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独島史料研究会最終報告

  島根県が作成した『竹島問題100問100答』に勇敢にも立ち向かって来た慶尚北道の独島史料研究会が最終報告書を出したというニュースを紹介したことがありますが、

 その最終報告書が公表されているので、概要を紹介します。


 
慶尚北道独島史料研究会 最終報告書(20102018)
(慶尚北道独島史料研究会 編)

発刊の辞
20053月、日本島根県議会が「竹島の日を定める条例」を可決して、これを契機に竹島問題研究会を発足させた後、独島に対する挑発を持続的に強化し始めた。これに対し、慶尚北道では日本のこのような挑発に効率的に対応するために2010年に独島史料研究会を発足させた。
独島と関連した日本の資料は多いが、取りあえずは接近することが難しく、ようやく資料を得たとしてもこれを解読することは容易ではなかった。それで、日本の学者から、韓国の学者は日本の文書を見ることもないという皮肉を聞いたりもした。一面恥ずかしい指摘だったが、全面的にとんでもないことだと無視することもできない指摘だった。そこで、我が史料研究会では重要度が高い文書を優先的に選別翻訳し、関連の学者及び政策樹立者などに提供し始めた。
2010年に『竹島考』、20122013年に『竹嶋紀事』、2014年に『竹島図説』、『多氣甚襍誌』、『竹島雑誌』、『竹島版図所属考』、2015年に『村川氏旧記』、「竹島に関する七個條返答書」、「池田家文書」、「村川家附竹島渡海」、『石見外記』、2016年に『通航一覧』、『通航一覧続篇』、『天保雑記(松平防州一件)』、『朝鮮竹島渡航始末記』、『甲子夜話』、2017年に『天保撰要類集』、『無宿者狩入一件』、『対馬島宗家文書』、『甲子夜話』(←翻訳者注:2回出て来たような気がする)、『村川家文書』、『欝陵島ニ於ケル本邦人ノ渡航並在留取締ノ件-附同島ノ警官駐在所設置一件)』などを翻訳して提供することによって関連者から大きな歓迎を受けることができた。
今までの活動の結果、これまで日本の学者によって歪曲されたり意図的に全体の意と違うように部分翻訳されて紹介された日本の各種古史料を、一次的に全部翻訳することができた。それで、今回、これまでの成果を総合的に分析して、不十分だった部分を補完した後、新しい資料が発掘される時までひとまず一次活動を終えようと思う。
2018.12
独島史料研究会会長 キム・ビョンリョル(金炳烈)




慶尚北道独島史料研究会 研究成果物
(年度別発刊冊子)


2010
 ・『竹島考』-翻訳:チョン・ヨンミ
 ・研究報告書
  -キム・ホドン、安龍福関連資料の分析を通した安龍福活動の復元
  -柳美林、1902年「鬱島郡節目」翻訳及び解題
  -イ・ジェワン、『逸士遺事』の「安龍福伝」紹介

2011
 ・研究報告書
  -キム・ホドン、1963年安龍福・朴於屯拉致事件に対する朝日資料検討
  -パク・ジヨン、『竹嶋之書附』
  -柳美林、「鬱陵島争界」関連策問発見の歴史的意味
   (翻訳者注:策問は科挙の試験の一つ。多分、この記事の話↓)

  -チョン・ヨンミ、『竹嶋紀事』での安龍福一行の行跡深層調査・報告
  - (附録)イ・ソリ、独島史料研究会日本現地調査結果報告

2012 ・『竹嶋紀事』脱草本

2013
  ・『竹嶋紀事』-翻訳:パク・ジヨン、イ・ウォンウ、チェ・ヨンスク、ホ・チウン

2014
  ・『竹島問題100100答批判』
  -執筆者:キム・ビョンリョル、パク・ジヨン、柳美林、イ・ギボン、イ・ソリ、チョン・ヨンミ、保坂祐二

  ・独島関係日本古文書 1
   竹島図説、襍誌、竹島雑誌、竹島版図所属考 
   -翻訳:チョン・ヨンミ


2015
  ・独島関係日本古文書 2
  村川氏旧記、竹島に関する7箇条返答書、池田家文書、村川家附竹島渡海、石見外記  -翻訳:キム・ガンイル、パク・ジヨン、柳美林、イ・ウォンウ、チョン・ヨンミ

2016
 ・『竹島問題100100答批判付録』-執筆者:金炳烈、柳美林
 ・独島関係日本古文書 3
  通航一覧、通航一覧続編、朝鮮竹島渡航始末記、甲子夜話、竹島渡海一件記  
  -翻訳:パク・ジヨン、シン・ドンギュ

2017
  ・独島関係日本古文書 4
  天保撰要類集、無宿狩込一件、対馬宗家文書、村川家文書
   -翻訳:キム・チョル、朴炳渉、パク・ジヨン

2018
 ・独島史料研究会最終報告書
 -金炳烈、日本web竹島問題研究所反論に対する再反論(国際法)
 -朴炳渉、「天保竹島一件」と独島領有権
 -パク・ジヨン、鳥取藩史料を通じてみた「鬱陵島争界」
 -柳美林、独島史料研究会の活動と成果他2編
 ・独島関係日本古文書 5
  朝鮮国蔚陵島へ犯禁渡航ノ日本人ヲ引戻処分ノ一件 -翻訳:パク・ジヨン


