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韓国社会葛藤の歴史的背景(5)

 
[特集] 韓国社会葛藤の歴史的背景
[イ・ヨンフン/ソウル大学経済学部教授]
季刊『時代精神』2011年夏号
 
 
Ⅵ 結び
 
  韓国の政治と社会を分裂させている葛藤の悪性構造は、それに相応する深い歴史的因果を持っている。今日の韓国人たちを最も深刻に分裂させている地域感情は、60年代以後に特定地域出身の政治勢力が長期間執権する過程で生じたと言うよりも、高麗・朝鮮王朝の千年にわたる地域差別政策に起因するものだった。歴代の王朝は、そこに属する地域と臣民を支配するにおいて、政治的によく団結した共同体意識を培養しなかった。つまり、超越的な政治哲学と統合的な社会倫理を歴代の王朝は欠いていた。
 
 韓国の伝統社会は、高い信頼の共同体社会というより低い信頼の大衆社会としての特質を持っていた。地縁や職能に基礎を置いた永続する人格として、団体あるいは共同体が欠けていたと言える。人間の社会的生存に不可欠な規範、秩序、公共機能は利害の直接的な当事者の結社である「稧」によって供給されたが、それはその目的機能によって多様な空間的範囲と身分的層位で分散的にまた重層的に結ばれた。
 
 19世紀までの伝統社会を統合した朝鮮性理学において、人間の欲望の自然性とそれに基礎を置いた自立的個体として「私」の範疇は結局承認されなかった。人々は、性理学の倫理によって上下位階の秩序に統合された。一番強靭な統合の単位は、孝の倫理に基礎を置く親族集団としての家門だった。それぞれの家門を高次の政治へと統合する「忠」の倫理は強くなく、しばしば「孝」の倫理に圧倒された。
 
このような分散的構造の伝統社会は、日帝の支配期を経て高度で中央集権的な官僚制国家に再編された。国家は、社会を統合して支配する唯一で超越的な権威として君臨した。社会で観察される自治機能は、葬祭礼の相互扶助のための族稧くらいに過ぎなかった。それを越えた社会の領域では、人々は互いに互いをよく分からない匿名性と不信で対立した。このような国家と社会の存在形態は、そのまま解放後の大韓民国に継承された。社会を統合する、無縁の人間たちをまとめ上げる唯一の権威として、中央権力が建国、戦争、祖国近代化のような正当で力強い公の権威に掌握された6070年代までは、社会が分裂して混迷する余地はあまりなかった。その間、韓国人たちを新しく統合した政治哲学の概念は「国民」だった。19世紀末に導入された自由民権思想が独立運動を通じて発展して、解放後に共産主義と熾烈に闘争した結果として争取したものが、1948年制憲憲法が宣布した「国民」という範疇だった。
 
 今日のように韓国の政治と社会が葛藤の悪性構造に変質し始めるのは、80年代以後の民主化時代を経過してからだ。大きく見れば、民主主義の政治制度がその享有者たちに請求する適当な費用だった。ところが費用が支払われた結果は、民主主義の純機能としての統合の高揚ではなく分裂の増幅だった。そういう葛藤の悪性構造が成り立ったのは、「国民」と言う最高水準の範疇が民族と言うもう一つの巨大な範疇によって押さえ付けられ解体されたからだ 80年代以後に統一運動を牽引した「民族」と言う感性的範疇は、その巨大な政治的動員力にもかかわらず人々をより高い水準の文明に導く普遍的原理を欠いていた2000年、「我が民族同士」の統一を宣言した南北首脳会談は、「民族」の概念が「国民」の概念を圧倒した象徴的事件だった。以来、韓国人を一つの秩序に統合して来た「国民」の概念に大きな亀裂が発生し、その場所に葛藤の悪性構造が定着し始めた
 
以上がこの文の内容だ。以後、この10年間にどんなことがあったのかについて蛇足を付けることで文を終わる。2002年の大統領選挙の過程で、ある党の大統領選挙候補者が首都移転を公約に掲げた時、筆者は少なくない衝撃を受けた。首都の移転というまさに天下公共の事業が、専門家の検討や公論の過程を経ないまま公党の公約として掲げられたのだ。それは、大統領選挙候補者の軽薄さに起因するものと言うよりも、筆者が見るには、歴史的に大きな公の世界を新たに創出し尊重することができなかった韓国史の遺産あるいは負債に属する現象だった。2007年の大統領選挙で、採算性もない空港を特定の地域に建設するという某党の大統領選挙候補者の公約も同じだ。そのように、「憑公営私」の公約であったが、郷党の頑固な政治勢力はそれを地域の既得権として固着させることで国民の分裂を助長した
 
 最も深刻な分裂の症侯は、2008年の政権交替自体を認めようとしないキャンドルデモにおいて観察された。いろいろと掲げられた大義名分にこだわらずに、デモを組織したり参加した政治勢力を分析すれば、それは明らかに、「国民」というカテゴリーを復旧させようとする新政府の政策志向に対立する民族政治の頑強な抵抗と異なるものではなかった。さらに深刻だったのは、天安艦爆沈をめぐる葛藤だった。軍事に対して何の専門知識や経験も持たない者たちが、民族感情と地域政治を動員して政府の公式発表を否定し、公党である野党さえそれに同調した。そのように大きな「公」の世界が崩壊したことが大いに明らかになると、今度は様々な市民団体、環境団体、甚だしくは宗教団体まで出てまるで王朝時代の朋党政治のように社会を騷がしくしているのが近年の現実だ。この「公」を僭称している多くの「私党」の騒乱を鎮めようとするなら、「国民」の概念を健全に再建した上に、政治が正直で強健になるしか道はない
 
 
 
(終)
 
 
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韓国社会葛藤の歴史的背景(4)

 [特集] 韓国社会葛藤の歴史的背景
[イ・ヨンフン/ソウル大学経済学部教授]
季刊『時代精神』2011年夏号
 
 
Ⅴ「国民」の発見と解体
 
  去る20世紀を経て韓国人たちが旧来の朝鮮性理学に代わって新しく発見した大きな「天」はどんなものだったのか? 互いに違う利害関係の人間たちを平和な秩序で統合する「共和」の大きな原理は何だったのか?  誰もが思いつく一つの解答は、「国民」と言う新しい政治哲学のカテゴリー(範疇)だ。1948年の制憲憲法は、朝鮮半島南部に居住する韓国人たちを指して「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民」と称した。続いて、制憲憲法は「大韓民国の主権は国民にあって、すべての権力は国民から発する。」と宣言した後、その国民が保有する天賦の権利として、言論、出版、集会、結社、信仰、移住、職業選択などの自由を宣布した。
 
ところが今日の21世紀初頭に至って、その「国民」の権威が19世紀末の高宗皇帝の行列のように見窄らしくなった。80年代後半、民主化の時代が開かれる中、「民族」、「市民」などの他の範疇の政治哲学が国民を解体させたり分裂させて来たからだ。多くの範疇が相互に競争するのは良いことだ。その過程で社会を統合する政治の精神世界がより高次の原理へと進歩するからだ。ところが、統合の根本になる範疇を解体してしまったら、その時から分裂を増幅する葛藤の悪循環が始まるそこに問題があるのだ
 
筆者が見るに、「国民」という概念を解体させた象徴的な事件の一つは、1996年にあった「国民学校」から「初等学校」への改称だった。国民学校という名称が1941年に日帝が戦時動員のために既存の小学校に名前を付けたことに来由するという理由であった。この稚拙な民族主義的解釈は、韓国史において国民と言う範疇がどう自生し、主体的に受け入れられたのかということに対する理解を欠いていた。19世紀末まで今日のような「国民」と言う用語やカテゴリーは存在しなかった。「国民」の概念は開化期に自由民権思想と共に導入された。植民地期に独立運動に携わった人たちも「国民」と言う言葉を使った。1940年に臨時政府が制定した「大韓民国臨時約憲」第1条は「大韓民国の主権は国民にある」と宣布し、以後の制憲憲法の先例になった。解放後の米軍政下の南朝鮮過渡立法議院が1947年に議決した「朝鮮臨時約憲」第2条も「朝鮮の主権は国民全体に属する」とした。
 
 ところが、そのころには多くの政治的宣言において「国民」と「人民」と言う二つの範疇が主導権を争った。 1948年の制憲憲法が作成される時も、「国民」ではなくて「人民」と言う用語を書かなければならないという主張が提起された。それでも、結局、「国民」の範疇が採択されたのは、「人民」と言う範疇がその本来の良い主旨にも拘わらず、既に共産主義者たちの専用語になってしまったからだ。
 「国民」と言うカテゴリーは政治的宣言だけで作られたものではなかった。1948510日、歴史上初めて自由・普通選挙が行われる時、投票権を行使する国民の範疇が法的に行政的に細密に規定された。それによって、北韓から下って来たり海外から帰還して来た同胞たちは南韓に新しい本籍地を作らなければならなかった。言い換えれば、38度以南の地域に帰属意志を表明した人々を対象として大韓民国の国籍が付与された。つまり、「国民」は大韓民国と共に新しく創出された歴史的範疇だった
 
