FC2ブログ

世界人独島理解16ポイント-16

16 独島は歴史的にも国際法上でも明々白々な大韓民国の完璧な領土なので、日本が独島を国際司法裁判所に持ち込もうとする策略を大韓民国は断固として拒否しました。
 
(1)独島は歴史的にも国際法上でも大韓民国の既に公認された完璧な領土です。また、独島は大韓民国が再独立した1948815日、連合国総司令部が韓国政府に返還し、韓国政府は19481212日に国連総会において当時の国民と領土に関する国際法上の完全に合法的な主権行使の承認を受けて行使しています。
独島領有権を「100」で表示すれば、大韓民国は領有権「100」を全て有していて、日本は領有権は「0」のまま領有権の「主張」だけをしています。
 
(2)日本政府が独島侵奪戦略の一つとして、1954925日に大韓民国政府に独島を国際司法裁判所の判決に委任しようと申し入れて来た時、当時の大韓民国外務長官は、1954 1028日これを断固として拒否し、次のような口述書を日本政府に送りました。
 
「日本政府の提案は、誤った主張(false claim)を法律的偽装(judicial disguise)で構えようとする試みに過ぎない。韓国は独島に対して最初から領有権を持っており、韓国はいかなる国際裁判所においてもその領有権の証明を求めるべき何等の理由もない。領土紛争は存在しないのに「虚偽の領土紛争」をクミョネであることは日本だ。独島問題を国際司法裁判所に提出しようと提案することで、日本の立場を「いわゆる独島領土紛争」に関連して一時的にでも韓国と対等の立場に置くことを日本は画策しているのだ。そして、妥協の余地なく完全で紛争の余地がない韓国の独島領有権に対して、日本は「類似の主張」を設定しようと画策しているのだ。」
 
 

 
 国際司法裁判所へ行って独島領有権裁判を受けようという1954925日付けの日本の提議に対して、韓国の独島領有権は完全なものなので独島領有権紛争は存在せず、日本の提議は独島領有権に韓国と対等な足場を築こうとする策略に過ぎないものであることを指摘して拒否した19541028日付け韓国政府の口述書(外交文書)
 
 
 1954年当時の大韓民国外相の回答は今日においても正当なものです。日本外務省の「200810のポイント」の(9)(10)は、日本外務省の1954925日付けの主張を繰り返したものに過ぎません。
 
(3)日本帝国主義は領土的野欲から20世紀初頭に韓国を侵略する時、独島が韓国の最も東にあるさびしい島なので1905年に日本は密かに先に侵奪し、1910年に韓半島全体を侵奪しました。連合国は、1945年と1946年に日本が侵奪したすべての韓半島とその附属島を韓国に返還しました。
今日、日本の外務省が再び独島を侵奪しようと試みることは、現日本政府外務省が旧日本帝国主義の侵略外交を大韓民国に適用しようと画策するものです。
全世界の自由と民主主義と世界平和を愛する人々と日本国民は、現日本政府外務省が旧日本帝国主義の侵略外交を復活させ受け継いで韓国の領土を侵奪しようとする試みを共に批判して、すべての国々が自由と独立と領土主権を互いに尊重するよう求めるところです。

 
 
 
<世界人が独島問題を理解するための16のポイント/シン・ヨンハ>
 
 
 
<コメント>
 いや、偉大なる16ポイントのフィナーレを飾る御高説ですから、余計なコメントは付けずに静かに(笑いながらでもいいですが)鑑賞しておきましょうか。
 
 まあ、ともかく、以上の16ポイントは韓国における竹島問題の「通説」でして、多くの韓国人たちはこのように考えているわけですね。通用するのは韓国あるいは韓国人の範囲に限られますが。
 
 
 
 
 
 
 
スポンサーサイト



世界人独島理解16ポイント 15

15 国連軍は1951年から今日まで独島を韓国領土とよく認知し、韓国領土領空に含ませて識別しています。
 
(1)1950625日、韓国戦争が起きると、国連軍と(米空軍を含む)アメリカ太平洋空軍司令官は、1951年、「韓国防空識別区域(KADIZ, Korea Air Defense Identification Zone)」を設定したが、独島を韓国領土と再確認して「韓国防空識別区域」の中に入れ、「日本防空識別区域」(内廓線はもちろんで、外郭線においても)からは除いて今日まで実行しています。これは、米空軍を含む国連軍が1951年から今日まで独島を韓国領土と確認していることを明白に証明するのです。
 
 

1950年韓国戦争が起きると国連軍が独島(地図の黒い点)を含んだ韓国領土を領空で防衛するために1951年に設定して現在まで使っている韓国防空識別区域
 
 日本外務省は、『2008年-10のポイント』(8)で、19509月、連合国総司令部が SCAPIN 2160号で独島を米軍の海上爆撃演習地区と指定し、19527月に日米行政協定に即して日米合同委員会が駐日米軍の爆撃訓練区域の一つと指定したが、19533月に爆撃演習区域で解除したことを米軍(米空軍)が独島を日本領土と見做したものだと主張していますが、これは全然そうではありません。
米空軍が日本の要請に応じて独島を米空軍の爆撃演習地として使うと、これを知った大韓民国政府は米空軍司令部に抗議し、米空軍司令官は、1953227日、大韓民国政府に独島を米空軍の爆撃演習地から除くと公式書簡を送って来て、独島が韓国領土であることを再確認しました。
米空軍が19533月に爆撃演習区域から独島を除くと日本に通報し、それ以後独島を爆撃演習地として使わないことは、韓国政府の抗議を受けて調査した後、米空軍が独島が韓国領土であることを明確に認知した明白な証拠です。
 
 
(2)国連軍と米空軍を含む全ての外国航空機は、「韓国防空識別区域」中にある「独島」を含むすべての韓国領土の上空を使用する時、24時間以前に大韓民国合同参謀本部に許諾を要請しています。独島が韓国領土で重ね重ね確認されている明白な証拠です。
 
 
<世界人が独島問題を理解するための16のポイント/シン・ヨンハ>
 
 
<コメント>
 へえ、そうですか?
 