目次
・独島史料研究会活動に関する最終報告書(20102018)(1) ・・・・_9
1. 独島史料研究会の活動と成果(柳美林) ・・・・11 
2. 日本文献の于山島・松島認識の推移:独島史料研究会翻訳史料を中心に(柳美林)・・・37
・独島史料研究会活動に関する最終報告書(20102018)(2) ・・・・85
1. 日本web竹島問題研究所の『100100答』反論に対する再反論:歴史的争点を中心に(柳美林) ・・・・87
2. 日本web竹島問題研究所の『100100答』反論に対する再反論:国際法的争点を中心に(金炳烈) ・・・・117
・独島史料研究会活動に関する最終報告書(20102018)(3) ・・・・179
1. 鳥取藩史料を通じて見た「鬱陵島争界」:いくつかの争点に対する検討を中心に(パク・ジヨン) ・・・・181
2. 「天保竹島一件」と独島領有権問題(朴炳渉) ・・・・215
・付録『竹島渡海一件記』の翻刻と翻訳・・・・249

 

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竹島問題100問100答批判2(14)

筆者が『竹島問題100100答』に対する反論において、大韓帝国勅令に「石島」と表記された背景に全羅道の人の方言があることを提示したことに対して、山は今回の再反論で次の通り批判した。1900年当時、島監季周は仁川出身で江原道から来た移住者であるから全羅道とは関連がないのに、中央政府から派遣された官吏が島監を排除して全羅道漁民の呼称を公文書に採用したはずはないというのだ。これは島監を始めとする入島民が鬱陵島に入ってきた後に「独島」の呼称を知るようになったことを知らないところから生じた批判だ。
まず「石島」の呼称が成立することになった背景を見よう。鬱陵島調査の命を受けた内部の視察委員禹用鼎は、19006月、島監季周だけでなく韓国・日本両国人を対面尋問して調査した。この時、人々は「独島」の存在をどんな形態にせよ言及したはずで、禹用鼎がこれを文書化したので後で勅令に登場することになったのだろう。ところが勅令にはこの島の名称は「石島」と表記されている。そうなったのは公文書での表記方式と関係がある。地方官が指示を与える文書には吏読を使うが、高位官僚である禹用鼎の報告書を作成するに際して吏読を使いはしなかっただろう。ところで島に関する名称が勅令に「石島」と表記されているならば、字意と関係のある呼称が1900年以前から流布していただろう。ところで、なぜ、わざわざ「石島」であろうか? これは開拓当時の状況と関係がある。鬱陵島に人々が正式に入島したのは1883年からだが、それ以前から人々の往来はあった。特に全羅道の人々が多数往来していた。これは、1882年に検察使李奎遠が鬱陵島で会った170人余りの朝鮮人の中で80%が全羅道の人だった事実でも知ることができる。
「石島」という呼称は正に彼らと関係がある。今日「独島」と呼ばれる島は一目で見ても「トルソム」(翻訳者注:石の島)だ。1880年代を前後してこの島い往来した者は伐木と漁労を目的に入った国民たちであるから、彼らが文献上の「于山島」を知っていた可能性は低い。したがって、彼らは島を直接目撃してその形状に合うように命名したもので、それが「トルソム」だったことは簡単に推定することができる。ところで、一方で全羅道の人々は「石」を方言で「ドク」とも称した。それで、独島は一方では「トル」()と、他の一方では「ドクソム」と呼ばれたのだ。そしてこれら二つの呼称は開拓民に伝えられた。島監季周もこのような呼称を聞いた人の中の一人だ。禹用鼎が「石島」と表記するに当たって季周の言葉に従ったものか、あるいは彼が尋問した他の人の言葉に従ったものかは分からない。ただし、禹用鼎は彼らから聞いたとおり「トルソム」あるいは「ドクソム」という言文呼称を書くことができなかったので、「ドクソム」の意に該当する漢字を借りる、いわゆる訓借表記方法を取ったのだ。勅令に「石島」として登場することになったところにはこのような背景が作用する。山が指摘するように禹用鼎島監季周を差し置いて全羅道漁民の方言を公文書に採用したのではなく、全羅道漁民の方言が島監季周を始めとする移住民に伝えられていたのでそれが禹用鼎に伝わったのだ。全羅道と慶尚道の人が「トルソム」を「ドクソム」とも呼ぶという事実を現地調査で実証したのは、韓国に居住して朝鮮語方言を研究した小倉進平(1882-1944)だった(24)
 
 (24)小倉進平は、1926年、京城帝国大学教授に在職している間、朝鮮の古文献を整理して新羅郷歌と方言研究に努力した。彼の『朝鮮語方言の研究(上・下)』は彼の一生の業績の結実だ。彼の研究によれば、「トル」()を「ドク」と称した例は全南が最も多く、その次が全北、慶南、慶北、忠南、忠北の順だ。(小倉進平 『朝鮮語方言の研究』()岩波書店1944 p218-219)
 
 
  日本は勅令41号に出て来る「石島」が「独島」ということはまだ立証されていないと主張するが、立証方法には色々なものがある。 ドクソムが石島だという主張は言語学的傍証だが、他の方法もある。
 この問題は、鬱陵島周辺には島は多くないので鬱陵島と周辺島嶼を文献上の名称に代入して合わせて見てもかまわないだろう。鬱陵島周辺の島嶼の中で「島」の字が入ったものは竹島と観音島、独島だ。「ソムモク」(島の首)は「島項」と表記されて「島」では終わらない。ところで、勅令が出た同じ年に、勅令より先に報告書に「竹島」と「観音島」が登場している。1900年に鬱陵島を調査した釜山領事館の赤塚正助は出張復命書(25)に地図を添付したが、そこには島牧、竹島、空島という島嶼名が見える。「島牧」は「島項」の誤記だ。「島項」は「ソムモク」に対する訓借表記でこれを混同して交えて表記したのだ。竹島は1882年に李奎遠が表記した「竹島」のようだ。「空島」は「孔岩」を誤記したものだ。李奎遠は「鬱陵島外図」で島項と観音島を描き入れて二島の間に「島項」と表記したことがある。
赤塚の「島牧」もその延長線上から出た表記だ。勅令以後である1902年に鬱陵島に派遣された西村象警部は、赴任してすぐに上げた530日付報告書(26)において「テッセミ島」に言及して、日本人たちはこれを「竹島」と称するという事実に言及した。「テッセミ島」はすなわち「デッソム」(翻訳者注:竹の島)で、「ソム」()と「島」を二重に記載している。「デッソム」に対する訓借表記として竹島といったのだから、この時の音読は「タケシマ」でなく「チュクト」でなければならない。
 
