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イ・ヨンフン教授の『アリラン』批判 書庫目次

イ・ヨンフン教授の『アリラン』批判
 我々の時代の進歩的知識人④趙廷来(チョ・ジョンレ)論
 狂気を帯びた憎悪の歴史小説家、趙廷来 大河小説『アリラン』を中心として
(1) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-562.html
(2) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-563.html
(3) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-564.html
(4) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-565.html
(5) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-566.html
(6) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-567.html


イ・ヨンフン教授の『アリラン』批判を読んで
 https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-568.html

『アリラン』は100刷
 https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-569.html

小説家の反論
 (1) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-427.html
 (2) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-570.html

論理的な反論を求める
 https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-571.html

イ・ヨンフン教授、怒りの(?)再批判
 https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-572.html

イ・ヨンフン教授の『アリラン』再批判
 「金堤の歴史の奔流に進入できず、異邦人として彷徨っただけのチョ・ジョンレと、何を知り何を知らないかの区別さえできないMBC-チョ・ジョンレとMBCの反論に対する再反論」
(1) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-573.html
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(3) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-575.html
(4) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-577.html
(5) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-578.html
(6) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-579.html
(7) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-580.html
(8) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-581.html

小説家は沈黙か
https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-582.html

アリラン文学館
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韓国の掲示板への投稿
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韓国の掲示板への投稿結果
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アリラン文学館


アリラン文学館とアリラン文学碑


<全羅北道金堤市 アリラン文学館>


金堤市ホームページ
http://arirang.gimje.go.kr/06letter/01intro/


(翻訳)

  大河小説『アリラン』は、1990年12月11日韓国日報での連載を皮切りに、1995年8月の解放50周年を迎えて第12巻を出刊、1996年には研究書である「アリラン研究」(チョ・ナムヒョンほか11人)が出刊され、同年、フランスのアルマタ出版社とアリラン全12巻完訳出版契約が締結され、初めてフランス語出刊が成り立ちました。2007.1.29に初刷り第1刷が出てから13年で100刷(第1巻から数える)を突破し、現在まで第1~12巻を合計して806刷となり、累積販売部数330万部を記録するなど、日帝強占期を扱っている小説の中で一般読者に一番広く読まれている代表的歴史小説です。

  趙廷来先生がインタビューを通じて言及したように、日帝強占期を扱う小説の背景として<チンゲメンゲン>(金堤万頃)が選択された理由は、「収奪された土地と虐げられた人々」が民族の受難と闘いを代弁する小説の中心軸だからです。「アリラン」が童謡、望郷歌、愛情歌、輓歌、闘争歌として民族の歌になったように、小説の中の<チンゲメンゲン>(金堤万頃)は、強奪される朝鮮の魂と身の象徴であり、同時に、最後まで民族独立のために闘った無数の民草たちの生を胚胎した地として、アリランを通じてまた一つの主題を持つことになりました。金堤市アリラン文学館は、このような歴史•文化的価値と意義を所蔵し及び伝達するために持続的な事業を計っています。

2003年5月16日開館
資料は小説「アリラン」と趙廷来先生関連350点



<コメント>
 金堤万頃平野の豊かさをいとおしみ、小説の主要舞台として設定し、何度もその平野のことを描写し、それが日本人に奪われて行った悔しさを表現したのに、実はそこは荒れ地だったのが日本人が来てから豊かになっていったということが、イ・ヨンフン教授の論証によって明らかになってしまった。言わば、小説がその土台からひっくり返されたことになる。

 この事態は悲劇かそれとも喜劇か。(どちらであっても作者に同情する気にはならないが。)


 しかし、フランス人は、4000人銃殺や1000人閉じ込め虐殺や300万人虐殺などの話を信じているんだろうなぁ。「そうか、韓国人は過去に日本人からこんなに酷い目に遭わされたのか。」、「現在の韓国人が日本人に対立感情を持つのももっともなことだ。」、「日本人はもっと率直に過去を反省すべきではないか。」などと・・・・・・・。


 このようなウソ小説は、日本という国家に対する誹謗中傷であり侮辱ではないか。


 韓国人の歴史捏造には慣れてしまったとはいうものの、あらためて怒りが湧いてくる。

小説家は沈黙か

 
 
 イ・ヨンフン教授の『アリラン』批判は、2回ともニュースでは結構大きく取り上げられたわけですが、もともと掲載された季刊『時代精神』(ネット版)ではどういう反応があったかというと、ヒット数は表示されていないので分かりません。

 読者からの書き込みはできるようになっていますが、最初の寄稿「我々の時代の進歩的知識人④趙廷来(チョ・ジョンレ)論」には書き込みはありません。


 2回目の「趙廷来とMBCの反論に対する再反論」には1件だけ書き込みがありました。日本の名誉にも拘る話の虚構性を明らかにする論考ですから、私もイ・ヨンフン教授に敬意を表しておきました。併せて紹介します。





1 キム・テウォン 2007-09-07
 『アリラン』と『太白山脈』を私も読みました。面白くはあったけれども何とも表現し難かった息苦しさが、教授の文を読みながらすっきりと消える気持ちでした。ありがとうございます。ひまを見て、教授が指摘される内容を中心に、金堤一円を一度見てみたい気持ちです。
 ところで地図と資料は到底肉眼で判読できません。本では紙面の関係上仕方ないとしても、インターネットにはもう少し解像度の高い資料を上げてくだされば多くの役に立ちます。
 教授の御健勝を祈ります。いつも健康でお過ごしください。



