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税務士ラポートによる鬱陵島視察報告 1899



ゲリー・ビーバーズさんのブログにある記事の日本語訳です。




189976日の税務士ラポートによる鬱陵島視察報告
 
以下の報告書は、189976日に釜山税関の税務士ラポート(E.Laporte)から韓国税関の主席委員ブラウン(McLeavy Brown)に提出されたものである。
韓国政府の要請により、ブラウンはラポートに韓国の鬱陵島に行ってその状況を個人的に調査するよう依頼した。報告書のコピーが韓国ソウルの英国公使館の代理大使であったジョーダン(Mr.John Newell Jordan)内密に提供された。
現在、このコピーがイギリスの国立公文書館(The National Archives)に収蔵されているので、これは明らかにジョーダンが受け取ったコピーあるいはジョーダンがイギリスの首相に送付したそのコピーである。
『鬱陵島事況』と題する韓国の皇城新聞1899923日の記事は、少なくとも部分的にはラポートの報告に基づいている。
この報告書がそれ以前の全ての鬱陵島検察報告と同様にリアンクール・ロックス(独島)について何も語らないのは、特に驚くべきことではない。この報告書は、「独島」についての韓国の主張を支持する材料を見い出すかも知れない最後の希望の一筋であったが、その希望の光も消えてしまったようである。
下記の1つめの写真は、ジョーダンが報告書のコピーを1899724日に当時のイギリス首相であったソールズベリー侯爵(Marquess of Salisbury)へ送付したことを示している。首相は1899911日にそれを受け取った。2番目、3番目及び4番目の写真が報告書である。




(写真はリンク先を御参照)

 
 





『鬱陵島事況』(皇城新聞 1899923日)は↓こちらにあります。




別報


鬱陵島 事況


蔚珍の東の海中に島が一つあり、鬱陵という。その附属の小六島のうち最も顕著なのは于山島竹島だ。大韓地誌によれば鬱陵島は古代の于山国で、広さは百里で三つの峯が聳えている。
 産物は柴胡、藁本、石楠、藤草、香木、槻木、蘆竹だ。土地は大麦に適している。昔は、"可之"と呼ばれる角の無い牛のような水獣(アシカ)が生息していた。霍鳥と呼ばれる海鳥も生息している。
 島に住む人は少なく、そのため政府は税金の徴収を免除していた。三年ごとに近くの地方官が選任され、島の状況を確認するために派遣されて、香木や蘆竹を持ち帰って王に献上してきた。
 1883年に朝廷は金玉均を東南諸島開拓史兼捕鯨使に任命し、白春培を従事官に任命した。彼らは該島の開拓事務を任されたが、翌年の甲申事変により任務を全うできなかった。その後1888年に(島民の)徐敬秀が越松萬戸(将軍)に任命され、島民人口増加の促進と外国人の材木の違法伐採を防止する任務を請け負った。しかし、徐は翌年大きな効果を挙げることができないまま死去した。
 開国504年の1895年、内部(内務省)は住民の季周を島監に任命し、島の管理を行わせた。本年春、は「最近になって多くの日本人が流入し、樹木を切り倒し島民の生活を犯し迷惑をかけ問題を起こしている」と報告し、政府に法律を設定して防護することを求めた。そこで内務省は税関の総税務士John McLeavy Brown卿(柏卓安)に西洋人を鬱陵島に派遣して状況を調査するように要請した。
 報告書の概要は次のとおりだ。


 鬱陵島は二百里程のところにあり、約75平方里ある。全島中耕作地は多く無く、海浜から山嶺まで鬱蒼とした森に覆われている。山の高さは4000フィート(英尺)ほどで、岸から三里内の水深は6000から9600フィートだ。
 島の居民は男女300戸で、数十年来、船大工や商人と漁師、農民が少しずつ来島して住み始めた。海岸の水深は大変深いため漁業は収益が無く、海藻の出荷は年に2000擔程になる。
 土質は肥沃で肥料は必要ないが、収穫を増やすために木灰がすき込まれる。大麦と小麦が春に、芋と豆は秋に収穫される。昨年の収穫は芋二万包、大麦二万包、黄豆一万包、小麦五千包だった。土地の傾斜がひどく、稲作はできない。材木は巨木の杉などの各種貴重材が多数ある。槻木、香木、柏子木、甘湯木(モチノキ)なども産出する。
 本土(大陸)との通商はとても少なく、稀に食料品、煙草、布製品など数袋の物資の輸入があるのみである。輸出は海藻が主であるが、ときに材木もある。
 海岸は岸壁の合間にアシカが群れをなしている中、100フィートほどの小湾がある。そこで日本の船が米、塩、甕、日本酒、毛布、木綿、ケロシン、マッチ、傘などを輸入品として降ろしている。豆や麦と言った輸出品のほか、全島各地で乱伐した材木が船で積み出されるがその値段は安い(?)(原文では「不資」)。
 日本人が計画的に居住地を作り、200名ほどが現地で生活している。現地住民の生活を脅かして気勢を上げるなどの弊害がある。農民や商人は本来免税されているが、島監が海藻の10分の1、材木は船一隻あたり葉一百兩を徴集している。日本人が商品を売った場合は2%を支払うが納税はしない。


本年9月、内務部は右の報告に基づいて外務部と協議したが、外務部では駐ソウルの日本公使に照会して、該島に不法侵入した日本人を定期的に送還させ、通商港でない場所での密貿易を禁止するよう申し入れたという。


 



<コメント>

 鬱陵島がこういう状況であったために、韓国政府は翌1900年に勅令第41号を制定して鬱陵島の管理を強化することになったわけです。逆に言えば、この調査は勅令41号制定のための下調べになったのです。しかし、御覧のとおり、報告書には竹島(独島)というものを意識している言葉は一言半句もありません。




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鬱島郡設置の請議書

大韓帝国勅令第41号(鬱陵島を鬱島に改称し島監を郡守に改正する件 1900年10月25日)の請議書についてのmatsuさんの調べ




  上記の下條論文に書かれている「内部大臣の李乾夏が提出した請議書」がネット上にあります。


下条論文の中の以下の部分

the petition which was submitted by 李乾夏, a Minister of Internal Affairs of Korea, 3 days before the Ordinance NO.41 was promulgated. Since it specified Ullengdo, which later became Uldo County, has "80 ri(32km) in length and 50 ri(20km) in width" and its special products are "potatoes, barley, soybeans and wheat."

  もとの下條論文(日本語=島根県のサイト)には
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  それは「勅令第41号」が発布される三日前、内部大臣の李乾夏が提出した請議書が証左となる。欝島郡となる欝陵島は「縦八十里ばかり、横五十里と為す」と明記され、欝陵島の特産は「馬鈴薯、大麦、大豆、小麦」とされているからだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 とありますが、この「内部大臣の李乾夏が提出した請議書」は、1900年 10月 22日の「各部請議書存案17」「鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正することを請う」という文書です。つぎのサイトにあります。
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=NIKH.DB-mk_007_017_000_0130

현재위치 : 한국사데이타베이스 > 형태별> 문서> 각사등록근대편 > 各部請議書存案 > 各部請議書存案17> 울릉도를 울도로 개칭하고 도감을 군수로 개정하기를 청함
(翻訳)
現在位置:韓国史データベース>形態別>文書>各司謄録近代編>各部請議書存案>各部請議書存案17>鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正することを請う

 以下、原文をコピーペーストします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
제목 울릉도를 울도로 개칭하고 도감을 군수로 개정하기를 청함
문서번호 鬱陵島? 鬱島로 改稱고 島監을 郡守로 改正에 關 請議書
발송일 光武四年十月二十二日(1900년 10월 22일)
발송자 議政府贊政內部大臣 李乾夏
수신자 議政府議政 尹容善 閤下 査照

右? 該島가 東溟에 特立야 大陸이 遠隔온바 開國五百四年에 島監을 設置야 島民을 保護고 事務? 管掌케 該島監 季周의 報牒과 本部視察官 禹用鼎과 東萊稅務司의 視察錄을 參互節査온즉 該地方이 蹤可八十里오 爲五十里라 四圍峭壁에 中有巨山야 自北止南고 間有大川야 深廣이 幾容舟楫고 其土가 沃腴고 其民이 質野야 自數十年來로 民蓄이 蕃殖야 戶數가 爲四百餘家오 墾田이 爲萬餘斗落이라 居民의 一年農作擔包數爻가 藷爲二萬餘包오 大麥이 爲二萬餘包오 黃豆爲一萬餘包오 小麥이 爲五千包라 오니 大率戶數와 田數와 穀數?陸處山郡에 較計 오면 數或不及이오나 不甚相左더러 挽近外國人이 往來交易야 交際上도 亦有온지라 島監이라 稱號오미 行政上에 果有妨碍기로 鬱陵島? 鬱島라 改稱고 島監을 郡守로 改正오미 妥當기  此段勅令案을 會議에 提呈事.

勅令 第四十一號
鬱陵島를 鬱島로 改稱고 島監을 郡守로 改正 件
第一條 鬱陵島를 鬱島라 改稱야 江原道에 附屬고 島監을 郡守로 改正야
官制中에 編入고 郡等은 五等으로  事.
第二條 郡廳位置? 台霞洞으로 定고 區域은 鬱陵全島와 竹島石島? 管轄 事
第三條 開國五百四年八月十六日官報中 官廳事項欄內 鬱陵島以下十九字? 刪去고 開國五百五年勅令第三十六號第五條江原道二十六郡의 六字? 七字로 改正고 安峽郡下에 鬱島郡三字? 添入 事.
第四條 經費? 五等郡으로 磨鍊호 現今間인즉 吏額이 未備고 庶事草創기로 該島收稅中으로 姑先磨鍊 事.
第五條 未盡 諸條? 本島開拓을 隨야 次第磨鍊 事.
附則
第六條 本令은 頒布日로부터 施行 事.