防空識別圏

 
防空識別圏Air Defense Identification ZoneADIZ)とは、国などの防空上の理由から設定された空域のことである。英称の頭文字から「アディズ」や「エイディズ」と呼ばれることがある。大半はアメリカ軍によって設定されているが、アメリカ軍の被占領国や保護国が慣例として使用し続ける場合もある。日本国の防空識別圏は1945年にGHQが制定した空域をほぼそのまま使用しており、航空自衛隊の対領空侵犯措置の実施空域に指定している。
 自国の航空機が平和時に他国の防空識別圏内を飛行する場合には、事前に飛行計画を提出することで望まない偶発的紛争や軍事的緊張が高まるのを防ぐよう配慮されていると一般的には理解されている。ただ、この防空識別圏は国際法で確立したものではなく、領空、領土の範囲を定めたものではない。
多くの国において領海は12海里に設定されており、他国機が領海上空の領空を侵犯してから領土上空に到達するまで、旅客機でも1分強、超音速軍用機であれば数十秒あれば可能であり、領空侵犯を確認してから対応するのでは手遅れになる危険がある。従って領空の外周の空域に防空識別圏を設定し、届けのない航空機が防空識別圏に進入した時点で空軍力による強制措置を含む対応がなされる。そのためのスクランブルは、当該機が防空識別圏に進入する姿勢を見せた時点で行われることが多い。
 
 
 
 これは空からの脅威に現実的にどう対応するかを決めるための区域設定でしょう。領土の概念とは別物です。何でもかんでも「独島は韓国の領土」の証拠にしたいようだが、「米空軍を含む国連軍が1951年から今日まで独島を韓国領土と確認していることを明白に証明するのです。」と断言するのなら、当然、大先生は在韓米軍に、「韓国防空識別区域は独島を韓国領土と認めたものに相違ないか」と聞いて、「そのとおりである」という返事をもらっているんでしょうなあ。
 
 竹島を米軍の爆撃演習地としていたのを韓国からの抗議によって中止したというのも、現に韓国人たちが竹島に居ついているから米軍が演習地から外すのはやむを得ないでしょう。それを、「韓国領土と認めた証拠だ」とは、なんとまあ厚かましい言いぐさだろうか。
 
 

世界人独島理解16ポイント-14(3)

14 サンフランシスコで締結された連合国の対日本平和条約において、日本の独島侵奪ロビー活動は結局失敗し、独島は韓国領土として確定され、日本の領域から除かれました。
 
 ↑ こういうのを嘘っぱちと言います。
 
(3)イギリスは、アメリカの独島に対する中立的草案に不満を抱き、独自のイギリス草案を第123次草案として3回作成しました。イギリス草案は、済州島と独島は韓国に含ませ、対馬島と隠岐島は日本に含ませる連合国「合意書」の合意内容を遵守しており、その付属地図でも日本の範囲から独島を除いて韓国に包含しました。
 アメリカは、連合国が平和会議にアメリカ草案とイギリス草案の2つの草案を提案するよりも英米合同草案を提出しようと提案し、通過した英米合同草案において独島の名称を抜いて関わらないことにするよう、「連合国の対日本平和条約」第2条で「日本は韓国の独立を承認し、済州島、巨文島、鬱陵島を含む韓国に対する全ての権利•権原•請求権を放棄する。」と言う文言で記述することになりました。
 
(世界人が独島問題を理解するための16のポイント/シン・ヨンハ)
 
 
 
<コメント>
 「独島の名称を抜いて関わらないことにするよう」というところがプロパガンダですね。連合国は日本の新しい領土範囲を決めなければならなかったのだから、どこの領土なのか分からないあいまいな点を残すということはあり得ないことです。「関わらないことにする」などということはできません。
 ラスク書簡に示されているとおり、竹島は日本の領土だと判断されたから日本が放棄すべき島々のリストから削除されたのです。大先生のこの文章はラスク書簡など存在しないものとして書いてあるわけで、大先生はラスク書簡を無視することしかできません。
 ま、アメリカは条約上は竹島は日本領としたわけですが、竹島紛争が起きたその後は、確かに紛争に関わらないようにしています。
 
 

[第37問] 1663年 鬱陵島における漁民の衝突

[37] 日本側が朝鮮政府が知らないうちに日本漁民のニ家に鬱陵島と独島に国境を越えて渡って漁業をしても良いと許可する兔許状を渡し、日本漁民が鬱陵島、独島近海に出現しても、朝鮮政府と朝鮮漁民たちはそのまま傍観していたのか? 朝鮮側と日本側の衝突のようなことはなかったのか?
 