2 mini-light  2007-12-16
 『時代精神』夏号の趙廷来論と併せて今日すべて読みました。よく読みました。
 小説「アリラン」の内容がこのように酷いということを知りませんでした。このような根拠のない話を事実だと信じて、その結果として多くの人々が反日感情を意味もなく増幅させているのでしょう。それは両国国民にとって不幸なことで、本当に遺憾なことです。
 その虚構性を指摘なさる教授の実証的な研究活動に敬意を表します。






 で、イ・ヨンフン教授の2回めの文章が発表された後に、さらに作家あるいはMBCから反論があったのかどうか調べて見ました。ヤフー・コリアで「チョ・ジョンレ、アリラン、イ・ヨンフン」の検索語で検索しましたが、2回めの文章以後のニュースは見当たりません。小説家は沈黙したのでしょうかね。





 

イ・ヨンフン教授の『アリラン』再批判(8)

趙廷来(チョ・ジョンレ)とMBCの反論に対する再反論
[イ・ヨンフン ソウル大学経済学部教授] 『時代精神』2007年秋号


(翻訳8)

5 公営放送の無責任な報道
 私はずいぶん前から、韓国の歴史教科書が、植民地時代に日本が土地の40%を奪って、食糧を50%も積み出し、650万人もの人々を強制連行して、数十万人の女を挺身隊として動員して日本軍慰安婦にしたと教えていることが皆事実ではないと主張している。そんな主張に対して、私に返って来たのは悪口と誹謗だけだった。小説家のように名誉を得て金を儲けることとは距離が遠いことだった。それでも、愚かにもそんな主張を続けて来たのは、事実ではないことは事実ではないと明確にすることが知識人の責務と信じるからだった。それでこそ国民の歴史意識も先進化して、韓国が先進国へ発展するのに役に立つと信じるからだそういう私がなぜ「日本人よりももっと日本人になりたい人」などという人身攻撃を受けなければならないのか、私は理解することができない。チョ・ジョンレには、今まで書いた私の論文から私をそういうふうに攻撃しても良いと言える根拠を捜して提示することを望む。 
  去る7月初め、MBC放送は、<ニュース後>という番組を通じて私のチョ・ジョンレ批判を公開的に責めて非難した。その少し前に、MBCはそのことで私にインタビューを二度要請した。私は、今回のことはチョ・ジョンレが私の批判に文章で答えるべきものであって、公営放送が介入することではないという理由で断った。<ニュース後>によれば、チョ・ジョンレもインタビューを断ったそうだ。そのように論争の当事者が口をつぐんでいるなら、事実の客観的な報道を本来の責務とする公営放送が私とチョ・ジョンレの間に介入する根拠は無いと思う。
 それでも敢えて興味を持って介入する意思があるなら、いわゆる「企画報道」という方式がある。研究者が何ヶ月かにわたって論文を書くように、放送局のPDらが多くの時間と費用をかけて隠された事実を明らかにするのが「企画報道」だ。労力をかけた企画報道は論文より立派だ。しかし、インタビューを断ってからわずかの後に、MBC放送は<ニュース後>を通じて私を公開的に罵倒した。どうやって、そんなに短い時間で論文に匹敵するような企画報道を作り上げることができるというのか。それは、放送局の担当PDが朝鮮時代と植民地時代の歴史に関して何が分かっていて何が分かっていないかの区別さえできないほど無知な中で制作された。無知だから勇敢なのであって、他の何のためでもなかった。
  担当PDは、碧骨堤を訪れて、三国時代以来その地域に田があったというある研究者の証言を聞き取った。ソウル大学の奎章閣を訪問して、19世紀の金堤邑誌から田の面積がいくらだったという記録を捜し出したりした。金堤の農民たちにマイクを向けて、日本人は水利施設を作ったが米を全部持って行ってしまったではないかという非難も引き出した。しかし、旧韓国末期の金堤・万頃平野は水利施設が不備で荒れ地の状態にあったという私の主張に対して、なぜその地域に古代以来田があったということを立証することが反論になるのか。私は、担当PDが歴史に対して全然訓練されていない門外漢だと言い切ることができる。彼に忠告する。金堤に田があったことを一番確かに伝える最初の記録は、15世紀初頭の『世宗実録地理志』だ。それによれば、金堤の田畑は全体で7,281結、その5/8が田だった。
 担当PDは、日本の千島列島で朝鮮人4千人が虐殺された小説の中の事件は事実ではないという私の主張に反駁するために、ある研究者を捜して、日本軍がサハリンで朝鮮人を虐殺したと推察されるという証言を引き出した。担当PDはサハリンと千島列島の区別さえできない。どうしてサハリンであったと推察される事件を持って千島であった事件の証拠にしようと思うのか。 
  以前の文で、私は、小説家が義兵戦争当時の日本軍が「三光作戦」だとか「くしけずり作戦」として焦土化作戦を展開して幾多の民間人を殺したということが「ひどい誇張」だと指摘した。これに対してMBCのPDは、よく知られたF.A.マッケンジーの『朝鮮の悲劇』(乙酉文化社、1984)を引用して私の主張に反駁した。マッケンジーのよく知られた証言は、大韓帝国の軍隊が1907年に強制的に解散させられた後、数万名の軍人が忠北提川と江原道寧越一帯で日本軍と熾烈に戦闘をしたその地域を対象にしたものだ。私がそれを知らないのではない。私が批判したのは、小説家が1909年8月から二ヶ月間の湖南義兵を主な対象にしたいわゆる「南韓大討伐」において、日本軍が民間人を血生臭く虐殺する場面を小説の中で演出した点だった(一例として第2巻134~137p参照)。公式記録によれば、当時、湖南義兵の被害は1907年義兵戦争の被害の1/40に過ぎなかった。民間を相手として焦土作戦を広げる余地はあまりなかった。MBCのPDは、私がチョ・ジョンレのどの記述を「ひどい誇張」と言ったのか、小説の中の該当の部分を確認しなかった。そんなに不真面目では立派な「企画報道」を編集することはできない。
 参考として、義兵戦争の被害状況に関して以前に私が読んだことがあるホン・スンクォン教授の論文を引用する。1907年以来、義兵側の死亡者は17,779人、負傷者は376人、捕虜は2,139人だった。1909年8月から10月にかけての湖南義兵の場合は、死亡者420人、主な義兵長26人を含めて捕虜1,687人だった。民間人虐殺や蛮行については「正確な記録が残っていない」と言う(ホン・スンクォン「義兵虐殺の惨状と南韓大討伐」,『歴史批評』45,1998)。これに比べてチョ・ジョンレが小説で記述した被害状況は、1907年以来の義兵側死亡者16,700人、負傷者36,800人、燃えた家6,000軒で、1909年の湖南義兵の場合、死亡者4,200人と言う(第2巻142p)。この4,200と言う数字に注目する必要がある。公式報告数である420人のちょうど10倍だから、悪口を言うために誇張したことが分かる。燃えた家が6,000軒なら、ある村を平均20~30戸と数えれば南韓全域にかけて200~300の村が焦土化されたという話だ。MBCの PDに問う。マッケンジーの本がそれを証明しているかどうかを。
 <ニュース後>は、私のチョ・ジョンレ批判と何の関連もない日本軍慰安婦問題を放送中に何度も取り上げて、私が慰安婦たちが金を儲けるために自発的に行った女たちだと語ったようにあげつらった。これほどひどい歪曲報道の事例は捜しにくいだろう。<ニュース後>が繰り返し上映した3年前の「MBC深夜討論」の場で、私は、慰安婦という犯罪行為が行われたのには、それに協力する慰安所の抱え主のような多数の朝鮮人がいたという主旨の発言をした。その発言を、女たちが金を儲けるために自発的に行った公娼だったという意味で報道することで大きい社会的物議をもたらしたのは、oh my newsというインターネット新聞のある軽薄な記者がそういうふうに報道したからであって、他の何の理由によるものでもなかった
 3年前にマスコミが犯した間違いは、3年後にMBCの<ニュース後>を通じて正確に繰り返された。最初から聞き分けることができない人々を相手に複雑な話をした私自身の過ちも少なくない。それで、去る5月に出版した『大韓民国物語』(キパラン社)という本で、私は、日本軍慰安婦に関して私が知っている全てのことを詳しく書いた。MBCのPDに聞く。君が批判の的にした人を、君はどれほどまじめに調査したのか。やはり、細密な調査と漏れるところのない考証は韓国の放送と無関係なものなのか。韓国の放送も無責任な歴史小説のように一裾の風に過ぎないのか。