議政府贊政 內部大臣 李乾夏
議政府議政 尹容善 閤下 査照
光武四年十月二十二日

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 例によって「・」は、旧体字使用による文字化けです。性能の良いソフトでハングルが表示できるパソコンなら、旧字体で見えるのかもしれません。

 後半は、「勅令四十一号」の文面ですが、これを勅令として決定してください、という趣旨の文書です。
 ここで「該地方이 蹤可八十里오 爲五十里라」=「その地方は、縦八十里ばかり、横五十里と為す」とあります。すなわち、これがまさに、勅令四十一号の第二条にいう、鬱島郡の「区域は鬱陵全島と竹島石島を管轄する事」という時の「管轄の範囲」を表すことになります。そうすると、「石島」は、あくまで、この範囲の中ということになり、韓国側の主張する「石島=独島」ではありえないことになります。
 これは、「勅令四十一号」に直接関わる文書であり、とてつもなく強い証拠だと思います。


  実は、この史料自体は、ずいぶん昔から知られていたもので、韓国の学者たちも論文に引用しています。なぜその時に、この「該地方이 蹤可八十里오 爲五十里라」にまったく触れていないのか、とても不思議です。

  この文書全体を解釈してみます。文字化けは、判る範囲で( )で補いました。わからない言葉も多いです。

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題目 
울릉도를 울도로 개칭하고 도감을 군수로 개정하기를 청함
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正することを請う

文書番号(これは間違い。番号ではなく、これも題目である)
鬱陵島? 鬱島로 改稱고 島監을 郡守로 改正에 關 請議書
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正することに関する請議書

発送日 光武四年十月二十二日(1900년 10월 22일)
発送者 議政府贊政內部大臣 李乾夏
受信者 議政府議政 尹容善 閤下 査照


右(는) 該島가 東溟에 特立(하)야 大陸이 遠隔(하)온바
右は、該島が、東溟(東海?)に 特立し、大陸の遠隔にあるが、

開國五百四年에 島監을 設置(하)야 島民을 保護(하)고 事務를 管掌케 

開國五百四年に島監を設置して、島民を保護し、事務を管掌させてきたが、
(開国504年は、1392の李成桂の朝鮮建国から数えて504年。すなわち、1895年(高宗32)(明治28)のこと。この文書(1900年)の5年前になる。)

該島監 季周의 報牒과
該島監 季周の 報牒と

本部視察官 禹用鼎과 東萊稅務司의 視察錄을 參互節査(하)온즉
本部(内部)の視察官の禹用鼎と、東萊の稅務司(釜山の稅務司であるラポーテのこと)の視察錄を 參互節査したところ、

該地方이 蹤可八十里오 爲五十里라
その地の広さは、縦は80里もあるべく、横は50里で、

四圍峭壁에 中有巨山(하)야 自北止南(하)고
四圍の峭壁の中に、巨山が有って、北より南に走り、

間有大川(하)야 深廣이 幾容舟楫(하)고
間には大川が有って、その深さと廣さは、舟楫を幾つも(?)容れることができ、

其土가 沃腴(하)고 其民이 質野(하)야
其の土は沃腴で、 其の民は質野(?)であり、

自數十年來로 民蓄이 蕃殖(하)야
数十年以来より、 民蓄は 蕃殖(?)であり、

戶數가 爲四百餘家오 墾田이 爲萬餘斗落이라
戸数が四百余家となり、墾田が一万斗落余であり(「斗落」は面積の単位)

居民의 一年農作擔包數爻가
居民の 一年の農作の擔包數爻(?)は

藷爲二萬餘包오 大麥이 爲二萬餘包오 黃豆爲一萬餘包오 小麥이 爲五千包라 (하)오니
藷(じゃがいも)が二万余包であり、大麦が 二万余包であり、黃豆(大豆)が一万余包であり、小麦が 五千包であるというから、

大率戶數와 田數와 穀數?
おおよそ、戸数と田数、穀數を

陸處山郡에 較計(하)오면 數或不及이오나 不甚相左(하)더러
陸處にある山郡と 比較計算してみれば、 数は或いは及ばないかもしれないが、 甚だしくは相左せず(?)

挽近外國人이 往來交易(하)야  交際上도 亦有(하)온지라
最近、外国人が 往來・交易するので、交際上のことも、 また有ることなので、

島監이라 稱號(하)오미 行政上에 果有妨碍기로
島監という称号では、 行政上に あるいは妨碍があるかもしれないので、

鬱陵島(를) 鬱島라 改稱
鬱陵島を、鬱島と改稱し、

島監을 郡守로 改正(하)오미 妥當기
島監を 郡守と 改正するのが妥當であると考えられるので、

此段勅令案을 會議에 提呈事.
此段の勅令案を 會議に 提呈する事である。

(以下、勅令の案文)
勅令 第四十一號
鬱陵島를 鬱島로 改稱고 島監을 郡守로 改正 件
第二條 鬱陵島를 鬱島라 改稱야 江原道에 附屬고 島監을 郡守로 改正야
官制中에 編入고 郡等은 五等으로  事.
第二條 郡廳位置? 台霞洞으로 定고 區域은 鬱陵全島와 竹島石島? 管轄 事
第三條 開國五百四年八月十六日官報中 官廳事項欄內 鬱陵島以下十九字? 刪去고 開國五百五年勅令第三十六號第五條江原道二十六郡의 六字? 七字로 改正고 安峽郡下에 鬱島郡三字? 添入 事.
第四條 經費? 五等郡으로 磨鍊호 現今間인즉 吏額이 未備고 庶事草創기로 該島收稅中으로 姑先磨鍊 事.
第五條 未盡 諸條? 本島開拓을 隨야 次第磨鍊 事.
附則
第六條 本令은 頒布日로부터 施行 事.

議政府贊政 內部大臣 李乾夏
議政府議政 尹容善 閤下 査照
光武四年十月二十二日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  前述のように、この史料は、ずいぶん昔から知られていたもので、韓国の学者たちも、引用しています。たとえば、宋炳基『鬱陵島と独島』(1999)第4章「鬱陵島の地方官制編入と石島」
 (もとの論文は、同名で『国史舘論叢』23 国史編纂委員会 1991)

(116p)(原文韓国語)
・・・内部[内務省]から正式に議政府に設郡請議書、すなわち「鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守と改正についての請議書」を提出したのは、この年(1900、光武4)の10月下旬(22日)になってからだった。(注94)

(注94) 「各部請議書案」17、奎章閣所蔵

 鬱陵島視察委員・禹用鼎の報告書と、島監・季周の牒報、そして、釜山海関税務司署理・ラポーテが提出した視察録を参照して作成されたこの請議書は、鬱陵島に郡を設置すべき理由として、次の二つをあげている。すなわち、(1)鬱陵島は戸数が400余戸、墾田が10000余斗落、1年の農産が、じゃがいも20000余包、大麦20000余包、大豆10000余包、小麦5000包にもなり、内陸の山郡と比較しても大きな差異がなく、(注95)、(2)外国人たちが、往来・交易しており、現行の島監体制では行政上、障害になる、ということであった。(注96)

(注95) 禹用鼎の「鬱島記」には、墾田(田土)が7700余斗落となっており、10000余斗落とは差異があり、農産物収穫量については言及されていない。こうした点を勘案すると(1)はラポーテの「視察録」を主に参照したのではないかと思われる。
(注96) 注94と同じ

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  以上のように、宋炳基教授はこの記録に詳しく言及しながらも、「縦80里、横50里」については、まったく触れていません。宋炳基教授ともなれば、当時の度量衡を知らないはずはなく、「鬱陵島」の範囲、すなわち、「鬱島郡と改称されるべき範囲」を、この論文でまったく無視しているのは、一体、どういうことなのでしょうか。

  また、愼廈教授も、1989年の段階で、「朝鮮王朝の独島領有と日本帝国主義の独島侵略」『韓国独立運動史研究』3 独立記念館(1989)(のち、1996『独島の民族領土史研究』 第3章 139~240に再録)という長い論文を書いていますが、この中で、この資料について言及しています。そして彼も、この「縦80里、横50里」には、まったく触れていません。

1989年の論文は、ネット上で閲覧可能です。
http://i815.or.kr/media_data/thesis/1989/198902.html
第4章 「大韓帝国の鬱陵島独島行政区域改正」の2「大韓帝国政府の鬱陵島独島行政区域改正」(1996年の単行本『独島の民族領土史研究』では、192p)

(翻訳しておきます)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 このような状態で、大韓帝国内部[内務省]は、従来、監務を置く事にしていた鬱陵島の官制改正案を修正し、郡を設置することに決意して、起案し、137)、 1900年(光武4)10月22日、「鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正することに関する請議書」を内閣会議に次のように提出した。

注137)『各部請議書存案』(議政府編) 第17編 光武4年10月22日條
 울릉도(鬱陵島)를 울도(鬱島)로 개칭(改稱)하고 도감(島監)을 군수(郡守)로 개정(改正)에 관(關)한 청의서(請議書)

(以下、この文書を引用)

 内部大臣李乾夏のこのような設郡請議書は、1900年 10月24日、議政府会議(内閣会議)で、8対0の満場一致で通過した。ここに、大韓帝国政府は、1900年10月25日付で、勅令第41号として、全文6条からなる「鬱陵島を鬱島に改称し島監を郡守に改正する件」を次のように『官報』にも載せて全国に頒布した.

