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妙なことになった話の続き(その4)

ニューライト・ポリズンの掲示板

<収奪論・批判を読んで>のコメント(3)
http://newpol.co.kr/cafebbs/view.html?gid=main&bid=cat_05&pid=34821



○学者的良心
 キョンギミさん。イ・ヨンフン教授が経済史専攻ということは知っています。特に朝鮮史経済研究を重点的にして来たことも分かっています。

 イ・ギュジン氏。ゲームをしているのではないから、ゲームが終わるの終わらないのと言う必要がないです。私は、彼らの研究結果に対するbook reviewをしたのです。book reviewを私と違う書き方をする人もいるでしょう。

 イ・ヨンフン、アン・ビョンジク教授の研究結果を絶対的に正しい研究ではなく、幾多の研究結果の中の一つと見る開かれた心があったら、私がしたbook reviewもその中一つだと見ることができるでしょう。イ・ヨンフン、アン・ビョンジクの研究を絶対的に立派とか正しいと受け入れることができない理由は、彼らの研究の中の一部に該当すること(慰安婦)を私がしたことがあって、他の部分に対しては彼らと違う研究結果を読んだから、私なりの批評ができるはずです。これをゲームとは考えません。

 私が批評をした根拠は提示しました。そうだろうという主張と印象を言ったのではないです。批評の根拠は観点の移動、これによる研究の一貫性喪失、自由主義に対する理解度不足、民族に対して行きつ戻りつする姿を見せるという点、資料が日本側の資料に全面的に頼っており、彼らの解釈をそのまま取り込んだ点、日本から出た資料の中でも、どんな意図からか、事件の客観性を裏付ける資料を落として事件を記述している点(慰安婦)。こんないくつかの点を考慮して私は批評を書いたのです。私の批評を理解するのに役立ててください。


○星降る松
 本文よりもコメントがもっと栄養価があって専門的な観点ですね。読んでたくさん学んで行きます。ありがとうございます。

 私に直接返事してくださったミニライトさんに少しの再返事を申し上げると、土地調査員が朝鮮人だったという事実は、彼らが意思の主体として行動したのではなく、ただ道具として使われたことだから、資料自体は日本人の記録だと見ても構わないじゃないかと思うんです。

 光復後、被収奪者が現れなかったという点は、収奪が無かったという有力な根拠として遜色ないように見えます。しかし、数十年前の過去の収奪の原状回復請求の資料が無いからその請求がなかったはずだと百パーセント断定はできないと思います。解放以後はとても混乱していましたから。

 私は、今書いた私の見解が正しいと言うのではなく、収奪論はやっぱり何か根拠があるから主張されたのではないかと言う素朴な考えから、このコメントを書いています。

 慰安婦問題はこちら拙筆ポリズンインタビュー(?)で私の見解を明らかにした事があるが、この問題はまさに一片のちっぽけな資料もないんですよ。他の学者たちがもしか反駁資料を提示するのを待つしかない。


○名無し
 日本人の記録だから落とし穴があり得るという主張は、一見納得できるようでもあるが、違う角度から見れば妥当ではないとも言えます。記録資料が偽りか真実かと言うのは重要なことだが、真実の文書の場合には、特定の微妙な事案は別としても、行政文書ならむしろ偏見で間違いがあるというよりは真実を担保にしていると思わなければならないです。その記録は自分の統治の便宜のために記録したものであって、後で朝鮮が独立することを仮定して、その時の状況をあらかじめ考慮して記録したものではないですから。

 したがって、単純な数値と計量の価は真実を盛っています。それを解釈した政策的判断が記録された場合なら治者の偏見や落とし穴があり得ます。しかし、数字なら統治の便利のために真実にかなうように記録するというのが当たり前です。間違いはあり得るが、意図的に数字を未来を思って変えるということは不合理説ですね。


○ヌンティンチョク
 学者的良心氏は国際関係で日本の学者たちともよく接する方だから、もうちょっと冷静に分析なさることができるのではないでしょうか。


                           (以上)




<コメント>
 いかがだったでしょうか。

 論文の作者名は出て来なかったものの、学者的良心氏は、徹底してイ・ヨンフン教授とアン・ビョンジク名誉教授を批判しました。論文の作者はほぼ特定しました。

 book review・・・・書評。全く内容に触れない書評? 反論できないことを示しているとしか判断できません。難しい言葉を駆使して外側からこの論文の作者を批判しようとした人は、集中砲火を浴びてしまいました。しかも、それが誰であるのかはバレバレらしい。(集中砲火とは言っても、皆さん表現は控えめで礼儀を守っています。)

 「収奪論・批判」に対して意外と肯定的な意見が多かった。いや、そうではなく、もともと事情を分っている人たちが、こういう機会があったから書き込みをしてきたというべきか。

 「収奪があったならば当時問題になったはずでしょ?」という意見には、確たる反論は無かった。

 「数字ならば信用できる」と書いて来た名無しさんは、どういう人だろう。そう言えば、かつてイ・ヨンフン教授は語った。「近代科学を育てた土台は実証です。去る40年間過った教育を受けた世代がいくら攻撃するとしても、データと資料を提示すれば問題ないです。」
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/13570035.html

 いや、若干ミーハー気分。思い違いかも知れないのに。

 日帝は悪いことをしたと思い込んでいる多くの人は書き込みをしてこなかったが、このやりとりを見て何かを感じてくれただろうか。そうであればいいのだが。





 
 

 

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妙なことになった話の続き(その3)

ニューライト・ポリズンの掲示板

<収奪論・批判を読んで>のコメント(2)
http://newpol.co.kr/cafebbs/view.html?gid=main&bid=cat_05&pid=34821


○キョンギミ
 学者的良心様の良い文ありがとうございます。
 しかし,疑問が残ることがあります。イ・ヨンフン教授の偏向的(?)観点や視覚を指摘される方々の中で、我が国の経済史でそれほどまじめな資料や考証を通じて反駁をする人が本当にいないということです。ほとんど大部分、印象批評に準ずる程度の一般論的な話しかないですね。

 端的な例を挙げれば、自由と人権を抹殺する従軍慰安婦問題の場合にも、我が国にその実体が少しでも知られたのは、我が国でなくむしろ1970年代初中盤に、日本のいわゆる良心的知識人と呼ばれる学者たちを通じてその実体が明かされたと知られています。我が国でもその後になって国史教科書に載せられたと理解していますが(もし私が間違って理解していたら指摘してください)。そして、我が国で「経済学史」を朝鮮時代から研究をする人々の中に、果していわゆる落星垈学派ほどの史料探求や研究に時間を注ぐ人がどれほどいるのか知りたいです。