(終)   『時代精神』



イ・ヨンフン教授の『アリラン』再批判(7)

趙廷来(チョ・ジョンレ)とMBCの反論に対する再反論
[イ・ヨンフン ソウル大学経済学部教授] 『時代精神』2007年秋号



(翻訳7)

4 ウェリと堂山木

 チョ・ジョンレが、年代記型歴史小説が要求する緻密な準備作業を略したまま原稿紙と万年筆だけで小説を書き始めた状況は、小説の初めから確認される。
  小説は、1904年、ハワイへ20ウォンで売られていくパン・ヨングンの話から始まる。私は、この「ウォン」という貨幤単位が何なのか分からなかった。当時の全羅道は旧貨幤である「葉銭」の流通区域だったから、当然20両が正しい。金剛以北で流通していた新貨幤の白銅貨だとしても、白銅貨20元なら当時の市場で米3~4斗しかにならない。そういう金で人がハワイまで売られることは想像しにくい。

 小説を読み進めれば、20ウォンの貨幤は白銅貨であることを示す場面が何回もある。しかし、小説家は白銅貨が何なのか知らない。例えばイ・ドンマンと言う小説中の人物が、車引きに10ウォンと言う大金を惜しげも無く支払うときに、白銅銭を3、4個投げた(第1巻161p)。しかし、10ウォンとするならば白銅銭40個を投げなければならない。

 1908年3月、アメリカ・サンフランシスコでチャン・インファンが親日派アメリカ人スチーブンスを狙撃した。僑民たちがチャン・インファンの弁護のために裁判で通訳する人を探し、ハーバードで修士学位を受けた李承晩が招請された。1908年7月16日、サンフランシスコに到着した李承晩は、僑民たちの家に泊まらずに高級なホテルに泊まった。裁判が長引くと、李承晩は、論文を書かなければならないとして薄情にも帰ってしまう。クリスチャンだから殺人者の弁護に協力することができないという話も残した(第2巻113p)。