(以下、勅令第四十一号)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

と、明らかに「注137」でこの文書を引用していますが、「縦80里、横50里」には、まったく触れていません。

  この2人の学者の論文は、今の韓国側の主張の骨格をなしているものであり、これを批判し、論破していけば、韓国人の「思いこみ」を正すことが出来ると思います。それにしても、この「縦80里、横50里」は、勅令41号に直接かかわるだけに、決定的ともいえる証拠だと思います。沈興澤さえも、独島は「在於外洋百余里」と言っているので、80里からは、はみ出してしまいます。

 石島=独島説は、これにて完全にアウト。ゲーム・オーバーだと思いますが、それぞれ1989年と1991年という論文執筆の段階で、この資料を知っていたことになる愼廈、宋炳基という韓国の二人の碩学が、いったいどうやって、石島=独島説を唱え続けてきたのか、とても不思議です。


2018.03.04 鬱島郡設置の請議書の画像追加
 (詳細は下の小嶋日向守さんのコメントを参照のこと)

韓国政府外交部のサイトにあるもの





原文書





有馬警部報告書 明治36年

  1903年4月28日の有馬報告にある、「大豆」に関しては、日本人の船に搭載させた大豆ということなので、一石は日本の一石となります。しかも、大豆なので、重さはお米と同じく、一石=150㎏と考えて良いので、160石は、大豆24トンの貨物と判明しました。

http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B11091460600?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2011100415452450487&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&;
50 / 67コマ
判読起こしです。

前畧
  報告書
本島二近数年、郡守不在之處、今回郡守 沈興澤ナル者、卑賤等ト回船来島致シ、駐在所近邊韓家ニ駐在シ、従来ノ郡守所在地ハ当所ヨリ三里洞ノ黄土浦ナリシモ、此際当村ニ郡衙ヲ建設スル計劃ノ由ニ有之候。昨二十七日、郡守来リ、今回内部大臣ノ命ニ依リ、本島ノ材木伐採方一切禁止ノ筈ニ付、貴國民人モ以後差止メラレ度旨申来ニ依リ、我人民カ本島ニ来リ諸事業ニ従事スルハ十数年来ノ慣習ニシテ貴国政府モ認メ居ル所ナラン。然ルニ今俄ニ貴意ニ應シテ、之レカ事業ヲ差止メルコト本官ノ独断ヲ以テ難致旨、答辨シタルニ、郡守ハ右事情内部ニ報告セント辞シ去レリ。
一、同日、本邦人、濱岡升五郎ハ、韓人、李生資ノ大豆百六十石、釜山附近長鬐ニ運送ノ約束ヲ為シ、積荷準備中、郡守ハ、右荷主 李生資ニ、日本人ノ舟ニ荷物ヲ積載スルコト不相成旨ヲ達シタリトノ訴アルニ依リ、直ニ郡守ニ對シ、其不可ヲ説キ右命令ヲ解除セシメ搭載スルコトニ相成候。
右及報告候也
 明治三十六年四月廿八日
  在欝陵島駐在所詰
  警部有馬高孝
領事幣原喜重郎 殿
迩今、本邦人同品材木伐採ノ為メ山中ニ入込ミ居ルモノ三十四、五名ニ有之候。

メモ 「迩今」の判読は不明確です。




(小嶋日向守さんの書き起こし)



本邦人ノ渡航並在留取締ノ件



この51 / 97
契約証 (以下略)

52 / 97 このコマと次のコマだけ書き起こします。
一、輸出税ノ件
輸出品ニ対シテハ前島監呉相鎰ト在島日本人
トノ間ニ別紙ノ如キ条約文アリテ輸出額ノ二分ヲ
大豆ヲ以テ輸出毎ニ輸出税トシテ島監ニ納メ現島
監季周モ今日迠此条約ニ依テ徴税シ居レリ
(一字訂正)■税物品ニハ制限ナキモ槻木材ヲ含ムヤ否ヤ明
瞭ナラズ 納税ニ対スル呉島監ヨリノ領収書ハ散
逸シテ僅カニ別紙一葉ヲ得 又 黄島監理ヨリ日本人
濱口ニ対シテ滞納ヲ督促シタル文書一枚ヲ得タリ
現島監季周ハ之レニ対シテ領収証ヲ發スルハ穏
當ナラス 又政府ニ露顕乄(シテ)論責セラルヽ恐アリ(十六字挿入)
ト云フテ未タ一枚モ發シタルコトナキヲ以テ在島
日本人ハ総代ヲ以テ今後領収証引換ニアラサレバ
大豆ヲ渡サストテ島監ニ向テ 掛合中ナリ

輸出ノ際ニハ島監ノ方ヨリ二人ヲ派シテ立合ハシムル例ナ
リ島監ハ小官等ノ納税ノ事実アリヤ否ヤノ問ニ対
シテ初メハ取リタルコトナシト云ヒ後ニハ二年間口銭トシテ
取リタリト云ヒ最後ニハ遂ニ是迄年々口銭トシテ受取
来リタル旨ヲ立會取調ノ際ニ白状セリ聞取書ニハ
島監昨年及一昨年ノ二年間受取リタリトアレトモ島
監ハ日本語ヲ以テ是迄引続キ受取リタルコトヲ小官
ニ白状セリ
輸入ニ對シテハ納税シタルコトナシ

53 / 97
約条文
一、欝陵島々監 日商向
     約条如左
     盟 約  [印]
一、本島貿易 大豆太 (日本韓国) 百分二従
日商納税以許之
 右條約依各自交換之事
 日本暦 明治三十二年旧四月一日
 韓国暦 光武三年四月初一日
大韓国欝陵島々監 呉相鎰

大日本国商人
脇田●●●
      古木●●
      畑本●●
外二十名
佐々木●●●
      濱岡●●●
以下略

メモ 明治三十二年旧暦四月一日は、1899年 5月 10日 水曜日です。






(小嶋日向守さんの書き起こし)



追加

アジ歴の「本邦人ノ渡航並在留取締ノ件/分割2」
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B11091460300?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2011100415452450487&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&;

から重要頁を書き起こしました。
もしこの史料を「柳美林」式に解釈すると、日本の島根県の裁判を受けていることから、竹島のみならず、鬱陵島も日本の施政下にあった証拠にでっち上げることが出来ような史料です。私はそこまで乱暴なことは言いませんが、当時の日本人が鬱陵島のケヤキの木を伐採するときに、朝鮮人人夫を雇用して、代価を支払い、さらに朝鮮側の島監に対して、輸出税としてきちんと「大豆」を上納していたのに、嘘ばかり吐いて、領収書さえ書かずにいた、当時の島監たちの様子がはっきりわかる史料です。

17 / 97コマ
  賣下証
一、槻木一本 代金五拾円也
右正ニ賣下候也
己亥五月二十一日
 欝陵島々監 呉相鎰 ㊞
脇田庄太郎

メモ 己亥は、明治三十二年(1899年)
   旧暦五月二十一日は、新暦6月 28日
印判写しは角形のみ?


48 / 97コマ
 賣下証
一、槻木伐条銭五百両併捧上也
右賣下事
己亥四月二十五日
 欝陵島々監 呉相鎰
 日本 畑本公

メモ 己亥旧四月二十五日は、西暦1899年 6月 3日

51 / 97コマ  (読み易さを考えて、句読点と改行を補っています)
  契約証
一、本島ニ於テ、槻木八十株製材スルニ付、此度貴殿方ヲ雇入レ、左ノ如ク定約ス。
一、製材ハ盤板ト角材トシ、製材賃ハ凢テ製材塲ノ海岸ニ於テ、盤板ナレバ十分ノ五(壱万材ニ対シ五千材ノ割)、角材ナレバ十分ノ四.五(壱万材ニ対シ四千五百材ノ割)ヲ、通知ノ日ヨリ、降雨日ヲ除キ、十五日内ニ払渡ス事。若シ期限内不払ノ時ハ、製材物貴殿方ニ於テ随意ニ任ス。
一、製材塲所ハ海岸ニ去ル、大凢日本里三十丁。
一、製材期限ハ来ル、明治三十三年旧三月満日・光武四年三月満日、限トス。
  但シ期限内終業ニ至ラザル時ハ更ニ熟議ノ上決定ス。
一、前条違約セシ時ハ韓銭一千両為損害払渡ス。
右契約、堅ク遵守スル為メ、一札差入置キ候也。
明治三十二年十一月二十日
 光武三年十一月二十日
 韓国欝陵島苧洞 田士能
 仝国仝島南陽洞 製材擔當人 黄應九
仝国仝島道洞 製材擔當人 鄭尚元
総代人 中西秋太郎殿
迄迠約定三月満日終業ニ至ラサルニ付、双方熟議ヲ遂ケ七月満日限ニ更約ス
田士能

メモ 明治三十二年旧暦十一月二十日は、1899年 12月 22日 金曜です。

52 / 97 コマ
(昨日の翻刻に一文字遺漏がありましたので、補足し句読点と改行を施しました)