 いや、経済学を少しでもなさる方々は皆分かる話だが、ケインズ学派のような西欧の理論を紹介するそんな経済学士でなく、我が国で朝鮮時代から現代までの経済を観察する「経済学士」は、落星垈学派を除いたら全くいないと言っても構わないです。


○学者的良心
 キョンギミさん。二人の教授が客観性を忘れてしまった研究結果を出したということは、あなたのコメント内容が証明しています。慰安婦問題が日本の学者たちによって始まったのが70年代で、その後多くの団体たちと学者たち、国際機関によって明かされた資料がすごく多いです。

 イ・ヨンフン、アン・ビョンジクの二教授が慰安婦問題に対して研究結果を発表したのは2006年です。その間幾多の資料が明らかにされたのに、イ・ヨンフン、アン・ビョンジク教授は「資料がない!」あるいは「証拠がない!」と言いながら、慰安婦問題に対して日本の極右政治家たちと御用学者たちが巧みな言葉の遊びで本質を歪曲しようとするに等しい方式で指摘に不真面目な(intellectually infidelity) 態度を見せました

 貧土を開拓するからといって無批判的に受け入れなければならないのではないです。貧土を開拓するとはじめから成功的なのはもっと難しいですね.イ・ヨンフン、アン・ビョンジク二教授の研究を土台として、もっと健全で客観的な研究結果が輩出するきっかけが用意されることでしょう。


○キョンギミ(怒り顔マークで)
 我が国やその他の国の発見ではなくて、光復の後ずいぶん経った1970年代に日本の研究者たちによって明かされた慰安婦問題、これがまさに日本の史料の大切さを意味するはずです。付け加えて、学者的良心様の見解に対して少し疑問心があるのは、次のような理由です。

 ある事実に対して少し詳細的に掘り下げて行ったら、学者的良心様はこれに対する客観性のある特定論拠や資料提示を何一つするのでなく、自分の考えを大雑把にまとめた印象批評の繰り返しと一般論的な羅列をしておられます。

 先にフィリピン、中国、台湾、アメリカの資料などとおっしゃったのも、自分が実際に資料を見たことがあるかのように言う推測を書いたのではないかとの疑いさえ起きます。失礼ですが、学者的良心様に一つだけお伺いします。落星垈学派が経済学史専攻であることを知っていらっしゃったというのは事実でしょうか?


○mini-light
 星降る松さん。誠実な感想を書いてくれたことに感謝申し上げます。
 人ごとに意見はいろいろあるが、問題は、日帝による土地収奪があったか無かったかという単純な事実のレベルの問題です。そして「収奪論批判」は第1次史料を調査した結果、そんな事実はなかったと判断しています。私は、収奪があったと言う具体的な資料をまだ見た事がないです。

 そして、土地調査の時実際に調査をする調査員は朝鮮人でした。もし土地収奪があったら、その当時多くの朝鮮人の調査員の間で話題になって社会問題になったのではないですか? そういう事を現わす記録は何かありますか?

 また、土地収奪があったら、光復と同時に「 私の土地は日帝に奪われた。すぐに返してくれ」という声が高くなったはずですね。そういう記録はありますか?

 歴史を記述する時、事実を証明する史料、特に第1次史料は非常に重要だと思います。


○ヌンティン
 内容からすると、学者的良心氏はあの方のようですねえ。時間帯が合わず残念。

○イ・ギュジン
 学者的良心氏が、抜け落ちている資料を捜して提示をなさればゲームが終わる問題なのに、あれこれ主張ばかりしていらっしゃるようで残念ですね。
 私が見るには、わざわざ日本側の資料だけをたくさん調査したのではないです。それが多いからその資料を調査しただけのこと。


(続く)

妙なことになった話の続き(その2)

 ニューライト・ポリズンの掲示板

 昨日紹介した「収奪論・批判を読んで」の投稿は、要約すれば、「議論が自由に行われる雰囲気は大事にしたい。」、「自分は収奪論・批判の内容(土地収奪は無かった)に具体的な反論はできないが、それが本当だとは思えない。」という感想に過ぎないものですが、文章からは誠実な感じが伝わってくる人でした。

 さて、この投稿に38のコメントが付いたので順次紹介します。「収奪論・批判」は受け入れられたでしょうか。コメントを書いたのは、「学者的良心」、「キョンギミ」、「mini-light」、「ヌンティン」、「イ・ギュジン」、「星降る松(投稿者本人)」、「名無し」、「ヌンティンチョク」という8人です。一人が続けて書いた部分はまとめました。
 最初は、少々退屈かも知れません。


<収奪論・批判を読んで>のコメント
http://newpol.co.kr/cafebbs/view.html?gid=main&bid=cat_05&pid=34821

○学者的良心
 歴史をどう記録すべきかはすごく重要な問題です。歴史記録の観点も政治史的接近の観点と違わないです。どの側面に焦点を当ててどんな方向に記録しようかと言う問題です。イ・ヨンフン、アン・ビョンジク教授は経済史的発展を主に接近したし、経済的発展の土台が社会、文化を始め大韓民国全般に影響を及ぼしたとで研究していますね。

 同じ経済史的側面で接近しても、観点が違えば従属理論を土台にした接近も可能です。その場合は、イ・ヨンフン、アン・ビョンジク教授と違う結論が出ることもあります。要は、観点の問題がとても大きいということです。
観点の問題の外に、もう一つ重要なことは、事実の組み合わせの問題です。研究者が設定した方向性が決まっている場合、その方向に沿って資料を重点的に扱うとか重要性を浮き立たせたりしますね。

 その方向に矛盾したり当たらない場合は、1行位で処理したり抜け落ちさせたりしますね。このときに学者的良心がどれほど作用するのかがとても重要になります。

 数ヶ月前にあった慰安婦問題の波紋の時、その二人の学者の研究結果は、彼らの学者的良心が健全ではないということを現わした事例です。朝鮮末期、日帝時期、大韓民国建国史を記述した彼らの研究において、慰安婦問題は一つの歴史的事例に過ぎないが、彼らの記述を見て甚だしく失望したので、他の分野に対しても懐疑的視覚が入らざるを得ないのです。

 本文文で指摘なさったとおり、この二人の学者の研究の最大の問題は日本の資料に全面的に依存しているということです。研究においては一次資料がとても重要ですが、彼らの一次資料はほとんど大部分日本のものという事実に、資料の偏向性が現われます。資料自体が偏向していれば研究結果が偏向するということは当然の帰結です。

 いくら日帝時代の資料だと言っても、資料は意外に韓国、アメリカ、台湾、中国、フィリピンにもあります。彼らの資料収集が全面的に日本にだけ依存しているのが絶対的な問題に見えるんです。