要するに国民と言うカテゴリーは、旧韓国末に自由民権思想と一緒に流入して以来、独立運動の過程で成熟して、解放後の共産主義との政治的闘争を勝ち抜きながら、新生大韓民国の主権者として確定されて宣言されたのだった。その歴史的成果が、金泳三政府の稚拙な民族主義によって日帝の残滓という濡れ衣を着せられて解体され始めたのだ。同じ部類に属する金泳三政府の実践は一つ二つではない。1994年には国民教育憲章が事実上廃棄され、 1995年には建国史のさまざまな記憶を有している中央政府の庁舍を東洋建築史の傑作と評価されるその建物を日帝が建立したという理由だけで撤去した
 
「民族」と言う範疇がいつ、どのように成立したのか、それが普通の韓国人たちの常識と違ってわずか100年前に導入されて広がったものであることについては、過去10年間に立派な研究がたくさん行われていて、今はなじみのある話になった。「民族」と言う用語が最初に使われた例は 1900年以後と知られている。以後、「民族」は韓国人たちを一つの歴史的運命共同体に感ずる政治的範疇として植民地期にかけて広く流布した。民族の範疇が確定されるのは、解放後の大韓民国の成立によるからだ。その以前までにしても民族の先祖が箕子か檀君なのかを巡って知識人たちの意識は分裂していたが、大韓民国の成立とともに檀紀年号が使われ、開天節が四大祝日の一つとして制定されたことによって、箕子に対する檀君の勝利が決まった。
 
 民族主義は、4050年代は共産主義に対抗して「大韓国民」を結束させる力として、以後6070年代にかけては祖国近代化のための国民的力量を動員する力として作用した。民族主義の役割が変質するのは、80年後半、民主化時代以後に一段と活性化した統一運動の過程であった。民族統一のための歴史学は大韓民国を、民族の分断をもたらしてまで反民族・親日勢力が米帝と結託して立てた反共ファシズム体制に過ぎないものとして価値を貶めた。それに従い、大韓民国は民族統一とともに消えるべき国としてその歴史的位置が設定された。
 
 民族主義の歴史学と政治学が最高頂に達したのは、2000年の南北首脳会談においてであった。ここで南北の二人の首脳は、統一は「我が民族同士、互いに力を合せて自主的に解決」し、「南側の連合制の案と北側の低い段階の連邦制案には互いに共通性がある」と宣言した。これは現行憲法第4条が、「自由民主的基本秩序に基づいた」統一を志向していることに明確に反することだが、共同宣言を主導した政治家の個人的名望と、統一が迫って来たように感じる大衆の錯覚があいまって、大きな政治的葛藤にはつながらなかった。ともかく、この宣言を通じて、「民族」は「国民」より上位の範疇の政治哲学として位置を占めることになった。その点が明確になると共に国民の分裂は露骨化し、民族主義の衰落も始まった。
 
 2000年の共同宣言は、開城工業団地に象徴される南北韓の経済的交流を、実は南韓の対北支援を多少活性化しただけで、統一問題についてはなんらの実質的な変化を導き出すことができなかった。国家を壊したり合体させたりすることは、高度の理念的ないし理性的領域の問題だ。人種が違っても理念が同じならばローマ帝国や今日のヨーロッパ連合のように統一を成すことができるが、人種が同じだとしても理念が違えば統一どころか内戦が起きるだけだ。本質がそういうものである問題に「民族」と言う感性的範疇によって接近しようとしたから、限界は始めから明らかだった。おそらく、「我が民族同士」が具体的に何を意味するかは、宣言を導き出した二人の当事者も分からなかっただろう。そんな曖昧模糊とした感性政治が彼らの憲法的価値を押さえ付け始めると、多くの韓国人たちは初めて彼らの国家アイデンティティに深刻な危機が近づいていることを感じ始めた以後、今まで元「大韓国民」はこの問題を巡って深刻に対立して来たし、その結果、簡単には癒されない深い分裂の傷を抱えることになった。
 
 分裂の底辺には、自由の理念の貧困という根本的な制約が横たわっている。北韓の政治犯収容所の悽惨な人権実態を告発した作家を招待したのは、青瓦台ではなくホワイトハウスだった。北韓人権法を通過させたのは、韓国の国会ではなくアメリカの議会だった。脱北者たちの収容所体験を聞いて涙を流して深い関心を示すのは日本の大学生であって、韓国の大学生ではなかった。収容所でおよそ28年を耐えて出て来たある脱北者は、自分の体験を伝える講演場で大学生たちが質問するどころか居眠りばかりしているのに大きな失望感を表した。
 
 このような情けない事態となったのは、元々自由または人権と言うカテゴリーの政治哲学がわずか100年前に入って来た輸入品であるという事実、そんな中で大韓民国政府が「国民」という範疇を解体した後、自由・人権志向のいかなる国民教育も施行していない現実、それに、自由主義と言うものは「持てる者の論理」だと簡単に片付けてしまう韓国知性社会の低級な平等主義、何よりも、そんな風土を支えながらまだ生きて動いている朝鮮性理学の政治哲学などの相互作用によるものだが、これ以上の詳しい言及は別途の機会に譲るしかない。
 
 
(続く)
 

韓国社会葛藤の歴史的背景(3)

 [特集] 韓国社会葛藤の歴史的背景
[イ・ヨンフン/ソウル大学経済学部教授]
季刊『時代精神』2011年夏号
 
 
Ⅳ 私と公の原理
 
  60年代以後の韓国人たちが属することになった互いに不慣れな匿名性の社会は、地域感情がそうだったように、韓国人たちが歴史から受け継いだ社会組織の特質だった。この低信頼の大衆社会が、そこに属する人々にとって自分の正体を含めて他人の正体を規定したり区別したりするにおいて没個性的な範疇に依拠させるようにした因果関係を理解することはさほど難しくはないようだ。しかし、なぜ「没個性的な範疇」なのか、言い換えれば、なぜ人々が自分の正体や他人の正体を確認するにおいて、ほかでもない地域感情や後述する民族感情のような没個性的な範疇(カテゴリー)ないし集団的象徴によるしかないのかは、もう少し厳密にその歴史的背景と因果を突き詰めなければならない問題だと思う。
 これに関連して、韓国の精神史において歴史的個体としての個別人間が公的秩序に統合される原理、すなわち韓国人の「公私観」が検討の対象として浮び上がる。以下、それに対して少しの間検討して見よう。
 
 朝鮮の性理学が政治と文化に絶対的支配力を行使した1719世紀の公私の関係を検討すれば、それが著しく観念的で倫理的だったという特質を見い出す。例えば、朝鮮性理学の世界において、「公」は「公理」として自然と人間社会の生成と運動を貫く根本原理に該当した。一方、「私」というものは「私慾」として、あくまでも公理によって抑制され馴致されるべきものと設定された。「公」が善なら「私」は悪だった。その点が、同時代の中国や日本の性理学に比べて朝鮮の性理学が著しく示している比較史的特質だった。言い換えれば、朝鮮性理学の教義において、人間の欲望の自然性に基礎を置く自立的個体としての「私」の存在は決して肯定されなかった。公と私の関係は、あくまでも前者が後者を支配する、前者によって後者は消滅しなければならない「以公滅私」の関係だった。
 
 17世紀後半、柳馨遠が彼の『播渓遂緑』において均田論という土地改革を主張する時の論理がまさにそういうものだった。すなわち、農業が天下の大本であるように、土地は天下の公物として共有でなければならず、したがって個人が土地を私有地として持つことは公利に背く私慾として適切に廃止されなければならなかった。このような論理は19世紀末まで多くの性理学者が展開した土地改革論でも同じだったのみならず、解放後にあった農地改革の名分にまでつながった。ひいては、今日のいわゆる進歩派と呼ばれる韓国の知識人たちが、人間の本性は利己心だという主張に対してそんなに浅薄な人間理解がどこにあるかとひどく腹を立てるのも、長く見れば上のような1719世紀の公私観の延長だと言える
 
 19世紀までの朝鮮性理学の公私観において観察されるもう一つの特徴は、公と私の上下位階秩序だ。公理を悟って実践し道徳的に完成された人は、君子であり両班であり官僚であり大人であり先輩だった。公の秩序や権威はこれらの人々によって担当された。一方、私欲に囚われて道徳的に未完成若しくは失敗した人は、小人であり臣下であり常民であり農民であり子供であり後輩だった。「私」に属するこの部類の人々は、「公」に仕えて公の指導を受けなければならない。このような身分的位階の公私観は、奉公と言う言葉の用例でよく確認される。例えば、丁若の『牧民心書』は、赴任、律己、奉公、愛民、吏典、戸典、礼典、兵典、刑典、工典、賑荒、解官の13部から構成されている。守礼(地方官)に任命された者が任地に到着(赴任)して任地を発つ(解官)ときまで心に留めて行うことを上のように並べたものだ。今日の観点では、その全てが奉公だ。ところが、丁若が13種の一つに数えた「奉公」は、守礼が君主の命を「忠」により奉じて、上司である観擦使に「誠」で仕えて、隣村の守礼と友愛を交わすことを言った。すなわち「公」の領域は両班官僚社会に限られ、そこで守礼が取るべき正しい心の持ち方と身の処し方を「奉公」と言った。
 