一、輸出税ノ件
輸出品ニ対シテハ、前島監、呉相鎰ト在島日本人トノ間ニ、別紙ノ如キ、条約文アリテ、輸出額ノ二分ヲ大豆ヲ以テ、輸出毎ニ、輸出税トシテ、島監ニ納メ、現島監、季周モ今日迠此条約ニ依テ、徴税シ居レリ。
(「貨」の誤記を一字訂正して)、課税物品ニハ、制限ナキモ槻木材ヲ含ムヤ否ヤ明瞭ナラズ。納税ニ対スル、呉島監ヨリノ領収書ハ散逸シテ、僅カニ、別紙一葉ヲ得、又、黄島監理ヨリ日本人濱口ニ対シテ、滞納ヲ督促シタル文書一枚ヲ得タリ。
現島監、季周ハ之レニ対シテ、領収証ヲ發スルハ穏當ナラズ。又政府ニ露顕乄(シテ)論責セラルヽ恐アリ(十六字挿入)ト云フテ、未ダ一枚モ發シタルコトナキヲ以テ、在島日本人ハ総代ヲ以テ、今後領収証引換ニアラザレバ大豆ヲ渡サズトテ、島監ニ向テ、掛合中ナリ。
輸出ノ際ニハ、島監ノ方ヨリ、二人ヲ派シテ、立合ハシムル例ナリ。島監ハ、小官等ノ納税ノ事実アリヤ否ヤ、ノ問ニ対シテ、初メハ取リタルコトナシト云ヒ、後ニハ、二年間口銭トシテ取リタリ、ト云ヒ、最後ニハ遂ニ、是迄年々口銭トシテ受取来リタル旨ヲ、立會取調ノ際ニ白状セリ。聞取書ニハ、島監、昨年及一昨年ノ二年間受取リタリ、トアレドモ島監ハ、日本語ヲ以テ、是迄引続キ受取リタルコトヲ小官ニ白状セリ。

輸入ニ對シテハ納税シタルコトナシ。


2012年8月のKBSの番組では、「鬱陵島に出入りする全ての貨物・税金をかける内容が示されています。」と大嘘の字幕がハングルで書かれていますが、日本側から船舶で鬱陵島に搬入される物資という意味の「輸入ニ對シテハ納税シタルコトナシ」という、この記述から、それが大嘘であることがわかります。

もちろん、「独島で漁業活動をしていた日本人が大韓帝国に税金を収めたという文書」ではなく、鬱陵島のケヤキの木を伐採・製材して日本に舶送する際に、島監の季周が、「領収証を発行することは、穏当なことではありません。もし韓国政府に露見したら、責任を取らされて責めを負う恐れがありますからと言って、いまだに領収書を一枚も発行したことがないので、在島の日本人が酷いではないかと怒って掛合っている。」ということなのです。






帝国新聞

[ 帝國新聞 ]


1898年8月10日創刊、1910年8月2日廃刊
所蔵処 ソウル大学図書館

[ネイバー知識百科] [帝國新聞]
http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=548048&cid=1642&categoryId=1642


  韓末の代表的な民族主義的性格の日刊新聞で、原名は「チェグクシンムン」だ。 1898年8月8日に農商工部から新聞刊行の認可を受け、8月10日に創刊号を発行した。この時社長は資本金を単独出資したイ・ジョンイル(李鍾一)で、編集・製作はユ・ヨンソク(柳永錫)、イ・ジョンミョン(李鍾冕)、チャン・ヒョグン(張孝根)などが担当し、李承晩が主筆として活躍し、械機・鋳字などの施設はシム・サンイク(沈相翊)の支援を受けた。

  1903年に前軍部参書官であったチェ・ガン(崔岡)が運営資金を支援して一時社長に就任し、そのころにキム・ドゥヒョン(金斗鉉)が総務として、キム・サンヨン(金祥演)、チェ・ヨンシク(崔寧軾)などが記載員(今の記者)として活躍した。

  そして1907年以後には経営難を緩和して新聞事業を拡張するために、愛国啓蒙運動団体である西友学会会長だったチョン・ウンボク(鄭雲復)が編集主筆に就任し、記者では朴チョンドン、イ・インジク(李人稙)、イ・ヘジョ(李海朝)などが活躍した。

  漢陽洞に本社を置いたこの新聞は、開明・開化の最も良い手段、すなわち開化媒体を新聞だと考え、民族的な自主精神の培養と大衆の知識啓発という創刊趣旨の下、中流以下の民衆及び婦女子をその対象にした。

  編集体制はハングル専用で、創刊当時には今日のB4判型の半分の大きさ程度の2段制だったが、1904年以後にはB4版の大きさの4段制に拡大し、1907年からは6段制とより大きくなった。
毎日4面が発行され、おおむね1面に論説、2面に官報代掲・雑報、3面に海外通信・広告、そして4面に広告がのせられた その他に、今日の読者投稿に当たる奇書が1面や3面に多くの紙面を占めてしばしば掲載された。発行部数は概して2,000部内外だったが、最も多く発行された1907年には4,000余部近くになったが、経営難の時は1,000余部程度しか発行されなかった。

  この新聞が発刊された時期は日本勢力が我が国の内政まで干渉した時だったが、そのような状況でも無能な政府と官吏の腐敗及び日本勢力の国権浸透に対して常に鋭く批判した。1904年2月23日に強制締結された韓日議定書に対しては「施政改正の忠告権は、結局、侵略の第一歩」と論駁して反対し、1905年11月には日本の御用団体である一進会に対し痛烈に論駁するなど民族紙としての面目を示した。
  
  これに伴い、日本当局が実施した事前検閲で記事が削除されたり停刊処分を受けることがしばしばあり、記者拘束事件も頻繁に発生した。このような新聞弾圧は、1907年に「新聞紙法」が制定されて保証金納付条項が新しく追加されたことによって一層加重され、その上にこの新聞は愛国情熱で経営面での利潤追求は全く考慮しなかったために常に運営難に苦しめられた。
また、この時期は読者の認識も不足していて、購読料・広告収入などもきちんと入らなかったし、当時は交通・通信施設が不十分なために全国的な補給網を確保できないため経営難を克服できず、1907年9月20日から休刊することになった。
  これに対し有志と読者たちが義援金を送って「帝国新聞賛成会」が設立されて支援運動を展開したことによりその年10月3日に復刊されたが、1910年6月1日から再び休刊状態に入って結局8月2日に廃刊した。

  このように12年間刊行されたこの新聞の新聞史的意義は、同時期に少し早く刊行された≪皇城新聞≫が少数の漢字解読層を対象にした特殊層の新聞であるとすれば、この新聞はハングルだけを使い一般民衆を対象にした大衆新聞であったという点だ。すなわち、一般民衆と婦女子階層が簡単に読むことができたので、彼らを啓蒙するのに重要な役割を果たすことができたのだ。 特に、経営難で常に困難を経験しながらも果敢な論調で国権回復と民衆啓蒙機関としての役割を自認し、当時の新聞としては永く発行されたので国民啓蒙の実質的な力になった。
さらに、ハングル使用の一般化で民族言語の発展にも大きく寄与したと評価される。 現在の創刊号から1907年10月22日付までソウル大学図書館などに所蔵されているが、脱落した部分が多い。





戦艦対馬日誌

戦艦対馬日誌
(1904年10月21日から1904年10月28日まで)  (小嶋日向守さんの書き起こし)


(明治三十七年)
 十月二十一日(金)竹敷
  AM BC ⊕ 0-1
  PM BC NNW2-1  30.11 29.96 71.62
炭水補充
午后一時三十分 千穂哨区二向ケ出港
午后一時五十分 浪速尾崎ニ囬航 二時四十五分 千早哨區ヨリ入港
本日午后十時 第二戰隊ハ八雲ヲ哨區ニ残シ他ハ皈途ニ就ク

 十月二十二日(圡)竹敷
  AM B NW 4-2
  PM BC NN-W 1  30.25 30.14 59.52
本日他艦舩火災操練信号兵喇叭稽古ヲ施行ス
午前七時十五分 新大連ヨリ入港
四戰機密第二五九號ヲ受領ス要㫖左ノ如シ
仙頭對島艦長ニ與フル訓令 三十七年十月廿二日 於尾崎 旗艦笠置
貴艦ハ明二十三日迠便出港 二十四日午前 松島ニ ※(ママ)
ニ着シ仝望樓増築工事ニ従事セル諸員ヲ収容シ尚ホ竹濱及蔚嵜ニ寄港シ仝望樓増築工事ニ従事セル諸員ヲ収容シ帰港スヘシ

 十月廿三日(日)自 竹敷 至 欝陵島
  AM. BC NE 2
  PM. BC NE-SW 1-2 30.32 29.22 62 50
体格検査
午前九時三十分 松島方面ニ向ケ竹敷出發

 十月二十四日(月)欝陵嶋 附近
  AM BC SW 3-4
  PM BC NW 4-1 30.29 30.14 65.61
午前七時松島東望樓ニ接近漂泊シ第一第二「カッター」ヲ卸シ人夫収容ニ着手ス 風強ク波キノミナラス舩(フナ)ツキ悪シキ為メ非常ナル困難ヲ以テ十時半辛フシテ収容ヲ了シ西望樓ニ向フ 十一時二十五分西望樓ニ接近シ第一第二「カッター」第二傳馬舩ヲ卸ロシ人夫収容ニ着手ス 正午右結了 竹辺湾ニ向ヒ進航ヲ起ス
  松島ニニ収容セシ人夫
   東望樓 二十三名        西望樓 十八名    }計 四十一名
午后五時竹辺湾着 第一第二「カッター」ヲ派遣シ人夫二十二名 技手一名 ヲ収容シ 午后六時蔚ニ向フ