 
(25)「鬱陵島調査概況」『欝陵島ニ於ケル伐木関係雑件』;「欝陵島調査概況及び山林調査概況報告件」「各領事館機密来信」『駐韓日本公使館記録』14
(26)「韓国鬱陵島事情」(1902530)『釜山領事館報告書2:『通商彙纂』10巻第234(19021016)
 
 
また、彼は「チョンソクポ(亭石浦)の海上に双燭石及び島牧という島嶼があって、周囲は20丁、日本人たちはこの島を観音島と称してその岬を観音岬といい、その間を観音の〔瀬戸〕と呼ぶ」とした。これは観音道の形状をそのまま描写したもので、日本人が島項と観音島を同一に取り扱っていたことを意味する。これは、李奎遠が島項と観音島を描いて二島の間に「島項」と表記したことと同じ認識線上にあったことを見せてくれる。
「竹島」を除けば勅令で残る島は「石島」であるが、李奎遠の地図と日本人の報告書で島項と観音島を同一視しているので、勅令の「石島」を観音島に比定できないということが分かる。日本人も島項と観音島を認知したほどなのに、大韓帝国が認知することができなかったはずはないためだ。大韓帝国が島項や観音島のうちの一つを「石島」と考えたとすれば当然「観音島」と表記するはずで、「石島」と表記しはしなかっただろう。
  勅令に見える「石島」を観音島と見られないならば、残った中で石島に比定できる島は「独島」だけだ。日本は「石島」と「独島」は表記が異なるという事実だけを強調するが、それなら日本は文献に見える島嶼名の中でどれを「石島」に比定できるのかを明確にしなければならないだろう。ある時は石島を島項に比定し、ある時は観音島に比定したりして、日本の主張は一貫性がない。それ自体が石島が独島に該当するという事実を否認するのは難しい情況であることを示している。
(柳美林)
 

竹島問題100問100答 批判2
―竹島問題研究会3期最終報告書付録に対する反論―
 (慶尚北道独島史料研究会)

歴史学的争点を中心に (柳美林)  (終) 



<ちょっとコメント>
 赤字強調は翻訳者による。柳美林の大いなる勘違い。石島の問題というのは、「石島は一体どの島なのか、日本と韓国が比定合戦をしてより妥当な見解を言った方の勝ち」というような問題ではありません。石島は独島であり、韓国は1900年の勅令41号で独島(石島)を韓国の領土と明示したのだとして石島を領有権の根拠として主張している韓国の方が、確かに石島が独島であることを明確な資料で立証しなければならないのです。日本側は、さし当り、石島が独島ということは全く証明されていない、しかもとてもとても怪しい、むしろ観音島の可能性が高い、というようなことを指摘すれば十分なのです。日本に石島はどれかを「明確にする」責任はありません。立証責任は韓国にあるということを全く考えないのか知らないのか分からないが、こういう「歴史的争点」であれこれ言っていれば勝った気分になるのだろう。



竹島問題100問100答批判2(13)

5. いわゆる「編入」前後の時期に韓国人の「独島」認識は一貫して確固だった
  慶尚北道史料研究会は、『「竹島問題100100答」に対する批判』において、日本側の「Q37 沈興沢を通じて初めて‘独島’について知ることになった大韓帝国政府はどのように対処したのか?」に対して「編入の報に接した韓国()は全て独島は鬱島郡の所属という反応を見せた」という題名で反論したことがある。島根県竹島問題研究会が『竹島問題100100答』において、韓国側が1905年の日本の編入事実を知っても外交的に抗議しなかった理由は「調査の結果、竹島が自国領土ではないことが判明したため」と主張したことがあるためだ。
これに対する反論において、筆者は、鬱島郡守が日本人から編入の事実を聞くや否や、上官である江原道観察使に報告した事実、内部大臣李址鎔と参政大臣朴斉純も報告を受けるや事実を調査するように指令を下した事実、マスコミの報道などが大韓帝国政府と官吏、言論全てが「独島」を韓国領で当然視していた情況を示す証拠だと応酬したことがある。
は今回の再反論では190651日付『帝国新聞』記事を挙げて、内部(内務部)が訓令を下して理事と交渉するようにしたことは大韓帝国が抗議できたことを意味するが、抗議しないのは独島を大韓帝国の版図と見なかったためだと主張する。さらに彼女は、『帝国新聞』記事から見れば、大韓帝国政府は日本が占領(編入)した島を独島ではなく鬱陵島と間違って理解していたと主張する。
果たして大韓帝国は日本が編入した竹島(独島)が韓国版図外の島だと見たので抗議しなかったのか? そして編入した島を鬱陵島と思っていたのか? この二つの前提は両立することも難しいが、一応検討して見ることにする。
『帝国新聞』190651日付記事は内部が指示した事項を含んでいる。ところで後に『皇城新聞』も関連内容を報道したことがある。1906713日付『皇城新聞』記事がそれだが、内容は次のとおりだ(筆者が現代文に変えた)
 
統監府が内部にいうに、江原道三渉郡管下所在の鬱陵島に所属する島嶼と郡庁が初めて設置された年月を説明せよといった。これに対し(内部が-訳者)回答するに、光武2(1898-訳者)520日に鬱陵島監として設立し、光武4(1900-訳者)1025日に政府会議を経て郡守を配置したが、郡庁は霧台洞(原文のとおり)(19)に置き、この郡が管轄する島は竹島と石島で、東西60里、南北40里で合わせて200余里といったとのこと。
 