 もう一つ、彼らの研究が大韓民国建国史を統括するものとして代表することがむずかしく見える理由は、彼らの研究が経済史的側面からの接近であるということが大きいです。一国家の興亡盛衰は経済的問題に始まって終わるのではないからです。経済的な対内対外問題だけで国家の興亡が決まるわけでもないからです。国家の変遷史に目を通せば、時期ごとに大きく作用する諸要因がそれぞれ現れます。イデオロギーが国家に大きく影響を与える時期があり、安保問題が影響を及ぼしたり経済波動が最大の変数として頭をもたげる時期がありますね。

 これらのものは恒常性を持つ要因だが、時期ごとに最大の影響を与える要因は異なるということです。それで国家の歴史を論ずる時、一つの要因や観点から近付けば、全体的流れを客観的に記述するには力不足になります。

 もう一つ、この二人の教授の研究接近方法の中でもう一つの特徴は、自由主義を基礎として接近しているということです。それが良い悪いではなく、そのように接近するに当たり、二重的で矛盾した姿を示すということが問題と見えます。私が彼らの研究を読んで時感じるのは、研究観点の一貫性を忘れてしまっているということです。

 朝鮮末と日帝時期を記述する時は観点の客体がないように見えたり、あるいは日本に見えたりしました。ところが大韓民国の建国史の部分では観点の客体が明らかに大韓民国に変わっているということです。こんなに観点の客体が移動することを見て、この二人の教授の研究が本当に客観的と言うよりは、目的性を持った研究という感じを受けました。研究と言うものは元々目的を持ちます。研究書の冒頭で著者が明らかにします。しかし今指摘しているこの目的性という言葉は、自分たちの本で展開される客観性と一貫性を持った研究の目的性ではなく、その裏面で意図する他の目的があるという意味です。その裏面的に意図した目的性が研究の客観性と一貫性を害することと考えられます。

 ふう、彼らの研究を読んだ所感をコメント欄に書こうとすれば長くなり過ぎますね。

 要約すれば、彼らの研究では私たちの近現代史を総評するのには不足で、一つ一つの事案ごとに過度な短見を見せていることも多く、何かを克服するために意図的な客観化を強調しようと試みたが、むしろ客観的事件を歪曲する現象を見せているということです。そんな不満足にもかかわらず、私もそんな研究が出ることを歓迎します。さまざまな観点、民族史観、民衆史観、実証史観、植民史観、どの史観で書かれた本でも読んで歴史を定立して行くことは読者たちの権利です。

 脱民族で自由主義への移行という観点なのに、それをまともに消化することができずに研究をしているようだという感じも消しにくいです。
一応二人の学者は民族と国家というのを否認して始めています.彼らは、個人に自由を与えられない国家と民族は無視されても良いという視覚を打ち明けているんです。一人ひとりの人間に自由が与えられないそんな国家は亡びなければならないと主張して、自由(自由主義をどう定義して理解しているのか分かりにくいです)を主張します。こんなに民族(民族に対する記述部分で行ったり来たりする姿を与えたりします)と国家に対していかがわしい態度を見せて、この部分で観点の客体が朝鮮を離れてしまうようになります。

 そうするうちに、また大韓民国建国の部分では、個人に自由を認める憲法を用意した大韓民国を観点の客体として立てています。朝鮮末や日帝時期や大韓民国建国の時も、現在この地に住んでいる、同じ文化と歴史を共有して連続性を引き続きながら生きて行く家や団体は同じであるにもかかわらず、時期によって観点の客体を移動させることが問題と見えるんです。

 もっと致命的な問題は、本当に日帝時期にも国家と民族を無視して個人の自由(自由主義)に焦点を合わせて研究をしたというなら、日帝の視覚で記述するとかあるいは観点の客体がないような記述はしなかったはずで、その上に個人の自由と人権を抹殺する慰安婦問題においてそんなでたらめな記述はしなかったはずと思います。

(続く)

妙なことになった話の続き(その1)

 先日、「収奪論・批判」の韓国語原文をニューライト・ポリズンに投稿(7回分割投稿)したことを書きましたが、結果は以下の通りです。

(1)照会195 推薦5 コメント1
(2)照会106 推薦5
(3)照会124 推薦5
(4)照会 45 推薦2
(5)照会 46 推薦2
(6)照会 52 推薦1
(7)照会 47 推薦1

 コメントは、(1)に対して、「再認識」という名前で「良くよみました。推薦。」というものが1件だけ寄せられました。「再認識」という臨時の名前を使って支持してくれたのは誰だろうと思ったりしますが、それはさておき、(1)(2)(3)はメインリストにも載ったのでそこそこ読まれましたが、(4)以下は自由掲示板に留まったので御覧のような照会数です。皆さんこんな話には興味が無いのが良く分かります。

 しかしながら、中には真剣に読んでくれた人がいて、感想文を投稿して来ましたので、それを紹介します。




<収奪論・批判を読んで>

自由と多様性を受容する雰囲気を愛する
ニューライト・ポリズンNo.34821 星降る松(?)2007/06/04

照会312 推薦6 コメント37
http://newpol.co.kr/cafebbs/view.html?gid=main&bid=cat_05&pid=34821&cate=cat_05_5&al=&page=1&sm=&kw=&tuid=&scode=&blink=



              (翻訳)

  mini-lightさんがコピーした「著者も分らない論文」を注意を傾けて読みました。今、この時期にこんな文を読める幸運に恵まれたのは、私がニュ−ライト・ポリズンに留まっていたからだし、こんな文を見せてくれたmini-light氏にまず感謝申し上げます。

  およそ30年も前のことだが、私がこんな学者たちの研究成果に関心を持って読んだ時期は、従来の「植民史観」を克服するための「民族史観」の鼎立期でした。その後「民衆史観」が出て、その土台の上に「解放前後史の認識」が広げられたが、これに対して私はあまりよく分からないという告白をまずしなければなりません。

  しかし、転載された論文の主題である収奪論は、民族史観や民衆史観とあまり違わなく、むしろ民衆史観によって民族史観から提起された収奪論がさらに発展深化したのではないかと言う素朴な認識は持っています。私のこのような認識が間違っていないなら、転載された論文「収奪論批判」は、30年の主流に対する新しい挑戦で、これを「実証史観」だと呼ぶこともできるかも知れないと思われます。

  このような実証史観の登場を見ながら、まるでランケのヘーゲルに対する大反論を見ているような気がするが、転載された文に共感してうなずくことができない理由は、ランケの大反論がヘーゲルの歴史観を壊すことができなくて、まだヘーゲル学徒を自任する人物たちが歴史哲学界で大きい比重を占めて活躍しているというその理由だけは決してありません。

