を参考)。
『寰瀛水路誌』と『朝鮮水路誌』の二つの水路誌では、すべて朝鮮東岸の中に鬱陵島と独島を共に掲載していて、鬱陵島を独島 (リアンコルト列岩)の本島と見なしている。これは独島 (リアンコルト列岩)を、鬱陵島 (松島)の付属島と認識していることであるといえる。
一八四九年佛船リアンコールト之を発見セシヲ以テ Liancourt rocksト称ス其後一八五四年露艦ベルラスハ之ヲMenalaiand Olivutsa rocksト名ツケ一八五五年英艦ホルネットハ之ヲHornet islandsト呼ヘリ韓人ハ之ヲ独島ト書シ本邦漁夫ハリアンコ島ト曰フ此島ハ日本海上ノ一小群嶼ニシテ隠岐國島前ヨリ大約八〇浬、欝陵島ヨリ大約五十浬ニ位シ広四分一浬ノ狭水道ヲ隔テ、東西ニ相対スル二島ト其周囲ニ碁布スル幾多ノ小嶼トヨリ成ル
......明治三七年十一月軍艦対馬ノ此島ヲ實査セシ際ハ東島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシモ風浪ノ為め甚タシク破壊シアリシト云フ 毎年夏季ニ至レハ「トド」猟ノ為め欝陵島ヨリ渡来スル者数十名ノ多キニ及フコトアリ此等ハ島上ニ小屋ヲ構ヘ毎回約十日間仮居スルト云フ
(水路部, 『朝鮮水路誌』第二改版, 1907年3月, pp.451-452)
鬱陵島 別名松島(松島、Dagelet island)
周囲18海里(浬)の半円形の島で、全島に数多くの尖鋭な円錘形の山で形成されていて、樹木が鬱蒼とする。そのうちの中央部すなわち約北緯37度30分東経130度53分の地点には高さ3,208呎(呎=feet)の峰一つが高くそびえている。島の北東側海岸には竹嶼(Boussolerock)を南南西1/4西側約2.75里に見える所に2呎ないしは3呎の岩がひとつある。(注35)
…韓人の住民は明治37年(1904年) 12月末の調査によれば、戸85人口260、そのうち男175人、女85人だ。明治38年(1905年) 6月末には、戸110、人口366、そのうち男219人、女147人に増加した。ところが、その住民は開墾する耕地付近に住んでいて、家屋は各所に散在し、部落を成すのは8ヶ所に過ぎない。○本島には島監が在住する。本島に在留する日本人は木挽き、大工、漁師、乗船および仲買商を主にし、その他の色々な種類の職業に従事したりもして、明治38年(1905年) 6月末にはその数が約230人もなった。(注36)
(注35) 鬱陵島一名松島(Dagelet island).
周回十八浬ノ半円形島ニシテ全島幾多ノ尖鋭ナル円錐形山ヨリ成リ樹木欝茂ス其中央部即チ約北緯三七度三○分東経一三○度五三分ノ処ニハ高三、二〇八呎ノ一峯アリテ巍然聳立ス 島ノ北東岸ニ於テ竹嶼[Boussolerock] ヲ南南西1/4西約2.75浬ニ望ム処ニ水深二呎乃至三呎ノ一岩アリ(水路部, 『朝鮮水路誌』第二改版,1907年3月, p.454).
(注36) 韓人ノ住民ハ明治37年12月末ノ調査ニヨレば戸数85、人口260、ウチ男175女85ナリシが 38年6月末ニハ戸数110、人口366、ウチ男219女147ニ増加セリ。然レドモ該住民ハソノ開墾セル耕地ノ付近ニ住スルヲモっテ家屋ハ各所ニ散在シ村落ヲナスモノハ8箇所ニ過ギズ。本島ニハ島監在住セリ 本島ニ在留スル本邦人ハ木挽、大工、漁夫、船乗オヨビ仲買商ヲ最トシソノ他諸種ノ職業ニ従事セル者ニシテ明治38年6月末ニハソノ数約230人トナリシ
(水路部, 『朝鮮水路誌』 第二改版, 1907年3月, pp.455-456).
北緯37度9分30秒東経131度55分、すなわち隠岐列島の北西約80浬に位置する群嶼で、周り約2浬、東西の二島と数個の岩礁で形成されている。○この二島は、ほとんど不毛の禿岩で、四方が絶壁を成し、鳥の糞で覆いかぶさって白く露出している。 ……○この二島の周囲に碁盤のように並んでいる巌嶼は、全部扁平で若干水面上に露出している。西嶼は、高さ約410呎(注39)で、とがった峰を成し、東嶼は比較的低くて頂上が扁平だ。○この群嶼は、周囲は陡界だ。しかしその位置は実に函館に向かって日本海を航海する船舶の直水路に該当するが、とても危険だ。この群嶼は毎年6~7月頃アシカ猟(海豹猟)のために我が国の漁師が到来する所で、明治38年島根県所管に編入された(注40)
(『日本水路誌』 第一改版、1907年6月).
(注39) 1呎=1feet=約30.48cm.