朝鮮性理学の公私観において見られるもう一つの特徴は、公を構成する権威が相互に衝突することになれば、例えば親に対する「孝」と君主に対する「忠」が優先順位を争う葛藤が発生すれば、常に孝が忠よりも優先視されたという事実だ。これに関しては、17世紀に有名な礼訟が二度もあった。論争の核心は、君主は母を臣下とすることができるか否かだったが、できると主張した方が結局敗れ、後で死薬まで受けることになった。以後、孝の倫理が忠を圧することになり、19世紀末まで不動のヘゲモニーを占めた。よく知られたことだが、1908年、朝鮮王朝が敗亡の危機に逢着した時、13道義兵総大将イ・インヨンが義兵を率いてソウルへ進撃していて父が亡くなったという消息を聞き、「天が崩れた」と言いながら故郷に帰ってしまったこともこのような脈絡でその合理性が理解される。
 
 結局、朝鮮王朝の臣下たちにとって君主は権威ではあったが、超越的な権威ではなかった。宋以来の中国では皇帝支配体制を指して「一君万民」と言ったが、朝鮮王朝の支配体制とは一定の距離がある言葉だった。朝鮮王朝の臣下たちは、家ごとに君主よりもっと高い自分の先祖を天として仕えたからだ。王朝が危なくなると畿湖に君臨した老論の名門宋氏の家門が義兵を起こした。しかし、その家門と対立して来た隣近のユン氏の家門では全く動かなかった。彼らの先祖が宋氏家門の迫害を受けたからだ。大韓帝国期の1898年のことだ。非運に死んだ明成皇后の御陵を訪ねた高宗皇帝の一行が宮廷に帰って来る途中で光通橋の上で夕立ちに遭った。すると一行に参加していた百官たちはもちろん、皇帝の近くで仕える侍従と警護兵たちさえ輿を橋の上に残して散らばった。そのように、皇帝とは言え、大粒の雨に近衛兵が散らばるほどその権威は貧弱で分散的だった。忠よりも孝をまず先とする朝鮮性理学が長い間国を支配した結果だった。
 
要するに、朝鮮性理学の社会・政治哲学では自立的個体としての「私」の存在は最後まで認められなかったしそういう個別の「私」の総和としての「公」の世界は最後まで出現しなかった。「私」を規定する最高道徳としての「孝」は、人々を家門単位に分立させた。朝鮮性理学の世界で家門を超越するもっと大きく高い公の世界として、社会や国家は閉ざされていた。人々は、家門や同郷や東学の縁を離れた異邦の世界では、まるで盆の上の砂のように分散して対立した。極めて個性的だがほとんど団結することができない韓国人たちの社会組織的特質は、しばしばそういう指摘が日帝が植え付けた「停滞性論」の偏見に過ぎないと片づけてしまったりするものの、実は韓国人なら誰もが自然にその社会生活から経験して来た生の営みの常識でもあったのだ。
 
 
(続く)
 
 

韓国社会葛藤の歴史的背景(2)

 [特集] 韓国社会葛藤の歴史的背景
[イ・ヨンフン/ソウル大学経済学部教授]
季刊『時代精神』2011年夏号
 
 
社会編成の態様
 
 社会学者ソン・ボクは、朝鮮王朝時代に共に差別を受けた嶺南と湖南が 60年代以後に地域葛藤の主役として対立するようになったのは、急速な人口移動がもたらした結果だと解釈した。周知のように、高度成長期の韓国の人口移動は世界史で例を捜しにくいほどに急激だった。1960年の郡部と市部の人口割合は7228だったが、1985年には3565と逆転した。1987年の住民登録を基準にした総人口移動は22.6%にも達した。このような急激な人口移動は、首都ソウルを中心に互いに互いをよく知らない巨大な匿名性の社会を形成した。そういう社会において、人々は自分の正体を含めて他人の正体を理解したり判断したりするにおいて脱個性化の範疇を作り上げるしかなく、 その結果、出身地を基準として人を区分して判断する地域感情ができたというのだ。
 
 このような説明に共感しつつ筆者なりに補足したい点は、移住者たちが新しい入植地で迎えることになった匿名性の社会は、彼らのもとの居住地若しくは新しい入植地で元来から存在した社会の特質と無関係ではないという事実だ。もし移住者たちが彼らの原居住地で共同体性が強い社会に属していたなら、移住後にもそういう共同体を建設したはずだ。また、新しい入植地にもとから強い共同体社会が存在したなら、移住者はその共同体に包攝される形で定着することになったはずだ。そうであれば、匿名性の社会ではなく実名性の共同体社会が成り立ったはずだ。このような理由から、筆者は 60年代以後の韓国人たちが経験することになる匿名性の社会は、実は韓国人たちが歴史から受け継いだ遺産または負債であった可能性が大きいと思う。
 
 彼らの伝統社会は美風良俗に満ちた共同体社会であったはずという韓国人たちの一般的な期待と異なり、韓国の伝統社会は自我中心の非共同体社会としての特質を強く持っていた。韓国の伝統社会において、西ヨーロッパや日本の伝統社会が良い例を見せているところの、 政治から相対的に自律的な良くまとまった民間団体の例を捜すのは難しいことだ。18世紀まで商人と手工業者の団体は存在しなかった。商人たちの団体は19世紀中葉から組職され始めたが、団体結成の基本主旨は商業的というより相互扶助の道徳的なことにあったし、加入と脱退も自由な開かれた組職だった。
 
 農村社会が基本単位とする村も、うまく一まとまりになった永続する団体ではなかった一般的に、村とは人々が居住する空間の区画を意味するだけだった。村は人々の社会・経済生活に必要な治安、秩序、水利、営林、教育、道路、祭りなどの公共財を共同で生産したり、それに必要な資源を共同で管理する団体あるいは法人格ではなかった。そういう公共財は、村内外の多様な身分層位と空間範囲において利害関係の当事者たちで構成されたケ(稧)によって供給された。稧は、特定の目的機能のために直接的な利害を有する人々同士で構成される結社体であり、共同体というより利益団体としての性格を有した。例えば、ある村の身分秩序を維持する目的で洞稧が結成される時、村の全ての人がそこに参加するのではなかった。洞稧は、その趣旨に賛成する両班身分を正式の構成員とし、同じ両班身分でも招待されない部類があった。また、両班の身分ではない住民は、洞稧のメンバーというより支配の対象だった。筆者は、このような伝統社会を指して、「多層異心の社会」とその類型的特質を規定したことがある。
 
社会組織のこのような特質によって、社会が葛藤期に入った19世紀以後、村は分裂し始めた。その結果、18世紀末に全国に39千あった村の数が20世紀初頭までに63千に増加した。社会的葛藤が激しかった他の一つの兆候として、訴訟の数を挙げることができる。全羅道架光郡の場合、1871年一年間に2,949件の訴訟があったが、その半分が民事訴訟だった。当時の架光郡の戸数は12,600余戸で、ここで平均89戸に1件の民事訴訟があったわけだ。言い換えれば89戸の小さな範囲で少なくとも2戸が利害関係の葛藤を円満に調整したり妥協することができず、訴訟にまで至ったのだ。
 
 1998年の『司法年鑑』によれば、198797年間の人口数は11.2%増加したが、裁判沙汰は106%も増加したし、1997年の一年間に3.2名当り1人が訴訟関係で裁判所を利用した。このような訴訟の頻度は、多元化された産業社会で一般的に観察される水準以上の過度なものと理解されている。例えば、現代韓国と日本を比べる時、韓国の人口当たり民事訴訟の件数は日本のほとんど60倍と言う。社会が日本のように地縁団体や職能団体でしっかりと組職されている時、紛争はあらかじめ抑制されたり、事後にでも自律的に調整される可能性が大きい。何よりも、争訟者に対する団体の悪い評判は、勝訴による利益を超過する訴訟のマイナス面であるだろう。現代の韓国社会が上のような訴訟の濫発現象を見せているのは、このような機能を遂行する社会の団体性あるいは共同体性が脆弱だからだ。しかし、そういう現代韓国社会の特質は、上の関連事例で見るように、自然経済が支配的だった19世紀でもあまり違わなかったのだ。
 
 20世紀前半、日帝の朝鮮支配はその伝統社会に相当な衝撃を加えた。1913年、朝鮮総督府は全国の63千余の村を23千余の洞里に統廃合した。立ち入ってからわずか3年にしかならない外来権力が原住民の日常生活が展開される居住空間を好きなように扱うことができたのは、旧来の村が自己の財産と人格に繋がる団体ではなかったからだ。また、全国的に数十万に達したケ(稧)が担って来た秩序、水利、営林、教育などの公共機能が総督府を頂点とする官僚制秩序に吸収された。民間社会に残された自律的秩序は、「喪葬礼」の相互扶助のための「族稧」くらいに限定された。30年代に総督府が進めた農村振興運動は、まだ伝統社会が保有していた各種自治機能を解体する重要な契機として作用した。
 