  第一。転載の文が、収奪論を、まるで根拠なしに日本に対する憎悪感のために成り立った学説のように売り渡す感じを与える点、収奪論もやはり幾多の研究成果である論文を中心に形成されたものなのに、そんな論文たちが客観的資料によるのでなく単純な感情に根拠して書かれたとは到底信じられないです。むしろ、時間的近接性に照らして、21世紀初頭に書かれた論文より1960年度に書かれた論文たちが真実に近い可能性もあるのです。

  二番目。実証史観の文に資料として引用されたものが日本人たちの記録だけという点で、客観性が落ちる、陷穽に陥るという危険性も無視することができないです。日本人たちは、フィルムの消費量が一番であるというくらいに記録に優れた民族だが、記録操作も優れた民族です。私たちがその時のその事実を自由にまともに記録することができなかったそんな不幸な時代、日本人たちだけの記録を土台として真実を追求すれば、そんな落とし穴に落ちる危険性はもっと大きくなるというのが私の考えです。

  三番目。同じ資料だと言っても、見る人によって違うように見えるという点も無視することができません。それで、民衆史観が行き過ぎ、「解放前後史の認識」が明白な事実まで歪曲して狂乱に流れるしかなかった現実を、私たちが今経験しているのです。これに対する真実を捉えなおす次元で使われる実証史観に即した研究結果も、もしかしたら行き過ぎていないかと言う疑惑が今私を捕らえます。

  私も、民族史観が完成した歴史認識であるかのように叫ばれるときに、資本主義自生可能論が提起されて「貢人資本」に学者たちが注目する時に、そのごり押しに当時疎ましい拒否感を感じたわけですが、転載文が日帝の土地改革を資本主義の重要な出発点ではなくすべての出発点と見る観点に、程度は違うがその似ている拒否感を感じています。

  しかし、私自身が研究することができる人物でもないから、その転載された文等に対する学問的な反駁は到底できなくて、上に明らかにした私の疑問を、誰かほかの学者たちがすっきりと解いてくれるのを期待するだけです。そうだとしても、その疑惑を解いてくれる反論が、民衆史学者たちによって従属理論をうんぬんしながら出るのを期待するのでは全然ないです。

  そういう一部実証史学者たちの研究が研究者の本義であろうとなかろうと、もしかして日帝植民政策美化になろうと、私はそんなことが自由に学界で論議できる自由さと多様性の受用の雰囲気は心から愛します。そして、そんな論争が、過去の我々の歴史をもっと実体的真実へ近付けることを本当に望みます。

  そのように学者たちが現れて、研究して討論して、実体真実を捜すための美しい論争をするでしょうが、その中の一つの声だけ聞いて、「解放前後史の認識」を読んで血が逆流した、と怒る政治家(翻訳者注:ノ・ムヒョン大統領のことですね)がこの地に二度と現れないことを切に望みます。そんな政治家で、得権で国中が狂乱の沼にはまる事もまたないように願うんです。学者たちもそこに迎合して曲学阿世をしながら暴れる事がないよう望みます。

  要約すれば、私は mini-light氏がコピーされた「収奪論批判」という論文を、私の整理されていない先入観のために、そのまま受け入れることができずに懐疑の視線で読んだのですが、そんな論文が自由に発表される雰囲気そのものはとても愛しています。そして、そんな実証史学者らに反論を申し立ててくれる他の学者たちも切に待っています。

(翻訳終わり)


 この投稿もメインリストに載ったので注目されたようで、数人からコメントが付きました。それは次回で。





妙なことになった

 以前、一度書いたことがありますが、ニューライト・ポリズンのサイトでは、関係者の投稿や構成団体からのメッセージなどは当然トップページのメインリストに乗ります。

 一般読者は、自由掲示板に投稿することができます。毎日、あれこれと多数の投稿があります。その中で、サイトの運営委員会がこれは意味があると判断した投稿の目次が、メインリストに転載されます。

 ところで、下で紹介したイ・ヨンフン教授についての論難は、朝鮮総督府の土地調査に関する話でした。それで、このブログにも書庫を作っている「収奪論批判」、これは朝鮮総督府が行った土地調査を、現地に残っている書類を綿密に調べて、その結果、土地収奪というようなものは無かったことを明らかにした優れたレポートであるわけですが(残念ながら作成者が分らないのだが、アン・ビョンジク氏もしくはそのグループだろうと推測)、その韓国語原文を持っているので、韓国人に読んでもらおうと思って、本日、自由掲示板に投稿しました。(長いので、今現在分割投稿中です。)

 ところが、これが運営委員会の目に止まったようで、メインページのリストに乗りました。おかげで、自由掲示板の早い流れに流されるのと比較すれば、多少多くの人の目にふれそうです。それに、日本人と思われる怪しげな人物の投稿であるにもかかわらず、推薦が4つ付いていますが、これはもちろん原論文の価値によるものです。
 
 今現在、リストのトップから(1)、(3)、(2)の順で表示されています。他人の文章のコピペしただけなのにこんなに大々的に取り上げられるのはどうも居心地が悪いですが、とにかく一人でも多くの韓国人に事実を知ってほしいところではあります。  http://newpol.co.kr/main.html


 なお、リストの左の写真はサイト運営者が付けているのですが、収奪論批判(1)に付けられている写真は、「解放前後史の再認識」の表紙です。

「収奪論」批判 4

「収奪論」批判

4 残った問題~結論に代えて  



  先に述べたように、「収奪論」批判の究極の目標は、韓国近代史の新しい認識枠を作ることだ。それは、近代をどう認識するかの問題とも関連があるが、包括的な「近代」の規定は筆者の能力外だ。土地調査と関連して、近代的土地所有の概念も新しく定義しなければならないだろう。歴史的に見る時、農業資本主義の発展(よく「三分割制」と称される、地主・農業経営者・農業労働者の農業制度)は寧ろ例外的だ。従って、近代的土地所有の徴表とされる賃金労働者を使用する大規模経営というのは、むしろ、近代的土地所有の例外的現象と見なければならないだろう。

  近代的土地制度とは、資本運動に適した形態の土地所有制度を言う。資本運動に適した形態の土地所有とは、土地所有権に結び付いている各種の制約が解消されて、土地からの収益が所有者に専有される土地所有を言う。このような条件の上に土地所有権に対する公示制度が完備されれば、土地の商品化、ひいては資本化が進展するのだ。