[]
朝鮮政府は初めは日本漁民の鬱陵島独島への出漁や島渡海兔許」、「松島渡海兔許」などのこと全然分からなかったしかし朝鮮漁民たちとは衝突が発生した
 
朝鮮の朝廷が鬱陵島に対する「空島・刷還政策」(鬱陵島を空けておいて、そこに入った国民は本土に帰って来させる政策)を実施したと言っても、鬱陵島・独島の沿海には水産資源が豊かなので、東海・南海岸の朝鮮漁夫たちが朝廷に黙って漁に出て帰って来ることが多かった。1663(肅宗19) の春、東莱・蔚山の漁夫約40人が鬱陵島に漁をしに出て、日本の大谷家が送った一団の日本人漁夫たちと衝突することになった。数としては優勢だったが、鬱陵島は朝鮮領土だったから、日本の漁夫たちは朝鮮人漁夫たちの代表を出せば交渉すると言うようなことを言い、安龍福と朴於屯が代表として出るとこの二人を拉致して日本の隠岐島へ連れて行ってしまった。
 
安龍福は隠岐島島主に鬱陵島は朝鮮領土であることを指摘し、「朝鮮人が朝鮮の地に入ったのに、なぜ拉致して拘束したのか」と力強く抗議した。そこで、隠岐島島主は彼の上官である伯耆州の太守に安龍福などを移送した。
 
安龍福は、伯耆州太守の審問にも屈せずに堂々と鬱陵島が朝鮮領土であることを強調し、朝鮮領土である鬱陵島に朝鮮人である自分が入って行ったことは日本の関与することではなく、これからは朝鮮領土である鬱陵島に日本の漁夫たちが出入りすることを禁止してくれと要求した。当時の伯耆州太守は鬱陵島が朝鮮領土であることを分かっていたし、また徳川幕府から大谷家に「竹島(鬱陵島)渡海兔許」を承認して国境を越えて鬱陵島に渡って漁をして帰って来ることを許可していたということも分かっていた。そこで、伯耆州太守は安龍福らを江戸(今の東京)の幕府の関白(執政官、ここでは将軍)に移送した。
 
安龍福は、幕府関白の審問にも屈しないで堂々と鬱陵島は朝鮮領土だから自分を拉致して拘束したことは不当であり、逆に、日本の漁夫たちが朝鮮領土である鬱陵島に入ったことの不当さを指摘した。徳川幕府の関白は安龍福を審問した後、伯耆州太守に「鬱陵島は日本の領土ではない(鬱陵島非日本界)」という文書を書かせ、厚遇した後、安龍福を解放して朝鮮に送還するように言った。
 
安龍福が釈放されて帰国の途上に長崎に至ったところ、長崎州の太守は対馬島島主と結託して安龍福を再び拘束し、対馬島に移送した。安龍福が対馬島に着いたところ、対馬島島主は、伯耆州太守が幕府関白の指示を受けて書いて渡した文書を奪い、逆に安龍福を日本領土の竹島(鬱陵島)を侵犯した越境罪人として捕らえ、169311月、朝鮮東莱部に引き渡しながら、今後は朝鮮の漁夫たちが日本領土の竹島へ漁に行くことを厳に禁止してくれと要請した。
 
ここに、鬱陵島を「竹島」と呼びながら、この機会に鬱陵島(及び付属島嶼の独島)を侵奪しようとする対馬島主の外交活動が始まった。
 
 
 
 
http://plaza.snu.ac.kr/~bigbear1/q111.htm
独島学界 獨島問題 111問 111答
愼廈(シン・ヨンハ)


 
 
<コメント>
 シン・ヨンハ大先生はガチガチの民族主義者で、したがって、日本を非難できそうな話や韓国人の気分を高揚させるような話であれば何でも歓迎らしく、一方では日本の「独島侵奪」に対して抗議文書を出そうとしても出せなかったとか言いつつ、別の資料においては、同じころの日本海軍の土地不法売買(?)事件については韓国政府の努力で阻止したことがあるなどと矛盾したことを平気でお書きになっている。
 
 上の安龍福の「武勇伝」もそうで、安龍福が鳥取藩主に堂々と意見を開陳したとか、江戸に送られて将軍の審問を受けたとか、将軍が「鬱陵島は日本の領土ではない」という文書を作成するよう指示を出したとか、対馬藩主がその文書を安龍福から奪ったとか、全てウソです。日本側では安龍福についてはいろいろな公式記録が作成されていて、そんなことは無かったことははっきりしています。
 
 上の「武勇伝」は、安龍福が帰国後の朝鮮政府の取調べに対して供述したものであって、その供述がそのまま『粛宗実録』など朝鮮の公式記録に記載されていて、大先生はその供述がそのまんま全くの事実であるように紹介しています。日本人が竹島を鬱陵島の付属島嶼であると認識していたとかいうことを立証するためには緻密に当時の日本の文献を分析なさるのですが、安龍福の日本における実際の行動がどうであったかということに関しては、日本の記録を詳しく調べる気はないんでしょうね。
 大先生には「そのまんま・ヨンハ」という愛称でも進呈するとしましょうか。
 
 ただ、上のウソだらけの供述の中にも、隠せない真実は現われて来ます。将軍が書かせたということに一応なっているその文書の内容は「鬱陵島非日本界」なのであって、今の竹島のことなんか出て来ないのです。その当時は竹島のことはまったく争いの視野には入っておらず、安龍福が守ったのは「鬱陵島」であったというのがその後長く朝鮮時代に伝え続けられた認識でした。そういう資料のいくつかは既にこのブログでも紹介しました。それなのに、竹島を不法占拠した以後の韓国人たちは、「安龍福は鬱陵島と独島を守った」というように歴史を捏造している次第です。
 
 ともかく、この111問111答シリーズは、竹島は日本の領土であるのに韓国の領土だということを主張しているので、その理由として述べられることはウソか歪曲か勝手な思い込みか、たいていそんなものです。日本の正当な領有権に影響を及ぼすような話は何も出てきません。仮に竹島問題が国際司法裁判あたりで争われることになった場合、裁判所に提出しても全く通用しない主張ばかりです。
 
 ただし、問題は、このような大先生のプロパガンダを圧倒的多数の韓国人が事実だと信じているという現実です。これがあるために、さし当たっては竹島問題は膠着状態のままで推移するしかない状況です。でも、やはりウソはいつかはばれるでしょう。
 
 
 
 

[第36問] 独島は鬱陵島の付属島嶼?