 解放後の韓国の社会編成がどんな様態だったかは、50年代に行われた農村調査を通じて具体的に観察することができる。当時の農村を訪問した社会学者たちが見つけることができた社会組織は、村役場のような官僚制的行政機構、加入がほとんど強制された自由党の地方組職、そして喪葬礼の相互扶助のための族稧くらいがせいぜいだった。その外に、教会、学校父兄会、4Hクラブなどもあったが、参加者や活動の範囲が限られていた。農村住民の生活材料を収給した市場も一般的に組職されていない市場だった。都市には商工会議所や紡織協会のような商工人たちの団体が存在したが、政府の政策を代行する準官僚機構若しくは同業者たちの対政府ロビー活動の窓口として機能するのが一般的だった。
 
 このような韓国伝統社会の非組織的特質は、70年代初期に朴正煕政府がセマウル(新しい村)運動の準備のために全国34,665の村を対象にして行った調査でも確認された。それによれば、全国的にリーダーシップを欠いている村が50%、リーダーシップが後進的な村が 41%にも上り、強いリーダーシップで自助計画を樹立して執行中の村は9%に過ぎなかった。
 
 
(続く)
 
 

韓国社会葛藤の歴史的背景(1)

 ご存知、イ・ヨンフン教授の最新の論考です。ニューライトの当面の課題は韓国社会の左右統合ですが、なかなか簡単ではないようです。今回、イ・ヨンフン教授は、左右の統合を妨げている歴史的要因について深い考察を見せてくれます。
 
 
 
[特集] 韓国社会葛藤の歴史的背景
 
[イ・ヨンフン/ソウル大学経済学部教授]
季刊『時代精神』2011年夏号
 
 
Ⅰ はじめに
  過去何年かの間で韓国の政治と社会において一番深刻だった葛藤は何かというアンケートを取れば、たぶん第1位は2008年の牛肉波動で、第2位は2010年の天安艦爆沈ではないかと思う。二つの順序は変わっても良い。この二つの事件が多くの韓国人たちに深刻な問題と受け止められたのは、葛藤の結果、国民の分裂が深くなったからだ。一方の国民は、狂牛病の危険を有しているとして、米国産牛肉の輸入をあまりにも簡単に承諾した大統領は適切に退陣しなければならないと、ほとんど三ヶ月間もキャンドルデモを通じて主張した。他の一方の国民は、米国産の牛肉が狂牛病の危険を有しているという主張に賛成しない上に、わずか二ヶ月前に発足した政府の退陣をそのように執拗に要求するのは民主主義の常軌を逸したことだと批判した。この二つの主張は今も対立している。天安艦爆沈も同じだ。西海で海軍の艦艇が北韓の奇襲魚雷攻撃を受けて沈んだという政府の公式発表を、野党とそれを支持する国民は今も受け入れていない。
 
深刻な葛藤は過去にもあった。6080年代は民主化を巡る葛藤が熾烈だったし、8090年代は労使葛藤が深刻だった。 このような葛藤は多くの費用を支払ったが、国民をより高い水準の統合に導いたところが最近の葛藤にはそういう統合の可能性が見えない。葛藤は分裂を生み、分裂はさらに大きな葛藤を呼んで来る悪循環が成立しているように見える。 それで、多くの国民は、最近起きている韓国の政治と社会の葛藤を尋常ではない不吉な予感で見守っているのだ。
 
葛藤が分裂を増幅させる悪性構造として固着しているという感覚の底辺には、地域感情または地域葛藤が横たわっている。その点を誰も否認することができないだろう。少し前には、地域感情を民主化運動の次元で理解して受容した。ある特定地域の政治勢力が権力と富を独占したので、差別を受けた地域がそれに抵抗することは国民的統合のために良いことで必要なことだと言われた。しかし、最近に起きた国民的葛藤の背景になっている地域感情は、既に弱者の抗言ではない。 いつのまにか、地域感情は彼此間に隠すまでもない既得権に変わってしまった。そのように成り立った韓国政治の悪性の構造から、行政首都、四大河川事業、新空港、科学ベルト、LH工事問題などに見るように、葛藤は全国土と全国民の範囲に拡大増幅されている。
 
 分裂を拡大増幅させる葛藤の悪性構造はどこに原因があるのか?この文は、このような疑問で我々の歴史を返り見ようとするものだ。 歴史が解答であるわけではない。歴史に対する関心は、ある人間集団が特定の条件において特定の行動様式を選択することは、その人間集団が世代間に伝え受け継ぐ文化的遺伝子の作用によって少なくとも100200年の短い期間内ではさほど変化しないという仮説によるからだ。あくまでも証明されない仮説ではある。しかし、そういう仮説に即した歴史への省察は、時として現実の因果に対する短期的な観察では捕捉しにくい特定の人間集団の賢さや愚かさの属性を生きた教訓として現わしたりする。そういう期待から、まず、我々の歴史が私たちに与えたと考えられるそのまま置けば国を台無しにしてしまうような地域感情の問題から見ることにしよう。
 
 
Ⅱ 地域感情の源流
  普通、地域感情と言えば、1961年以後に嶺南人が長い間政権を取った期間にできたものと知られている。根拠が無いことではない。よく知られた話だが、50年代は湖南出身の人士が嶺南で、逆に嶺南出身の人士が湖南で、国会議員に当選したりした。1963年の大統領選挙で嶺南出身の朴正煕がソウル出身の尹普善に辛うじて勝ったのは、湖南地域の大きな支持のおかげだった。そんな嶺南と湖南の関係が悪くなったのは、嶺南出身の執権期に湖南地域が経済開発の優先順位で後回しにされ湖南出身の人士が不利な待遇を受けたからだ。
 
 ところが、湖南を差別する地域感情はそれよりずっと淵源が深い。湖南差別の地域感情は嶺南のことだけではなく、京畿と忠清でも同じだった。1988年の韓国心理学会の調査によれば、二つの地域の湖南に対する差別感情は嶺南より強くこそあれ弱くは無かった。それは長年の歴史から受け継いだものだった。湖南差別を統治の手段として活用したのは、高麗王朝からだった。太祖王健が下した訓要十條の第8条は、錦江外の人々はその地域の地勢から見て反逆しやすいから朝廷に参加させるなとした。後三国の統一過程で王健が後白済に非常に苦労して勝った記憶のためだったと思われる。
 
 以後の朝鮮王朝も、このような地域感情を受け継いだ。例えば、1488年金堤郡守を歴任した金が王に奏上して、全羅道は百済の土地で、まだその風俗が残っていて強盗が横行して外敵と結び、倫理が乱れて非常に治めにくい地方だと述べた。外敵と付くと言ったように、全羅道は常に反逆の危険性から警戒された。その後1589年に起きた鄭汝立の謀反事件により湖南人たちは非常な迫害を受けた。以後、湖南を「叛逆郷」と見なす朝鮮王朝の偏見はさらに固まった。
 
 続いて1592年に壬辰の乱が勃発した。戦乱の間、全羅道は常に反逆の可能性から警戒された。1594年、国王と大臣が戦況を論ずる席で、領議政柳成竜は、湖南の人心が普段から悪いのに、土賊が一揆して、あるいは外敵に付きあるいは山谷に潜んでいたら甚だしく憂慮されることだと述べた。1595年のある会議でも同じ指摘があった。このときは、湖南の人心が強情で冷酷であり嶺南と相異なっているのはまるで楚の国と越の国のようだと言った。
 
 以後、19世紀までは党争の時代だった。党争の結果、畿湖(翻訳者注:京畿道と黄海道南部と忠清南道北部の一帯)出身の老論(翻訳者注:朝鮮王朝の四代党派の一つ)が政権を独占するようになって嶺南人も疏外され始めたが、湖南人はそれよりも遥かに早く捨てられた。18世紀後半、全羅道興徳出身の黄胤錫が微官末職でソウルに滞在しながら書いた日記がある。彼は、ソウルの支配勢力が湖南に対してどれほどひどい偏見を持っているかを、その日記に何回も詳しく書いた。彼によれば、ソウル人たちは湖南人の気質が軽薄でまやかしが多いという偏見を持っていた。また、ソウル人たちは、湖南人たちが雑術を崇尚して, ここにしばしば変怪を起こすと言った.
 