 
(19)台霞洞の誤記と見える。
 
 
記事内容は、統監府が鬱島郡の附属島嶼と郡庁の設置沿革に関する説明を内部に要請し、これに対して内部が回答した内容だ。統監府と内部間の往来事実であるから、これより先んじていた『帝国新聞』の記事と総合してみれば、統監府が内部に説明を要請した時期は51日以後から713日以前になる。内部が回答した内容は主に鬱島郡の沿革に関することだ。内部は「郡庁は霧台洞に置き、この郡が管轄する島は竹島と石島で、東西60里、南北40里で合わせて200里余りという」と回答したが、この内容は鬱島郡の管轄範囲と鬱陵島の面積を示す。
この時、私たちが混同しやすいのは、鬱島郡の管轄島嶼として言及されたものと距離関係を言及したものが同じものなのかという点だ。記事で「東西60里、南北40里で合わせて200里余り」と云々したのは鬱陵島の面積を示すと見なければならない。しかし、管轄する島嶼は「この郡が管轄する島は竹島と石島です」と答えたので鬱陵島に限定されない。文章構造では「竹島と石島」が「その郡が管轄する島」の述部となる。そして「東西60里、南北40里で合わせて200里余りという」というのは、主語を「鬱陵島」とした一文章の述部となる。一方、朝鮮時代の文献でも、概して鬱陵島の距離を東西が50里から70里、南北が40里余りから70里余りに達するといって、文献により若干の偏差はあるがいずれも鬱陵島の距離関係を示す。 したがって、上の記事の60里と40里も鬱陵島の距離関係から見なければならない。
このような次元で見るならば、『皇城新聞』(1906713)記事に「郡庁は霧台洞に置いてこの郡が管轄する島は竹島と石島で...」と明確に言及したが、これをもって「大韓帝国政府が統監府に回答する時、竹島は韓国の版図外だと回答したと見るのが自然だ」とする論理は成立しない。また、山は19065月の『帝国新聞』記事を挙げて、沈興沢の報告を受けた内部は統監府理事庁理事官と交渉することを訓令したので(20)韓国は統監府を通じて抗議できたのに照会さえしなかったと主張する。この問題は、統監府体制に対する理解の上で説明される必要がある。 19051122日にはソウルに統監府が、地方の要衝地には理事庁が設置された。 1220日には統監府及び理事庁官制が公布された(勅令第267)19061月には大韓帝国外部(外務部)が廃止されて議政府外事局が外交業務を担当するように代替された。
19062月から実施された統監府体制は統監が実質的な統治権者として君臨したので、統監の承認なしで大韓帝国が独自に国政を運用できる分野はなかった。統監府体制下で理事官は統監の指揮監督を受けて領事に属する業務を処理する者で、主に日本領事館の領事あるいは副領事がそのまま任命される場合が多かった(21)。彼らは韓国の事情をよく知る韓国通だった(22)。内部の高等官と判任官もほとんど日本人だった(23)
 
 
(20)内部が誰に訓令を下したのか、この文章だけでは明らかでないが、郡守の報告に基づいて訓令したものであるから郡守沈興沢に訓令したと見られる。沈興沢が江原道観察署代理李明来に報告した内容に対して参政大臣が別に指令を出したので、訓令は内部が鬱島郡守に下したと見られる。
(21)ハン・ジホン、「理事庁職制と運営」『歴史学研究』第582015 p177
(22)上の文p184
(23)パク・ギョンリョン 「統監府の組織と役割考察」『アジア文化』第182002 p89
 
 
 このような状況で内部の訓令を受けた郡守が統監府理事庁と交渉をしようとしたと考えて見よう。大韓帝国の鬱島郡調査に対する抗議を、それも「日本が占領したので調査するという」名分を持った調査に対する抗議を理事庁が受け付けたはずがない。たとえ受け付けたとしても、この問題は領土問題であるから理事庁が統監府や本国外務省の意思に反して処理したはずがない。
一方、『帝国新聞』の記事のとおりならば、この時の抗議は鬱島占領に対する抗議をいう。「鬱島を日本が占領したので...」となっているし、「占領したという話は人を欺くことであるから知っている日本理事と交渉して処理しろといったという」とあるためだ。したがって、郡守に理事庁理事と交渉するようにした内容は鬱島(鬱陵島)に関することであって独島に関することではない。山は(韓国が)「日本が占領(実際は編入)した島を竹島ではなく鬱陵島と間違えていた」というが、記事に基づけば、韓国は日本が占領した島を鬱陵島と考えていたという話になる。これは新聞記事の錯誤と見える。
新聞には鬱島郡守が内部に報告した記事を引用して日本人が鬱陵島を調査した内容に言及しているだけで、「本郡所属独島が..」で始まって「独島が今回日本の領土になったので視察のために出て来た」とある内容は見られない。ところが、同じ日の『大韓毎日申報』には「独島を日本の属地と自称して...」となっていて、内部の指令すなわち「遊覧の途次に...独島と称して日本属地といったことは決してそのような理がないことで、今回の報告は非常に驚くべきことだ」という内容も報道した。この記事の資料元である沈興沢報告書には「本郡(鬱島郡)所属独島が本部の外側海百余里の外にあるが...」といって「独島」に直接言及している。これで見る時、当時の大韓帝国の役人たちは日本が占領した島を鬱陵島でなく独島であると明確に把握していたことが分かる。
1905年の編入以後から1906年までにあった一連の文書(沈興沢報告書、李明来報告書号外、参政大臣朴斉純の指令、大韓毎日申報51日付記事、皇城新聞59日付記事、『梅泉野録』など)を見れば、全て「独島は我々の土地」という認識を見せている。それが713日付『皇城新聞』だけが「独島を韓国版図外」と認識することが有り得るのか? 一連の報告書と新聞記事を総合してみる時、山が主張した「『皇城新聞』1906713日付記事も、大韓帝国政府が統監府に竹島は韓国の版図外にあると回答したと見るのが自然だ」とすることは成立しない。それでも山は、大韓帝国が抗議できない理由は沈興沢報告書を通じて知ることになった独島が「中央政府としては未知の、韓国版図外の島という事実が判明したため」ということができるのか疑わしい。
しかも、当時は日本が独島を編入した後であり、これを機に自国領地を視察するという名分で鬱陵島を訪問した時だ。この問題のために、韓国政府が鬱陵島占領でなく独島占領に対して統監府に抗議したとしよう。統監府理事庁が領事館出身の官吏で構成された上に外交権まで剥奪された状態で「領土」問題を交渉したとすれば、果たして統監府は韓国側の交渉に応じて韓国側の要求を受け入れただろうか? 韓国は抗議ができたのに抗議しなかったので自国の編入が有効だという日本の論理は、当時の弱小国の状況を無視した帝国主義的論理だ。