[第36問] それでは、当時、大谷と村川という二人の日本人や「渡海兔許」に係わる者たちは、独島が鬱陵島の付属島嶼であることを認知していたのか?

[答]
▶ もちろんだ。大谷家と村川家が1661年に松島渡海兔許を申請する直前に、その申請を論議する過程で1660年9月5日付で大谷家の九山庄左衛門が村川家の大屋九右衛門に送った手紙では、 [将来、また来年(1661年 … 引用者)から竹島之内松島(鬱陵島の中の独島)に貴下の船が渡ることになれば]と言い、「松島渡海兔許」を幕府に申請した根拠が、既に「竹島(鬱陵島)渡海兔許」を1618年に受けたから、 [鬱陵島の中の独島(竹島之内 松島)]に越境して渡る「松島(独島)渡海兔許」は松島(独島)が竹島(鬱陵島) の中に属した島なので申請するのがあまりにも当然だという立場をはっきりと明らかにしている。.

▶ またこの頃の6月21日付けで大谷家の九山庄左衛門が村川家の大屋九右衛門に送った手紙では、「竹島近辺松島に渡海の件」と言い、独島を「鬱陵島の近くの独島」と見做していたから「竹島(鬱陵島)渡海兔許」を受けた二つの家門は「松島(独島)渡海兔許」も受けなければならないと思っていることを示している。

▶ また、九山庄左衛門が1660年9月8日付けで筆写して村川家に送った手紙では、独島(松島)を「竹島近所之小島(鬱陵島近くの小さな島)に小船で渡海する件」と言い、独島を鬱陵島近くの小さな島、すなわち鬱陵島の付属島嶼として認知していた。

▶九山庄左衛門が「松島(独島)渡海兔許」を村川家とともに1661年に幕府に申請して許可を受けたのは、「独島が鬱陵島の付属島」であるために、既に40余年前の1618年に二つの家が「竹島(鬱陵島) 渡海兔許」を幕府から受けたので、その付属島嶼に越境して渡る許可状である「松島(独島) 渡海兔許」を申請して許可を得たのだった。だから、「竹島渡海兔許」と「松島渡海兔許」の性格と内容は完全に同じものだ。
すなわち大谷と村川の二家が「松島渡海兔許」を申請した背景や徳川幕府がこれを承認して兔許を渡した背景は、全て、松島(独島)は「竹島之内松島(鬱陵島の中の独島)」、「竹島近辺松島(鬱陵島近くの外れの独島)」、「竹島近所之小島(鬱陵島近くの小さな島)」などの表現に現われているように「独島(松島)は鬱陵島(竹島)の付属島嶼」という事実とその認識に基づくものであったことが明白なのだ。徳川幕府としては、既に1661年に「竹島(鬱陵島) 渡海兔許」を承認した以上、鬱陵島(竹島)の付属島嶼である独島(松島)に越境して渡って漁をして来る兔許である「松島(独島) 渡海兔許」を40年後に承認するのは当然のことだと見做したのだった。

▶ 徳川幕府が朝鮮政府の許諾と同意なしに日本の大谷と村川の二家に松島渡海兔許を渡したのは、竹島渡海兔許を渡したことと完全に同じで、松島(独島)と竹島(鬱陵島)が外国である朝鮮の領土であることをよく認知し前提として、日本人の二家の者が国境を越えて朝鮮領土である松島と竹島に入って漁をして来ても処罰しないでこれを承認するという明白な保障をしたものに過ぎないのだった。

▶ このように、松島渡海兔許と竹島渡海兔許は、独島(松島)と鬱陵島(竹島)を歴史的に日本の固有領土と主張する根拠と証明には全然なることができないのだ。

▶ したがって、今日の日本政府が1661年の松島渡海兔許を持って独島が歴史的に日本固有領土と主張することは千万不当なことであり、これは、竹島渡海兔許を持って鬱陵島も歴史的に日本固有領土と主張することくらい話にならないことだ。渡海兔許は外国に渡る時に発給した兔許だったという点を勘案すれば、日本政府の主張とは正反対に、松島渡海兔許と竹島渡海兔許は、独島(松島)と鬱陵島(竹島)が外国である朝鮮の固有領土であることをよく証明してくれる明白な資料であるのだ。

▶ だから、最近、独島を鬱陵島から分離して性格が異なる水域に入れようとする日本政府の執拗な試みは、この松島渡海兔許に対する日本政府の主張のように、母島である鬱陵島の付属島嶼である独島を鬱陵島から「分離」させて韓国側にとって独島が鬱陵島の付属島嶼ではないと認めるように根拠資料を作ろうと試みるものであり、独島を鬱陵島の付属島嶼から分離させようとするところにも独島に対する侵略野欲の一端が赤裸々に現われていると見られる。


http://plaza.snu.ac.kr/~bigbear1/q111.htm
独島学界 獨島問題 111問 111答
愼廈


<コメント>
 何だか良く分からん文章ですが、どうも、日本人は竹島は鬱陵島の付属島嶼だと認識していたのだということを強調したいようです。そして、竹島渡海免許の存在は日本が竹島(鬱陵島)を外国だと認識していた証拠だから、竹島渡海免許と意味が同じである松島(現在の竹島)への渡航許可もまた松島を外国領土と認識していた証拠だ、という結論のようです。

 韓国側の人々は「付属島嶼」という言葉が大好きです。「竹島は鬱陵島の付属島嶼である」ということになると、鬱陵島はもちろん韓国の領土なので竹島も自動的に韓国の領土になってしまう便利な主張です。