 黄胤錫は、このようなソウル人たちの偏見を正すために、湖南人として立派な道学と文章と忠節を残した人物の文集を刊行して普及することに力をつくした。黄胤錫が疼いて辛く体験した地域差別は、同時代の王朝実録でも多く確認される。例えば、1735年国王英祖は大臣を接見する席で、湖南の風俗が予言説(讖緯説)を崇尚して人心を散らかしているから関連書籍を没収して燃やすように命じた。
 
 実際、18世紀の多くの文献を見れば、雑術、すなわち讖緯説(予言説)を崇尚したのは湖南だけではなく全国的な現象だった。皮肉なことに、湖南差別の理論的根拠を提示したのも予言説または風水地理説だった。例えば、実学の大家は、白頭山から智異山までの白頭川間には気が十分に満ちていて物産も豊かで人材がたくさん養成される反面、智異山以西の湖南は気が拡散する場だから徳望ある者が出ることは滅多に無く、士大夫の住む所ではないと言った。つまり、彼の風水地理学は、嶺南を称賛する一方で湖南をそまつに扱った。李重煥の『テクリジ』に現われた湖南に対する偏見はさらにひどい。彼は、湖南の泉水には病気が満ち、南原の地勢からは殺気が感じられるとまで言った。
 
 湖南に対する偏見がこのように一つの時代の文化を成した中で、朝鮮王朝は租税の収受においても湖南をひどく差別した。湖南の土地に対しては高い等級を付与して、他の地方に比べてより多い租税を収奪した。その収奪の実態は、以後日帝が施行した土地調査事業によって具体的に暴露された。1917年、日帝は全国統一的な基準によって査定された土地価格の1.3%を地税として徴収し始めた。1.3%という賦課率は、既存の地税総額よりもおよそ20%多く集めるという目的によって策定されたものだ。ところが、全羅道ではむしろ地税負担が以前より3%減った。一方で、京畿道は58%、忠清道は14%、慶尚道は33%も増加した。皮肉としか言いようが無いが、湖南は日帝の支配期に朝鮮王朝の差別と収奪から解放された
 
高麗王朝が後三国を統一したのは936年のことだ。以後、14世紀末に高麗王朝が朝鮮王朝に交替したが、支配勢力は抜本的には替わらなかった。そういう支配勢力の超長期的連続性によって、古代王朝の相互争闘に関する政治的記憶が19世紀までそのまま受け継がれたわけだ。朝鮮王朝が地方を差別したのは湖南だけではなかった。平安道に対する差別は一層甚しかった。その地域の住民は、朝鮮王朝が日帝に敗亡するとむしろ快哉を叫んだ。その地域出身の独立運動家たちは、「(私たちにとっては) 日本人は最近の敵だが、畿湖の人々は500年来の敵」であったとして、「畿湖派をまず無くして、その次に独立しよう。」と言うほどだった。
 
 要するに、19世紀までの王朝支配体制は、うまく統合された政治的共同体の意識を涵養しなかったその王朝が解体された時、残されたその民たちは分裂の素地を多く抱えていた。異民族日帝が超越的な権力で君臨した期間には、葛藤は緩和された。解放後、理念の極端な対立とともに極限的な政治闘争が起きた時期も同じだった。50年代の韓国政治において、湖南の人士が嶺南で、嶺南の人士が湖南で国会議員に当選することができたのは、地域感情よりももっと高次元の理念の対立がその時代を支配したからだ。その対立の場が60年代から少しずつ集まって各地方に政治的発言の機会が付与され始めた。それと共に、地域感情も少しずつ表出され始めたが、その過程をより細密に描き出すためには、歴史から受け継いだ他のいくつかの遺産や負債についても検討する必要がある。
 
 
(続く)
 

ラジオ特講の反応

解放前後史の再認識特別講義11に寄せられた読者の一言です。(全4件)
http://www.nrzen.com/cafebbs/view.html?gid=main&bid=cat_n01&pid=11644&cate=cat_n01_2&al=&page=1&sm=&kw=&tuid=&scode=&blink=

○概してまあよく書いてある。少し不満な点もあるが、大きな幹が正しいならかまわないと思ったらだめだろうか。
自由党時代の時、祖父や近所の年寄りたちが言っていたが、「日本人たちは境遇がしっかりして、仕事は器用によくしたな」、 そんなことだったな。何の話かと言えば、「日本人に学ぶ点が多い」と言う話だったが、「今はする仕事もはかばかしくなく、腐敗したうえに混乱して無法天下」だと。
(中略)
民心が天心だ。日本が中国やアメリカと対立して大東亜戦争をしなかったら、上海臨時政府ではなく空を飛んで来る政府があっても、自立独立は難しいと思ったらいけないか。私を親日と呼んでも親米と呼んでも良いが、言うことは言って生きよう。
2006-06-30 12:10:12(賛成6 反対1)


○「お互いに違う理念と体制の二つの国家を、いくら緩い形態だと言っても一つの国家に縛ることは鬼にもできない。」 名言です。「我が民族同士」を合唱する政治家たちの対北協力統一政策が持つ一番致命的な欠陷は、南と北二つの国家がそれぞれ立っている位置がどこであり、どんな本質的な差異があるのか、全然分からないとか、あるいは、大した問題ではないと考えることにあります。差異が何なのか分からなくて, それをどう埋めていくか戦略もなしに無条件に「我が民族同士」合致しようと言うことは、かえって、南北間の「敵対」と「葛藤」を助長させて、平和を壊す結果をもたらします。この間、良い講義を聞きました。終わりになって惜しいですね。
2006-06-30 17:02:06 (賛成13 反対1)


○よく読みました。御苦労に感謝します。引き込まれて何もできなかったです。多くのことを学びました。
2006-07-01 14:53:38 (賛成2 反対1)


○「民族は超歴史的実体ではなく歴史的に流動する概念」という言葉は、ヨーロッパ文化に適用されるものに過ぎない。彼らの民族の概念と私たちの民族の概念はお互いに違う。だから彼らの文化を批判なしに適用することはすごく愚かなことになる。そしてイ・ヨンフンは「 21世紀は極端の時代」と規定しながら南と北の歴史を対比している。この極端的対比は、その後に自由市場経済的統合だけが唯一の統合という結論につながっている。自由市場文明が文明の終着地なのか? またイ・ヨンフンは、失敗した者は恨みを持つという結論を下しているが、その性急な結論はどういう過程を通じてそうなるのか明らかにしなければならない。また彼は、「知性に訓練された政治的リーダーシップ」を語りながら、国家は本質的に政党的暴力体であって国家を指して道徳だとか精神だとか言うべきではないと言うが、あまりに二律背反的ではないか? 水準にがっかりする。
2006-07-21 00:25:12(賛成3 反対3)



 

イ・ヨンフン教授特別講義11(2)

<結論 :「民族主義史学」から「自由主義史学」へ>

『解放前後史の再認識』特別講義11
 民族は超歴史的実体ではなく、歴史的に流動する概念
  
 
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]

ニューライト・ドット・コム 2006-06-30
http://www.newright.or.kr/read.php?cataId=nr03007&num=1742

                (翻訳その2)

  私は、そういう史学を「自由主義史学」と呼びたいです。要するに、20世紀韓国史の理解を「民族主義史学から自由主義史学に変えよう」、それが私の今回の講義の核心のメッセージです。この度友人たちと共に編集した『解放前後史の再認識』も、私の思いとしてはそういう問題意識で成り立っているのです。今回の講義は、そこで取り上げられた立派な諸論文を、私の流儀の手順で紹介する方式を取りました。論文と論文の間の空白は、私の自分なりの論理と実証で補いました。そのようにしてできた私のまずい話を、ここで再び要約する必要はないですね。

  一つ言い尽くせなかったことがあるので、付け加えて説明します。国家の問題です。「自由主義史学」において、国家は、超越的あるいは神聖な存在ではありません。 国家は、利己心を本性とする人間とその集団から導き出された2次的な存在です。国家とは何でしょうか? 人間たちを安全に保護して安楽に暮すことができるようにする政治的機能です。

  自国の国民を保護することができない国家、そんな国家は必要がないです。国家のために死んだ人を栄誉でもてなすことができない国家、そんな国家は消えても良いです。
 

  気に入らない国家が消える見込みが無さそうならば、どうすれば良いですか? もっと良い国に行けば良いということになります。60年代以後、おおよそ200万人の韓国人が、移民としてアメリカへ渡りました。少しも咎めることではありません。私の周辺にはアメリカ市民権者が多数います。私はそれも良いと思います。これからますます、そういう脱国家の時代になるでしょう。

  しかし、国家は大切なものです。国家の歴史は大事に扱わなければなりません。大事なものだから、むやみに批判してはいけないです。
批判は、礼儀を取り揃えた上で、最小限の水準で愼重に申し立てなければなりません。先進国であればあるほどそんなものです。先進国と後進国とを分ける様々な指標が有りますが、 その一つとして、愛国心の強さを挙げても良いと思います。後進国に行くほど、国家に対する批判が見られます。役立たずの国家と言いますね(←翻訳?)。 一方、先進国の国民は、国を愛する市民ですね。

  国家が何故大事なのでしょうか。国民が安全で安楽に暮せるようにする政治的機能として、国家は本質的に政党的暴力体です。国家を論ずるとき、道徳だとか精神だとか言わないでください。国家は、本質的に、マフィアのような暴力体です。ただ、暴力体であるにしても、あなただけが暴力を振るって良いと全ての人が合議したという点で、本当のマフィアと違うだけです。
  国家が無くなればどうなりますか? 人々は、自分の家族と財産を保護するために各人が暴力を振るうようになります。野蛮の状態です。中世の国家は、人間の社会的門地に差別を設け、一人の者が他の人間に暴力を振るうことを許容しました。だから、それは、半野蛮の国家でした。

  近代国家は、正当防衛ではない、ある人間が他の人間に私的に行使する暴力に対して、それにどんな名分があっても容認しないです。身分の形態で社会に満ちていた暴力を全て公権力に回収したのが、すなわち近代国家です。それで社会から身分が消えて、四民平等の時代が開かれたのですね。先日の『建国の文明史的意味』の講義で、我が国の憲法を読み上げました。すべての国民は法の前で平等であり、社会的身分によって差別を受けないと言いました。正にそれです。だからこそ、国民は国家に税金を払うのです。安全で差別を受けずに暮すことができるように、国家だけが正義に基づく暴力を振るってくれとね。