(続く)

竹島問題100問100答批判2(12)

4. アシカ漁労に対する課税を「実効支配」の証拠として提示したことに対しては、なぜ反論しないのか?
島根県竹島問題研究会は、前回韓国側が『「竹島問題100100答」に対する批判』において日本の「Q36 日本の竹島領土編入前に韓国(朝鮮)が竹島を実効支配したという証拠があるのか?」に対する反論として、「韓国人は日本が編入する前から独島に渡海していた。」という題名で反論するとすぐに、今回は「反論の題名をこのようにタイトルを変えてしまったのは、朝鮮・大韓帝国時代を通じて韓国が「実効支配」していたという明確な証拠が全くないという事実を吐露していると考えられる」と批判した。批判というのは、普通、内容に対して行うことだ。題名だけを持って、それが日本側の批判に対応できないということを意味するのだと判断するのは本末転倒であることをまず指摘したい。
張漢相は「鬱陵島事蹟」(1694)において鬱陵島の他に別の島たり得るものについていくつか言及している。一つは鬱陵島の東側に海蔵竹が育つ島で、他の一つは聖人峯に登って見た東南側のかすかに見える島だ。私たちは海蔵竹が育つ東側の島を竹島と、東南側のぼんやりした島を于山島(独島)と見ている。鬱陵島の周囲には島が多くないので、張漢相が記述した島を特定することができるためだ。したがって、張漢相の記録に基づいて彼が描写した東南側の島を「于山島=独島」と見ることは暴論にならない。
は「そもそも張漢相は後に‘于山島は鬱陵島の西側にあって広大だ(其西又有于山島而亦且広潤云)’と言及していて、張漢相が考えた于山島が現在の竹島だとは到底考えることはできない。柳美林氏の主張は資料に基づいておらず、また、論理的にも欠陥があるというほかはない」とした。山は引用文の根拠に『朝鮮王朝実録』英祖11(1735)117日付けの記事を提示したが、この記事にはそのような内容はない。これは張漢相のことばではなく、江原監司趙最寿の状啓に対する英祖の質問に対してキム・チュイロがした返事だ(17)。キム・チュイロは鬱陵島の西側に牛山島があって非常に広大だといった。張漢相が行った年度を間違えているほど英祖年間の情報は不確かだった。
山が引用した内容は『東史約』にも載っているが(18)、これは李源益(17921854)の編纂だ。純祖年間に編纂されたものだからより不正確だ。批判するには一次史料に基づくほうが良いだろう。
 
 
(17)『備辺司謄録』英祖11118;『国朝宝鑑』第61巻英祖11(乙卯) 1月。『備辺司謄録』には張漢相が行った年を丁丑年(1697)と戌寅年(1698)とあるが、張漢相が行った年は甲戌年1694年だ。
(18) 「江原監司趙最壽啓請 今年歉荒停鬱陵島搜討 上以問筵臣對曰 往在丁酉倭人來請此島 故朝廷特遣張漢相 圖形蓋其地廣土沃有人居舊址又有于山島亦廣闊 遂定三年一搜之法矣 遂命搜討如例」
 