 しかし、李承晩がハーバードで修士課程を修了したのは1908年8月のことで(修士学位取得は1910年)、9月にプリンストン博士課程に入学したから急いで博士論文を書くこともなかった。良かれ悪かれ歴史的に重要な意味を持つ実在の人物を小説に登場させて、こんなに馬鹿馬鹿しい悪口を書いて良いものか分からない。

 1915年、総督府は一種の博覧会である朝鮮物産共進会を開いた。そこに日本人の作ったゴムのはき物が出品されて以後ゴムのはき物が大人気となった。小説家は朝鮮人の金が止め処も無く日本人の手中に吸い取られていく世相を嘆いている(5巻254P)。しかし、実際は、日本人の作ったゴムのはき物は朝鮮人の趣向に合わず、人気がなかった。ゴムのはき物の人気が出るのは1920年代からだ。平壌の民族資本家たちが日本で技術を習得して来て、朝鮮人の好みにあうゴムのはき物を作って旋風を起こした。平壌のゴム工業は、植民地期には珍しく自生した民族工業の一つだった。小説家が1973年に出たチョ・キジュン教授の『韓国企業家史』(パクヨン社)を読んだなら、上のような間違いは避けることができたはずだ。

 こんなふうに一つずつ挙げて行けばきりが無いので、もう一つだけ指摘しておく。以前の文でも指摘したが、小説家はほとんどいつも、小説の中の事件と人物を取り囲む空間を明確にしていない。小説家が小説の主舞台が金堤郡の竹山面だと明らかにするのは第2巻194ページだ。あくどい親日派ペク・チョンドゥが、1910年韓日併合に寄与した功労で竹山面の面長(村長)に任命される場面だ。しかし、1910年当時に竹山面はなかった。地図2で見るように鴻山面竹山里があるだけだった。その竹山里が竹山面になるのは行政区域の改編があった1914年のことであり、竹山里に橋本農場ができたためだった。このように、小説家は、小説の舞台がどんな行政区域なのかも調査しないまま小説を始めた。

 だから、カム・コルテク、パン・ヨングン、チ・サムチュル、ソン・スイク、シン・セホなど小説の主要人物たちの住む洞(村)が竹山面のどの洞里かもなかなか明らかにしない。ただ「洞内」だと言っている。そんな状態で村内の堂山木の下で小正月の遊びが起る(1巻256p)。小説家が町内の名前を竹山面のウェリだと明確にするのは第3巻になってからだ(3巻140p、163p)。その前に「洪山里ウェリ」と表現した場面があるが(2巻276p)、前後の脈絡があいまいだ。ウェリと内村の人々が一緒に集まる場面なのだが、互いに違う村をまとめて語ることができないから、やむなく村の名を付けたのだ。その前まで「洞内」とだけ表記したその洞里は、小説家自身にもその位置が流動的だったが、それはその町内が万頃江河口に位したように敍述した場面もあるからだ(第1巻258~267p)。

 ところで、そのウェリに彼が既にあると書いた堂山木がない。筆者が直接踏査した結果、堂山木を確認することができなかった。ウェリは平野丘陵地帯に四方が開けた所に位置し、堂山木があるような村ではない。ウェリの住民の氏姓構成を見てもそんな村ではない。ウェリのチャ・ガプスは、無かった堂山木に縛られて、無かった「朝鮮警察令」に基づいて銃殺された。




<写真5>チョ・ジョンレ文学館の堂山木の写真とその解説

 それでも、ここまでは小説だからということにしよう。いつだったか碧骨堤の前に立つチョ・ジョンレ文学館に立ち寄った。そこで私は、チャ・ガプスを銃殺に処した堂山木の写真を見た(写真5)。その写真はどこの村の堂山木を撮影して来たものか。博物館までこのような虚偽で飾っても良いのか。とにかくチョ・ジョンレは小説の現場を踏査しなかった。彼は金堤・万頃平野を、地平線でも眺めながら風のように通り過ぎただけだ。細密な調査と漏れるところのない考証は、チョ・ジョンレ小説家には時間の無駄であるだけだ。しかし、ただ小説家チョ・ジョンレだけに責任を問うことができるか。韓国の歴史学と言うものも、突き詰めて言えば一裾の風に過ぎないのだから。



(5に続く)





<コメント>
 最後の一言に注目。Wiki文法使用でなければフォントサイズ18ぐらいの赤字太字にでもするところです。さりげなく付け加えられていますが、韓国の歴史学者たちに対する実に痛烈な批判(皮肉かな?)の一言ですね。韓国の歴史学というものは、服のすそをちょっと撫でて吹き去る風程度のものだというわけです。

イ・ヨンフン教授の『アリラン』再批判(6)

趙廷来(チョ・ジョンレ)とMBCの反論に対する再反論
[イ・ヨンフン ソウル大学経済学部教授] 『時代精神』2007年秋号


(翻訳6)

3 均田と東学農民蜂起(続き)


 すると土地を捨てて去った農民たちが故郷に帰って来た。彼らは王室の約束を信じて熱心に土地を耕作した。しかし約束は守られなかった。土地がまた開墾されると戸曹(官吏)が国家に対する税金を集め始めた。王室に対する税を3年間兔除するという約束も1年に短縮された。税の額も低くならなかった。