  「それ位は、誰でも分かる社会科学の原論ではないか」と言う方が、おそらくいらっしゃるでしょう。その通りです。政治学者でもない私が、学んで知った原論を並べただけです。それでも私がこの話を取り上げるのは、
私たちの周りに、国家をむやみに崩そうとしたり、新たに作ることができると思う人々が、かなりたくさんいるからです。 国家を正義だとか道徳だとかの観念的実体として見るから、そんな話が安易に主張され、また社会的にも大きい抵抗を受けないのです。

  ラジオをお聞きの皆さんは、私が何の話をしようとするのか、もう気づいたはずです。国家を連合しようとか連邦制にしよう等々の安易な統一論議を、警戒する必要があるという話です。国家とは、一つの社会を文明的に統合する政党的暴力です。国家がそうであるのに、文明の基礎が相異なっている二つの国家を統合することは、論理的に可能ではなく、また、人類の歴史で前例もなかったと思います。

  6年前にキム・デジュン大統領と北朝鮮の金正日総書記が会って、南北韓の統一方案がお互いに通じる点があると言いました。緩やかな連邦制を取るとか国家連合をしようという言葉で知られています。率直に言って、その言葉が具体的に何を意味するのか、私はいくら考えても分かりません。言い替えれば、相異なる理念と体制の二つの国家を、いくら緩い形態だとしても一つの国家に結ぶことは、鬼にもできないことだと思います。

  相異なっている体制の南と北を一つの国家にまとめるという発想は、
「我が民族同士」という旗を掲げれば、すべての人間たちが自分の考えと利害関係を捨て去ってその旗の下に集まるものと勘違いする、誤った前提の上で出て来たのです。人間は、元々そういう存在ではないのです。再三強調しますが、民族は、そのような超越的な実体ではないのです。民族がそのように魔性的な統合力を持つ超越的な実体ならば、去る60年間の分断の歴史はどう説明するのでしょうか。一体、この地球上で、血を分けた親子兄弟の再会どころか、通信さえ閉ざすものすごい閉鎖的な政治体制を、他のどんな所に捜すことができるかという話です。

  新しい「自由主義史学」では、我が民族の統一は、文明史に基礎を置く進化論的な統一しかありません。北朝鮮が、一日も早く、中国やベトナムのような開放的な市場経済体制に変わること。自由財産制度と共に人権を尊重する、そういう文明の社会に変わること。そのように大きく変わった後に、今、韓国がアメリカと FTAを推進しているように、南と北が市場を統合すれば、そして人と物資が自由に行き来することができたら、それがまさに統一ではないですか。

  そういう、文明史に基礎を置く進化論的統一方案以外に、どんな統一方案も現実的に可能ではないことを、解放前後史に関する私の「自由主義史学」の最後の結論として強調したいと思います。

  これまでラジオを聴いてくださった皆さん、ありがとうございます。ごきげんよう。


   イ・ヨンフン(ソウル大教授、 『解放前後史の再認識』共同編集者)

*イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識特講>は、EBS ラジオホームページ(再び聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420


(この間、<解放前後史の再認識>を愛読してくださった読者の皆さんに感謝いたします。ニュー・ライト・ドット・コム編集者)

 

                    

イ・ヨンフン教授特別講義11(1)


<結論:「民族主義史学」から「自由主義史学」へ>

『解放前後史の再認識』特別講義11
 民族は超歴史的実体ではなく歴史的に流動する概念
  
  
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]照会数1056
ニライト・ドット・コム 2006-06-30
http://www.newright.or.kr/read.php?cataId=nr03007&num=1742

(翻訳その1)

  イギリスの歴史学者ホッブス・ボムは、去る20世紀の世界史を指して「極端の時代」(Age of Extremes)と言いました。二度も人類史に前例がない大規模な世界戦争を経験しました。労働者の3分の1が失業状態に陥る大恐慌が、資本主義中心の国家に発生したりしました。1917年、ロシアでボルシェビキ革命が起きました。この人類の永遠の理想としての社会主義実験は、しかし、70年を経て失敗であることが判明してしまいました。一方、資本主義は、20世紀後半に入って「永遠の繁栄」を享受するようになりました。これを指して、アメリカ人のフクヤマは「歴史の終焉」とまで言いました。

  考えて見れば、去る20世紀の歴史が我が民族ほど波乱に満ちていた民族がどこにあるでしょうか。一言で言えば、地獄と天国を行き来した歴史でした。1910年、大韓帝国が滅亡しました。世界地図から一つの国家が消えてしまいました。その領土であった韓半島は、日本帝国の領土になってしまいました。その場所の住民集団は、他人の国の奴隷と違うところのない境遇に置かれることになりました。いつまた独自の国号を回復することができるのか、本当にわからない状況でした。それは不可能に見えました。

  ところが1945年、日帝から解放され、そして1948年、大韓民国が誕生しました。夢のような再生でした。そして現在まで60年間、大韓民国は同じように独立した元植民地の中で、経済的にも政治的にも一番成功した国に属するようになりました。経済的には世界第11位の経済大国になりました。政治的には、1987年以後、民主化の時代が開かれました。普通選挙によって政権が平和裏に交代する、高度な民主主義を実践する国家になりました。

  一方、北朝鮮では、もう一つの極端な歴史が開かれました。首領を脳とし、党を本体、人民を手足とする、そのように国家を一つの有機的身体と感ずる奇妙な政治理論の王朝体制が、そこに生じました。人民には政治的自由は許容されなかったのです。国際的に閉鎖された経済は70年代から全面的に後退し始め、90年代に入るとおよそ300万人が飢死するという大規模な惨劇をもたらしました。

  あまりにも極端なためか、20世紀の歴史に関する韓国人たちの記憶は分裂しています。これは、それほど変なことではありません。
成功した人は、自分の過去について健全な記憶を持っています。非常に貧しくて大変だった過去でも、「あぁ、その時代は本当につらかったなあ。」と言いながら笑います。一方、失敗した人の過去に対する記憶は、健全ではありません。「あぁ、あの時から何か間違った」、心は恨みで一杯になります。私は、個人や集団が、過去の歴史に対して恨みで一杯になった分裂的な記憶を持っていては、健全な未来を立てにくいと思います。 

  多くの文明の歴史を見れば、すべての成功は、それを否定する失敗の暗的要素を伴います。文明を構成する政治、経済、社会、環境、思想、文芸など多くの階層間の不調和のためです。長く繁栄する文明は、これら多くの階層間の矛盾と緊張関係をうまく調和させる能力を発揮しました。一口で言えば、総合と省察の知性ですね。それと、そういう知性に訓練された政治的指導力です。

  大韓帝国が滅亡したのは、そのような知性が不足して、そのようなリーダーシップが欠けていたからです。そんな根本的なことに関連して率直に言えば、21世紀初めの今日の韓国の知性も、貧弱なのは同じです。その水準では、歴史の真正な発展はまことに遅い歩みで進みます。去る60年間の建国史において、経済と政治は見事な発展を成しました。
対照的に、知性の水準は相変らず見劣りがします。見方によっては、朝鮮時代の性理学が蘇っている分野もあるようです。その時代の歴史を総合的に省察して教育する能力が、大変不足しているように見えます。そのために、過去史に対する記憶が分裂状態になるしかないのかも知れません。

  私は、そういう記憶の分裂症状が身体の外科的症状として現われたのが、現在進行中の「過去史清算」だと思います。今の政権が成立して以後、おおよそ13個の特別法が制定された上に、年間おおよそ1500億ウォンの予算を投入して、遠くは1894年の東学農民一揆の歴史まで遡って是非を正すという、「過去史清算」作業が着手されました。私がこの作業に非常に批判的な理由は、決して、清算の対象となる人々の個人的なでき事を取り上げて是々非々を選別するからではありません。この作業そのものが、将来、韓国の現代文明を失敗に追い込んでしまうかも知れない不吉な兆候と感じられるからです。
すべての成功は、その内部に失敗の要因を孕んでいると言います。正しく、そういう要因として不吉だからです。

  
過ぎ去った20世紀の歴史にまだ是非を正すべき問題が残っているという分裂的な記憶には、また、その恨(ハン)の症状としての、大韓民国は最初から過ちによって生まれたという建国史の否定には、民族を歴史の単位として設定する「民族主義史学」が前提に置かれています。民族を基礎単位に設定する限り、 国が滅び、また南北二つに分かれた歴史を見て、まともな歴史だと言えないのは、あまりにも当然のことです。 

  その次はどうなりますか?
 統一が成れば歴史の正義が回復したと言えます。その厳格な信託の前では、大韓民国の歴史的位置は見すぼらしくてしょうがないです。早く歴史の舞台から引っ込む準備をしなければなりません。
  ひどい言い方だと言わないでください。皆さんの息子や娘が学んでいる中・高等学校の教科書が、皆さんの現代史と統一をどんな風に教えているのか、行間を意識しながら綿密に読んで見てください。私の言葉が事実であることを確認できるでしょう。