  ところで、朝鮮後期には、(1)土地所有と関連する身分的制約はなかったが、国家の○○権的土地支配は残存していた。(2)また、土地からの収益が所有者に専有されるためには、土地の生産性が安定するという条件下で、土地の収益に対するいろいろな形態の恣意的な収奪が撤廃されなければならない。朝鮮後期の生産力の発展は、集約的な小農経営の自立に向けた可能性を開いていたが、国家の受取体制は、恣意的運営の素地を内包していた。
  このような朝鮮後期の限界を乗越える過程を通じて始めて、近代的土地所有は成り立つことができた。国家的規定の撤廃は、結局、国有・民有の区分を含めた所有権査定と所有権公示制度の完備によって、土地に対する恣意的受取は、収益地価に基づいた比例税制の導入で解消される。筆者が、土地調査によって近代的土地所有が確立されたと見るのは、このような理由による。

  土地調査によって近代的土地所有が確立されたということは、今、土地調査事業をきっかけに、資本関係が農村に本格的に浸透する与件が用意されたということを意味する。従来の朝鮮社会を支配して来た前近代的な受取関係に代わり、資本主義の論理が新しい受取関係として出現した。これは、土地調査事業が資本主義の発展に寄与したこと意味するが、それは受取関係の変化を意味するだけ、「植民地美化論」とは無関係だ。

  そうは言っても、土地調査に係わるすべての問題が、全部解決された訳ではない。まず、土地調査によって日本民法が適用される過程で、朝鮮の慣習とは異なる方式の所有権制度が定着した。代表的なこととして、血縁或いは地域共同体による独特な方式で規制されていた土地所有関係が解体された点が挙げられる。これに対する実証的・理論的な作業が必要だろう。
  また、「驛屯土」払下げに関する心証的な研究が必要だ。土地調査事業の当時、国有地紛争は、一つの洞里(町村)の大多数の農民が係わった大規模紛争も多かったし、その処理方向は、その集落全体の死活に関する問題でもあった。このような大規模国有地紛争の事例を発掘して、それの起源と払下げに至る全ての経過を検討するのは、朝鮮後期の土地制度や土地調査事業の性格を明らかにするために欠かせない主題だ。

  土地調査事業についての研究をさらに進めようとすれば、多様な事例を掘り起こしてその実態をもう少し明らかに明らかにし、これを元に立体的な全体像を描き出す作業を深化させなければならない。それから、朝鮮人、特に耕作者である農民が、土地調査事業にどう対応したかを追跡調査して、それが農民と農村に与えた複合的な影響を解明しなければならない(チョン・チェジョン 1996, 86面)という指摘は、これから土地調査事業の研究が進むべき方向を見せてくれる。

  これまでの土地調査事業研究が主に制度研究に偏重していたのは、「収奪論」の克服という問題と係わることではあるが、「農村社会から見た土地調査」或いは「土地調査による農村社会の変貌」などのような論議が行われなかったことは、土地調査事業の実相を明らかにするのに大きい限界だったと言わざるを得ない。「収奪論」と「植民地近代化論」という単純な対立構図から離れて、もっと心証的な実相接近が行われることを期待する。  

             (終わり)
                  


<このスレッドに寄せられたうれしいコメントを転記保存>

2006/7/22(土) 午後 10:52 [健@タイ]
 ありがとうございます。自分が この論文の論旨の内、ほんの数パーセントなりとも理解できたかどうかすら怪しいものの、無意識に信じ込んで来たままの「収奪論」者でなくなることが出来ただけでも、これはありがたいことでした。これからは、自分が信じ込まされてきたものを疑うことが出来そうです。

「収奪論」批判 3(続き)

「収奪論」批判

3 清算しなければならない幻想~「収奪論」批判(続き)  
  

  二番目。土地調査における紛争地の処理に当たって、朝鮮総督府が一方的に有利だったのでもない。今まで知られた事例研究を通じてこれをよく見ると、京城府の原紛争地は255件296筆であったし、国有地紛争は205件230筆だった。そのうち約60%が国有として査定された。坡州郡の原紛争地は全部で28件269筆だったが、この中で国有地に査定されたのは24筆(8.9%)に過ぎなかった。このように国有査定比率が低いのは、「臨津屯土」の紛争地199筆が民有地と査定されたからであった。金海郡の場合は、国有査定された割合は、全紛争地の44%だった。

  査定に承服できない場合は、高等土地調査委員会に不服申立てをすることができた。受け付けられた不服申立ては、半分以上が取り下げや返付となり、9,388件(46.6%)が審査対象となった。
しかし、審査対象になった事件は、92.1%が不服を申し立てた人の意見が受け入れられた。ところで、不服申立てのあった土地の中で現紛争地が占める比重は14.3%(2,872件)に過ぎず、これは原紛争件数33,937件の10%にも及ばない。
既存の理解とは異なり、原紛争地は、大部分、査定結果を承諾したことが分かる。紛争地調査に不服を持った農民たちが大挙して不服を申し立てたという収奪論の推論は、こんな基礎統計の操作さえ確かめなかったのだ。

 事実、紛争地審査委員会の決定と高等土地調査委員会の決定が相反していたという主張は、論理的にも受け入れにくい。臨時土地調査局と高等土地調査委員会は、同じ庁舎を使い、業務上、緊密に協調していた。紛争地審査委員会の委員長である和田一郎は、高等土地調査委員会の幹事として活動した。また紛争地審査が完了した1917年には、不服申立てに対する裁決も既に80%以上が進展していた。つまり、土地調査の紛争地調査が、日帝の土地略奪を通じた国有地創出に寄与したという収奪論の主張は、間違った事実認識に基づいているのだ。


(3)地価調査は、地税収奪のために遂行されたか?
 
  土地調査事業による地税制度の変化を考察した初期の研究は、地税負担の変化に焦点を置いていた。「収奪論」の立場に立つ研究は、土地調査で地税負担が増えたことを強調するが、日本の地租改正に比べて、土地調査による地税負担の変化は余り大きくなかったし、日本より相対的に負担が少なかったという主張も提起された。しかし、このような主張は全て、租税制度の変化を単に租税収納額の大きさの変化という狭小な視角で捉えており、そのような制度変化が韓国の地税制度、ひいては租税制度上でどのような意味を持つのかということに対しては、深く考慮しなかった。これは収奪論的歴史認識がもたらした弊害の一つだと考える。