 十月二十五日(火)自蔚 至 竹敷
  AM UC SE-NW 1
  PM BC NW 1 30.26 30.14 70.61
午前八時半蔚着 第一第二「カッター」ヲ派遣シ人夫十三名ヲ収容シ 九時四十分竹敷ニ向フ 午后六時 竹敷入港
在泊艦舩
(尾)出雲 吾妻 八雲 千穂 安平丸 一、三号砲艦 六十七号艇 鴻 鷗
(竹敷)浪速 千早 二、四号砲艦 第十一艇隊 第十七艇隊

 十月廿六日(水)竹敷
  AM BC⋖⊕ U-1
  PM B ⊕ U-1 30. 23 30.15 66.58
午前七時千早哨区ニ向ケ出港 春日丸哨區ヨリ入港午后零時五十分浪速哨區ニ向ケ出港 仝時本艦尾ニ回航
--------------------------------------------------------------------------
※(二十六日後半・二十七日前半の日誌の一部が欠損しているようです)
------------------------------------------------------------------------
三時笠置哨区ヨリ竹敷入港
本日砲術練習號ヲ施行ス

 十月廿八日(金)尾
  AM BC ⊕0-1
  PM UCR NWW1-2 30.23 30.18 66.57
午后一時哨區ニ向ケ尾出港
本日砲術練習號内筒砲射撃ヲ施行ス
千早ハ本日午后C哨區ヨリ修理ノ為メ佐世保ニ赴ク
釜山蔚崎間電信本日開通

http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka38/tsushimawarship-1904/02.jpg
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka38/tsushimawarship-1904/03.jpg
国立公文書館アジア歴史資料センター 軍艦対馬戦時日誌(5)
https://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C09050402800?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E6%88%A6%E6%99%82%E6%97%A5%E8%AA%8C&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&;

12~17齣目


卞栄泰(ビョン・ヨンテ)声明の探索

http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/08/21th-column-seeking-truth-based-solely.html


 ここのコメント欄に、matsuさんによる卞栄泰声明「独島は、日本の韓国侵略に対する最初の犠牲の地であった。開放と同時に独島は再び我が懐に戻った。独島は韓国独立の象徴である。この島に手をだすものはすべて韓国人の頑強な抵抗を覚悟せよ。日本が独島を奪おうとすることは、韓国の再侵略を意味する。」と、これは実はハッタリだったという本人の回想の探索記録あり。

 

なお、「独島は日本の侵略の犠牲となった最初の韓国領土であった。」という語句は、韓国政府から日本政府に対する19541028日付公式文書で用いられています。


第二章 第六節 独島問題の国際司法裁判所への提訴に関する交換覚書

 


  「独島は、日本の韓国侵略における最初の犠牲物である。解放とともに、独島はまた我が懐に抱かれた。独島は韓国独立の象徴である。この島に手をつける者は、全ての韓民族の頑強な抵抗を覚悟せよ。独島はただの数個の岩の塊でなく、我が民族の栄誉の錨である。これを失って、どうして独立を守ることができるだろうか。日本が独島奪取をはかることは、韓国再侵略を意味するのである。」という卞栄泰声明が紹介されている『韓國外交秘史』のmatsuさんによる翻訳
または





水路誌は領土とは無関係 by 海上保安庁


 「水路誌は、ご承知のとおり船舶が安全に目的地に行くための海図の副読本的な書き物であり、これが領土・領海を確認しては編集はしておりません。このことは、昔も今も変わりはありません。」

by 海上保安庁海洋情報部海の相談室


GTOMRさん good job!


1894 - 海軍省水路部「朝鮮水路誌」(明治二十七年)


(mamatotoさんの御指摘により見つけました)




近代日本の水路誌に現れた鬱陵島・独島認識 4

 
3.韓国強制併合以後の水路誌
1910822日に大韓帝国と日本帝国の間に結ばれた合併條約によって、日本は韓国を強制併合することになった。当然、国家としての大韓帝国(朝鮮)は消滅したので日本の一つの地方として扱われることになった。過去に領土獲得によって台湾などを日本水路誌に編成を変更したように『朝鮮水路誌』と『日本水路誌』は強制併合以後である1911年から『日本水路誌』に合本することになる。植民地になった朝鮮を『日本水路誌』第6(1911.12)に含ませているということは、水路誌が国家別の管轄単位で編纂したことを再び示していることは明らかだ。これは『日本水路誌』は日本の領土を取り扱うという原則がそのまま守られた結果である。
『日本水路誌』第6巻では、第2編朝鮮東岸で、鬱陵島と竹島(独島)を共に掲載していて、その内容は『朝鮮水路誌』のものを殆んどそのまま移している。その後、改正とともに分量が増加したためか「朝鮮沿岸」は上下2冊に分けて、名称も変更して『日本水路誌』第10巻 上巻・下巻として刊行した。独島は上巻に竹島 [Liancourt rocks]という名前で掲載している。一方、1907年『日本水路誌』第4巻第1改版「第3編 本州北西岸、竹島 [Liancourt rocks]」編に含ませた独島に関する記述は、1916年『日本水路誌』第4巻で「第1編 本州北西岸」の「竹島[Liancourt rocks]」の項目に継承されて掲載されている(を参照)。これは、改訂版で追加や訂正はしても、既存項目の削除は簡単にしないという説を支持すると見られる。(41)
 
 
 
(41) 朴炳渉(2007)前掲論文、pp.100-101を参照.
 
 
 

その後、『日本水路誌』第10巻は編纂が中止され、そのかわり朝鮮沿岸に関連した部分は1933年『朝鮮沿岸水路誌』第1巻、第2巻として刊行された。鬱陵島と独島は第1巻「第3編朝鮮東岸」の「鬱陵島および竹島 (欝陵島及竹島)」の項目に「鬱陵島 [松島]」および「竹島 [タケシマ]」という名前で並んで掲載された。

鬱陵島および竹島 (欝陵島及竹島)
鬱陵島 [松島] (海図306分図
)
 龍湫岬の69度約73里にある周囲22里の半円形の島で、全島多数の尖鋭な円錘形の山を成し樹木が鬱蒼としている。ところがその海岸付近は住民が増加するにつれ、あるいはこれを焼却して耕地を切り開いたり濫伐することによって随所に裸山が見える。

島の中央部すなわち北緯3730分、東経13052分の地点に高さ985メートルの一峰・聖人峯 (ナラ山)があり、高く聳え立っている。道洞港 間巌末の北東側2.5海里()に位置して北風ないし西風を避けるが、東風ないし南風が強く吹けば停泊するのに困難だ。
海底の傾斜が急で、特に海岸800メートルを離れて水深182メートルで、海の底(底質)の砂または岩によって良好な停泊地(錨地)とはいい難い。
海岸から250ないし280メートル離れて、水深32ないし36メートル地点に1等駆逐艦1隻をしばらく停泊させられるし、底辺は岩になって海底の傾斜が急なので錨を下す時に注意を怠ってはいけない。ただし錨を海底に下すには問題がないという。(42)

 
 

(42) 欝陵島及竹島
 欝陵島[松島](海圖306分圖).
 龍湫岬ノ69度約73浬ニ在ル周囲22浬ノ半円形島ニシテ全島数多ノ尖鋭ナル尖鋭ナル圓錐形山ヨリ成リ樹木稜茂ス、然レドモ其ノ海岸附近ハ住民ノ増加スルニ従ヒ或ハ之ヲ焼却シテ耕地ヲ開キ或ハ濫伐セシヲ以テ処々ニ禿山ヲ見ル島ノ中央部即チ北緯3730分、東経13052分ノ処ニハ高サ986米ノ1峯聖人峯<羅里山>アリテ巍然聳立ス。道洞港 間巖末ノ北東方2.5里ニ位シ北乃至西ノ風ヲ保障スレドモ東乃至南風強吹スルトキハ碇泊困難ナリ海底ノ傾斜ノ傾斜急ニシテ距岸800米ニシテ水深182米アリ、底質沙又ハ岩ニシテ良好ナル錨地トハ言ヒ難シ距岸250乃至280米、水深32乃至36米ノ処ニ1等駆逐艦1隻ヲ漸錨泊セシメ得ベシ、低質岩ニシテ海底ノ傾斜急ナルヲ以テ走錨ニ対シ注意ヲ怠ルベカラズ但シ錨海底ニ拘ル憂ナシト謂フ。

(
水路部, 『朝鮮沿岸水路誌』第一巻, 19331, pp.86-87).

 
 

竹島 [タケシマ]
 この島は日本海上の一つの小群嶼にして、島根県隠岐島前から概略86海里()、鬱陵島から東南東側約50海里()に位置し、幅1鏈程度の狭い水道で東西に向かい合う2島と、その周囲に分布する多くの小嶼で構成される(89ページ対面大景図第25および第26を参照)。その西方島は、海面上に高さ約157メートルで飴棒状を成し、東方島は比較的低く、その頂上に平坦な地帯がある。また、周囲の諸小嶼は概して扁平な岩で、若干水面から露出して、大きいのは本当に数十畳(43)を敷くほどの広さだ。2島は全部粗末な岩塊(禿岩)で海風に露出してひと株の樹木もなく、東側島には若干の野草が育つだけだ。また、島岸は断崖絶壁で、軟質の石層になって、奇異な洞窟が多く、ほとんど登ることはできない。そこでこれら洞窟および小嶼は海驢の密集地となる。(44)

 
 
 
(43)日本の伝統的な面積の単位で、畳1枚の大きさ。すなわち、91cm× 182cmの面積をいう。畳2=2畳が約1坪になる。
(44) 竹島[タケシマ] 
此ノ島ハ日本海上ノ1小群嶼ニシテ島根県隠岐島島前ヨリ大約88浬、鬱陵島ヨリ東南東方約50浬ニ位シ幅1鏈余ノ狭水道ヲ隔テテ東西ニ相対スル2島ト其ノ周囲ニ碁布スル幾多ノ小嶼トヨリ成ル(89頁対面対景図第2526参照)。其ノ西方島ハ海面上高サ約157米ニシテ棒糖形ヲ成シ東方島ハ較低ク其ノ頂上ニ平坦ナル地アリ又周囲ノ諸小嶼ハ概ネ扁平ノ岩ニシテ僅ニ水面ニ露出シ其ノ大ナルモノハ数十畳ヲ敷クニ足ルベシ。2島共ニ全部脊痩ノ禿岩ニシテ海風ニ暴露シ1株ノ樹木ナク東方島ニ於テ僅ニ野草ヲ生ズルノミ、又島岸ハ断崖絶壁ニシテ軟質ノ石層ヨリ成リ奇観ノ洞窟多ク殆ド攀躋スベカラズ而シテ此等ノ洞窟及小嶼ハ海驢ノ群棲所タリ。
(水路部, 『朝鮮沿岸水路誌』 第一巻, 19331, p.88).
 
 
 
鬱陵島については周辺の暗礁などについて詳しく言及しており、鬱陵島の自然景観に対しても詳細に扱っている。そして気象、潮水および海流、停泊地、住民、道洞港の水深と海底構造に至るまであつかっているが、その時まで実測された事項を鬱陵島の断面図とともに説明している。さらに独島に関しては「竹島 [タケシマ]」といって、今まで使った西洋名のLiancourt rocksが消えて、代わりにカタカナで「竹島」と括弧の中で取り扱っている。「島上の平地」と「淡水」という項目を置き、今まで実測した内容を追加的に含んでいる。島の上は家屋を建築する土地が殆どなくて、明治37(1904) 11月、軍艦対馬がこの島を調査した時は東方島に漁師用の臨時小屋があったが風浪でひどく破壊されていたという。毎年夏になると、アシカ漁業のために鬱陵島から到来する者が多くて数十人に及ぶが、彼らは島の上に小屋を作って毎回約10日間留まるということを記録している。
 
1907年および1916年の『日本水路誌』第4巻で竹島 (独島)だけを取り上げて収録した場合を除けば、鬱陵島と独島は、鬱陵島 (松島)と竹島 (リアンコルト島)として朝鮮東岸の編目に一貫して併記していることは、独島を朝鮮領土である島と見なしたことはもちろん、鬱陵島の付属島(属島)と見なして一つのセットとして二島を取り扱っているということがわかるまた、項目の内容面でも、独島 (竹島)のアシカ猟が鬱陵島を根拠として成り立っていることを一貫して見せている。これは過去に日本の漁師が独島を独島単独で利用せずに、鬱陵島を拠点にして経済活動を展開したことを立証するもので、日本が主張する松島 (独島)だけに別に渡海したとか、独島にだけ独自に漁労活動を展開したというような論理が、事実とは違った虚構であることを立証するものである(45)
 
 
 
(45)川上健三,前掲書、pp.66-73.
 
 
 

このような事実は、日本沿海の漁民と、海軍省を除いた日本政府が、今まで一般的に、独島 (松島)を鬱陵島 (竹島)の付属島として認識していたことと一脈相通じる点だ。

鬱陵島と独島の関係性を現わした日本の記録
日     記録内容   文献          備考
1659.6.21.
竹嶋近辺松嶋 「控帳」「大谷家文書」
1660.9.5.
 竹嶋之内松嶋「大谷家文書」
1662.9.8.
竹嶋近所之小嶋「大谷家文書」
1870.4.15.
松島は竹島の隣島(松島ハ竹島ノ隣島ニテ)「朝鮮国交際始末内探書」『日本外交文書』
1877.3.20.
竹島外一島太政官指令文      鬱陵島と独島を一つのセットと考える
1878
.12.松島は鬱陵島の属島(欝陵島ノ属島)「竹島考証」 外務省公信局長田辺太一の意見書を見れば、江戸時代、幕府の竹島渡海免許という名目で鬱陵島にむやみに渡海して鬱陵島の資源を奪取した大谷・村川両家の独島認識は、「竹嶋之内松嶋」「竹嶋近辺松嶋」あるいは「竹嶋近所之小嶋」として、これらの漁民は鬱陵島の付属した島として独島を見たことがわかる。また、日本外務省が朝鮮の内偵のために派遣した高官(46)の報告書『朝鮮国交際始末内探書』においても、松島 (独島)は竹島 (鬱陵島)の隣島(松島ハ竹島ノ隣島ニテ)と見ていたし、鬱陵島-竹島-松島の名称混乱があった時、日本外務省公信局長・田辺太一の意見書でも「松島 (独島)は鬱陵島の属島(欝陵島ノ属島)」という認識を持っていた。(47)

 
 
 
(46) 186912月、朝鮮偵察のために、日本外務省は佐田白茅、森山茂、斎藤栄の3人を朝鮮に派遣し、その結果は1870415日朝鮮国交際始末内探書として提出された。
(47)チョン・ヨンミ訳、「竹島考証」 下、正しい歴史確立企画団、2006,p.476を参照
 
 
 
 
さらに、明治の地籍編纂事業を推進する過程で、竹島 (鬱陵島)と松島 (独島)の取り扱いをどのようにすべきかを問い合わせた島根県の稟議書に対し、当時の最高の決定機関だった太政官指令で、鬱陵島と独島を「竹島外一島は本邦(日本-筆者)と関係ない」として二島を一つのセットと考えて取り扱ったことを知ることができる。
このような点を推察しても、日本でも伝統的に、鬱陵島と独島の関係を一つの島の付属島、あるいは一つのセットと見なしたことは明白だと言えよう。こうしたことは、日本の漁民だけでなく、外務省および太政官、海軍水路部までも独島を一つの独立した島とは見ずに、鬱陵島とは不可分の島と認識していたということだ
 
 
 
 
 
. 結び
 
以上、日本の水路誌で取り扱った鬱陵島・独島を分析し、日本がこれをどのように認識してきたかを考察してみた。海軍水路部は、陸軍の陸地測量部、および内務省地理寮(地理局)とともに、地図の測量および製作業務を引き受けて国境画定の基礎業務を所管した。日本の水路誌の変遷過程を見て明白なように、水路誌は国家の領土・領海を規定する単位として各国の水路誌を編纂してきたし、竹島問題研究会や日本政府が抗弁するように「海軍水路部は国境画定機関ではなく、水路誌は航海の便宜のために製作されたものだ」(48)というのは、道理に外れる苦しい弁明でしかない。
 
 
(48)例えば、船杉力修「絵図・地図からみる竹島()」『竹島問題に関する調査研究 最終報告書』竹島問題研究会、2007.3,p.155を参照
 
 
 

日清戦争によって新しく取得した領土、台湾を『日本水路誌』に編入した事実や、大韓帝国を強制併合した後『朝鮮水路誌』を『日本水路誌』に統合した事実は、水路誌が国境画定の単位で編纂されていたことを物語るもので、これは弁解の余地がない厳然たる事実である
 また、独島強奪を試みた後の19076月『日本水路誌』第1改訂版では、先立って3月に発行した『朝鮮水路誌』に竹島 (=独島)を含ませていることを一歩遅れて認知して、竹島 [Liancourt rocks]と訂正している。これは海軍の軍事戦略上の必要性によって独島を編入しながら相変らず朝鮮の領域であることを認め、『朝鮮水路誌』に独島を含ませているものだ。これもまた弁解の余地はない。

 
近代日本では、鬱陵島と独島の名称について「竹島」と「松島」「リャンコ島」等混乱した時期があった。それにもかかわらず、日本政府内でも外務省と内務省などは、鬱陵島を「竹島」、独島を「松島」と呼んでいた。しかし唯一海軍省だけは鬱陵島を「松島」、独島を「リャンコ島」と称して水路誌でそのように掲載していた。これは外国から導入した海図の影響によるものであり、当時実際に日本国内で使われていた鬱陵島および独島の名称とは全く別個のことだった。以下、本研究で明らかになった結果を整理することで、この文の仕上げにかえようと思う。
 
第一に、山陰沿岸地方の漁民と、日本の太政官、および外務省などは、19世紀後半まで一貫して鬱陵島=竹島、独島=松島と認識していたのに、日本海軍は鬱陵島=松島、独島=リアンコールトと違う認識をしていた。このような事実から、後日のリャンコ島日本領土編入のための一抹の意図的誤認が伺えるという点を指摘することができる。これは過去の対馬藩による鬱陵島奪取の企図や、竹島一件の発生などと一脈相通じるものだ。
 
二番目、1905年独島の日本編入以前までと、1910年韓日強制併合以後から解放になる時まで、水路誌では鬱陵島と独島を一つのセットと見なして鬱陵島の項目に共に取り扱っている。これは江戸幕府時代、独島 (松島)を鬱陵島 (竹島)の付属島(属島)または近隣島(隣島)と見なして認識しているのと同じである。
 
三番目、近代日本海軍の水路誌編纂は、領土区分を明確にして発刊してきた。日本領海中に入る地域を、1895年以後では台湾を含んだものを『日本水路誌』に、その外のものを『朝鮮水路誌』と明確に区分していたし、ここで水路誌は領海・領土を単位に区分したことが明確だということだ。したがって、独島・鬱陵島を『朝鮮水路誌』に含ませていることは、明確にこれを朝鮮の領域と見なしたものに間違いはない
 
 
 
論文投稿日時:2012.1.25  審査完了:2012.2.7  掲載確定日時:2012.2.20
 




近代日本の水路誌に現れた鬱陵島・独島認識
ソン・フィヨン

『大邱史学』106号(大邱史学会 2012) 141170ページ




<コメント>
 
 うん、まあ、気持ちは分かるが、こんなことを言っても「独島領有権」はやっぱり発生しませんよ。コメントはそのうちにつけるとしましょう。





 
 





近代日本の水路誌に現れた鬱陵島・独島認識 3

この『寰瀛水路誌』は、各国の沿岸に対する情報が次第に拡大し、その編材が各国水路誌の形態に変わって1889年その編纂が中断されるに至った。その代わり発行されたのが『朝鮮水路誌』『日本水路誌』『シナ水路誌』などのような国家領域別の水路誌であった。

『朝鮮水路誌』は初版が189411月に発行され、朝鮮が独立国家としてある間、継続して刊行された。そうするうちに1910年、我が国が日本の植民地になるとすぐに、この水路誌の発行を中断して、1911年から『日本水路誌』に含ませて刊行した。『朝鮮水路誌』でも『寰瀛水路誌』と同じように、独島を「リアンコルト列岩」という項目で掲載している。

 
リアンコルト列岩
この列岩は西暦1849年フランスの船舶リアンコルト号がこれを初めて発見して船名前を取ってリアンコルト列岩と命名した。その後1854年ロシアのプレガット型艦隊であるパラス号はこの列岩をメネライおよびオリブチャ列岩と呼び、1855年英国艦隊ホルネット号はこの列岩を探険してホルネット列岩と名前を付けた。この船の艦長ポルシスの話によればこの列岩は北緯3714分東経13155分の地点にある2個の不毛の岩礁で成り立ち、鳥の糞がいつも島上に堆積してこのために島の色が白い。そして西北西から東南東に長さが約1里で、二島の間の距離1/4里で見える所ごとに暗礁につながって島を連結する。西島は海面上の高さ410呎で形態はアメ塔と同じだ。東島は比較的低くて上部分が平たい。この列岩付近の水深はとても深いようだが、その位置はまさに函館に向かって日本海を航海する船舶の直水路に該当し、とても危険だ。(31)
 
 
 

(31) リアンコールト列岩
 此列岩は洋紀1849年佛国船リアンコールト号初て之を発見し船名を取りリアンコールト列岩と名つく。其後1854年露国フレガット形艦パラス号は此列岩をメナライ及ヲリヴツァ列岩と称し、1855年英艦ホルネット号は此列岩を探検してホルネット列島と名つけり。該艦長フォルシィスの言に據れば此列岩は北緯3714分、東経13155分の處に位する二坐の不毛岩嶼にして鳥糞常に嶼上に堆積し、嶼色島めに白し而して北西彳西至南東彳東の長さ凡一里に嶼の間距離1/4里にして見たるところ一礁脈ありて之を連結す。西嶼は海面上高さ凡四一〇呎にして形糖塔の如し。東嶼は較低くして平頂なり。此列岩附近水頗る深きか如しと雖も、其位置は實に函館に向て日本海を航行する船舶の直水道に當れるを以て頗る危險なりとす。(水路部, 『朝鮮水路誌』全, 189411, pp.255-256).

 
 
 
鬱陵島 (別名松島)  海軍海図 第54号第95号を参照すること
隠岐島から北西3/4西向約140里 朝鮮江原道海岸から約80里距離の海の中で孤立した全島上に向かって突き上がった円錐の山の集合で、樹木が鬱蒼として生い茂る。そしてその中心(北緯3730分東経13053)に、高さ4,000呎の峰がひとつあり高く空に突き上がっている。この島の周りは80里で形態は半円を成す。 ……春、夏二つの季節には朝鮮人がこの島に渡ってきて朝鮮型の船を作ってこれを陸地に送る。また、多量の介虫を収集乾燥する。多分朝鮮人は鉄を使わないで全部木で結合したり、また乾材を使うのを知らずに必ず生木を使うという。(32)
 
 
 
(32) 鬱陵島(一名松島)[海軍海図第五四号第九五号を見よ]
隠岐島を距る北西四分三西凡一四〇里朝鮮江原道海岸を距る凡八十里の海中に孤立す全島嵯峨たる圓錐山の集合にして樹木鬱然繁茂す而して其中心北緯三〇分東経一三〇度五三分に、高さ四〇〇〇呎の一峯あり。巍然天に聳ゆ。此島周廻十八里にして形幾と半圓を成す。……春夏季には朝鮮人此島に渡来して朝鮮形船を造り以て之を本地に送り亦多量の介蟲を拾集乾晒す蓋し朝鮮人は船を製造するに鐵鈕を用ゆることなく皆木を以て之を結合し又乾材を用ゆることをしらず必ず生木を用ゆるという。
(水路部, 『朝鮮水路誌』全, 189411,pp.256-257).
 
 
 

ここで内容は『寰瀛水路誌』のそれと大きく異ならない。しかし国家別、領土別に区分した『朝鮮水路誌』でも、独島を「リアンコルト列岩」と記録して、明確に朝鮮の領土と見なしていることを確認することができる。水路と島嶼の測量を実施し、陸軍の陸地測量部とともに日本の国境を画定する機関だったとすることができる日本海軍水路部は、自らが発行する『日本水路誌』では厳密に日本の領土だけを取り扱うことができた。1897年に発行した『日本水路誌』第4巻 本州北西岸に独島に対する記述は全くなく、隠岐島までだけを扱っているのだ。ところが『朝鮮水路誌』第2版は、1899年に刊行されたが、「第4編 朝鮮東岸」に「リアンコルト列岩」と「鬱陵島」が並んで掲載されている(を参考)

『寰瀛水路誌』と『朝鮮水路誌』の二つの水路誌では、すべて朝鮮東岸の中に鬱陵島と独島を共に掲載していて、鬱陵島を独島 (リアンコルト列岩)の本島と見なしている。これは独島 (リアンコルト列岩)を、鬱陵島 (松島)の付属島と認識していることであるといえる。

 
 

<表3>
 




2. 独島侵奪以後 韓日強制併合までの水路誌(19051910)


前で調べた通り『朝鮮水路誌』は初版が1894年に発行され、朝鮮が独立国家である間継続して刊行された。1899年の第2版に続き、第2改版は1907年に刊行されたものだ。ここで興味深い事実は、日本政府が19052月、独島を「竹島」と命名して日本領土に編入した以後である19073月に発行されたという事実だ。それにもかかわらず『朝鮮水路誌』第2改版では「第5編 朝鮮海および朝鮮東岸(第五編 朝鮮海及朝鮮東岸)」で、独島を竹島 (Liancourt rocks)と変更して掲載しているが、相変らず朝鮮の領域と見なしていることだ


ここでは190411月に軍艦対馬が調査した内容を追加しており「韓国人はこれを独島と書き、我が国(日本-筆者)の漁師はリャンコ島と呼ぶ」として、我が国の人々がこの島を独島と呼んでいることを明らかにしている。これは記録上、独島という名称が一番最初にに登場するものでもある。また「淡水」という項目を追加して海獅子(アシカ) (33)猟のために使う水について追加的に言及しており、4ページにわたって非常に詳細に記述していることが特徴的だ。独島には何ヶ所かに산정에서산복을 따라水滴に落ちる水と出てくる水(湧泉)があるけれど、その水の流れはアシカのおしっこに何度も汚染されてしまって一種の悪臭がして到底飲み物には適していない。そしてアシカ猟のために渡ってくる漁師は島の水をアシカを煮る水として使ったりもするが、茶の水は違うところで持ってきたのを使うという。


 


 


(33)ここではアシカを「海驢」ではなく「トド」と表記している(『朝鮮水路誌』第2改版p.454) (訳注:正しくは453p)


 


 


竹島[Liancourt rocks]


1849年フランス船リアンコールがこの島を発見することによってLiancourtrocksと呼んだ。その後1854年、ロシア艦パラスはこれをMenalaiand Olivutsa rocksと命名し、1855年英国艦ホーネットはこれをHornet islandsと呼んだ。韓国人はこれを独島と書き、我が国漁師はリャンコ島と呼ぶ........ 明治37(1904)11月、軍艦対馬がこの島を調査した時は東島に漁師用の草屋根の穴蔵があったが風浪によってひどく破壊されていたという。 ....毎年夏になればアシカ猟のために鬱陵島から渡ってくる者が多い時は数十人に達する。彼らは島の上で穴蔵を作って毎年10日間留まるという。(34)


 
 


(34) 竹島[Liancourt rocks]

 一八四九年佛船リアンコールト之を発見セシヲ以テ Liancourt rocksト称ス其後一八五四年露艦ベルラスハ之ヲMenalaiand Olivutsa rocksト名ツケ一八五五年英艦ホルネットハ之ヲHornet islandsト呼ヘリ韓人ハ之ヲ独島ト書シ本邦漁夫ハリアンコ島ト曰フ此島ハ日本海上ノ一小群嶼ニシテ隠岐國島前ヨリ大約八〇浬、欝陵島ヨリ大約五十浬ニ位シ広四分一浬ノ狭水道ヲ隔テ、東西ニ相対スル二島ト其周囲ニ碁布スル幾多ノ小嶼トヨリ成ル
......
明治三七年十一月軍艦対馬ノ此島ヲ實査セシ際ハ東島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシモ風浪ノ為め甚タシク破壊シアリシト云フ 毎年夏季ニ至レハ「トド」猟ノ為め欝陵島ヨリ渡来スル者数十名ノ多キニ及フコトアリ此等ハ島上ニ小屋ヲ構ヘ毎回約十日間仮居スルト云フ
(
水路部, 『朝鮮水路誌』第二改版, 19073, pp.451-452)