 そのため農民たちは、元々自分たちの所有だった土地に対して国家と王室が重複して税課すことは不当だと何回も抗議したが、皆黙殺された。1894年に東学農民一揆が起きた時、百姓軍たちが要求した改革案の中に均田を廃止せよという条項が入っていたのはこのためだった。農民たちの要求は農民一揆が押えられるによって同じように押えられた。 以後も農民たちは上訴を上げたり集団行動を起こして王室の不当な仕打ちを改めよと要求したが、皆失敗した。リーダーたちは殴られ、監獄に閉じこめられ、流刑に処された。


 1904年、露日戦争で日本が勝利すると日本人たちの内陸進出が本格化した。群山港の日本人たちは金堤などの11郡を行き来しながら、土地を買い集めた。その時、農民たちは、王室に不当に所有権を奪われた均田を日本人たちに売ってしまった。その情報に接した王室は、泰仁郡主に命じて日本人に売られた土地を調査した。その結果、計774石落の田畑が密かに売られ、そのうちの489石落が均田であることが分かった。





<資料2> 日本人に売られた金堤郡の土地リスト


 資料2は、チョ・ジョンレが、年代記型の歴史小説が要求する「トラック一台分の資料」を見たならば見逃さなかったであろう、彼の小説に係わってとても面白い資料だ。当時の泰仁郡主が、日本人たちに売られて行った全羅北道11ヶ郡の土地を調査した資料だが、提示したのは金堤郡の最初の部分だ(『全羅北道臨陂全州金堤万頃沃溝益山 咸悦竜安扶安古阜砺山等十一郡公私 田土山麓外国人処潜売実数査検成冊』奎章閣21973)。売れた土地が所在した面と洞、土地を売った農民、土地の面積、仲買い通した人などの情報が羅列されている。土地を「均」と「私」に区分しているのは、均田と私有地を示す。第1行の大村面新興里は、ほかでもない、地図1Cのすぐ東に接する町内だ。


 やがて1906年、統監府は均田を廃止した。ところが、その恩恵は朝鮮の農民ではなく日本人地主たちに帰してしまった。要するに、水利施設の欠如による農地の荒廃化という生産力の矛盾が王室と農民の対立という社会的矛盾へ発展し、それに便乗して日本人の内陸進出が起きたという旧韓国末の悲劇の歴史を、以上のような均田の歴史がよく見せてくれている。この均田事件は、かつてキム・ヨンソプ教授の論文によって学界によく知られたところだ(金容燮、「高宗朝の均田収賭問題」、『東亜文化』8。そのほかに韓㳓劤,『東学乱 起因に関する研究』及び李栄薫、『朝鮮後期社会経済史』、ハンギル社、1988、242~245p参照)。


 『アリラン』の主要人物であるチ・サムチュルは東学軍出身だ。彼は1907年義兵に参加し、合邦になると一家を率いて満洲に上り武装独立運動に献身する。チョ・ジョンレは、チ・サムチュルを通じて東学農民一揆、旧韓国末期の義兵運動、満洲武装独立闘争につながる民族史の伝統を語りたがる。小説家にとって、東学農民一揆は小説が前提としている民衆・民族主義の歴史的根源として重要な意味を持っている。
 彼が農民一揆の主舞台である金堤一帯を小説の舞台として選択したのも、多分そのためであっただろう。ところが、彼には、実際に農民一揆を引き起こした一番深刻な社会的矛盾関係に対する理解が不足していた。その矛盾関係に便乗して日本人たちがその地に進入したけれども、そのことに対する理解も無かった。少し忠実な準備さえしたなら、彼はキム・ヨンソプ教授の均田に関する論文を求めて読むことができたろうし、少しの誠意で専門家の助力を求めたら、私が上で紹介した奎章閣所蔵の資料を入手することも難しくはなかったはずだ。


 本当にそうしたならば、彼の小説は、申し分のない具体的リアリティーと真摯な省察の歴史小説として組み立てられたはずだ。要するに19世紀末の均田と東学農民一揆、20世紀初頭の日本人の均田買収、それに続く干拓事業と水利施設の建設、そして前の論文で紹介した東津水利組合の結成、河川流域変更式「雲岩堤」の竣工などは、20世紀前半の金堤・万頃の歴史を小説に書く時、皆一つの関連体であり、どれ一つ除くことができない重要な事件だ。


 詳しく書く余裕がないが、このような流れで進んだ「植民地資本主義」に対抗して、金堤を含む全羅北道の農村社会において韓国共産主義運動史の主要舞台が開かれたのはよく知られたことだ。両者はお互いに密接な関係にあった。ところがチョ・ジョンレは、どんな方にも無関心だったし無理解だった。彼は、日本人が朝鮮人を奪って劫奪して殺すことばかりに関心を置いた。彼の小説は、20世紀の金堤の歴史の奔流から完全に身をよけて退いている。それで私は以前の文で、小説家が「結局その地域の真の歴史とは無関係な異邦人としてその外をぐるぐる回っただけだ。」と言ったのだ。


(3終わり。4に続く)

イ・ヨンフン教授の『アリラン』再批判(5)