 
地図に普通于山島が西側に描かれている場合は、朝鮮初期の「八道総図」に于山島が鬱陵島の左側に描かれていた慣行が中期まで持続していたためだ。実測図以前の地図において私たちが認識しなければならない事実は、東海上に二島があるという二島認識がその根底にあるという点だ。しかも張漢相は「于山島」と言明したことがない。
日本は「柳美林氏の主張は資料に基づいておらず、また論理的にも欠陥があると言わなければならない」というが、誤った資料に基づいて主張を述べる側に欠陥があるのではないのか反問したい。
日本は繰り返し韓国側に1905年以前に独島を実効支配した証拠を提示することを要求してきた。筆者は1882年開拓令以前から朝鮮人が鬱陵島に往来して独島にも往来したという事実、そして独島での漁労、特にアシカ漁労に対して1905年以前に郡守が課税した事実を挙げて「実効支配」を立証してきた。
これに対し、日本は、アシカ課税は鬱陵島で加工した[産品]を輸出したことに対する課税であるから独島に対する主権行為と見るのは難しいと主張する。この時、傍点(強調点)が鬱陵島での加工品というところにあるのか鬱陵島からの輸出品というところにあるのかも曖昧だが、二つの場合をどちらも検討してみよう。
まず、鬱陵島での加工品であるから独島と関係ないかを見れば、当時は原産地と加工地の区分がなかった時代であった。だから鬱島郡守が(独島)アシカに課税した理由は、鬱陵島で加工されたためではなかった。それでもあえて日本が原産地と加工地を区分して話しをしようと思うならば、原産地は二種類の場合に区分される。当時、日本の船舶が独島を大韓帝国の領海と見てアシカを捕獲したとすればこの時のアシカは大韓帝国産に分類されるが、日本の主張のように独島を無主地と仮定するならば、日本人が日本の船舶で捕獲した独島アシカは旗国主義により日本産になる。そしてこれを鬱陵島で加工して輸出したとすれば、大韓帝国が日本産を輸入して加工した後に再び日本に輸出したことになる。それなら、これは日本産の日本への輸送、すなわち内国輸送あるいは再輸入(搬出)に該当する。したがって、これを輸出ということはできない。それなら鬱島郡守は日本人から輸出税を徴収できない。このような論理のとおりならば、当時日本外務省が主張した「輸出税」は成立し難い。したがって当時日本外務省が主張したとおり日本人たちが郡守に「輸出税」を納付したという事実が成立するには、鬱陵島で加工された独島アシカといっても大韓帝国産と見ればこそ可能だ。換言すれば、日本人たちが独島を鬱陵島の属島と認めてこそ独島アシカは大韓帝国産となって「輸出税」という名目が成立するのだ。
二番目に、鬱陵島からの輸出品であるから独島とは関係ないと言えるかを見れば、「朝日通商章程」(1883)に基づいて説明することができる。この通商章程の第9条によれば、通商港での輸出入貨物は関税を納付することになっているが、当時はこれを通商入港税と出港税と呼んだ。鬱陵島は通商港ではないので原則的には関税を徴収できないが、日本が慣行的に納税してきたので通商章程を鬱陵島に適用することができる。鬱陵島輸出品に対する税金はまさに「朝日通商章程」にいう関税に該当して、1902年「鬱島郡節目」にある「出入りする貨物に対する税」に該当する。ただし、鬱陵島では輸入品に対しては関税を賦課しなかったので輸出品にだけ該当する。鬱陵島の通過貨物に賦課される税金であるから独島と直接的な関係がないという主張は、関税でない今の「出港手数料」を念頭に置いたものだが、船舶に対しては別にトン(t)税を徴収していた。
  港に入ってくる貨物〔進口貨〕や出て行く貨物〔出口貨〕に対する税金については入港税と出港税と呼んだし、これらはいずれも(輸出入)関税を意味する。したがって、鬱陵島を通過する貨物に対する税金であるから独島と関係ないという論理は成立しない。
通商港において貨物を規定により手続きを踏まなかった場合、海関はその貨物を没収する権利があったが、まして通商港ではない場所での輸出入貨物に対してはどうだったのか? 日本人たちが税金という名目の下に納税を志願したことはこのためだ。また、鬱陵島の日本人たちが郡守の課税を避けることに目的を置いたとすれば、島根県から来た中井養三郎を始めとする漁業人にアシカを販売して来る方法もあった。ところが鬱陵島の日本人たちは、あえて鬱陵島に運んで税金を納付した後に日本に輸出した。そして、当時の外務省はこのような自国民の納税を「輸出税」と主張して居住権を要求した。
  今回の反論で、山は鬱島郡守の課税権行使に伴う「実効支配」に対しては再反論をしなかった。その代わり、1900年代の外務省官吏の復命書と地図で「于山島」を独島と見るのは難しい場合だけを抽出して于山島が独島でないことを立証するのに援用している。韓国側史料で独島と関連付けることができる島嶼としては、于山島の他にも三峰島、可支島、石島、独島がある。このうち三峰島と可支島は鬱陵島を示す時もあって独島を示す時もある。于山島もやはり同じだ。于山島が一貫して独島を示すのではないが、全体的な脈絡で見れば鬱陵島よりは独島を示す時がより多い。文献の内容を文脈上で見ずに断片的な事実だけを選別して自身の主張を後押しするために歪曲することは、客観的な研究だというのは難しい。


4. アシカ漁労に対する課税を「実効支配」の証拠として提示したことに対しては、なぜ反論しないのか?  (終)



竹島問題100問100答批判2(11)