 日本人から見れば竹島は鬱陵島に行き来する途中(手前)にある島だから、「付属島嶼」というかどうかは別として、鬱陵島と竹島(当時の言葉で言えば竹島と松島)を関連づけて考えることはあったでしょう。

 では朝鮮ではどうだったか。「独島は鬱陵島の付属島嶼であるから歴史的に朝鮮の領土だ」と言いたいならば、現実に朝鮮人が鬱陵島を利用するついでにその先の彼方にある竹島(独島)をも利用していたという事実を証明すべきであるのに、利用していたどころか20世紀に入るまで島の存在自体を知らなかったのだから話になりません。

 自分たちには史料が全く無いので、代わりに日本の史料を持ち出してきて日本人の認識を基にして韓国の領土だと主張しているわけで、しかもその認識の解釈も間違っていて、こっけいな話ではありませんか。

 なお、この111問答は何年か前に発表されたものなので、ここで紹介されている日本政府の動きなどはその当時のことです。

[第35問] 日本の固有領土説の根拠「渡海免許」

 [35] 日本政府は、最近、「歴史的」にも独島は日本の固有領土と主張し、その根拠として、1600年前後から約80余年間、日本が兔許状を民間人に与え独島(竹島)を実効的に支配占有したという証拠があると主張した。日本側の主張は根拠があるものなのか?
 
[]
日本政府がそういうふうに主張する根拠として挙げるのは、徳川幕府が日本の漁業者大谷甚吉と村川市兵衛の二つの家門に1618年に下した [竹島渡海兔許]1661年に渡した [松島渡海兔許]だ。この二つの「渡海兔許」は、一見すれば「竹島」(鬱陵島)と「松島」(独島)の占有権を日本の徳川幕府が持っていたかのように見えるかも知れないが、その内容を見れば、逆に「竹島」(鬱陵島)と「松島」(独島)が朝鮮領土であることをより明確に証明してくれる資料だ。 何故ならば、この二つの「渡海兔許」は「外国」に渡る時に許可を与える「兔許状」であったからだ
 
重要な問題なので、その経緯を詳しく見る必要がある。壬辰倭乱(159298)の前後に鬱陵島に住んでいた朝鮮人は、日本軍(倭寇)の略奪に遭って廃墟になってしまったので、朝鮮の朝廷は鬱陵島の空島・刷還政策を強化した。この直後、日本伯耆州の米子に居住していた大谷甚吉という人物が越後という所に行き来している途中で台風に会って遭難し、鬱陵島に漂着した。大谷が鬱陵島(竹島)を踏査したところ、人は住んでいない無人島だが水産資源が豊かな貴重な島であることを知った。それで、大谷はこの島、鬱陵島に渡って漁撈をしようと考えた。しかし、鬱陵島は、当時人が住んでいないと言っても朝鮮領土であることを知っていたので、鬱陵島(竹島)に渡って漁業をするためにはまず幕府の許可が必ず必要だった。何故ならば、鬱陵島は日本の領土ではなく外国の領土なので、国境を越えて外国に渡って漁業をしても越境罪で処罰されないようにするためには幕府の公式許可状が必要だったからだ。
 
そこで、大谷は徳川幕府の役人たちと親交の厚い村川市兵衛とともに、1616年に [竹島渡海兔許]を申請して許可を受けようと運動した。その結果、徳川幕府の官吏として当時伯耆州太守職にあった松平新太郎光政が、1618年に大谷と村川の二つの家門に「竹島渡海兔許」を下した。
 
徳川幕府の官吏が「竹島(鬱陵島)渡海兔許」を日本人の二つの家門に渡したと言っても、この幕府官吏が、鬱陵島(竹島)が日本領土であって朝鮮領土ではないと主張してこの「渡海兔許」を渡したのでは全然なかった。むしろ、その反対に、鬱陵島(竹島)が日本領土ではなくて朝鮮領土と認めたからこの「渡海兔許」を渡したのだった日本の領土内を旅行したり漁に行く時には「渡海兔許」は必要ではなかった。鬱陵島(竹島)が外国である朝鮮の領土であったから、外国に越境して行くことについての幕府の許可状として「渡海兔許」を渡したのだった。その後、幕府もこれを明白に限定した。
 
当時、壬辰倭乱の影響により朝鮮と日本はまだ友好関係を正常に回復することができなかったし、朝鮮朝廷は鬱陵島に対して「空島政策」を実施して朝鮮人の居住を禁止していたので、徳川幕府の官吏は鬱陵島(竹島)が朝鮮領土であることをよく知っていたけれども、朝鮮政府と事前協議なしに、大谷と村川の二つの家に外国領土である鬱陵島に越境して入って行って漁をして幕府は処罰しないで許可するという「竹島渡海兔許」を渡したのだった。
 
だから、二人の日本人に1618年に徳川幕府の官吏が渡した「竹島渡海兔許」は、鬱陵島(竹島)が朝鮮(外国) の領土であることを明確に証明する資料であり、日本領土ではないという事実を明確に証明してくれる資料なのだ
 
大谷と村川の二つの家は、鬱陵島の付属島嶼として鬱陵島(竹島)に渡る航路の途中にある独島(松島)に対しても、独島が鬱陵島の付属島嶼であること聞いて「松島(独島)渡海兔許」を幕府に申し込み、1661年頃に幕府の「渡海兔許」を受けることに成功した。
 
しかし、徳川幕府の官吏が大谷と村川の二人の日本人に「松島渡海兔許」を許可したと言っても、これは「竹島渡海兔許」と同じく、外国(朝鮮) 領土である松島(独島)に渡って漁をして帰って来る越境漁の許可状だったのであり、松島(独島)を日本の領土と主張して許可したものでは全くなかった。
 