  民族は、そのように歴史を超えた実体ではありません。民族は、20世紀になってから、韓半島の住民集団に親しまれる概念として接近してきたのに過ぎないのです。また、民族は、これから新しく展開される歴史と共に、迅速に他の形態と概念に変わって行くでしょう。そのように、「民族」は歴史的に流動する概念なのです。
  私は、これまでの講義でこの点を繰り返し強調して来ました。民族が分断されたと言えども、そうやってできた国家の歴史を過ちだと言う、どんな根拠と妥当性もありません。分断された民族が一つに統合されればより良い国家の歴史が開かれるだろうと言う期待も、何の根拠と妥当性も持つことができません。

  民族の代わりとなる歴史の基礎単位は何でしょうか? 人類の長い歴史において、近代文明はやがて、我々人間の本性を「理性ある利己心」と理解するに至りました。人類の文明史は、そういう本性を持つ人間たちが、お互いに信じ、頼って、分業しながら、より広い範囲にかけてより有機的に統合された秩序を作って来た、進化の歴史です。家族、親族、村、協同組合、市場、階級、利益団体、学校、教会、官僚制、国家、民族等々がそういう文明的秩序体ですね。正に、そういう文明の歴史で20世紀の韓国史を再構成すれば良いのです。言い換えれば、民族の代わりをする歴史の基礎単位は、「理性ある利己心」の個々の人間だと思います。
その人間の本性とは、具体的には、自由、人権、協働、思いやりの美徳です。正しくそういう本性と美徳の人間たちを観察の対象にして、彼らが立てて来た信頼と反目、協働と対立の歴史を、家族から国家に至るまでの多様な水準にわたってそのまま描写するのが、私が追い求める20世紀の歴史です。
                   (続く)

イ・ヨンフン教授特別講義10(2)

<1950年代は暗鬱なだけの時代だったのか>

『解放前後史の再認識』特別講義10
伝統と近代が融合する近代化の過程
  
 
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
ニューライト・ドット・コム 2006-06-29
http://www.newright.or.kr/read.php?cataId=nr03007&num=1741


               (翻訳その2)

 別の話ですが、当時の韓国の人々の一般的意識において、人間の社会的成功と幸福を決める一番重要な要素は、学歴でした。それで、誰もが大学へ行こうと努力したのですね。貧しい農民が牛を売っても子を大学に行かせる現象は、決して珍しいことではなかったです。それで大学のことを、ウゴルタプ(牛骨塔)と称する変な言葉まで登場しました。子の勉強のために、農家に無くてはならない牛を売るような無茶をする民族が、この地球上にどこにありますか? 我が民族ですね。そうだったから、60年代以後の高度成長を可能にした「社会的能力」が、社会に多く蓄積されることができたのです。

  また50年代は、社会構造にも顕著な変化があった時期でした。都市人口の比重が、1949年の17%から1960年に28%に増えました。ここには、朝鮮戦争のときに越南して来た同胞たちが都市に居住することで、実際の産業の発展とは無関係に都市が肥大したという原因もあります。ともかく、都市を中心にした中産層と彼らの市民社会が成熟し始めました。
  越南同胞の大部分はキリスト教徒で、商工業に携わる人々でした。彼らが韓国市民社会の発達に寄与した役割は、小さくありません。女性の社会的権利と参加が大きく伸び始めたのも、50年代です。女子大学生の数は、1945年にわずか1086人でしたが、1960年に1万7千人にまで増大しました。

  都市だけではありません。農村社会も変革を迎えていました。これについては、私たちの本に載せられたイ・マンガプの 「1950年代韓国農村の社会構造」という論文を参考にすることができます。先に言及しましたが、農地改革を通じて農村社会の伝統的な身分関係が消滅しました。両班が常民身分を支配した農村社会の構造は、すでに植民地期にかなり消えつつあったものの、相変らず地方によっては強く残っていました。
  そういう身分制度が、50年代に至って完全に消去されたと言えます。両班家の葬儀の輿を町内の常民たちが担ぐ、そういうひどい事はこれ以上なくなりました。 両班と常民は、お互いに記憶している昔の身分のため、心安く付き合って協力するのは大変でした。そのような身分制の沈澱物が薄く残ってはいましたが、新しい近代的な身分とでも言いますか、学歴を中心にする社会関係が成り立つことによって、高等教育を受けた人なら両班と常民を選り分けないで、お互いに交流し協働する信頼関係ができていました。

  最後に、50年代の経済について述べます。これに関しては、先立って紹介したウ・ジョンウンの論文が、50年代を再評価する先駆的な役割を果たした研究です。
  50年代の経済に関してまず指摘しなければならないことは、解放、分断、戦争を経験する中で、南韓の経済がまことに惨めな状況に陥ってしまったという事実です。およそ1920年代に後退したと言っても良いくらいでした。南韓の経済が1940年の水準を回復するのは、 1965年になってからですね。50年代がいかに惨憺たる状況だったかは、財政の7割がアメリカの援助資金によっていたことを見れば、よく分かります。率直に言って、50年代は、アメリカの援助に寄生する乞食とも言うべき国でした。

  しかし、話はここからです。アメリカの援助で生きる国が、アメリカの意図に反して、独自の経済政策を広げたのです。アメリカは、韓国が独自路線で工業化できるとは思わなかったし、日本があるからそんな必要もないと考えました。アメリカの望むことは、韓国がアメリカの援助で日本の工業製品を購入することでした。アメリカの立場では、それは援助の効率を高める方策でもありました。しかし、頑固極まりない李承晩は、アメリカの言うことを聞きません。再び日本に従属するなど、話にならない話でした。そして、冷戦の前線基地である韓国をアメリカが捨て去ることはできないとの読みでした。李承晩は、自立経済の建設のための独自の工業化路線を展開しました。それを輸入代替工業化戦略とも言います。そのために、李承晩大統領は、暗市場の市場為替より3倍位低い低為替政策に、頑強に固執しました。

 もう少し具体的に説明します。例えば1956年、アメリカの対韓援助が3億ドルに決まったとします。3億ドルのお金が来るわけではなく、3億ドルのアメリカの物品を無償で購入できる権利が与えられるのです。政府は、3億ドルを民間の輸入業者に割り当てます。例えば、ある業者が100万ドルの配当を受けたとしましょう。その業者は、それに相当する韓国貨幤を韓国銀行に預けた後に、輸入許可を得ることができます。 こういう方式で援助資金が執行される際に輸入業者の負担を軽減するためには、ドル準備為替を低くする必要があります。それで、例えば市場為替が1:500なのに1:150の低為替を維持したのです。

  ドルの配当を受けた輸入業者は、思わぬ利益を得たことになります。アメリカから輸入した品物をそのまま市場で売れば、3倍の利益が出ますから。それでも政府がそうしたのは、その輸入業者がアメリカから原料や部品、機械を買って来て工場を作ると期待したからですね。言い換えれば、そのように工場を建設する時の企業家の負担を軽くするために、低為替政策を固執したのです。そういうやり方で工業化を急ぎ、日本から輸入しなくても良い自立経済を作ることが、当時の李承晩大統領の夢でした。

  実際に企業家たちは、政府の期待どおり工場を建てて経営したでしょうか。そうだったと言えます。主に小麦粉・砂糖・綿紡織のような消費財工業の工場が建設されました。皆原料が白いため、これらを三白工業とも言いました。その他にガラス、製錬、セメント工場も建設されました。肥料工場は着手されたんですが、完工しませんでした。
  このような輸入代替工業化の結果、50年代の経済は、年間4.9%の低いとは言えない成長率を見せました。製造業の発展は、年間10.6%というかなり高い水準でした。少なくともそれだけの成果があったから、60年代に輸出主導工業化に経済の戦略が変わる時も、対応できたわけです。

  ところで、ドルの配当を受けた業者が、アメリカから輸入した物資を横流ししたり切り売りしたりすれば、どうなったでしょうか。管理すべき政治家や官僚がその仕業に目をつぶって賄賂を受けたりしたら、どうなったでしょうか。
  当時、大部分の後進国がそうでした。アフリカの一部の国々は、今日でもそういう状態です。ところが、50年代の韓国政府はそうではなかったのです。不正腐敗はともかくとして、援助資金や物資が工場の建設と稼動に回るという基本的な流れを変えたり、滞らせることは決してなかったのです。
  ウ・ジョンウン教授は、このことについて、不正腐敗が政治の躍動性によって相殺されたと言いますが、簡単に言えば、経済開発に掛けた為政者の意思がきちんと伝わり、市場に代わって資源を配分するに当たり、一定の原則と効率性が働いていたのだと理解しても良いと思います。

  紙面の関係上詳しく説明する余裕はないですが、二、三点申し上げれば、援助資金を割り当てるのに、適当に誰にでも割り当てるのでなく、工場を建てるに値する実需要者たちに優先的に割り当てた、という点を指摘することができます。また、国民経済の立場から輸入物資の優先順位を決めた後、物資ごとに適用される為替を異にしました。緊要な物資に対しては低い為替を、緊要さで劣る物資には少し高い為替を、あまり重要ではない物資に対しては非常に高いレートを適用したのです。

  ある研究者の計算によれば、当時の公定換率と市場為替の差によって、援助ドルの配当による超過利潤は、GNPのおよそ10%の水準だったと言います。この巨大な超過利潤が、工場を建てて経営する意志と能力がある人に優先的に還元されるようにしたことが、上のような復数為替制と言えます。要するに、1950年代当時、外国為替市場を通さないで(当時はそんな市場はなかったです)政府が確保したドルを裁量で割り当てるにおいて、それなりの一貫した基準と道徳性が確保されていました。だからこそ、後進国型の不正腐敗と政府の失敗を避けることができたのです。

  一つの社会と国家が内包しているそういう実務的政策能力と道徳的規律能力を、過小評価しては困ります。そんなことは、どこの国にも良くある歴史の美徳ではありません。多くの後進国が、そういう道徳性で失敗しました。しかし、大韓民国は違いました。先立って紹介しましたが、李承晩大統領は、ただ1ドルを惜しんでどのようにしましたか。大韓民国の建国史をむやみに卑下する人々は、この点を良くよく考えて見てください。

  いよいよ話をまとめる時になりました。その前に一つ、1958年から経済が悪くなり始めました。アメリカの対外政策が根本的に変わり、援助が大きく減ったからです。投資資金をほとんど全面的にアメリカの援助に頼っていた韓国経済は、急速に悪化しました。新しい国際環境に合わせて、新しいパラダイムの発展戦略が要求されるところでした。もう年齢80を越した老大統領には、そんな能力はありませんでした。そうこうしているうちに2年経った時点で、彼の政府は崩壊してしまいました。いよいよ私たちの解放前後史も、終わりに到達します。明日は、これまでの講義を整理して見ることで、結論の代わりとします。

              (特講11に続く)   

 
                   

イ・ヨンフン教授特別講義10(1)

<1950年代は暗鬱なだけの時代だったのか>

『解放前後史の再認識』特別講義10
 伝統と近代が融合する近代化の過程
  
 
[イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
ニューライト・ドット・コム 2006-06-29
http://www.newright.or.kr/read.php?cataId=nr03007&num=1741


               (翻訳その1)

  1950年代と言えば、普通の韓国の人々は、暗い時代だったと記憶しています。1950年代の歴史的記憶の暗いところは、まず、李承晩政府が1960年に3.15不正選挙を企てて4.19という国民的抵抗で崩壊したという理由が大きく作用するようです。もう一つの理由は、1960年代以後との比較のせいであるでしょう。60年代以後の高度成長に比べて、50年代の実績は見劣りがします。何か開発計画みたいなものがあって、国民に希望を与えながら成長潜在力を総動員した、そういう時代でなかったのは事実です。60年代以後の朴正煕政府は、そういう50年代の無気力をよく指摘しましたが、そうすることで自分の業績を誇示しようという政治的考慮があったと思います。

  50年代が暗鬱に記憶される最大の理由は、多分、不正腐敗にあるでしょう。どれくらい不正腐敗がひどかったのか、当時の証言記録を読めば想像を超えるほどです。朝鮮戦争の最中の1951年1月のことです。第2国民兵に組職された国民防衛軍の司令官以下高級将校たちが軍需物資を横領して、おおよそ9万名の兵士が飢え死に、凍え死ぬという事件が発生しました。将校たちの進級はほとんど全部、賄賂の結果でした。そのころ、領官級将校が一月の給料で家族を食べさせられる期間は、わずか10日に過ぎなかったのです。後に5・16革命に主導的に参加した当時の中佐階級のイ・ソクチェは、月給がすぐに無くなり、三日間飢えた事があると彼の回顧録に記しました。

  不正腐敗は軍だけのことだったのではありません。 一国の経済循環が全部そうだったと言っても良いほどでした。アメリカから来た援助資金の一部は、政府→企業→自由党と流れる政治資金でもありました。企業はそんな不正な補助物の中でこそ、企業として大きくなることができました。このことについては、『解放前後史の再認識』第2冊に載せたウ・ジョンウンの「非合理性の裏の合理性を捜して~李承晩時代の輸入代替産業化の政治経済学」と言う論文を参考にすることができます。この論文に関しては、後でまた言及します。

  ところで、その時代の不正腐敗について、私の考えは少し違います。また非難されるかも知れないですが、それは、確かに、貧困がもたらした我々の歴史の文化でもありました。先日、歴史の業報ということを述べましたが、誰が誰を咎めることもできない、皆が時代の共犯である、そういう歴史の業報でした。

  詳しい例を挙げる余裕がないですが、
19世紀までの朝鮮王朝の時代は、自由財産制度が確立されない中で両班官僚が民に畑を耕させて食べると言う具合で、不正腐敗が経済生活の原理として自然に定着した社会でした。日帝下では綱紀が厳格で、こういう例を捜しにくかったんですが、解放後には癖のように蘇りました。1937年から地方の面役場書記として出発して一生を公職で過ごしたある人の回顧によれば、日本統治期には、上級者が異動すれば事務室の机の上にサイダーやお菓子を置いて歓迎会や送別会を開いたが、解放後は妓生(キーセン)の店に場所が変わったと言います。

  よその話しをするまでもないです。私が育つ過程で見聞きした周辺の状況も、一面そうでした。私は1973年~1976年の間、陸軍の兵卒として休戦ラインあたりで勤務しました。鳥肉や豚肉はまさに見ることも難しく、それらを煮たスープだけ飲みました。将校たちだけが食べたというわけでもありません。下士官、甚だしくは兵長まで、ぬけぬけと食堂入口に監視に立ち、兵卒たちが食べる生肉を持って行きました。ある日師団から連隊へ米を運ぶトラックに乗った事がありましたが、ある峠の上で連隊の軍需係を務める兵長が米俵を押して道路に落としました。すると待っていた民間人が何人か飛び出して来て、米を持って行きました。他人が傍にいるのもかまわず、一兵卒がそんな仕業をしました。何故ならばあまりにも古い、受け継いだ習慣だからでした。

  個人的な経験談になってしまいましたが、そのように我々の歴史において不正腐敗と言うのは50年代だけのことでもなく、為政者だけの責任だという訳でもなく、古い一種の文化のようなものとして、経済が豊かになることによってのみ癒すことができる歴史の業報だったという点を強調して見れば、そういうことになるのです。

  そのように観点を変えてみれば、50年代は不正腐敗が深刻な時代ではあったが、腐敗しない部分もあったし、だからこそ、意外と少なくない成果があった時代であったと言うこともできるのです。50年代と言っても、実は休戦の1953年から7年間という短い期間ですが、その時代を前提にしなければ60年代以後を説明することができない、そういう変化と発展が見られました。その話をしたいと思います。

  まず 『解放前後史の再認識』第2冊に載せられたユ・ヨンイクの 「巨視的に見た1950年代の歴史~南韓の変化を中心に」を紹介します。ユ教授は、1950年代を、19世紀末の開化期から始まった西勢東漸と言う長期的趨勢の一局面と位置づけています。歴史は、そのように長期的、文明史的な視野で観察すると良く分かります。言い換えれば、私たちの伝統と外来の近代性が接触して融合する近代化過程の一局面として50年代を見るという意味ですね。

  ユ教授は、多くの学生、官僚、軍人が、その期間に海外留学したことに注目しています。1953~1966年の間、7400人の学生が海外留学に行き、50年代にわたって2400人の公務員が海外短期研修や視察に行き、50年代に9千名以上の将校が、海外訓練を受けて帰って来ました。行って来た主要国は、アメリカでした。ユ教授は、旧韓国末に開化派が試みた連美(アメリカとの提携)方式の近代化、その延長線上にあると言います。一生を学問に捧げた偉大な学者だけが、そのような広くて長い視覚で歴史を見ることができます。

  次に、ユ教授によれば、1950年代は、歴史上初めて共和制民主政治が試みられ、それなりに根付いた時期でした。李承晩の権威主義的独裁がありましたが、おおよそ民主主義の基本構造が崩れた事はありません。予定された選挙は必ず実行しなければならなかったし、政権党はその選挙に勝つために必死の努力を傾けました。そこから不正選挙が出たのですね。建国以後1960年までおおよそ7回の選挙が実施され、普通選挙制が定着して行きました。国民の政治意識も発達して、事実上、両党制が定着していくというかなりの成果をおさめました。

  そういう点で、私は、50年代の政治を指して今日の歴史教科書が「民主政治の試練」と語ることは、正しくないと思います。何故ならば、そんな言葉には、それ以前のある時期に民主政治が花を咲かせたことがあるという前提が含まれていますが、どう考えてもそんなことは無かったからです。50年代は民主政治の「試練」というより、「陣痛」または「産みの苦しみ」と呼ぶのが正しいでしょう。歴史上初めて民主政治を学習して実践する過程で、多くの試行錯誤と費用の支払いが必要であったという意味です。

  50年代が成した一番確かな成果は、教育の分野にありました。「教育の奇蹟」または「教育革命」と呼べるほど、教育に対する国民の需要が爆発した時期が50年代です。義務教育が施行され、学校と学生の数が大きく増加しました。1945~1960年に小学生が136万人から359万人へ、高校生が8万人から26万人へ、大学生が7800人から9万8千名に増加しました。大学生の数があまりにも増えて、 「大学亡国論」と言ってその社会的弊害を心配する話が出るほどでした。


             (続く)  

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Chaamiey

Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

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