3. 韓国の文献の「于山島」が全て独島を指すのではないが、かと言って日本の「鬱陵島=于山島=松島」説が成立するのでもない
 
下條が最も重点的に批判する韓国側主張は「于山島が独島だ」とする主張に対してだ。これを批判するために、彼は史料を無理に構成して解釈する。そのような例としては、地図上の于山島と文献上の于山島の不一致を強調することを挙げられる。下條は粛宗37(1711)朴錫昌の「鬱陵島図形」において鬱陵島近くの島に「いわゆる于山島」と注記されたことと、以後の鬱陵島地図に描かれた「于山島」が竹島(日本は竹嶼と呼ぶ)を指すと主張する。また、安龍福が「日本がいう松島」とした于山島もやはり「竹島」を示すと主張する。下條は、安龍福が「松島は于山島だ、これも我が朝鮮の地だ」といった時、その根拠は『新増東国輿地勝覧』に由来する「于山島」だと主張する。そして、安龍福が日本へ持って行った地図の「于山島」も『新増東国輿地勝覧』の于山島に由来するというのだ。ところが、一方で、下條は『新増東国輿地勝覧』の于山島は鬱陵島を示すと主張する。それなら下條がいう「于山島」は何を示すものなのか、その実体が曖昧だ。地図上の「いわゆる于山島」と『新増東国輿地勝覧』の「于山島」、安龍福が語った「松島」はそれぞれ何を指すのだろうか? 彼の論理のとおりならば、「いわゆる于山島」は「竹島」であり、『新増東国輿地勝覧』の「于山島」は鬱陵島であり、安龍福の「松島」は『新増東国輿地勝覧』の于山島であるから「鬱陵島」を示す。このような論理は「鬱陵島=于山島=松島」になるのだから成立しない。
彼が「歴史的事実としては、『新増東国輿地勝覧』の「八道之図」に由来する「于山島」を松島と見た安龍福の供述が、後代の韓国側では于山島を松島だと主張する端緒になったのだ」とする時の于山島はまた、どれを指すのか? 上の論理のとおりならば、この時の于山島も鬱陵島にならなければならない。ところが「韓国側では于山島を松島だと主張する端緒になったのだ」という時の于山島は松島すなわち独島を意味する。前で『新増東国輿地勝覧』の「于山島」は鬱陵島を指すといったが、ここではどのように日本がいう「松島」になれるのか? 下條は自国に有利な方向に任意に論理を改変している。
下條は「安龍福は実際の竹島(独島)については分からなかった」というが、二回も鬱陵島から独島を経て日本に入った安龍福が独島を知らない訳はない。「安龍福は竹島(独島)を知らないまま『東国輿地勝覧』に由来した「于山島」を「松島」と思った」とすることも成立し難い。安龍福が『東国輿地勝覧』を知っていたはずがないためだ。 彼はまた、「安龍福が鬱陵于山両島監税と称したのは于山島に人が住むと見たためだ」としたが、これは下條が于山島に人が暮らす時だけ税を賦課することができると思うからだ。
しかし、税を賦課できる島は有人島でなければならないのか? 下條がこのように安龍福の「于山島=松島=独島」説を強く否認しようとする目的は、申景濬の改竄説を後押しするためだ。申景濬が「輿地志にいうに、鬱陵と于山はいずれも于山国の地だ。 于山は日本がいう松島だ」とした事実が于山島が独島であることを明確に物語るので、下條としてはこれを切実に否認しようとするのだ。これはむしろ于山島が独島であることを反証する。
下條は朴錫昌が述べた「いわゆる于山島」が竹島である点、そして安龍福が陳述の過程で若干の偽証をした点、安龍福が竹島から松島までを50里だとした点など不正確な陳述を挙げて于山島が独島であることを否定しようとするが、こういうことは于山島が独島であることを否認するほどの決定的な要因ではない。
もちろん、韓国の文献に記述された「于山島」が全て独島を指しはしない。韓国側がそんなふうに主張しているのでもない。ただし、かと言って下條がいうように、それぞれ違う論理を無理に構成して韓国文献の「于山島」が独島を指す場合まで否定することはできない。しかも、朴錫昌の地図(1711)安龍福の「于山島」うんぬん(1696)は時期的にも因果関係がない。安龍福は于山島を目撃して2回目の渡日では日本の官吏に八道地図を提示したことがある。これに依拠して、日本は、自分たちが「竹島」と「松島」と呼んで来た島嶼が朝鮮の地図で鬱陵島と于山島になっているのを見てこれをそれぞれの島に比定したことによって、かえって于山島が松島で松島は独島に該当するということを確実にしてくれた。これは1696年の「元禄覚書」でも知ることができる。この他にも、日本の多くの古文献と古地図に記述された「竹島」と「松島」が朝鮮の鬱陵島と于山島に該当することを立証している。それでも日本が称した「松島」が「于山島」(独島)でなく「竹島」すなわちデッソム(竹の島)を指すと主張するのは、かえって下條自身を自己矛盾に陥らせるだけだ。
 

3. 韓国の文献の「于山島」が全て独島を指すのではないが、かと言って日本の「鬱陵島=于山島=松島」説が成立するのでもない(終)

竹島問題100問100答批判2 (10)