すなわち、徳川幕府が大谷と村川と二つの家門に「松島渡海兔許」を許可したのは、朝鮮領土である竹島(鬱陵島)に越境して漁業をしに渡ることを許可する「竹島渡海免許」を既に許可したが、竹島(鬱陵島)に渡る途中にあって竹島(鬱陵島)に付属する島である松島(独島)に越境して渡って漁をすることは同じレベルのことだから、「竹島渡海兔許」と完全に同じ性格の「松島渡海兔許」を同じ二つの家門に許可したのだ。
 
したがって、徳川幕府が渡した1618年の「竹島渡海兔許」1661年の「松島渡海兔許」は、独島を日本の固有領土と主張する証明や根拠には全然ならないのだ。万が一、「松島渡海兔許」が独島は日本固有の領土であることを証明する資料になるのなら、「竹島渡海兔許」は鬱陵島が日本の固有領土だという証明になって、日本政府は鬱陵島が日本の固有領土だと先に主張してこそ論理的一貫性があるだろう。逆に「竹島(鬱陵島)渡海兔許」と「松島(独島)渡海兔許」は、鬱陵島(竹島)と独島(松島)が日本領土では全然なかったのであって外国である朝鮮の領土であることを証明する明白な資料であり、17世紀当時に徳川幕府もこの二つの島が朝鮮領土であることをよく知り、独島と鬱陵島の二つの島を朝鮮領土と認めていたことを明白に証明してくれる資料であるのだ。
 
 
 
 
独島学界 獨島問題 111 111
愼廈
 
 
<コメント>
 このころは、日本では鬱陵島を「竹島」と、現在の竹島のことを「松島」と呼んでいた時代。
 「松島渡海免許」なるものは実は発給されていないという説がある。しかし、松島に立ち寄ることが禁止されていたわけでもないから「松島渡海免許」が出ていないとしても特段の問題にはならないと思う。
 
 さて、プロパガンダ大先生は「渡海免許」そのものが外国行きの許可状だとか、大谷甚吉は鬱陵島は朝鮮領土であることを知っていたとか、何を根拠にしたのか分からないことを並べている。「日本国内を行き来するには免許は不要」という事実の裏返しのみで立論しているように見える。
 
 しかし、竹島渡海兔許を受けて鬱陵島に渡った大谷家の者たちはそこで安龍福らと遭遇したので、この島に朝鮮人が来ないようにしてくれと鳥取藩に訴え、鳥取藩は江戸幕府に対して朝鮮人の竹島渡海禁止を要請し、江戸幕府は朝鮮人の竹島渡海を禁止させるよう対馬藩に朝鮮政府との交渉を指示した。だから元禄竹島一件と呼ばれることになる鬱陵島領有権争いが起きた。
そういう経緯を見れば、最初は関係者は誰も竹島(鬱陵島)が朝鮮領土であるなどとは思っていなかったことが分かる。
 
 たぶん、江戸幕府は、鬱陵島のことを本来の日本の領土と同じものだとは考えていなかったのだと思う。正式な領土だと考えるならば、直轄領とするかどこかの藩に所属させるかしてきちんと管理しなければならない。そこまではせずに、特定の町人が行って材木や水産物を採って来ることは認めるという、あえて言うなら「準領土」とでも言うようなものと考えていたのではないか。だから「渡海免許」という異例の形態の渡航許可状が出されたのだろう。「渡海免許」が外国行きの許可状だったというのは曲解極まりない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

[第34問] 日本には独島を日本領土と記録した古文献はない

[第34問] これ以外に、日本には独島を日本領土と記録した古文献はないのか?
 
[]
日本側が現在まで公開発表した古文献には独島を日本領土として記録したものはない。逆に、今まで知られた日本の古文献で独島を記録したものは、すべてこの島が鬱陵島の付属島嶼として朝鮮領土と記録しているものだ。もしかしたら、日本側が公開しない古文献資料にそういうものはあるかも知れない。しかし、韓日の間で古文献資料の調査を通じて独島領有権論争が熾烈に展開される過程で、日本側は少しでも日本に有利になるような古文献を総動員して論争を展開した事実を考慮すれば、非公開の日本古文献の中で独島が日本領土だったという証明資料の出る可能性はほとんどなく、かえって独島が韓国領土だったという証明資料が多数出る可能性が非常に高いと思う。
 
現在まで公開された日本古文献は独島を韓国領土として認知しているものなどであり、独島を日本領土と証明している日本の古文献は一件も発見されていない。
 
これは文献不足のためそうなのではなく、歴史的、客観的真実が独島が韓国領土であったから日本の古文献もその真実を記録しており、独島が韓国領土であることを直接間接に記録に反映させたのだと解釈される。
 
韓国と日本の両国の古文献資料は、すべて独島が長年の昔から韓国領土であることをよく証明してくれるのだ。この事実については、日本の学者たちも大部分認めていることが分かっている。
 
 
 
 
 
 
独島学界 獨島問題 111 111
愼廈
 
 
 
 
<コメント>
 日本は1905年に竹島を無主地として領土編入したのだから、それ以前に「竹島(松島)は日本の領土だ」と書いた文献が無いとしてもそれは当たり前のこと。上の主張は日本の領土編入に対する反論になっていない。
 韓国側が1905年以前に領有していたことを証明することこそが必要なのだが、それができないのでこういうふうに日本が間違っているかのようなことを書いて勝った気分になっておられます。
 
 
 

[第33問] 日本の一番古い文献

[第33問] それなら、日本の古文献に「独島」が最初に出始めたのはいつからで、その内容はどうなっているか?
 