 韓国ニュー・ライトの旗手、ソウル大学のイ・ヨンフン教授による歴史捏造小説『アリラン』批判文の紹介を続けます。



[争点] 金堤の歴史の奔流に進入できず、異邦人として彷徨っただけのチョ・ジョンレと、何を知り何を知らないかの区別さえできないMBC

趙廷来(チョ・ジョンレ)とMBCの反論に対する再反論
[イ・ヨンフン ソウル大学経済学部教授]
『時代精神』2007年秋号
http://www.sdjs.co.kr/read.php?quarterId=SD200703&num=130

(翻訳5)

3 均田と東学農民蜂起

 それなら、海水の侵入から守られた内陸部の平野の事情はどうだったのか。内陸部に位置する田は堰と貯水池を潅漑水源とする。地図1の内陸部を詳しく検討すれば、ワンピョン川やシンピョン川のような河川を水源とする堰が発達している。しかし、堰は河川流域から大きく離れることができないという限界がある。堰の水で金堤・万頃の広い野原をすべて潤すことはできない。では、もう一つの水源である貯水池の状況はどうだったのか。

 地図1で見るように、金堤邑の西の方に「大堤」という大きい貯水池があるが、地図の符号によれば1917年当時は葦野だった。総督府は合邦後から全国の貯水池を国有財産として徹底的に管理して、貯水池の浚渫作業に努めた。それでも、大堤はあまりに大きい貯水池であったためか、1917年まで浚渫されることがないまま葦が盛んな状態に留まっていた。

 地図1に表記された金堤の他の小さい貯水池は、たいてい浚渫が完了した状態であることを見せてくれる。ところで地図によれば小説の主舞台であるウェリの裏手にやや小さい貯水池があったが、これまた1917年まで葦野の状態だった。小説では、ウェリのチャ・ガプスが土地調査事業を妨害した罪状で堂山木に縛られて即決銃殺されると、彼の妻が悲嘆のあまり、近くの「野山の裾の小さい貯水池」に身を投げて死ぬ場面が出て来るが(1巻151p)、 そこまで小説家の想像力の欠点をあげつらうつもりではないが、厳密に言えば、土地調査事業の初期に人が溺れて死ぬような貯水池を金堤一帯で捜すことは、あまりたやすいことではなかった。





<資料1>万頃郡の堰田に変わった貯水池に関する調査資料

 資料1はソウル大学奎章閣の所蔵のものだが、1906年に、万頃郡内で貯水池が埋まって耕地に変わったものを対象として作人、面積、税金を調査した帳簿だ。(『光武十年四月日全羅北道万頃郡各堤内冒耕執賭小名成冊』奎章閣 21146-38)。耕地に変わった貯水池を指して「堰田」と言う。資料を見れば初めに「大堤」が出て来るが、金堤の大堤と名前が同じだが実は他の貯水池だ。その大堤で16人の作人が12.3斗落の堰田を耕作している。帳簿に登場する貯水池は総23個、堰田は総41.6斗落、それから上がる税は13石11斗だ(1斗落=150坪、1石=20斗)。金堤郡の場合は堰田から上がった税だけ報告されているが、総31石17斗7升であり万頃郡より2.5倍も多い。隣近富安郡には、総33石13斗9升落に達する更に広大な堰田があった(『金堤郡所在驛屯堤畓乙巳秋執賭實數成冊』奎章閣 21146-47、『全羅北道扶安郡所在乙巳度各屯駅土 銭与穀定賭実数現捧実数成冊』奎章閣 21146-51)

 以上から、1900年代当時、金堤・万頃一帯に分布した大部分の貯水池が土砂で埋まり、堰田に変わっていたり葦畑として放置状態だったことが分かる。しかし、大韓帝国という国は、その貯水池を浚渫するという考えはなく、そこも王室の土地だと調査して税を取っていた。このような旧韓国末の金堤・万頃平野の農業実態を指して、私は前回の文で次のように述べた。

「19世紀の金堤・万頃平野にはこのような水利施設がなかった。なおかつ朝鮮王朝の公共機能が脆弱になるにしたがって、残っていた施設さえ崩れて行った。そのため、少し雨が降らなくても大きい干ばつとなり、少し雨が降っただけでも大きい洪水となる災難の連続だった。あちこちに放棄された土地が広がる中に葦が繁茂して森を成した。夜ともなれば諸所に出沒するオオカミの泣き声で荒れてさびしい野原だった(イ・ヨンフン、「狂気に満ちた憎悪の歴史小説家チョ・ジョンレ~大河小説『アリラン』を中心に~」『時代精神』35、2007、274)。


 前章に引き続きここまで読んだ読者たちは、ほとんど上のような敍述の実証的根拠を理解すると信じる。ただオオカミの出没に関してだけは今すぐ実証する方途がない。この表現は、1992年、私が論山の 馬九坪水利組合を研究するときに、同水利組合が生ずる以前の荒漠な葦畑を指して「狐狸の巣窟」のようだと言った資料を読んだ事があって(李栄薫ほか,『近代朝鮮水利組合研究』,一潮閣,1992,123p)それから連想したのだ。『時代精神』は学術誌ではなく大衆紙なので、筆者としてもいささか文学的興趣を込めた表現を用いたことを率直に告白する。

 
 以上のような旧韓国末期の金堤・万頃平野の農業実態と、1904年の露日戦争以後日本人たちがここに入って来て土地を買収し始めたこととは密接な連関がある。均田または均畓と言う事件がその代表的なものだが、以下それについて簡単に説明する。

 1876年と1877年の両年、湖南地方におびただしい干ばつが生じた。当時の記録は、餓死した人々の死骸が道端に累々と並んだと言う。1882年と1888年にも大きい干ばつがあった。引続く自然災害により、人々は生きる道を捜して他の地方に移動した。
 するとあちこちで幾多の土地が荒れるようになった。1890年全州全羅監営の地方官吏出身であるキム・チャンソクが高宗と閔王后に近付いて、全羅北道7郡(全州、イムピ、クムグ、金堤、沃溝、泰仁、富安)の一面に広がる荒れ地に均田と言う名を付けて、閔王后所管庁の所有として接収した。その規模はおよそ3千石落(1石落=1町歩)に達した。その上で、開墾者に対する約束として、国家に対する税金を永久に兔除し、閔王后所管庁に対する税も3年間兔除し、以後は国家に対する税より低い水準とすると言った。


(続く)

イ・ヨンフン教授の『アリラン』再批判(4)

[争点] 金堤の歴史の奔流に進入できず、異邦人として彷徨っただけのチョ・ジョンレと、何を知り何を知らないかの区別さえできないMBC
趙廷来(チョ・ジョンレ)とMBCの反論に対する再反論
[イ・ヨンフン ソウル大学経済学部教授]
『時代精神』2007年秋号
http://www.sdjs.co.kr/read.php?quarterId=SD200703&num=130

(翻訳4)

 このように海辺の干潟を対象にした干拓事業が活発に推進される一方、あちこちで海水の侵入を阻むための水利施設が建設された。写真2は地図1 E 部分に建てられた「竹山洑水門」だ。いつ建設されたかは竣工期がノミで削られていてわからない。設計と施工を担当した日本人たちの名前は半分ぐらい判読が可能だ。橋本農場の事務室から遠くない所だから、工事の主体も同じ農場ではないかと思うが推測に過ぎない。この水門はワンピョン川を通じて入って来る海水が竹山浦へ侵入することを阻むための施設だが、竹山浦がどこにあるかは今すぐ分からない。




<写真2>竹山浦水門

 この水門は、以後無用の物になってしまった。それで、今は写真で見るとおり豆畑の中に半分ほど埋没している。東津(トンジン)水利組合がウォンピョン川の下流であるヘチャンにかなり大きな閘門を設置したからだ。設置時期は今後の研究課題だ。写真3がその現在の姿だ。海水の進入がこのように完全に遮断されれば、碧骨堤までの膨大な平野が海水の塩気から解放された美田に変わって行ったことを推測するのは難しいことではない。




<写真3> ヘチャン閘門




<地図5>金堤・万頃平野の元の状態と開墾過程

 以上の説明を基礎として、植民地期にかけて金堤・万頃平野がどういうふうに変わって行ったのかを示したのが地図5だ。トンジン川の向こう側扶安地区の渡船場防潮堤(1932年竣工)とケファ防潮堤(1968年竣工)、万頃江河口の進封防潮堤(1924年竣工)、海の向こう側群山地区の干拓事業などに対しては言及を略する。地図で赤色部分は元々干潟であり、青色部分は海水の侵入にさらされる浜田にあたる。

 浜田がどういうものであったかは、意外にもチョ・ジョンレ小説家から立派な説明を聞くことができる。「海水の塩気を避けることができない浜田は収穫が平田の半分に過ぎず、それも天候不順でなく平穏に推移した場合に限るのであり、日照りにも洪水にも真っ先に被害を受けたのが浜田だ。(『アリラン』 第1巻154Pp)。小説家が万頃江河口一帯の低湿地を指して言った言葉だ。その浜田が小説の主舞台である竹山面一帯に広大に広がっていて、それを美田に変えるための防潮堤工事が1906年頃から植民地時期を通じて進行された。その工事に役夫として動員された金堤の農民たちの長い行列を想像して見よう。小説家はハワイに役夫として売られた人と京釜線の工事現場に引かれて行った役夫に対しては言及するが(1巻1~2章)、実際に小説の主要舞台となった今日の金堤を語るときに欠くことができないその工事の現場については口をつぐんでいる。

 『アリラン』は、ウェリを出発した三人の人が群山に行く途中で出会う金堤万頃平野の広闊さと豊かさに対する小説家の賛辞から始まっている。韓半島で唯一に地平線を成し出す所とも言っている(第1巻11p)。 今日竹山面から群山方面へ国道711号線に沿って行くと、ヤンジという所で三叉路に出会う。そこからクァンファル面の方を眺めれば地平線を見ることができる(写真4)。



<写真4> 金堤郡竹山面 ヤンジ三叉路から西側に見える地平線

 しかし、遠くから見れば地平線だが、近くまで行くと海をせき止める防潮堤だ。100年前に金堤の農民たちが土と石を担いで運んで作り始めたその防潮堤だ。何年後かにセマングム防潮堤工事が完了すれば崩れてしまうことになったその防潮堤だ。『アリラン』が始まる1904年に戻れば、その地平線までは広闊な干潟と塩気に満ちた浜田ばかりだった。その歴史を知っているのか知らないのか、チョ・ジョンレは金堤万頃平野の広闊さと豊かさをそのように情感あふれるように謳った。私は、そういうことを指して小説家が準備作業に忠実ではなかったと指摘したのだ。