  土地調査によって地税負担が増えたというとき、その論拠としては、地税賦課方式の変化により実際に地税が増え、地税賦課の基準になる法定地価が時価より高く設定されたという点を上げている。これは、やはり歴史的実相とは距離が遠い推論だ。
  一番目、土地調査が終って新方式で地税が賦課された1918年の地税は、1917年に比べて13%増えたが、これは1918年の米価が1917年に比べて60%以上上昇したことを考慮すれば、大幅な上昇だとは言えない。
  二番目。決定された法定地価は、時価を上回る高い水準に設定されたのでもなかった。日帝が地価を算定する方式は、土地から毎年期待される純収益を利子率で還元した現在価値の合計を求めるものであった。
  純収益は、収穫高から耕作費及び維持修繕費名目で55%を控除した金額からさらに租税公課金を差し引いて求め、祖収益は、収獲量に穀物価格を乗じて求めた。収獲量を計算する時は様々な参酌率を適用したので、実収穫量よりも低い水準だった。穀物価格は道単位で決定されたが、1911~1913年の収穫後の4か月間の中等品売り渡し価格を平均したものを使った。取り入れの後は穀物価格が一番安い時期であることを勘案すれば、粗収益は、実際より低い水準に評価されたわけだ。

  朝鮮総督府の標本調査でも、全体的に法定地価は時価より低く評価されていた。地税は、このように決定された地価に対して、一律に1.3%を課すことに決まった。このような地税の額の決定は、日本と比較すれば、土地所有者に非常に有利であった。 地価算定用公式から逆算すれば、地税は粗収益の5%に及ばず、この数値は、地祖改正後の日本の水準と比較すれば6分の1程度に止まる水準だった。 また、土地所有規模による累進税率が適用されず一律に賦課されたので、所有規模が大きいほど地税に対して感じる負担感は少なかった。
  しかし地税賦課方式の変化は、地税額の地域別・地目別負担の変化をもたらし、個別の農家に賦課する地税額も大きく変った〔趙石膏は1995a〕 このため、農家によっては大きい衝撃を受けた場合もあったことは明らかだ。

                       (続く)
 

「収奪論」批判 3


 
「収奪論」批判


3 清算しなければならない幻想~「収奪論」批判


  収奪論が立脚している前提を三種類に分けて整理し、それぞれの項目がどれくらい大きい事実認識の誤謬を犯しているかを見ることにする。「収奪論」の論理は、(1)土地申告の過程で不法な土地申告と無申告地についての土地略奪が発生した、(2)不法な所有権変動に対して農民は紛争を提起したが、ほとんど受け入れられなかった、(3)地価調査を通じて農民の地税負担が加重された、この3点に要約される。そこで、このような主張をそれぞれ点検してみる。

(1) 土地申告書の操作による所有権変動は可能であったか?
 
  土地調査事業の所有権調査は、土地申告者を土地所有者として認めるという原則の下で進められたので、申告の正確性は事業の成否を分ける重要な事項だった。
このため、日帝は、現地で調査事業の手足となる地主総代に、土地申告書を配布させ収集させることにした。土地申告書は、原則として土地所有者が作成して地主総代に提出すれば、地主総代は土地申告書に確認印を押したが、受付けた申告書の正確性に疑いがあれば捺印を拒むことができた。ある土地について二枚以上の申告書が提出されたり申告が無い場合を除いては、申告者を所有者として記録したのだ。

  収奪論では、次のような推論を通じて、申告主義を利用した大規模な土地略奪があったと主張する。
一番目。朝鮮人土地所有者で申告をしなかった人が多かったが、その理由は、申告の手続きを知らなかったり、知っていたとしても漢字や日本語を記載する能力がなかったり、あるいは、日帝に対する反感のために申告自体を敢えて拒んだ。このような無届け土地は、全て国有地に編入された。
  二番目。土地申告書が提出されないことを知った地主総代が、自分の所有地を増やすために、自身や自身の利害関係人名義で虚偽の届け出をしたこともあった。これは地主総代が、地主の代表として地域で影響力を行使できたから可能なことであった。
この推論はもっともらしく見えるが、歴史的事実は全く異なる。

  一番目。無申告地について見ると、定められた届出期間が過ぎた以後にも、その届出が妥当だと認定されれば、申告書は受け付けられた。無届出地は、別途の調査を経て所有者が明らかになれば申告するよう勧奨され、届ける意思がない場合には無申告地として処理された。土地調査事業の無申告地は9,355筆であり、全体2千万余筆の0.05%に過ぎない。
  無届け地が、大部分国有地に帰属することとなったのは間違いない。微微たる数値ではあるが、これは土地略奪の証拠として見ることはできないだろうか? ところが、ある事例研究によれば、無届け地は墓地や雑種地が大部分を占めていて、その性格上、実際に所有者がいなかった可能性が高い土地だった(趙錫坤1986)。つまり、届け出がされなかった土地は、その比重が非常に小さかっただけではなく、その土地の性格上、やはり届出をしないだけの理由があるものだった。無届地があったという事実は、土地略奪があったことの証拠としては解釈できない。

  二番目の推論、即ち土地申告書を不正に作成して土地所有権を奪うことが可能であったかについて見てみよう。まず、土地申告書は、すべての土地所有者が直接作成したのではないようである。筆者が確かめたことがある申告書(金海郡・玉区郡)では、土地に関する情報が漢字ではっきりと書かれていたし、洞・里ごとに大体筆致が同一だったからだ。また、申告書に記載しなければならない事項の中には、官庁で保有する帳簿を閲覧せずには書くことが困難な内容が含まれていた。当時の一般的な文字読解能力を考慮しても、ある集落の土地申告書は、地主総代などの漢字が読み解ける人たちによって代筆されたと見るのが合理的だ。
  しかし、このような代理作成の過程から、地主総代が恣意的に土地所有者をすり替えることは不可能だった。土地申告書の1筆は、キョルスヨン名簿の1筆と対応していた(趙錫坤1995b)。
キョルスヨン名簿は、日帝が地税徴収のために個別の納税者ごとの納税対象筆地を記入して総納税額を計算した帳簿で、1910年度納税分から全国的に適用された。 土地申告書の正確性を確認して届出もれを防ぐために、キョルスヨン名簿と土地申告書を対照させたのだ。
  土地調査書が基礎としているキョルスヨン名簿は、1910年度から課税実務に使用された帳簿だったから、土地申告書が実際の土地所有状況を離れて作成される可能性は、ほとんどなかった。

    次に、地主総代は、彼らの経済的・社会的地位を考慮する時、現実の所有関係を変えるような力は無かった。土地調査事業を進めながら、日帝は、「名望のある」地主総代を探すのに苦労していた。
ある事例研究によれば、金海ノクサン面(村)地主総代26人の中で耕地を一坪も持たない人がなんと10人(38.5%)に達し、5町歩以上の耕地を保有する者は3人に過ぎなかった(趙錫坤 1986 22面)。 地主総代は、その概念から受ける語感とは異なり、土地所有者階級の代表ではなかったし、地域社会の有力者でもなかった。

  事実、土地申告書を操作して朝鮮総督府または特定階層が土地を略奪したという「収奪論」の論理は、朝鮮後期に私的土地所有制度が近代的土地所有権に比肩するほど発展したという学界の通説と、論理的にも衝突する素地がある。なぜならば、土地所有権がそのように確固としていたのであれば、植民地権力がいくら強制力を行使したとしても、所有権を奪おうとする試みに対して広汎な抵抗が現れたはずだからだ。

(2) 紛争地は全て国有地に編入されたか?

  届け出の過程で、土地所有権に関する争いがある場合は、まず和解を誘導し、和解が成らなかった場合には紛争地として処理され、紛争地審査委員会がその所有権を決定した。紛争地の総数は33,937件、99,445筆であったし、この中で国有地に係わる紛争は64,570筆(64.9%)と大きい比重を占めた。もちろん、この10万余筆以外の土地では全く紛争がなかったということではない。実際、調査過程で多くの争いがあったが、当事者間の合意によって解決され、紛争地として受け付けられなかった場合も多かった。また、事情に不満がある場合は、高等土地調査委員会に不服申立てが認められた。

  土地調査事業の過程で紛争地が占める割合は、原紛争地だけを考慮しても200筆当り1筆だから、決して小さい数字ではない。不服申立てのあった土地まで含めれば、紛争地の割合はもっと高くなるだろう。その上、紛争はすべての地域に一様に分布しているというよりは、特定地域に集中して現れることが多かったし、紛争当事者の立場では、生死がかかった問題であった。

  土地調査事業の紛争地問題は「収奪論」の有力な根拠になったが、それは日帝が事実上の民有地を無理やりに国有地として届け出て、そのような略奪に反対する朝鮮農民達の主張を、紛争地審査委員会で一方的に黙殺して国有地化したという推論に基づいている。しかし、このような推論は、やはり歴史的事実からは遠い。

   一番目。国有地紛争が多数発生した理由を見てみよう。甲午改革以後、王室及び政府機関に関連する土地に対する調査が実施されたが、特に、大韓帝国樹立後、内蔵院(?)では、王室財政強化のために、一種の国有地調査である「光武査検」を実施した。その過程で多数の民地がいわゆる「公土」に編入され、紛争が発生した。この紛争は、内蔵院の強圧的姿勢のため解決が見られないまま、1908年、日帝によって全部「驛屯土」に編入された。日帝はこの土地を対象に、驛屯土実地調査を実施し、その結果作成された『度支部所管国有地台帳』が土地調査事業において国有地通知書作成の基準帳簿となった。即ち、光武査検当時の紛争が土地調査事業の紛争として現れたのだ。

  だから、国有地紛争が起った原因を、日帝が土地調査を通じて民有地を略奪しようとしたからだと見る収奪論の主張は、このような歴史的観点が欠如している。国有地紛争の原因は、光武査検の公有地確保方式、もっと根本的には、そのような公有地確保方式の根底にある朝鮮後期の土地支配方式のなごりにその原因があった。

              (続く) 

「収奪論」批判 2


「収奪論」批判

2 土地調査事業と「収奪論」  


  土地調査事業は、日帝が1910年~1918年の間、朝鮮の全耕地を対象として所有者と地価を確定して、地籍図及び地形図を作成した作業だ。この中で最も重要なのは、所有権調査だった。所有権調査の結果所有権者として確定された者は、その土地に対する所有権を「原始取得」したものと見做された。土地調査事業の結果である「査定」は、現在でも、所有権をめぐる争いが発生した時に決定的な役割を発揮する場合が多い。

  土地調査事業に対する一般的な認識は、一言で言えば、「日帝が朝鮮の土地を略奪するための措置だった」と要約できる。即ち、土地調査事業の目的は、近代的所有権が認定される土地制度の確立であるが、その本質は全国的な土地占奪だった。土地占奪が可能であったのは、土地調査事業で採用された期限付き届出制が複雑なので、申告を出来なかったりしなかった場合が多かったからだ。こういうやり方で略奪した土地は、全国の農地の約40%に達し、これらの土地は捨て値で日本人に払い下げられた。反面、韓国の農民は耕作権を奪い取られて生活に大きい脅威を受け、生活基盤が弱い一部の農民たちは海外に移住しなければならなくなったのだ。
  土地調査事業は、「収奪のための測量」(金勇葉 1969)だったし、それを可能にした手段は、土地申告の過程で恣意的に行われた不法な所有権移動であり、その結果、農民が保有していた慣習上の権利が撤廃され、広大な国有地が創出されたというのだ。

  ところが、1980年前後から、一部の外国人研究者たちによって、「収奪論」に対する疑問が提起されるようになった。宮島博史は、土地調査事業による民有地確定の側面がもっと強調されなければならないことを主張した(宮嶋博史 1978)。Gragertは、土地調査事業を通じた収奪はなかったし、量案(?)と土地台帳の分析から両者が示す土地所有類型に明らかな連続性があると主張した。(Gragert 1994、原論文は1982年に著述)

  国内で土地調査事業の「収奪論」に関する本格的な問題提起は、土地調査事業の原資料が発掘された1980年代中盤以後に始まった。
一番に批判の対象になったのは、申告主義を通じた土地略奪の可能性だった。 趙錫坤(1986)と英淳(1988)は、金海の土地申告書を分析して、土地申告過程で既存の土地所有関係を無視した土地略奪が起った可能性はほとんど無いことを指摘した。土地調査事業の結果創出された国有地も、全体対象面積490万余町歩の2.6%に過ぎない水準だった。また紛争地の処理過程も、後述するが、国家に一方的に得なものではなかった。

  このような実証的な批判にもかかわらず、「収奪論」は相変わらず威力を発揮している。最近完刊されたチョ・ジョンレの大河小説『アリラン』1、2部の主要な素材は土地調査事業であるが、チョ・ジョンレの土地調査事業に関する認識は、やはり「収奪論」に基づくものであった。いや、彼はさらに一歩進めて、土地調査事業を妨げた者は裁判もなしに死刑という即決処分を受けたように描写しており、土地調査事業が完了した結果、朝鮮総督府は朝鮮の土地の45%を占める最大地主になったとしている(『アリラン』第6巻69p)。

  45%という謎の数値が登場した背景は置くとしても、面(村)単位の駐在所長が、ある農民が地主総代に暴行を加えたという理由だけで、その農民を裁判もなしに死刑にすることができるという想像力に呆れかえるだけだ。もちろんその想像力の裏面には、片手にはピストルを、もう一方の手には測量器を持って(シン・ヨンハ 1982, 109p)土地調査を進めたと描写する収奪論者の主張が刻印されているに違いない。



(続く) 

「収奪論」批判 1


 これは、数年前に掲示板で拾った韓国語の文章を翻訳したもので、作成日と執筆者は知りませんが、おそらく、ニュー・ライトに属する学者のどなたかであろうと思います。朝鮮総督府が行った土地調査事業の実際の姿を、資料を基に、詳しくかつ分りやすく紹介してあります。
 


「収奪論」批判

1 間違った対立構図~「収奪論」と「植民地近代化論」


  解放以後の韓国史における大きな課題の一つは「植民史観」の克服であり、このような歴史学界の努力は、1970年代に入って韓国史の「内在的発展論」という主流的流れを作り出すことに成功した。
ところが、1980年代後半、東アジア経済圏の急成長と社会主義の崩壊という状況の変化は、私たちに歴史を眺める新しい観点を要求している。社会主義の崩壊は、歴史上に「近代」が占める位置とは何かを再考させる一方、東アジア経済圏の急成長は、前近代から近代への移行に関する既存の論議(特に従属理論)の修正を求めている。
  最近、国内外の研究者たちの間で現れた植民地時代を再解釈しようとする動きも、これと係わっている。海外では「韓国資本主義の植民地的起源」だとか「植民地関係の重畳的・複合的性格」に注目した研究成果が続々発表されていて、研究の対象も社会史・文化史などの領域に広がっている。また経済史分野では土地調査事業や植民地工業化などに対する新しい解釈を通じて、植民地時代の性格を再検討しようとしている。
 
  このような研究動向に対して、「内在的発展論」の立場は好意的ではない。さりとてそのような論議を完全に無視するのは望ましくない。「本家」の自負心を守るのは非常に重要なことであるが、「韓国学」ブームに乗って日に日に影響力を拡張する海外の研究動向に無関心であったり、他学問分野の研究成果に対して排他的に対応して自ら学問分野間の研究の幅を狭めるのは、韓国史研究者として当然担わなければならない役割を放棄することになるのではないかと思える。

  最近論題になっている植民地工業化の歴史的性格の規定に関する論議をよく見ると、現在の論争構造が、相手方を理解して植民地時代の認識を深化させようとするよりは、相手を批判するための極端な論理展開に進んでいるのではないかという危惧の念を消せない。
  一つの研究方法論に対して確信を持つのは、問題ではない。しかしその確信が歴史的事実の特定部分を強調して全体的な時代相を歪曲するとか、ほかの研究方法論に対して排他的な立場だけを押し通すならば、話は異なる。歴史学の任務が、各種のイデオロギーや抑圧構造の外観を取り去り、歴史の本当の姿を明らかにすることにあるのなら、上のような態度はその研究方法論のためにも決して望ましくないからだ。

  近代は資本主義が形成・発展した時期であり、「近代性」もやはり資本主義の特性に規定される。資本主義が搾取と抑圧を内包する生産体制である限り、「近代性」もやはり搾取と抑圧から自由であることはできない。
  19世紀後半の植民地という資本主義に内在する搾取と抑圧構造が、国境を越えて地域的に広がったのであり、その本質が「収奪的」(資本主義的な余剰の受取りという意味で)であったことは明らかだ。そのような意味で植民地時代を「収奪論」の観点で把握することは一定の意義を持つ。しかし既存の「収奪論」は、日帝の収奪を、資本主義的な収奪ではなく、地理上の発見時期にでもありそうな「原始的略奪」と規定するという誤りを犯しているように見える。

 最近、植民地工業化を研究する一部の経済史研究者たちは、「収奪論」の問題意識とは別に、植民地時代の工業発展が、解放以後の韓国資本主義の物的・人的発展とどう関連しているかを探究している。特に、1960年代以後の韓国資本主義の発展は、輸出指向的工業化が成功した対外的条件に負うところが大きいが、すべての国が工業化に成功したわけではないということを見れば、それを可能にした内的条件があったことは明らかだ。
  そのような内的条件の内容は何であり、それの形成過程はどうだったかを考察するとき、私たちは必然的に植民地時代の経験と向き合うことになる。このような点で、植民地時代を、解放以後の韓国史と連続させて把握しようとすることは、やはり一定の意義を持つ。

  「収奪論」では、このような主張は「植民地近代化論」であり、「植民地美化論」と異なるところはないと憤る。しかしその批判は核心を外れている。韓国資本主義の起源が植民地時代にあると主張すれば「植民地美化論」になるという発想は、現在の韓国資本主義に対する価値判断を切り除いている。「内在的発展論」では、前近代は近代(=資本主義)によって克服される対象であり、従って、近代(=資本主義)は「善」であった。このような近代認識が「植民地近代化論」批判の前提となっているから植民地工業化論を「植民地美化論」と認識しているのだ。

  現在の資本主義が搾取と抑圧構造を内包しない「善」の体制だと考えられないのであれば、植民地下で資本主義が発達したからといって植民地支配が正当化されるものではない。 その上、韓国資本主義の成長が、内的には植民地下で形成された資本主義的関係に負うところがあったとしても、外的には前後の国際分業関係の特殊な条件の産物であることもまた疑う余地がない。「植民地近代化論」だとして批判を加えながら韓国資本主義の歴史的起源という問題に顔を背けるのは、韓国資本主義の自生的発展の源泉を植民地時代から断絶させる結果をもたらすだけだ。

  ところで「植民地近代化論」の「資本主義」検出は、「内在的発展論」が朝鮮後期に「資本主義の萌芽」を探し出したことと余りに似ている。これは二つの立場とも、資本主義に向かう単線的発展という歴史観を持っているからであるように見える。「収奪論」的な歴史認識に対する批判意識が先立ったためであろうが、「植民地近代化論」が「資本主義」の起源を探すことだけに没頭すれば、前近代朝鮮社会の固有の特質が近代の形成にどういう影響を及ぼしたかに係わる最近の問題提起(李栄勲 1996)等を包含することができず、植民地社会固有の特質が掴めなくなるという誤りを犯すことにもなる。

  「収奪論」と「植民地近代化論」の問題意識は、共に正当な側面があるにもかかわらず、相手の主張に対する批判に没頭し、却って歴史の実体に対する正しい認識を妨げているのではないかと思われる。
この文において、土地調査事業の研究で明らかとなった「収奪論」的傾向に対して詳しくその虚構性を明らかにしようとすることは、単純に「収奪論」が誤っていると主張することではない。一つの立場に極端に執着することは、資料利用に偏りを生じたり、独断的な資料解釈に陥る危険があると思えるのだ。
この文の「収奪論」批判は、「収奪論」の限界、それとその限界を一定部分共有している「植民地近代化論」の限界を越えた、新しい歴史認識を模索しようとする小さな試みである。


                            (続く) 




        

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Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
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