[]
日本政府が1960年に韓国政府に送った外交文書によると、1667年に編纂された『隠州視聴合記』という報告書が日本最初の古文献だ。
 
日本政府外務省の説明によれば、この本は 出雲藩士斎藤豊仙が藩主の命を受けて1667(寛文7) 秋に隠岐島(隠州)を巡視し、見聞きしたところを記録して報告書として作成して提出したものだ。この本で初めて独島を「松島」と、「鬱陵島」を「竹島」と称して言及したと言う。その記録内容は次のとおりだ。
 
隠州は北海の中にある。だから隠岐島と言う。…… 戌亥間(西北方向)に二日一夜行けば松島がある。さらに一日の距離に竹島がある。一般に磯竹島と呼ぶが、竹と魚とおっとせいが多い。神書に言ういわゆる五十猛だろうか。この二島(松島と竹島)は無人島で、高麗を見るのはちょうど雲州(出雲国)から 隠岐を見るようだ。それですなわち、日本の[](西北)の地はこの州(隠州:隠岐島)を限りとする。
 
しかし上の記録を精緻に検討して見れば、この報告書は航海の距離日数を通じて独島を「松島」と、鬱陵島を「竹島」と呼び、独島を日本で初めて記録しているのだが、独島と鬱陵島がどちらも朝鮮領土であって日本の領土ではないことをはっきりと記録している。つまり、独島(松島)と鬱陵島(竹島)から高麗(朝鮮)を見るのは、ちょうど日本の雲州(出雲国)から隠岐を見るかのようで、この二つの島、鬱陵島(竹島)と独島(松島)は高麗に属したもので、それ故に日本の西北の境界は 隠州(隠岐島)を限界とすると明らかにしているのだ。
 
日本で初めて独島の存在を記録した1667年の『隠州視聴合記』も鬱陵島と独島(松島)は朝鮮に属する高麗領土で、日本の西北の国境は隠岐島(隠州)を限界にするとはっきりと記録しているのだ。
 
日本政府が日本の古文献の中で初めて独島の存在を認知して記録したと韓国政府に通知して来た『隠州視聴合記』は、日本政府の主観的意図とは反対に、客観的には独島(松島)は韓国領土であり日本の西北の領土は隠岐島までで終わっていることを明白に教えてくれているのだ。
 

 
獨島学界 獨島問題 111問 111答
愼廈(シン・ヨンハ)(漢陽大学碩座教授)
http://plaza.snu.ac.kr/~bigbear1/q111.htm

 
 
隠州視聴合紀については既に意見を書いたので、ここでは繰り返しません。

 

[第32問]独島が于山国の領土であった資料

 [第32問] 古文献以外に、独島が鬱陵島とともに昔の于山国の領土であったことを証明する資料はないか?
 
[]
まず、独島を「于山島」と言い、「于山」という国名をつけて呼んだ名称自体が、独島が于山国の領土であったことを証明している。
 
漢字が新羅に入って来る以前に、本来、于山国の名称は「ウルムェ」だったが、これを漢字に変える時に「于山」国だとした。于山国の領土である鬱陵島が本島で、独島は鬱陵島に附属する属島なので、元々は「ウルムェ」を「于山島」と翻訳して鬱陵島(本島)を示す呼称として使ったものと見える。しかし、この本島の名称が鬱陵、蔚陵、武陵、茂陵、芋陵、羽陵などに漢字翻訳されて定着すると、その附属島である独島(もちろん当時には他の名称だった)が「于山島」の名称を持つようになったことが明らかだ
 
独島が韓国において1882年まで公式的に「于山島」という名称を持っていたことは、まさに独島が于山国の領土だったことを明白に証明するものだと言える。「于山島」(独島)が于山国から出た名称であることはこのように自ずと明白ではないか。
 
 
 
獨島学界 獨島問題 111問 111答
愼廈(シン・ヨンハ)(漢陽大学碩座教授)
http://plaza.snu.ac.kr/~bigbear1/q111.htm

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

先生!? お気を確かに!!
 
 
 
 
 
 

[第31問] その他、独島が韓国固有の領土と証明する古文献

[第31問] その他に、独島が昔の于山国の領土であり韓国固有の領土であることを証明する古文献としては何があるか?
 
[]
▶ 例えば、1908年に大韓帝国政府が刊行した『増補文献備考』がある。この本は、朝鮮王朝の民族百科事典に相当する本として1792年に編纂された『東国文献備考』を増補した本だ。
 
▶『増補文献備考』でも『万機要覧軍政編』と同様に同じ資料を引用して、「輿地志にいう、鬱陵と于山は皆于山国の領土で、于山はまさに倭人が言うところの松島だ」(輿地志云 鬱陵于山皆于山国地 于山則倭所謂松島也)と記録している。
 
つまり、鬱陵島と于山島は皆昔の于山国の領土であるが、この中の「于山島」は倭人たちが言う「松島」(今日の独島)であることを、『輿地志』という地理書を引用してはっきりと明らかにしているのだ。
 
▶ 日帝が、大韓帝国の独島をそれまで他の国が占有した形跡がない「無主地」と主張して1905128日、日本に「領土編入」するという閣議決定をし、19063月末から日本が韓国の領土である独島を侵奪しているという事実が知られるようになった。『増補文献備考』が大韓帝国政府によって刊行されたのは、その2年後の1908年のことだ。このころは日帝統監府が大韓帝国政府を指揮監督していた時期であるにもかかわらず、大韓帝国政府は『増補文献備考』において鬱陵島と「于山島」(独島)は主人のない「無主地」ではなく于山国時代から韓国領土であることを記録して、日帝の独島侵奪の試みに対して力強く抗議する意志を込め、同時に、于山島(独島)が于山国の領土であり韓国領土であることをはっきりと証明し明らかにしたのだった。
 
 
 