 


 


鬱陵島 別名松島(松島、Dagelet island)
 周囲18海里()の半円形の島で、全島に数多くの尖鋭な円錘形の山で形成されていて、樹木が鬱蒼とする。そのうちの中央部すなわち約北緯3730分東経13053分の地点には高さ3,208(=feet)の峰一つが高くそびえている。島の北東側海岸には竹嶼(Boussolerock)を南南西1/4西側約2.75里に見える所に2呎ないしは3呎の岩がひとつある。(
35)
韓人の住民は明治37(1904) 12月末の調査によれば、戸85人口260、そのうち男175人、女85人だ。明治38(1905) 6月末には、戸110、人口366、そのうち男219人、女147人に増加した。ところが、その住民は開墾する耕地付近に住んでいて、家屋は各所に散在し、部落を成すのは8ヶ所に過ぎない。本島には島監が在住する。本島に在留する日本人は木挽き、大工、漁師、乗船および仲買商を主にし、その他の色々な種類の職業に従事したりもして、明治38(1905) 6月末にはその数が約230人もなった。(
36)

(
35) 鬱陵島一名松島(
Dagelet island).
周回十八浬ノ半円形島ニシテ全島幾多ノ尖鋭ナル円錐形山ヨリ成リ樹木欝茂ス其中央部即チ約北緯三七度三分東経一三度五三分ノ処ニハ高三、二〇八呎ノ一峯アリテ巍然聳立ス 島ノ北東岸ニ於テ竹嶼[Boussolerock] ヲ南南西1/4西約2.75浬ニ望ム処ニ水深二呎乃至三呎ノ一岩アリ(水路部, 『朝鮮水路誌』第二改版,19073
, p.454).

(
36) 韓人ノ住民ハ明治3712月末ノ調査ニヨレば戸数85、人口260、ウチ男17585ナリシが 386月末ニハ戸数110、人口366、ウチ男219147ニ増加セリ。然レドモ該住民ハソノ開墾セル耕地ノ付近ニ住スルヲモっテ家屋ハ各所ニ散在シ村落ヲナスモノハ8箇所ニ過ギズ。本島ニハ島監在住セリ 本島ニ在留スル本邦人ハ木挽、大工、漁夫、船乗オヨビ仲買商ヲ最トシソノ他諸種ノ職業ニ従事セル者ニシテ明治386月末ニハソノ数約230人トナリシ

(
水路部, 『朝鮮水路誌』 第二改版, 19073, pp.455-456).


 

 


今までリアンコルト列岩と呼んだ独島を「竹島」という名称に変更することはあったが、相変らず『朝鮮水路誌』の「朝鮮東岸」で取り扱っている。この点に対して朴炳渉 (2007)は、水路誌は国家の重大な事項を取り扱うことであるから改訂版で項目の追加や訂正はしても削除は簡単にしないためだという。(37) 


  


(37) 朴炳渉(2007)前掲論文、p.101.


 

 


独島は鬱陵島とセットだという意識が強かったので、両者を分離して独島だけを削除するのは問題が多かったと見られるという。もちろん1905年独島編入当時の海軍水路部長だった肝付兼行は、『朝鮮水路誌』(1894.11)の序文を書いて独島を含んで編集した張本人で、独島が朝鮮領土であることは十分よく認知していた。その上彼は、独島 (リャンコ島)を朝鮮の領土と考えて朝鮮総督府にリャンコ島領土編入および貸下願を請願しようと3(内務、外務、農商務)に相談をした中井養三郎を海軍省に呼び入れて、リャンコ島(独島)は所属が不明で「無主地」のようであり、「日韓二つの本国から距離を測定すれば、日本側が10里さらに近い」として、日本政府側に領土編入および貸下願を提出するようにそそのかした人物だった。(38)


  


(38)竹内猛、前掲書、p.83.


 


 


肝付はリャンコ島が朝鮮領ということを認知しながらも、露日戦争を有利に遂行するために独島に望楼を作ってロシア艦隊を監視するという軍事的利用に中井を引き込んだのだ。しかしリャンコ島が朝鮮領であることを十分知っていたし、しかも1905年これを日本領土に編入した事実をよく知っていながらも、相変らず朝鮮水路誌にそのまま記載している理由は明確でない。おそらく実務者次元でそこまで独島の削除を確認できないのはでないかと思う。


鬱陵島に対しては「鬱陵島別名松島 (欝陵島一名松島[Dagelet island])」といって括弧の中に英語で「タジュレ島」を追加している。相変らず鬱陵島のそばに「別名松島」という但し書きを付けているのである。これは諸外国の海図で松島 (Matsushima,Dagelet island)という取り扱いを相変らずしているためではないだろうかと思う。ただし、日本海軍水路部は鬱陵島が過去に竹島と呼んだ朝鮮の島ということは1880年以後明確に認識していたのだ。


理由がどうであろうと、領土編入以後にもリャンコ島(独島)が『朝鮮水路誌』に掲載されている事実は、日本政府にとっても都合の悪いことだった。なぜなら日清戦争後である1897に編纂された『日本水路誌』では日本が戦争で取得した台湾、澎湖島、そして当時日本が占領していた千島列島の南端はもちろん最北端の占守島までを掲載していたためだ。換言すれば、水路誌が当時の国家領域別の単位で扱われていることを語るもので、これを編纂した水路部は、国境画定に重要な機能を遂行していることを現わすものだ。そして『朝鮮水路誌』が発行されて3ヶ月後の19076月に『日本水路誌』第4巻、第1改版が急遽発行されるに至る。「第3編本州北西岸」の離島の編目に「竹島 [Liancourt rocks]」と追加している。明治38年に島根県所管に編入されたと追記している。


 


竹島 [竹島、Liancourt rocks]


北緯37930秒東経13155分、すなわち隠岐列島の北西約80浬に位置する群嶼で、周り約2浬、東西の二島と数個の岩礁で形成されている。この二島は、ほとんど不毛の禿岩で、四方が絶壁を成し、鳥の糞で覆いかぶさって白く露出している。 ……○この二島の周囲に碁盤のように並んでいる巌嶼は、全部扁平で若干水面上に露出している。西嶼は、高さ約410(39)で、とがった峰を成し、東嶼は比較的低くて頂上が扁平だ。この群嶼は、周囲は陡界だ。しかしその位置は実に函館に向かって日本海を航海する船舶の直水路に該当するが、とても危険だ。この群嶼は毎年67月頃アシカ猟(海豹猟)のために我が国の漁師が到来する所で、明治38年島根県所管に編入された(40)
(
『日本水路誌』 第一改版、19076
).

(
39) 1=1feet=30.48cm.


(40) 竹島[Liancourt rocks]


北緯三七度九分三秒東経一三一度五五分即チ隠岐列島ノ北西約八十浬ニ位セル群嶼ニシテ周回約二浬東西ノ二嶼ト数岩トヨリ成ル〇該二嶼ハ殆ト不毛ノ禿岩ニシテ四回懸崖ヲ成シ鳥糞ニ蔽ハレテ白色ヲ呈ス其間ニ一条ノ狭水道アリ幅約百二十碼乃至百八十碼、長三百六十碼ヨリ浅ク数個ノ岩嶼暗岩横ハル〇該二嶼ノ周圍ニ碁烈セル岩嶼ハ概ネ扁平ニシテ僅ニ水面ニ露出ス。西嶼ハ高約四一呎ニシテ尖峯ヲ成シ東嶼ハ較ヤ低クシテ平頂ナリ〇此群嶼ハ周圍陡界ナルカ如シ然レトモ其位置函館ニ向テ日本海ヲ北上スル船舶ノ航路ニ近キヲ以テ夜間ニ在テハ時トシテ危険ナルコトアリ。其群嶼ハ毎年六、七月頃海豹猟ノ為メ本邦漁夫ノ渡来スル所ニシテ明治三十八年島根県ノ所管ニ編入セラレタリ。


(水路部, 『日本水路誌』第四巻, 第一改版, 19076, p.372).


 


この時期の水路誌では、一方では、従来のように『朝鮮水路誌』(1907.3) 「日本海および朝鮮東岸」でそのままに取り扱いながら、その3ヶ月後に発行した『日本水路誌』第4巻第1改版に簡単に挿入して、日本領土に編入した事実を記録している。急遽改訂版を発行して「竹島」を日本水路紙に記載したことは、水路誌が国家領土別の編集だったことを物語るものだ。一方、領土編入後にも『朝鮮水路誌』に「竹島」が相変らず収録されている点は、軍略上の必要、または水路誌の項目添削に関する原則および行政体系によったと見られるが、正確な理由は分からない


 


(続く)




<ちょっとコメント>

  私はこのブログで韓国のいろいろな文章を紹介していますが、イ・ヨンフン教授とか『時代精神』を紹介するのは韓国内の理性的な意見を知ってほしいからであり、「独島」とかいう島に関する文章を紹介するのは「こんなおバカなことを言ってるよ」ということを知ってほしいからです。





 
 
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