(2終わり、3に続く)

地名誤記の訂正

 これまで、小説『アリラン』の主舞台の地名を「金堤晩境平野」と書いて来ましたが、「金堤万頃平野」が正しいようです。お詫びして訂正します。

 過去の記事は、後日修正します。

イ・ヨンフン教授の『アリラン』再批判(3)

[争点] 金堤の歴史の奔流に進入できず、異邦人として彷徨っただけのチョ・ジョンレと、何を知り何を知らないかの区別さえできないMBC
趙廷来(チョ・ジョンレ)とMBCの反論に対する再反論
[イ・ヨンフン ソウル大学経済学部教授]

『時代精神』2007年秋号
http://www.sdjs.co.kr/read.php?quarterId=SD200703&num=130

(翻訳3)

 次に、Dは橋本農場区域だ。地図にそのように表記されている。『アリラン』では、橋本は1910年合邦前後の時期に竹山面に現われて、あらゆる手段を使いながら農場を確保したようになっているが、正確な紹介ではない。橋本央(はしもとなかば)は、露日戦争直後に群山に渡って来て貿易業などで富を築き、すでに1910年以前に益山・金堤・晩境一帯の多くの所に計499町歩に達する農場を開設した。(東津農地改良組合『東津農組七十年史』,1995,110ページ、ソ・スンヨル・ワン・ヨンチャン,『全北の市場経済史』,シンア社,2003,206ページ。)
 橋本農場の事務所は、今も竹山面内の地図1の E 部分に昔のままの姿である(写真1)。



<写真1>竹山面内の橋本農場事務所


 D部分の地図符号を細密に検討すれば、農場のあちこちに葦畑がまだ残っている。このことから、橋本農場が元々干潟だったことが分かる。干潟を田に変えたのは、言うまでもなく西海(黄海)に直接つながる防潮堤だ。名前は西浦防潮堤だ。もう少し北、Fのヘチャン地域に上がれば大倉防潮堤が始まる。大倉喜八郎は日本の貴族で、1903年群山に進出して1910年まで益山・金堤・晩境・金具一帯に2,384町歩にも逹する大農場を開設した人だ(トンジン農地改良組合、前掲の本108p、ソ・スンヨル、ワン・ヨンチャン、前掲本203p)。防潮堤の名前は、干拓を行った彼の名をとって付けられたようだ。

 防潮堤の築造時期をもう少し具体的に論証する。1917年日本陸軍陸地測量部が三角測量法で 5万分の1地図を作る以前に、韓半島を同じ縮尺で測量した地図がある。日本陸軍は、日清戦争が終わった1895年から1899年まで、縮図法を高度に訓練された探査隊を秘密裡に派遣して、韓半島のほとんど全域を目測法で測量して地図を描いた。1996年、ナム・ヨンウ教授が日本とアメリカなどに散らばっているその地図を皆収集して国内で出刊した(『旧韓末韓半島1:50000地形図』Ⅰ-Ⅳ,成地文化社,1996)。残念ながらその地図集では地図1にあたる金堤は抜けている。その代わりに、万頃江入口を対象として二つの地図を提示する。地図3が1895~1899年の地図で、地図4が1917年の地図だ。




<地図3>1895~1906年の晩境江の入口




<地図4>1917年の晩境江の入口


 1895~1899年の地図について、ナム・ヨンウ教授は、韓日併合後に「海岸では干拓事業が起き、農村では農地改良事業が施行された。これによって国土の姿は大きく変わった。しかし軍用秘図には変わる以前の国土がまるで娘時代の姿のように描かれているので、韓半島の元々の姿が分かる。」と言う(前掲本、解題参照)。これ以上詳しい説明はしない。二つの地図を対照すれば、1895~1899年にはなかった防潮堤が、1917年までに築造されたことが一目で分かる。工事の担当主体は初期水利組合の一ページを占めている臨沃水利組合だった。

 地図1の防潮堤も同じだった。これらソポ堤とテチャン堤は、露日戦争以後にここに入って来た日本人地主たちの干拓事業で築造された。地図によれば、1917年まで海岸線に沿って竹山面、成徳面、進鳳面の端まで防潮堤が完成された状態だった。引き続き1924年までに、テチャン堤が終わるその地点から進鳳面の端まで弓のように曲がっている海岸線を、約10kmの直線で連結する実に膨大な干拓事業が完了した。干拓で広くなった陸地の幅は平均2~3kmに達する。その結果、今日のクァンファル堤とその内側のクァンファル面が生じた。トンジン農地改良組合の前掲本では、ソポ堤とテチャン堤の竣工時期を1927年、クァンファル堤の竣工時期を1924年と書いているが、疑問だ。この本の内容は全般的に疏略で、信じがたい記述が多い。いつか誰かトンジン水利組合(農地改良組合)の歴史を全面的にまた書く必要を感じる。


(続く)

<コメント>
 皆さんは、このあたりの文章を読んでどんな印象を持ちますか。私は、イ・ヨンフン教授が、「歴史の検証というものはこんなふうに資料を読み込んでやるものですぞ、お分かりか、小説家殿、それと国史学会のお歴々。」とでも言っているかのように思えます。それから、実にさりげなく書いてありますが、当時の日本人がこの地域の開発に果たした役割を強く印象づける文章ですね。
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Author:Chaamiey
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