 獨島学界 獨島問題 111問 111答
愼廈(シン・ヨンハ)(漢陽大学碩座教授)
http://plaza.snu.ac.kr/~bigbear1/q111.htm


 
 
<コメント>
 韓国側が「独島は古くから韓国の領土だ」と自信ありげに言う材料の一つが、この「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地 于山則倭所謂松島也」(輿地志が言うに、鬱陵と于山はどちらも于山国の領土で、于山はすなわち倭人が言うところの松島だ)の一文です。
 
日本人は江戸時代に今の竹島のことを松島と呼んでいたわけで、それに対してそのころの朝鮮の古書に「鬱陵と于山はどちらも于山国の領土で、于山はすなわち倭人が言うところの松島だ」と書いてあるとすれば、なるほど、朝鮮は今の竹島のことを昔から領土扱いしていたのか、とつい思ってしまいそうになるわけですが、これが実は違う。
 
「鬱陵と于山はどちらも于山国の領土で、于山はすなわち倭人が言うところの松島だ」という文章は、朝鮮のいくつもの古文献に出てきます。
 
まず、この第31問で紹介されている『東国文献備考』の「輿地考」(申景濬・洪啓禧1770)に「輿地志云 欝陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」とあります。
 
 萬機要覧』軍政篇(1808年編纂、発行は1937年朝鮮総督府)」にも「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地 于山則倭所謂松島也」とあります。
 
増補文献備考』の「輿地考」(1908年李萬運)にも「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地 于山則倭所謂松島也」とあります。
 
どの本も「輿地志にそう書いてある」と言っているわけです。では、肝心の『輿地志』ですが、これは現代には伝わっていない謎の文献とされていたのですが、(このあたりの経緯は私は良くわからないが)近年になって、これは『東国輿地志(柳馨遠1656)のことだと確認されたようで、『東国輿地志』ならば現存していて、そこには次のように書いてあることが判明しました。
 
于山島欝陵島 一云武陵一云羽陵 二島在縣正東海中 三峰岌岌嶪撑空 南峯稍卑 風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴々可見 風便則二日可到 一説于山欝陵島本一島 地方百里
(于山島、欝陵島の項  武陵とも言い羽陵とも言う。この二島は県の真東の海中にある。三峰が空高く聳え、南の峯はやや低い。天気が良いときには山頂の樹木や山すその砂浜がはっきりと見える。風向きが良ければ二日で着く。一説として于山島と欝陵島はもともと一島とも言う。周囲百里。)
 
つまり、ここには「鬱陵于山皆于山国地 于山則倭所謂松島也」などとは書いてなかったわけです。
 
書かれていないのに、なぜ後代の書に「書いてある」と書かれることになったのかというと、次のような事情であると思われます。
 
まず、上の3つの文献中、一番古いのは『東国文献備考』 (1770)で、後の二つは『東国文献備考』の記述をそのまま引用したものでしょう。
 
その『東国文献備考』を書いた申景濬は、それを書く14年前の1756年に、「疆界誌」という本に次のように書きました。
 
「按輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也」
(考えて見るに、輿地志では一説として于山島と鬱陵島はもともと一島だと言うが、いろんな地図を見て考えてみれば、やはり二島だ。一つはいわゆる松島であり、二島とも于山国に属するものだ)
 
つまり、「于山島は松島であり、その松島は于山国に属する」というのは1756年の申景濬の見解でした。ところが、それが、14年後に申景濬ともう一人の洪啓禧という学者が共同で編纂した『東国文献備考』(1770)では、何故か「輿地志云 欝陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」とされ、「輿地志」という文献には書かれていないことが書かれているかのように認識されることになったわけです。
 
では、申景濬はなぜ1756年にそういう見解を持つに至ったかというと、結局、安龍福の証言しか材料はありません。
 
1696年、安龍福は勝手に日本に渡航して訴訟類似のことを行った罪で朝鮮政府当局の取り調べを受けた際に、「鬱陵島に日本人が来ていたので、ここは朝鮮の土地でお前たちが来るところではないと言ったところ、日本人が、自分たちは松島に住んでいてちょっと漁に来ただけだと言ったので、松島はすなわち子山島で、子山島もまた朝鮮の土地だと言ってやった。」というような領土を守る意味での自身の功績を誇る供述をし、これが公式記録(粛宗実録1728年)にも載りました。
 
「松島」(今の竹島)に日本人が住んでいたはずもないわけで、これは作り話であるわけですが、ともかくもそういう公式記録があったために、申景濬はこの記録も参照して上のような見解を持つに至ったものと思われます。
 
長々と書いて来ましたが、これを要すれば、「鬱陵と于山はどちらも于山国の領土で、于山はすなわち倭人が言うところの松島だ、と各種古文献に書いてある」という韓国側の主張の根拠は、結局のところ、安龍福の虚言しかないことが明らかになったと言えます。
 
もし「輿地志」(東国輿地志 柳馨遠1656)に本当にそんなことが書いてあったのならば、それは安龍福事件(1696年)の前のことですから、当時の朝鮮では既に「于山はすなわち倭人が言うところの松島だ」という知識が一般に存在していて、安龍福はその知識を日本人にぶつけたのだという形になりますが、事実は逆で、全て安龍福の窮地の弁明が各種公的文献に採用されていっただけのことでした。
 
ですから、上の[第31問](その他に、独島が昔の于山国の領土であり韓国固有の領土であることを証明する古文献としては何があるか?)に対する正しい答は、「何もない」でしょう。
 
 
 
<附録>
 で、申景濬の上の見解を地図の形にすると ↓こうなります。
 
 
プロフィール

Chaamiey

Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

最新記事
最新コメント
カレンダー
03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
来訪者数
カテゴリ
検索フォーム
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR