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イ・ヨンフン教授の竹島/独島論


  イ・ヨンフン教授は、その著書『反日種族主義』と『反日種族主義との闘争』において、竹島(独島)問題に関して、韓国人たちの常識に真っ向から挑戦する(したがって、日本側の常識にはかなり近い)、韓国内においては非常に斬新な見解を発表しました。その要点は次のようなことです。
 (イ・ヨンフン氏はもう教授ではないのだが、このブログではずーっと「イ・ヨンフン教授」のことを紹介して来たので何か変えにくい。イ・ヨンフン李承晩学堂校長ってのも何だかなあ・・・・・・それと、このブログは当初はイ・ヨンフン教授の言説を中心に紹介していて、途中から竹島問題中心に変わって来たのだが、その両者が交叉することはないだろうと思っていたところ、イ・ヨンフン教授がいよいよ竹島問題を取り上げたことで二大テーマが見事に交叉した。)

1 韓国には独島が歴史的に韓国の領土だと言える根拠はない。
  ・于山島は幻想の島であって、独島ではない。
  ・1900年大韓帝国勅令41号の「石島」も独島ではない。
  ・1905年に日本が独島を領土編入するまで、大韓帝国政府は独島の客観的存在を認知せず、相応する領有体制を成立させたこともなかった。
  ・韓国政府は日本の独島領土編入を知ったとき、抗議をしようと思えばできる状況だったのに抗議はしなかった。
  ・韓国政府には独島が韓国の固有の領土であることを証明するほどの国際司法裁判所に提出できる資料は何もない。

2 サンフランシスコ条約では、条約の主管国アメリカが独島は日本のものと判断したから独島は日本が放棄する範囲に含まれなかった。

3 独島は李承晩が新生韓国を軽んずるなという政治的意図から、初めて領土化したものだ。李承晩は歴史記録を根拠にそういう決断を下したのではない。独島紛争を巡って歴史学者が正当性を論ずる主体として前面に出て来るのはナンセンスだ。彼らは必要に応じて呼び出される助演に過ぎない。

4 李承晩の独島編入は、日本とアメリカからの独立を宣言し、新生韓国の国民を統合する象徴としての意味があった。しかし、あまりに作為的で副作用を伴うしかない選択でもあった。その副作用の克服は後代が担うべき歴史的課題だ。

5 韓国人は独島を反日の象徴とする煽動をやめて、とりあえず両国間の紛争は過去のような低い水準で管理すべきだ。


  このイ・ヨンフン教授の竹島論の最大の特色は、つまり、竹島紛争の発生は李ラインからだと指摘することによって、とりあえず日本の主張と韓国の主張を正面から対峙させようとしているということです。もちろん、事実は竹島紛争の発生は李ラインを契機としているのであり、だから日本政府もそのように主張しているわけですが、これに対して韓国側はそこから話をそらすためにありとあらゆる歴史的資料を持ち出して来てはウソばかり言うことに全力を挙げているので、イ・ヨンフン教授は韓国側のいう「歴史的根拠」なるものが全てウソであることを指摘して、竹島問題の起点を史実のとおりに李ラインによる独島領土化に置くことでまずは両国の主張を同じ土俵に乗せて、その上で韓国人たちに李ラインによる独島領土化をどう評価すべきなのか考えさせようとしているわけです。

 イ・ヨンフン教授は前著『反日種族主義』の日本語版序文で次のように言いました。

  「独島紛争に典型的に見られるように、李承晩大統領の反日政策が残した副作用は大きく、今も長く尾をひいています。彼の理念と業績を再評価するための李承晩学堂の活動には、彼が残した負の遺産を克服する努力も含まれています。」

  李承晩が残した負の遺産とは、韓国人たちのものの考え方に及ぼした影響という面もあるでしょうが、目に見える形で現在も存在しているのは竹島問題だけではないですかね。イ・ヨンフン教授としては、「独島は実は日本のものだ」なんて明言することは不可能(仮に言ったとしても最大級の反発を受けて意味がなくなる)な韓国にあって、問題の正しい解き方を提示することによって竹島問題が将来的に解決に向かうように現時点で最善の問題提起をしたと言えます。
  イ・ヨンフン教授のこの姿勢は高く評価されるべきものですが、もちろんそれは韓国内の問題ですから、日本側はそれとは関係なくもっと積極的に竹島奪還の動きを進めて行くべきですね。(イ・ヨンフン教授が韓国側の歴史的主張を全て否定したことは、程度はともかくとしても、方向性としては確実に日本に有利に働くことだし。)


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 2021年新年の辞を述べるイ・ヨンフン李承晩学堂校長。「去年は体調が悪くて皆さんの前に出ることが少なかったですが、今年は皆さんと共にいられるよう努めます」というようなことを述べている。







 






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イ・ヨンフン教授の独島論に対するおバカ反論

「独島はない」というイ・ヨンフンに答える

2020-10-30 ヘラルド経済
http://news.heraldcorp.com/view.php?ud=20201030000090


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『独島は幻想の島なのか~イ・ヨンフンの独島認識、その虚構を明らかにする』/柳美林・イ・ギボン著/知識産業社

  イ・ヨンフンの『反日種族主義』、『反日種族主義との闘争』は、独島をありもしない「幻想の島」とする主張で論難の中心にある。独島の実体を否定するイ・ヨンフンの論理の出発は、『太宗実録』1417年2月5日の記事だ。「15世帯86人が住む于山島から居住民3人を連れて来た」という按撫使金麟雨の報告だ。86人も住んでいたという于山島を独島と見るのは難しいので、于山島は独島ではないという主張だ。
  こうした中、独島の専門家である柳美林博士は、太宗実録の于山島が鬱陵島の錯誤であることを立証する記録を捜し出した。『世宗実録』1425年8月8日の記事だ。武陵島に逃げて暮らしていた人々を1416年に金麟雨が連れて出たということだ。『太宗実録』の記事は1417年だが、金麟雨の調査は1416年にあったので、『太宗実録』にいう于山島が『世宗実録』の武陵島であることを明らかにしたのだ
  『独島は幻想の島なのか』(知識産業社)は、独島専門家である柳美林、地理学者であるイ・ギボンが『反日種族主義との闘争』でイ・ヨンフンが記述した独島関連内容の虚偽を史料を根拠としていちいち反論している。
  イ・ヨンフンは『世宗実録地理志』の「于山と武陵の二島は県の東側の海の中にある。二島は互いにそれほど離れていない。天気が良ければ眺めることができる。新羅の時は于山国と称したが鬱陵島ともいった」という記録を根拠に、「于山は本来国の名前であったのが、いつからかそれを島と見なす誤解ができた。だから于山島は実在しなかった幻想の島だ」という主張をする。また、『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」を始め18世紀前半まで多くの地図が鬱陵島の西側に鬱陵島と似た大きさの于山島を描いた点を上げて于山島の不在を主張する。
  これと関連して、著者は、日帝強占期前までの朝鮮時代の地図製作は正確な位置を測定できる近代式測量を施行できなかったという点を前提としなければならないと話す。地図製作者などは『新増東国輿地勝覧』に収録された「二島は(蔚珍)県の正東の海中にある」という情報を根拠として、位置や大きさは関係なく二つ島の情報だけを表わしたということだ。反面、英祖の命を受けて申景濬が編纂した『東国文献備考』の「輿地考」では、鬱陵島争界(安龍福事件)の中の于山島=松島(独島)という知識を入れて鬱陵島の東に小さい島、于山島(独島)を描いている
  1900年大韓帝国勅令第41号で言及された石島に対する論争も続く。イ・ヨンフンは石島は于山島でなく観音島だと主張する。19世紀末、鬱陵島は開拓令により移住民が入島し始めるが、日本人の侵奪が激しくなるとすぐに両国が共同調査を行うことになる。その結果、勅令第41号が発布される。要旨は、鬱陵島を鬱島に改称して島監を郡守に改正して、鬱島郡の区域として鬱陵全島と竹島、石島を定めたのだ。于山島が突然石島になったことについて、著者たちは、当時の鬱陵島移住民の82.1%が全羅道の人であったが、彼らは鬱陵島のあちこちに韓国語の地名を作って呼んだとし、トルソムと呼ばれる于山島を全羅道式でトクソムと呼んだと説明する。 これを復命書に漢文で書く過程で石島と表記したという説明だ。今の独島という名前は全羅道方言のドク島から出たという話だ。
  1900年大韓帝国勅令41号は、1905年以前に大韓帝国が鬱島郡を管轄したことを示す史料としても重要性がある。イ・ヨンフンは1905年日本が先占、有効な領有権を取得したという無主地先占論を前に出す。独島論争は日ごとに多様な史料を根拠にそれぞれの論理を展開するが、体系的な説明が不足して来た状況で于山島の実体、独島と表記された過程を明快に説明している。
イ・ユンミ記者



<コメント>
 柳美林女史はあくまで韓国人たちにウソを信じ続けろと言いたいらしい。イ・ヨンフン教授の指摘に対して話にならない反論をしているようだ。
 その屁理屈は、『世宗実録地理志』には「于山と武陵の二島」とあるところ、『太宗実録』にいう于山島はその武陵島に当たるので于山島は別にちゃんと存在していることになる、それがつまり独島だ、于山島=独島は実在したのだ、と言っているらしい。本当にそんなことが言えるのか、本の中でどれくらい吟味しているのか知らないが、どうせ、「何か言い返しておけば勝ちだ」という程度の話でしょう。

 イ・ギボンという人の投げやりな理屈もすごい。当時は地図製作技術が未発達だったから、「位置や大きさは関係なく二つの島の情報だけを表わした」のだそうです。いくら技術が未発達と言ったって、二つの島があるという情報があるのであれば、大体の大きさの違い、大体の方角くらいの情報はあるのが当たり前ですよ。それを自ら「適当に描いたのだ」と白状して、それを領有権論争の証拠にしようと思っているらしいですよ。

 そして、ここに至っても竹嶼の存在が元になっている于山島のことを独島だと言い張る旧態依然の態度。感心しますね。

 それから、勅令41号制定前の鬱陵島調査の復命書の中に「石島」なんて言葉があるのか? そんなものがあるなら画像付きで大ニュースとして流れるはずだがね。




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「独島固有領土の根拠無し」

  李承晩学堂が先日出版した『反日種族主義との闘争』のうち竹島問題はイ・ヨンフン教授が一人で書いていますが、その中に次のような文章があります。(p226~227)
 
  「鬱島郡の官吏や住民は、さらには大韓帝国の中央政府は、独島の客観的存在を認知できず、相応する領有体制を成立させたこともありません。このような前後の事情の結末として、1905年1月、日本内閣は独島を自国の領土に編入する決定を下しました。・・・・・・韓国政府と研究者がこれに反論するためには、1905年以前に朝鮮王朝や朝鮮人がその島を占領して利用した形跡を提示しなければなりません。残念ながら、私はそれに関して知りません。熱心に既存の資料を検索して研究を渉猟しましたが、そういう形跡を探すことができません。それが一人の研究者としての私の率直な告白です。」

  これは日本政府の主張とぴったり一致していますね。日本政府は、例えば『竹島問題10のポイント』(p4)で次のように言っています。

  「また、韓国は竹島の占拠を、領有権の回復であると主張していますが、そのためには、我が国が竹島を実効的に支配して領有権を再確認した1905年より前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを証明しなければなりません。 しかし、韓国側からは、そのようなことを示す根拠は一切提示されていません。」

  控えめな表現ではあるものの、これは、「韓国政府がいう独島は韓国の固有の領土だとする説明は全部嘘っぱちです」と言っているに等しいものです。この点で日本政府の主張とイ・ヨンフン教授の説明は図らずも一致しました。韓国のエセ「独島研究者」たちは、「やっぱり親日派のイ・ヨンフン教授は日本政府の主張に盲従している」とか何とか言い出すかも知れません。事実を正確に調べて行けばどうやってもこういう結論になるしか無い、ということを彼らは絶対に認めることができないので、ますますおバカな再反論を繰り広げることでしょう。






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『反日種族主義』の竹島問題

「反日種族主義の淵源としての竹島問題」(下條正男氏)
『歴史認識問題研究』第6号(2020.03.26)
http://harc.tokyo/wp/wp-content/uploads/2020/03/bdab4b5e1def3d955e0769b790eec200.pdf


ホン・ソングン氏の再反論 (2)

イ・ヨンフンの「独島」に対する再反論
ホン・ソングン 東北亜歴史財団研究委員
週刊朝鮮 [2584号] 2019.11.25
http://weekly.chosun.com/client/news/viw.asp?nNewsNumb=002584100015&ctcd=C02

(続き)
   日本人たちの鬱陵島不法入島と悪行が深刻な水準に達すると、すぐに朝鮮政府は日本人たちの鬱陵島不法入島の現況を調査して、鬱陵島の行政体制を整備するために内部官員禹用鼎(ウ・ヨンジョン)を鬱陵島視察委員に任命して派遣した。1900年6月、禹用鼎は釜山駐在日本領事館副領事赤塚正助とフランス人の釜山海関税理士E. ラポルテなどと共に合同調査団を設けて鬱陵島に行った。

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▲赤塚正助の「鬱陵島調査概況」(1900)の鬱陵島地図は、観音島が「島牧」と表記されている(左側)。奥原碧雲の「独島と鬱陵島」(1906)に載っている鬱陵島地図は、観音島を「観音崎」と表記している。

石島は観音島ではない
  これらの鬱陵島調査を基に大韓帝国勅令第41号が制定された。日本人たちが鬱陵島を「松島」と呼んだ当時の状況で以前の「于山島=松島」認識は破られたし、当時の鬱陵島居住民は独島を「トクソム」と呼んでいた状況なので、独島に新しい行政地名が要請された。このようにして「石島」という新しい名前が誕生した。だが、独島に対する地名混乱があっただけで、独島の存在を知らなかったとか忘れたのではなかった。1903年の日本文献「韓海通漁指針」には「晴れた日には鬱陵島の高い峰から(独島を)見ることができる」と記録した。
  イ・ヨンフン教授は「石島は観音島」と主張する。その理由として、1916年朝鮮総督府陸地測量部が製作した地図上で「独島」または「石島」の名称の使用例を挙げて「トクソム」が「石島」と表記されるはずがないということだ。しかし、このような説明は「石島=観音島」の論拠にはならない。イ・ヨンフン教授は言及しなかったが、日本水路部の『朝鮮水路誌』第2版(1899年)に記録された全羅南道小安項(現在の莞島郡蘆花邑チュンド里)の「石島」は、「トルソム」でなく「トトクソム(トクソム)」と発音した(朴炳渉「韓末鬱陵島・独島漁業:独島領有権の観点から」p77)。今でも全羅道地域の何何島の場合「トクソム」と呼んで「石島」と表記する(シン・ヨンハ「独島・鬱陵島の名称変化研究」『独島研究叢書』 6巻p318)
  そして、観音島が石島と表記されたことがないという事実は、当時の鬱陵島地図を見れば確認可能だ。朝鮮総督府が1917年に製作した鬱陵島地図を見れば、観音島は「観音島」と表記されている。これを念頭に置いたように、イ・ヨンフン教授は無理な主張をする。1900年までその島には人が暮らさないので名前が無かったが、1900年大韓帝国の中央官吏が任意に「石島」と名づけ、1910年代に日帝が陸地測量などをする中で観音島に改称したと考えられると言った。だが、そのような推察が間違っているのは、それ以前にも「観音島」という地名が使われていたためだ。
  1906年、日本の島根県の役人たちと共に鬱陵島を訪問調査した奥原碧雲の本「独島と鬱陵島」に載った鬱陵島地図では、観音島を「観音崎」と表記した。そして1900年、禹用鼎と共に鬱陵島を調査した釜山駐在日本領事館副領事赤塚正助が書いた報告書「鬱陵島調査概況」の付属地図では観音島が「島牧」と表記されている。「島牧」は鬱陵島住民たちが呼んだ「ソムモク」を訓読(ソム→島)と音読(モク→牧)と表記した漢字式地名だ。また、1902年鬱陵島駐在日本警察官西村圭象の報告もその島を「島牧」といって日本人たちは「観音島」と呼ぶと記録した。
  そうすると、1900年以前には「観音島」に付けられた名前は無かったのだろうか。 違う。1794年にやはり韓昌國の報告書で楮田洞(今日の苧洞)海岸近くの3個の島のうち北側にあるとしたパンペ島(翻訳者注:「防碑島」だったかなあ)が観音島と推定される。1882年李奎遠の「鬱陵島検察啓草本」と「鬱陵島外図」では観音島を「トハン(島項)」と表記している。「島項」は「ソムモク(島の首)」の意を表記した漢字式表現だ。
  過去、鬱陵島住民たちが日常で呼んだトクソムが石島や独島と表記されたことは、鬱陵島の他の地名と比較して見れば決して不自然ではない。鬱陵島の昔の地名表記には一定の規則があるわけではない。まず、鬱陵島住民たちが日常で呼んだ韓国語地名を、その意味や音に従ってそれぞれに表記した事例を見ることができる。例えば「モシゲ(苧(からむし)潟)→チョドン(苧洞)」、 「テバウ(テバウィ)→チュガム(竹岩)」のようにその地名の意味をとって漢字で表記した名があるかと思えば、「クルバウ(クルバウィ)→クアム(亀岩)あるいはクラム(窟岩)」、「カション(カンニョン)→カンニョン(間嶺)」のようにその地名の音を漢字で表記したものもある。さらには「道方庁→道洞」、「臥鹿沙・臥玉沙)→沙洞」のように以前の地名から一文字を取って地名を作った場合もある。また、鬱陵島の地名の由来を見れば、朝鮮時代の捜討官がつけた地名から1882年の開拓令後に韓国人がつけた名前と日本人たちがつけた地名などが混在している。このような鬱陵島地名の特殊性を理解するならば、「トクソム」が意味をとって「石島」と表記されたり音をとって「独島」と呼ばれたという事実を理解するのに役立つだろう。

非常に気に障るので一言
  最後に、今回の論争のテーマからは離れるが、イ・ヨンフン教授の主張の中にはこの上なく心と目に障る部分があって、一言付け加えたい。それは、「独島は巨大な岩塊に過ぎない」という主張だ(『反日種族主義』 p173)。また、イ・ヨンフン教授は、独島が国際法上領海も持つことができないように説明している。だが、国連海洋法協約第121条1項は、「島とは、海水で囲まれていて満潮時にも水面上にある、自然的に形成された陸地地域」と規定している。このような島は当然12海里まで領海を持つことができる。
  さらに、独島が単純な「岩塊」ではないという事実は、その中に溶けている歴史がくっきりと語っている。1948年6月8日に独島で起きた爆撃事件は、独島が私たちの領土ということを実証的に見せてくれた。その爆撃事件で独島で操業していた14人の我が漁民が死亡した。当時の行政文書である死亡者の除籍簿には、彼らは「慶尚北道鬱陵島所属独島」で死亡したと記されている。1950年6月8日、韓国政府は彼らを記憶して追悼するために慶尚北道知事チョ・ジェチョンを派遣して独島現地で慰霊祭を行い慰霊碑除幕式も行った。
 今でも慶尚北道蔚珍郡オンヤン里に行けば、その時の痛みを抱えて暮らしている犠牲者の遺族がいる。爆撃に散った父の遺体さえ探せない彼らには、独島は父の墓のような所だ。彼らにとっては、独島は大きな岩塊ではなく、先祖の人生と哀歓がしみ込んでいる所だ。

(終)


<コメント>
 韓国が竹島(独島)を実際に領土として支配した証拠は無いというイ・ヨンフン教授の指摘からどんどん遠ざかる話ばかりです。



ホン・ソングン氏の再反論 (1)

イ・ヨンフンの「独島」に対する再反論

ホン・ソングン 東北亜歴史財団研究委員
週刊朝鮮 [2584号] 2019.11.25

http://weekly.chosun.com/client/news/viw.asp?nNewsNumb=002584100015&ctcd=C02

  この文は、去る11月11日付け週間朝鮮第2582号に載ったイ・ヨンフン教授の「于山島と石島の実体を再び論じる」に対する反論だ。韓国が歴史的に独島の存在を認知することになったのは、「鬱陵島から独島が見える」という事実に起因する。それで、日本側は、鬱陵島から独島を見ることはできないとして、鬱陵島には木がぎっしりと一杯になっていて、あるいは眺める高さと距離など数学的計算でも眺望は難しいという言い訳をしたことがある。だが、鬱陵島から独島が見えるということは拒否できない事実だ。

張漢相は「遠近を推し量って」独島を観測した
  イ・ヨンフン教授は、三陟営将張漢相が見たのは独島ではなく「海霧」と主張した。 彼もまたいくつかの理由を付けたが、その全てのことが受け入れ難い。彼は張漢相が太陽が中天に上がった時に聖人峯に登ったと言ったが、「鬱陵島事蹟」のどこにもそのような内容はない。「鬱陵島事蹟」には張漢相の捜討軍が「雨が上がって雲が晴れた日」に聖人峯に登ったと書いたが、こういう日は独島を観測するのに適した天気だ。
  イ・ヨンフン教授は「生い茂った木と周辺の峰が迫って、独島を見ることはできなかった」と言った。聖人峯は海抜986.7mの高い山で頂上部には視野を遮るほど大きな樹木はない。また、周辺には900m以上のマルチャンドゥン(チョンドゥ山)と弥勒山があるがどちらも北側にある山々で、独島が見渡せる東南側では海が広々と見下ろせる。 そして、張漢相は独島の大きさと位置を測定する時、「ぐるっと回って往来して四方を眺めて遠近を推し量って見た」と記録してそれなりに正確性を期したことを語っている。
  昨年10月20日、筆者は鬱陵島を訪問した際に真昼に聖人峯に登って独島を見たことがある。その時は筆者だけが見たのではなく、京畿道から来た旅行客も独島を目撃した。経験上、独島眺望は鬱陵島の天気より独島の天気がカギだ。イ・ヨンフン教授が言及した東北アジア歴史財団の「独島可視日数調査」は筆者が推進した事業だ。 その時独島を観測して写真を撮った調査者は鬱陵島住民であったし、自身の生活空間で独島を主に観測した。彼の生活空間は、海抜220mにある道洞里のカッケドゥン村の入口であった。その結果、鬱陵島住民の生活の空間からも独島が良く見えて、海霧がない秋はもちろん、季節に関係なく独島が見えるという結論を得た。もちろん、独島眺望が可能な鬱陵島の全ての所で常時観測調査をするならば、それより多くの測定結果を得られるはずだ。
  韓国の独島領有権を否定しようとする人々が鬱陵島から独島が見えるという事実を否定しようとする理由はどこにあるだろうか。鬱陵島から独島が見えるという事実は、二島が地理的に近いということと、韓国が独島の領有や存在に対する認識を持っていたことを保証する役割をする。アメリカ・ハワイ大学の国際法教授であったジョン・バンダイクは、鬱陵島から独島が見えるという事実は、二島が物理的・歴史的に非常に緊密な関連性を持つことを示すと言った。 もちろん日本からは決して独島は見られない。


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▲ 2008~2009年東北亜歴史財団の依頼を受けて鬱陵島で「独島可視日数」を調査する鬱陵島住民が沙洞セガクタン村から独島を観測して撮った写真。遠く水平線に浮かぶ独島が見える。

歴史的に区別される「于山島」と「竹島(チュクト)」
  イ・ヨンフン教授は、1711年の朴錫昌(パク・ソクチャン)の「鬱陵島図形」にある「いわゆる于山島」を「竹島(チュクト)」とした。だが、その理由を説明することは無かった。地図に書かれた「海長竹田(海長竹がある所)」という表記と鬱陵島本島の近くに描かれた位置のためではないかと思う。
  では、朴錫昌はその島を「于山島」や「竹島」と表記せずに、なぜ「いわゆる于山島」と表記したのだろうか。朴錫昌は張漢相と安龍福を通じて于山島の存在に対する認識を持っていたが、鬱陵島捜討の過程で于山島に比定するほどの島を確定できなかったので「いわゆる于山島」と表記したと解釈される。
  「いわゆる于山島」という地名は、18世紀の「海東地図」や「広輿図」等にある鬱陵島地図で主に見ることができる。その後、19世紀「青邱図」の鬱陵島地図などでは「いわゆる」を抜いてそのまま「于山島」と書いている。これは、1770年の『東国文献備考』と1808年の『萬機要覧』などで「于山島は倭人がいう松島」という追加説明がついたことと関係が無くはないと考える。これは「いわゆる于山島」という不確定的地名などで于山島の存在が疑問視されるとすぐに、「于山島は倭人がいう松島」という説明を付け加えることによって于山島の存在を明らかに確認したと解釈される。当時日本人たちが独島を「松島」と呼んだということは、1779年から1846年に至るまで描かれた長久保赤水の「改定日本輿地路程全図」を通じても明確に知ることができる。
  金正浩が描いた地図の場合、「青邱図」には于山島が表記されているが、「大東輿地図」には于山島が描かれていない。そうかと言って、金正浩が于山島の存在を否定したということはできない。木版本「大東輿地図」には、于山島だけでなくそれよりも大きい巨文島も抜けている。だが、筆写本「大東輿地図」では于山島が描かれている。
  地図は地理誌や報告書など文献に付属した性格を持つもので、地図を正確に理解するためには関連記録を基にして見なければならない。朝鮮時代の地図や捜討官の報告書を見れば「于山島」と「竹島(デソム)」を区別して表記している。
  鬱陵島の付属島として「竹島」という名称が歴史上初めて記述されたのは、1794年、鬱陵島捜討官として派遣された越松萬戸韓昌國(ハン・チャングク)の報告書と把握される。韓昌國は楮田洞(今日の苧洞)の沖合いにある3個の島に言及して、真ん中の島を「竹島」と表記した。その後、「竹島」という地名は1882年の李奎遠検察使が提出した「鬱陵島外図」でも見ることができる。このように、「竹島」は鬱陵島を現地捜討した役人たちの報告書や鬱陵島地図に記録されている。ところが、18世紀と19世紀の朝鮮全図である「東国大地図」と「我国総図」、「海左全図」などの全国地図を見れば、鬱陵島のそばには「于山島」が表記されるだけで「竹島」という地名は探すことができない。このように、于山島と竹島は互いに区別されて地図上に表記されているのを見ることができる。

日本人たちが鬱陵島を「松島」と呼ぶ中で生じた名称変化
  于山島という地名は、1882年の鬱陵島開拓以後再び混乱を経ることになった。高宗は、1882年、検察使李奎遠を鬱陵島に派遣して鬱陵島のそばにある于山島、竹島、松島に対して調査させることにした。高宗がその地名は「東国輿地勝覧に載っている」と話したことから見て、当時の地図書を通じてその地名を知ったのだ。
  ところで、李奎遠は鬱陵島調査の後、高宗に日本人たちが鬱陵島を「松島」と呼んでその地名が書かれた標木まで立てたという事実を報告した。李奎遠は、鬱陵島現地で当時鬱陵島の日本式名称は「松島」という事実に新しく接することになったのだ。日本人たちの「鬱陵島=松島」呼称は「東国文献備考」、「萬機要覧」等に記録された「于山島は倭人がいう松島」という認識に混乱を持たらした。それまで「松島」と呼んでいた独島を、日本人たちは今や「ヤンコ島(リャンコ島)」と呼んでいた。「ヤンコ島」あるいは「リアンコルド」は、1849年に独島を発見したフランス捕鯨船リアンクル号から取った日本式の名前だ。李奎遠の鬱陵島検察の時、日本人たちが以前のように「鬱陵島=竹島」、「独島=松島」と言ったとすれば「于山島=松島」が独島を指し示すということを少しは簡単に確認できただろう。ところが、当時の鬱陵島住民たちは于山島である独島に対して「トクソム」という新しい地名を付けて使っていたのだ。
(続く)


「独島問題」座談会 2 (2)

[独島の懸案を探る] 企画対談 「独島問題の現在は何か」 (2)
2019.12.13 教授新聞
http://www.kyosu.net/news/articleView.html?idxno=46554

(続き)
イ・ソンファン教授 : 知識人は明確に真理を探求する人であることは明らかです。ところで、学問には国籍がなくとも学者には国籍があるという話があって、私はこの言葉を認めます。しかし、我が国で果たしてその著者をガイドラインから抜け出したと批判できますか? もう一つは、日本では独島は韓国の領土という人々がいますよね? 私たちはそのような人々は賞賛して、今回の『反日種族主義』の著者をこのように批判するのは大丈夫でしょうか? 果たしてこの葛藤をどのように処理すべきかに対する悩みが必要でしょう。長期的に、我が国の研究者がその文の価値が無くなるようにさせた方が良いだろうと考えます。事実、『反日種族主義』のようなものが出てきた時に一番最初に対応しなければならないのは嶺南大学独島研究所であり東北アジア歴史財団だと考えますが、今回は対応が不備だったようです。

パク・ジヨン教授 : これまで、私は日本の知人たちから、日本の学者の中で独島は韓国の領土だと主張する学者がいるが韓国にはそういう人がいないではないかという話を何回も聞きました。しかし、もうその人々に自信を持ってそういう人が一人できたと言えることになりました。今まで日本政府が努力した結果として、哀れな人ができたのです。

チェ・ジェモク教授 : それでは、『反日種族主義』に対する議論は、嶺南大学独島研究所と東北アジア歴史財団を始めとする国内研究者が、その主張を色あせさせるほどの研究をして、そのような主張が取り付く余地を与えないということで整理をすれば良そうです。最後に、独島領有権強化のための私たちの側のフレーム再構成の必要性の議論については、今まで議論したことを整理すればある程度枠組みが出て来そうですね。コントロールタワーに対する議論をまず整理することにします。結局、領土問題は国家レベルで行われるべきことと考えられますが、政府部署または東北アジア歴史財団のような国家機関がその役割を遂行すべきではないでしょうか?

イ・ヨンホ教授 : コントロールタワーと関連して申し上げるとするなら、政府のどこかの部署が担当するとしても、一人の学者が文を書いて発表するたびに、政府の立場に反するからいけないという方式で政府が制止するならば、学問の自由ないし表現の自由と関連が出て来るのではないですか? これは独裁国家でなければできないと考えます。自然に自律的に処理されるようにすることがより良い方法だと思います。

パク・ジヨン教授 : 政府のような国家機関が直接的に対応をするというのではなく、今回のようなことが発生した場合、今後どのように対応するのかという方案とそれを実際に反映できる政策を樹立する、そういう程度のコントロールタワーは必要だと考えます。

イ・ジョンテ教授 : 国家とは政府を示しているものですが、現在では担当部署が不明です。独島問題は国家利益と密接な関係があるもので、コントロールタワー問題を解決する方法は一つしかありません。コントロールタワーを指定設置して、運営できるように予算を配分して、散らばっている知識人を集めて整理すれば良いのです。専門担当部署が、歴史は歴史として、国際法は国際法として、研究者全体の意見を一年に何度も討論を通じて整理して、その整理された意見でテキストを作って独島教育担当者に配布するようなことが体系的に行われることになれば良いです。

イ・ソンファン教授 : これは政府の官僚たちがすべきことではないようです。そうかと言って、東北アジア歴史財団がそれを担当できるかというと疑問があります。独島問題は学問的にも重要で国家的にも重要な問題ですから、東北アジア歴史財団のような機関に独島研究のための大学院課程を設立して人材を養成することが必要だと考えます。国家戦略に合う専門家を養成する必要性があります。今、韓国の独島研究者は誰も独島研究だけに重点を置いているのではないようです。それで真の専門家がいないと言うことができます。したがって、大学院課程を設立して真の独島専門家を養成することがむしろ国家的に役に立つのではないかと考えます。そうなると、彼らが独島問題を戦略的に思考することで、何か新しい方向性が導き出されるという気がします。

チェ・ジェモク教授 : 皆さんの意見はよく分かりました。これで概略的な議論は終わったようです。最後に、これまで議論されたこと以外にさらに別の意見がありますか?

イ・ジョンテ教授 : 私は独島防御戦略に対して申し上げましたが、どんな場合でも最後の解決手段は国際法であるし外交政策であるのですが、最も基本的なことは、領土を守る国家の義務がなおざりになる場合にはどんな代替手段も無用になるということです。今からでもそのような部分を構想して、民間の専門家たちや市民団体の意見を聞いて、方法に対する合意をして、独島防御戦略を一日も早く樹立することが最も重要だと考えます。

イ・ソンファン教授 : 小数精鋭で国家戦略的なレベルで独島問題に対する専門家及び人材養成が切実に必要だというのが、私が申し上げたことの核心です。他に申し上げることはありません。

イ・ヨンホ教授 : 独島問題について討論をしていると、民族主義的な視点を基に主張することが多いのも事実ではあるのですが、主張がもう少し均衡を取る風土が独島問題研究に必要な要素だと見られます。そうなれば韓国の主張が国際社会でもっと大きい説得力を持つでしょう。また、とんでもない主張は自然に淘汰されていく雰囲気を学者が作って行かなければならないと考えます。

パク・ジヨン教授:今回『反日種族主義』が論難になるのを見て、私たち研究者が今後さらに熱心に研究ができる環境を作ってくれていると考えました。そして、私たちが研究する過程で、第三者的な視点で絶えず独島問題を眺めることが重要だと考えます。特に、独島問題の関連資料を分析する時も、韓国人や日本人でない第三国人ならばどのように判断するのかをいつも念頭に置くことが重要だと考えます。そのような視点から研究した結果が累積するならば、第三国人も明確に認める私たちの独島になる日が来ると考えます。

チェ・ジェモク教授 : 学者として信念、愛着、愛国と合理的な学術の問題は分離した方が良いという言葉で整理しましょう。独島研究はちょっと穏やかなふうに、自らの立場を主張する時も物静かで説得力あるようにしなければならないということを意識して、問題を客観化させて冷静に眺めることが優先されなければならないと考えます。今日は熱心な議論をしていただいてどうもありがとうございました。


<コメント>
 『反日種族主義』でイ・ヨンフン教授が韓国における「独島研究」のおバカさを批判したので、それに対して「独島は韓国領土」と考える研究者たちは、今から「イ・ヨンフン教授の主張を色あせさせる研究」をしたり、「コントロールタワーを作って皆で議論」したり、「大学院課程を作って独島専門家を養成」しようというわけだな。いやあ素晴らしい議論だ。領有権を証明できない人たちの苦し紛れの発言だということが良く分かる。

 

 

「独島問題」座談会 2 (1)

[独島の懸案を探る] 企画対談 「独島問題の現在は何か」 (2)

2019.12.13 教授新聞
http://www.kyosu.net/news/articleView.html?idxno=46554

チェ・ジェモク教授 : それでは、二番目として、最近 『反日種族主義』 を通じて、我が国の独島領有権に対する一種の妄言というほど日本右翼の主張と良く似た主張が提起されていますが、この問題に対してどう思いますか。

イ・ジョンテ教授 : まず、この問題の場合、あちこちで多くの論難になっている事案ではあります。ところが、今回の場合を追跡して見れば、結局、これが政治的な意味とかみ合っているように見えます。独島問題について研究する立場から見るならば、これまで、独島問題はどんな場合でも政治的な手段になってはいけないという共感がありました。ところが、今回それが壊れてしまったのです。そして、その主張を整理して見れば色々な点で曲解している部分がたくさんあって、重要な部分で事実でない部分が多くあるようです。このような状況が広がったのは、独島に関する研究とか政策を調整できるコントロールタワーが不在だからではないかという気がしました。今回、『反日種族主義』という本が出版されてから、かえってその主張に対する関心が高まって独島問題がさらに難しくなったのは事実でしょう。それで、私の考えは、このような問題が再び再発しないように特別な措置が必要だと思います。

イ・ソンファン教授 : 『反日種族主義』のような書籍が出版されたということは、日本側の主張が影響力があって、韓国側の主張が一般化されずにいるという端的な事例ではないかと考えます。その書籍の内容を見れば、ほとんど日本側の主張を多く受け入れて著述したと見られます。それならば日本側の研究と主張が国内に多くの影響力を及ぼしたという意味ですが、なぜその著者は韓国人であって日本側の主張を大幅に受け入れたのかという疑問が起きます。それは、私たちの側の研究が一般化されることができないからではないかという疑問と連結します。もちろん、その著者は独島問題の専門家ではありません。基本的にその人々は日本偏向的な思想を全般的に持っています。そのような偏向性を持って独島問題を見た結果、日本側の主張を多く受け入れて受容したようです。そういう現象が現れたと見ますが、そうかと言って、私はこの人たちをコントロールする方法はないと思います。私たちが見れば学問ではないように見えますが、その人たちの立場では学問だと考えるわけですから、別にその主張を制限する方法はありません。問題は、その本に書かれた内容が一般の人たちにある程度説得力を持っているという点にあるのでしょう。

チェ・ジェモク教授 : 我が方の主張に鮮明性が不足した合間を利用して、かえってそのような議論がさらに成長して、繁殖する機会を与えたという側面があるというお話のようです。一般人に魅力的な、より分かりやすい主張として近付いて行ったとも言えるのでしょう。

イ・ソンファン教授 : そうです。むしろ、そういう主張がよく浸透して行くことがあるものです。私が初めに話したように、ちょっと簡単に、啓蒙的に、独島問題を一般化して、一般人も簡単に受容できるモデルを作るべきですが、そのような面で足りない部分があるということです。今、専門家たちが見せる独島に関する議論は非常に破片的で部分的です。その全体を統括して示すことのできる大きな絵が、私たちの独島研究では不足した面があるのが事実です。特に、問題となる『反日種族主義』を読んでみれば、独島問題について良く知っている人々なら弱点が多いということが分かります。最も代表的なことは、自分たちが言いたい話に有利な資料だけ、それも日本の資料だけ引用して主張しています。ところが、私たちが最も強力に主張している「太政官指令」に対しては全く言及していません。さらに「鬱陵島争界」への言及もありません。 私は、我が国の立場で独島問題は「鬱陵島争界」の結果と合意及び「太政官指令」が最も重要な資料だと考えています。しかし、それに関する言及が全くされていません。 このような歪曲された主張がある程度影響を持っているということに、ちょっと憂慮される部分があるのです。

パク・ジヨン教授 : 『反日種族主義』の著者が日本側の主張をそのまま引用したというお言葉に、私も賛成します。ですが、私はその著者本人が何か主張をするために日本側の資料を使ったのではなく、格別に独島問題に対する勉強をしないで日本外務省が提供したパンフレット資料だけを参考にしてその文を書いたものと、私は考えています。そうでなければ「太政官指令」に言及しなければならないからです。なぜなら、現在出ていることの多くの独島問題関連資料では太政官指令に言及していますが、唯一日本外務省が出した資料でだけ太政官指令に対する言及がないためです。

チェ・ジェモク教授 : 著者は専門的な内容は分からないこともあるでしょうが、ひとまず専門家たちの立場として、『反日種族主義』に載っている内容には問題があるということが共通の認識だと見られます。ところで、これまで独島問題に対する研究は「国家主義」とか「民族」、「国家」的な問題とか、そういうフレームの中で主導的な談論があって、そのような談論の中では言うべきことと言うべきでない言葉が区分されていたし、また、必ず言わなければならないことと暗黙のうちに容認されたものもありました。 そうすると、多様性という側面から見れば、今回の議論が、事実関係自体は別に置くとしても、ストーリーテリング自体で見れば、むしろ話をさらに豊かにしてきちんと捉えて行けるように刺激を与える反面教師的な部分がありませんか?

イ・ヨンホ教授 : 独島問題は非常に論点が多いです。法的に見れば、サンフランシスコ平和条約2条a項は日本が領有権主張の根拠とする核心的な文書です。ですが、それだけで領土問題を全般的に評価するのは客観的で合理的と見るには難しいと考えます。一般的に、主張というものは、全体という枠組みの中で一つ一つを解釈していく時に説得力があるのです。そのような面から見れば、今回の『反日種族主義』の著者は、本人が持っている一つの観点だけを基準として主張を広げていると考えます。

イ・ソンファン教授 : そして、私たちは、独島問題と関連してストーリーテリングの一貫性が不足しています。例えば、私は講演で日本外務省が作った動画と我が外交部で作った動画を見せてどちら側が理解しやすいのかと質問をしますが、聴衆は直ちに私たちの方だと返事をできずにためらうことが多いのです。また、どちら側がより良く作られているかと質問しても、明らかな返事が出てこないです。動画の内容を見れば、日本で作ったものはとても単純で連結性がある反面、我が国で作ったものは日本の主張に対する否定と批判だけで構成されていて、私たちの主張を連結性があるように展開できていません。そうした点が一般の人たちが理解し難い状況を作っていると見られます

イ・ジョンテ教授 : この問題については、ぜひ確認しておくべき明らかな問題があります。それは、その内容が独島領有権強化に反するものです。大韓民国の知識人ならば、必ず守らなければならない原則があるものです。これに違反したということは国家に害悪を及ぼしている状況です。ところが、この主張に対して反論ができるのに皆躊躇しているのは、著者の社会的地位というものが一役買っているようです。したがって、知識人が裏切れば国家も売り飛ばすことができるという話にもなることですから、独島研究者の立場ではこの部分に対して何か強力な社会的対応があるべきだと考えます。

パク・ジヨン教授 : そのとおりです。常に日本の自民党政府と対称点を成している日本共産党さえも、独島問題に対しては政府と反対になる主張をしていません。今回の論議を見れば、学者として論文を発表するということでなく、本人が思いのままに出版した書籍が問題になったもので、かえって反対する立場にある人々がその本を読んで内容を広報するような状況になってしまったようです。したがって、個人的には、事実関係について検証もせずに記述された内容で綴られたそういう書籍を買って読む必要はないし、関心さえ持たない方が良いと考えています。
(続く)

<コメント>
 どうですか、『反日種族主義』をめぐるこの無意味な議論。具体的な反論ができないから言論弾圧で対処すべきと言わんばかりの意見とか、読む必要も無いとか、自分たちの負けを認めているだけのことではないか。「独島研究者」を名乗るのならば、具体的な反論をして見なさいって。

 ここで具体論として出て来た内容は、イ・ヨンフン教授は太政官指令に言及していないということくらいで、確かに『反日種族主義』の中には太政官指令のことは出てこないのだが、この人たちは、この座談会の時点では、イ・ヨンフン教授が自分が太政官指令に言及しない理由、つまり「太政官指令は韓国の領土権を証明するものではない」と述べたこと(『週刊朝鮮』 2575号 2019.09.23)を知らないのかも知れない。知ったら何と言うのかな。

 しかし、イ・ヨンフン教授になかなか反論が出ないのは、彼の社会的地位が高いからという理由もあるという見方は面白い。やっぱりそうなんだな。イ・ヨンフン教授は既に韓国社会においてある種の「大物」になっているのだろう。つまり、口では彼を非難するけれども、内心では「なかなか手ごわいヤツのようだ」と結構思われているのではなかろうか。






「独島問題」座談会 1

[企画対談] 「独島問題の現在は何か」 (1-1)

2019.12.05 教授新聞
[嶺南大学独島研究所専門家座談] 「独島の懸案を探る」
「独島問題の現在は何か」 (1回)
http://www.kyosu.net/news/articleView.html?idxno=46481

  今年に入って国内で議論になった独島問題と関連して、嶺南大学独島研究所は懸案を探って代案を導き出すための関連専門家座談会を《教授新聞》の紙面に用意した。この座談会は、懸案になった主題別に合計6回(合計12回)にわたって行われる予定だ。<編集者注>

チェ・ジェモク : こんにちは。今日、「独島問題の現在」というテーマでこのように専門家の先生方を迎えて独島問題に関する対談を開催することになって、多くの期待をしています。今日のテーマは三つで構成されています。それは、①現在の独島問題と関連した最も大きな問題点は何か?  ②<反日種族主義>を通じて問題になっている国内研究者の独島妄言が持つ意味と、日本側主張の国内影響力拡大が持つ意味及び対応方案、③独島領有権強化関連で私たちの側のフレームの再構成の必要性などに対する議論です。 これら各項目と関連して、これから参加して下さった先生方の意見を聞いて共に議論をして見たいと思います。
  ところで、最近、独島でヘリコプター墜落事故が発生して、また、その前にロシア軍用機と中国軍用機が独島上空を通過することがありました。このような事故と問題によって独島問題が表面化しましたが、通常的には独島問題は大きな論議の的になりません。したがって、対談に入る前に、先生方に今顕在的な意味で独島問題を考える時最も核心的な問題は何であると考えるのかをお尋ねしたいです。

イ・ソンファン : 今日、私は若干批判的な立場で少し申し上げます。私は、独島と関連する授業や講演会などに出て行くと、いつも学生や聴衆に質問を一つして見るのですが、「独島をなぜ私たちの土地だと考えますか?」と尋ねれば、返事を良くできません。私たち韓国人は、生まれた時から独島は私たちの土地という教育を受けているではないですか? ところが、「なぜ独島を私たちの土地だと考えますか?」と再び尋ねれば、人々が返事をできないのです。これは何が間違ったのかという話です。私はそれが最も大きい問題ではないかと考えます。また一つは、それならば日本が独島を度々日本の領土だと主張するが「その理由を何だと考えますか?」 このように尋ねても返事を良くできません。するとその二つの問いに対して私たち研究者は明確に鮮明に回答できるのかと考えてみれば、それも容易ではないようです。私はこれが最も大きい問題ではないかと考えます。

チェ・ジェモク : その回答が難しいというのは、私たちが銀行などに行けば自分を証明するために証明書を提出するように、私たちの土地であることを証明する方式が地図や歴史的に証明する方法があるのでしょうが、そのような面であまりにも当然のことを尋ねるから、ということでしょうか?

イ・ソンファン : そうではないと思います。誰でも当然視するならば私たちが独島研究をこのように熱心にして、教育をこのように熱心にする必要がありません。それを相対的に考えてみれば、日本の人々に同じ質問をすれば明確な返事が出てきます。「私たちが17世紀から魚取りをした。1905年に編入した。だから日本の領土ではないか?」 実際に日本の人々はこのように単純ながらも明快に返事をします

イ・ジョンテ : 私が考える最も重要なことは、明確な軍事的な防御戦略の不在です。日本側は最近独島と関連した軍事戦略を樹立して、その内容が既にパンフレットに出ています。 私たちも海兵隊で独島戦略を樹立したのですが、具体的に独島と関連した軍事戦略が無いと知られています。私が調べてみたところでは、軍事戦略があるとはいうものの明確な実体は無いようです。
  最近、ロシア戦闘機が韓国の防空識別区域(KADIZ)を侵して、その前に中国国籍機も侵したことがあります。今、独島領有権をめぐる韓日間の論争という中長期的な問題もありますが、現実的な問題はここにあると言えます。ロシアや中国の軍用機が独島上空に出撃していることがどんな意味を持つのか分析してみれば、持続的に韓国と日本の防空識別区域を侵しているということになって、これは反対に言えば、防空識別区域を無視したり無力化させようとする意図があると判断されます。前回にも板門店でトランプと金正恩の会見があった時、ロシアと中国の軍用機が同時に飛んで来たことがあります。その後で中国国務部スポークスマンは、記者会見で「なぜ中国戦闘機が韓国の防空識別区域を侵したのか?」という記者の質問に、「韓国の防空識別区域に進入したのか私たちは分からない。それは国防部の所管だ。しかし、韓国と中国は友好的な隣国なのになぜ侵犯と表現するのか?」と問い直したそうです。言い換えれば、防空識別区域に進入したことが事実と認定されても侵犯ではないということです。
  結局、中国はアメリカが一方的に設定したサンフランシスコ体制の残留物である防空識別区域に進入するのは不法でないと認識するということであり、これは中国とロシアがサンフランシスコ体制を終息させようとする意志表示だと見られます。もし中国とロシアの意図のとおりサンフランシスコ体制以前に戻って新しく出発するならば、独島問題は何をもって解決できるのかが重要な争点になるでしょう。結局、軍事力が投入される他はないでしょう。それで日本も積極的に軍事的衝突状況を準備しているように見えて、中国とロシアもそこに対する対応を始めたようです。だから、私たち大韓民国がこの課題にどのように対応すべきかが当面の最も緊急な問題だと考えます。

イ・ヨンホ : 独島問題はどんな方法であろうと解決すべき事案で、韓日両国間に解決方法を巡って衝突があって、特に日本は国際司法裁判所(ICJ)を通じて解決しようと主張しています。軍事的な側面の話も出て来ましたが、少なくとも今の国際秩序で軍事力を動員する解決方法は不可能だということを前提とするならば、結局は平和的な方法で解決する他は無くて、日本はそれをICJの判断に任せようと主張しているのです。ところがICJは強制管轄権が無いので、私たちが反対すればICJによる解決は不可です。そしてICJには日本人裁判官がいて不公正な側面があるのも事実です。しかし、第2次世界大戦以後に作られた現在の国際秩序がこの状態で維持されるという保障はありません。もし未来の可変的状況を考慮するならば、ICJの強制管轄権問題もどのように変化するか分からないという憂慮もあって、前回フィリピンと中国の間で進んだ仲裁裁判のように、国連海洋法協約の適用及び解釈に関連した紛争が発生した場合には強制手続きに巻き込まれることも有り得るのです。もちろん、このような場合には領土問題は排除すると言ってはいますが、国際裁判所では他の問題を扱う中で領土問題まで混合審理をする傾向を見せています。正にこの問題に対して私たちが根本的にどのように準備して対応しなければならないのかが、国際法分野で見るならば独島問題と関連しての現在の最も大きな問題だと考えます。解決方法としては、仲裁裁判所を構成することと、外交的な解決など色々なものを追加的に構想して見ることはできるでしょう。

パク・ジヨン : 独島問題と関連して現在の最も大きな問題は、韓日両国がこの問題に対して21世紀に入ってとても尖鋭に対立してスパイラルを作っていることです。日本は、現在、調節できない水準までこの問題を拡大させようとする傾向を見せていますが、私たちはこういう日本の意図に続けて対応する必要性は無いと考えます。外交的にある程度の水準でこの問題を沈殿させる必要があって、韓日両国がもう少し静かになる必要があると考えます。しかし、現在は両国関係が非常に良くない状況で議論が成り立たないでいるので、まず外交的な環境を作ることが急務ではないかと考えます。


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前列左側からイ・ジョンテ教授(慶北大学)、チェ・ジェモク教授(嶺南大学独島研究所所長、司会)、イ・ソンファン教授(啓明大学)、イ・ヨンホ教授(嶺南大学)、後列左側からパク・ジヨン教授(嶺南大学独島研究所)、イ・テウ教授(嶺南大学独島研究所)

<コメント>
 この人たちは一体何を語るつもりなのだろう。独島とかいう島は、韓国政府によれば韓国の固有の領土だそうで、それを今現在は韓国政府が実力で占有している。それならば、韓国人の立場では何も問題は無いのだから「独島問題の解決」という言葉は一切不用のはずだ。まあ、強いて言うならば「日本が竹島領有権主張を取り下げること」が韓国人から見た場合の「独島問題の解決」なのだろう。
 ところが、ここに出て来た人たちは、「独島領有権」をめぐって何やら問題が、つまり解決すべきことがあると思っているらしい。韓国では「独島領有権」について迂闊なことは言えないので相当まわりくどい言い方で語っているようなのだが、単に「独島をいかに守護するか」というような話にはなっていないところがちょっと面白いかも。

 イ・ソンファンさんは太政官指令が決定的な史料だというおバカなことをしきりに強調していた人だが、今回の発言は何か真実を理解したようにも聞こえる。パク・ジヨン氏の「冷静になるべし」という発言は、イ・ヨンフン教授が言い出したことと全く同じだ。影響を受けているのかな。「独島問題」の解決のために、「まず外交的な環境を作ること」が必要だなんて言うのも、韓国人の普通の「独島論」からすれば意味不明。

 まあ、次からどんな議論になるのか分かりませんがね。







イ・ヨンフン教授の再反論 2

独島反論に対するイ・ヨンフンの再反論
イ・ヨンフン/前ソウル大学教授(李承晩学堂校長)・『反日種族主義』代表著者兼編集者
週刊朝鮮 2582号 2019.11.11
(続き)

 この事実は、独島と石島は相異なる意味の二つの文字名称であることを確実にしている。意味が違うから音声名称も異なる。前者は「トクソム」であり後者は「トルソム」だ。 換言すれば、文字名称でも音声名称でも独島は厳格に「独りでいる島」であり、石島はあくまでも「石でできた島」だった。筆者は、今まで数多くの独島研究者たちがこのような常識を無視して、全羅道方言や国語学者の漠然とした解釈を口実にして「ドクソム」は「ドルソム」だからその文字名称は「石島」でその音声名称は「独島(ドクト)」だという式の論理を開発、教育して来たことは嘆きに耐えない。
  独島という島の名前が最初に確認されるのは、1904年9月25日日本海軍艦新高の「行動日誌」においてだ。この日誌は「リアンコルド岩を実際に見た日本人から聴取した情報」として、「韓国人はこれを独島と書く」とした。後では、良く知られたとおり、1905年2月日本が独島を自国領に編入した後に、これを認知した鬱島郡守沈興沢が1906年4月江原道観察使に上げた報告文に出て来る「本郡所属の独島」という一節だ。要するに、ホン委員が筆者を批判するために提示した事実、すなわち鬱陵島住民が独島を「ドクソム」という音声名称で呼んだという事実は、1904年ごろ独島という文字名称が成立した後のそれを示したものであって、大韓帝国が鬱陵島の附属島嶼として指定した石島を対象にしたものではなかった。1880~1890年代に鬱陵島住民が独島を何と呼んだのかは分からないことで、それに関する日本側の史料によれば、彼らも日本人と同じように独島を「リャンコ」または「ヤンコ」と呼んだだけだ。

石島はなぜ名前が消えたのか
  それならば、1900年大韓帝国が鬱陵島の附属島嶼として指定した石島は、以後なぜその名前が消えたのか。歴代の鬱陵島捜討官と検察使は、鬱陵島に付属する島として二つの島を指定してきた。19世紀中葉のある地図は、二島を指して大于島と小于島と言った。于山島を連想した名前だった。1882年、検察使李奎遠はこれらを「竹島(チュクト)」と「島項」と明記した。筆者は、このような地図の伝統にしたがって、1900年大韓帝国が指定した石島は小于島と島項の系統をつなぐ今日の観音島だと比定する。他に見当をつける島が無いためだ。李奎遠が付けた島項は音声名称が「ソムモク」であり、実は鬱陵島に渡る船着場の名前だった。1916年の5万分の1地図でそのことを確認することができる。 換言すれば、1900年まで、その島には人が住まない中で当然に名前が無かったわけだ。石島は1900年に中央から下った大韓帝国の官吏が任意に名づけたものと見られる。しかし、現地で自然発生したものでもなく、また、広く流布することも無い状態で、1910年代総督府の地方行政制度改編と陸地測量が行われて観音島と改名されたと考えられる。
  筆者は、去る9月24日付週間朝鮮の文で、1905年日本が独島を自分たちの領土に編入する時まで大韓帝国の独島認識は不透明だったと指摘した。筆者の指摘に不快感を感じる人が多いが、歴史の法廷で関連の証拠を解釈、採択、棄却することに感情が宿っては困る。理性に基づいた冷酷な推理と討論が許されるだけだ。それでも、筆者は独島は日本の領土だと主張するのではない。1952年李承晩大統領の独島編入をめぐって歴史的文献にその根拠を求めるのは一種のナンセンスだ。李大統領の決断に関する筆者の立場は、既に李承晩TVや『週間朝鮮』で十分に表明した。読者の皆様の不必要な誤解が無いことをお願いする。
  1903年以来、日本の漁民は独島に日章旗を立てた。自国領に編入した1905年2月以後は日本の島根県が日章旗を立てただろう。それでも1906年4月に通報される時まで鬱島郡守はその事実を認知できなかった。独島に対する定期的巡視を含めた領有体制が成立していなかったためだ。通知を受けた後でも、鬱島郡守は独島を訪ねなかった。ただ聞いたとおりに上部に報告しただけだ。1906年5月に日本の独島編入の報告を受けた議政府参政大臣朴斉純の対応でも、彼がその時まで独島の存在とその実態を知らなかったことを読むことができる。以後、大韓帝国の抗議を受けた統監府(翻訳者注:抗議があったことは確認されていない)が大韓帝国内部に鬱島郡の沿革について質問した。それに関する内部の回答が1906年7月13日付皇城新聞に載った。要約すれば、1900年鬱島郡に昇格したこの島が管轄する島は竹島と石島であり、東西が60里(24km)、南北が40里(16km)というものだ。1900年の勅令41号そのままだ独島の所属をめぐって紛争が広がっているが、「石島はすなわち独島である」という一言の解明や主張がない。提示された鬱陵島の範囲は、東南の海上87kmに所在する独島と関係が無い。既に指摘したとおり、鬱陵島に対する朝鮮王朝の関心は農業国家のそれを超えることができなかった。筆者は色々な研究者がこの新聞記事で大韓帝国の独島守護意志を読みだすことにも激しい無理を感じる。
  最後に、ホン委員が、筆者が発掘した1911年頃の鬱陵島地図で筆者が「トルド(石島)」と読んだものを「ウルド(鬱島)」と読み直さなければならないと主張したことに対して言及する。この地図を知ってからの数年間、筆者は関連の二つの字を疑いの余地なしに「トルド」と読んで来たが、今回ホン委員の指摘を受けて再び見直したところ、彼の主張に一理あることを知ることになった。相変らず「トルド」である可能性も無くはないが「ウルド」である可能性がより大きいと考える。その点を指摘してくれたことに対してホン委員に感謝申し上げる。既に印刷された本をどうすることはできないが、今後修正する機会があるだろう。しかし、その地図一枚で筆者の独島理解が毀損されるものではない。その点については、前後の筆者の文章を細密に読んだ読者ならば誰でも簡単に同感するだろう。
(終)

<コメント>
 「石島」という名称が突然現れ突然消えた事情は、まあイ・ヨンフン教授の推理のとおりなんでしょうね。役人が勅令を制定するに際して、大きい方の島は「竹島」で決まりだったのだろうが、もう一つの島は何と名付けるかというときに、外観が石のようだということと、「竹島」という言葉の語感に合わせて「石島」という現地で使われていない名前を、お堅い勅令にふさわしいものとして選んだのでしょう。この島がかつて「石島」と呼ばれたことはないなんていう韓国側論者もいますがね、新規勅令だからいきなり新しい名前をつけることはありますよ。島項(島の首)なんて言うのは勅令には似合いません。
 で、そういう名前を付けたけれども、その石島は人が住むような場所ではないから鬱陵島の住民が行き来することも少なく、大して関心を払われず、「石島」といういわゆるお役所ことばは定着しなかったのですよ。それが、日本人が行って見たら仏様みたいな形の石があるから、じゃあ観音島だ、となって、そういう現地発生の言葉が定着したんじゃないでしょうかね。
 イ・ヨンフン教授も言っているが、石島は独島/竹島ではない(これは確定していること)のだから、比定できる島は当然に観音島しかありませんって。

 「鬱島郡の配置顛末」に関しては、さすがにイ・ヨンフン教授はポイントをちゃんと押さえています。






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男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

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