対馬藩が松島の存在を知るようになったのは鳥取藩より後だが、鳥取藩の人々が「竹島」を命名したとすれば、「竹島」に来る時に立ち寄る島(松島)についても命名したのだろう。それなら、「松島」という呼称は「竹島」という呼称が成立した当時に共にあったと見られる。「松島」という命名に「竹島」の対としての意味があるという事実も、「磯竹島」と「竹島」が朝鮮に伝わるときに「松島」も共に伝えられたことを語る。
そしてもう一つの問題、すなわち申景濬が引用した『輿地志』が柳馨遠の『東国輿地志』を指すのかも検証されなければならない部分だ。『輿地志』が柳馨遠の『東国輿地志』を指すのであれば、『東国輿地志』には「一則其所謂松島」あるいは「于山国」関連の内容が記述されていなければならない。ところが柳馨遠の『東国輿地志』は現存せず、現存する『東国輿地志』にはこのような内容は無い。むしろ、下條が主張する「一説」を載せているのは『新増東国輿地勝覧』だ。しかしここに「松島」関連の内容は無い。
それなら、申景濬が引用した『輿地志』は現存する『東国輿地志』とは違うことを意味して、したがって柳馨遠の『東国輿地志』は上で述べた『輿地志』とも同一文献ではないことを意味する。
下條李孟休が于山島と鬱陵島を「同島異名」と見たと主張するが、このような指摘は非常に断片的だ。なぜなら、李孟休申景濬の著作を比較してみれば、先代の著作に接近する方式がそれぞれ異なるためだ。申景濬は『疆界考』を書いた後『東国文献備考』の「輿地考」も担当したので、これらを共に考察してこそ文脈を正しく把握することができる。下條申景濬李孟休の著作を底本にしたというが、これもまた事実ではない。李孟休の著作に載った記事と申景濬の著作に載った記事が完全に一致するのではないためだ。李孟休は鬱陵島に関し弁証して智証王12年の記事から始めて成宗2年の三峰島の記事までを載せた。そして『新増東国輿地勝覧』の説をそのまま引用した。また、彼はが『芝峯類説』で「(鬱陵島を)日本では磯竹という」とした内容を引用した後に、自身の見解を付けた。それは、「鬱陵島では竹が産出するので竹島といい、三つの峰があるので三峰島といい、羽陵、武陵、磯竹という呼称は全部発音が間違って伝えられてそうなった」というものだ。
ところが申景濬李孟休の『春官志』を参考にしたが、『芝峰類説』は引用しなかった。そして、申景濬李孟休の見解に対する自身の見解を李孟休と同じように「按」の形態で載せた。この時、申景濬が「按」を付けた地点がどこなのかに注目する必要がある。それは正に李孟休が引用した成宗の代の記事に対してだ。その理由は、成宗のときに初めて登場した三峰島の存在に対して申景濬が疑問を抱いたためだ。李孟休も「三峰島」の記事の次に『芝峰類説』を引用したが、彼は「磯竹」を「鬱陵」と同一視したの見解を引いてきた。そして、李孟休は鬱陵島と竹島、三峰島を同一視することで結論付けた。申景濬はそれとは違った。彼は、李孟休が『芝峰類説』に基づいて鬱陵島と竹島、三峰島を同じ島と見た部分を削除した。その代わり、申景濬は成宗の代に初めて登場した「三峰島」は鬱陵島なのか、于山島とはどんな関係なのかを調査して自身の見解を挿入した。この時の参考図書の一つが『輿地志』だったと見られる。申景濬が見た『輿地志』では「一説に于山と鬱陵は本来一島というが、色々な地図や書を考察してみれば二島だ。一つは彼ら(日本人-訳者)がいう松島だ」となっていたので、申景濬は『輿地志』の著者も自身と同じように于山と鬱陵は二島と結論を出したものとして受け入れたのだ。二つの島のうちの一つを日本人たちが松島と呼ぶという事実も、申景濬は『輿地志』を通じて知ることになったのだ。そのために申景濬は『輿地志』の見解を受け入れたのだ。ただし、この時の『輿地志』の引用文については論難がある。『輿地志』の著者の見解が「色々な地図や書を考察してみれば二島だ。一つは彼らがいう松島だ(一則其所謂松島)」までなのか、そうでなければ後の「およそ二島はいずれも于山国だ」までなのかに関しては論議が有り得る。
申景濬が『疆界考』において「按輿地志云一説于山欝陵本一島而考諸図志二島也一則其所謂松島而盖二島倶是于山国也」といった時の「盖:およそ」の字は通常著者の見解を意味する。「盖」以下を申景濬の見解と見るならば、次の通り解釈することができる。
 
私が調べて見れば、『輿地志』にいうには、「一説に于山と鬱陵は本来一島というが、色々な地図や書を考察してみれば二島だ。一つは彼らがいう松島だ」としているので、およそ二島はいずれも于山国だ。
 
ところが、同じ内容が『東国文献備考』になると変わって、「輿地志云欝陵于山皆于山国地」になっている。ここでは「二島はいずれも于山国だ」という事実が『輿地志』の内容になっている。それならば『彊界考』で「二島はいずれも于山国だ」とある内容も『輿地志』の内容であることを意味する。したがって、この二つを総合すれば上の文章は下記のように解釈される。
 
私が調べて見れば、『輿地志』にいうには、「一説に于山と鬱陵は本来一島というが色々な地図や書を考察してみれば二島だ。一つは彼らがいう松島で、およそ二島はいずれも于山国だ」といった(14)
 

(注14)ソン・ビョンギはこのように解釈して、『輿地志』以下を全部柳馨遠の言葉と見た(ソン・ビョンギ 1999 『鬱陵島と独島』 p52)。ところで、他の研究者は『彊界考』に対しては、「私が調べて見れば、『輿地志』にいうには、「一説に于山と鬱陵は本来一島だ」というが、色々な地図や書を考察してみれば二島だ。一つは彼らがいう松島で、二島はいずれも于山国だ」と解釈して、『東国文献備考』に対しては、「「輿地志」にいうに、鬱陵・于山はいずれも于山国の土地で、于山は日本がいう松島だ」と解釈している(シン・ヨンハ1996 『独島の民族領土史研究』 知識産業社 p29-30;p247)。他の研究者は、申景濬の言葉がどこまでで『輿地志』の言葉がどこまでか曖昧に処理している。多くの研究者がこの誤りを踏襲している(キム・ファギョン 2011 『独島の歴史』 嶺南大学出版部 p227)
 
 
これで、申景濬が取り上げ論じた『輿地志』は『東国輿地志』を指さないという事実がもう一度立証された。したがって、下條が述べた、「東国文献備考の分注に引用された東国輿地志の原典には「于山は正に日本がいう松島だ」という文章はない。このような事実こそ東国文献備考の分注に引用された東国輿地志が改竄されたということだ」という批判は成立しない。『東国文献備考』に引用された『輿地志』が『東国輿地志』を指すものなのかすら不確実なのにどのように「改竄」を云々することができようか。
下條は、成海の文を借りて『彊界考』が李孟休の『春官志』をそのまま書き写したという。そして、申景濬は李孟休の文を載せたのだが、李孟休が記述しなかった内容を加筆して于山島と鬱陵島を二島と見たと主張する。しかし、成海は「安龍福伝載於李孟休所著春官志」と言っている。つまり、成海は「安龍福伝」が李孟休が書いた春官志』に載っているといっただけなのに、下條は、これを申景濬李孟休の『春官志』をそのまま書き写したことに変身させた。申景濬が「安龍福史」において李孟休の『春官志』の内容を引用したことはそうだが、そのまま書き写したのではない。申景濬は『春官志』の誤りを正したためだ。『春官志』は「朝廷ではまた、武臣張漢相を鬱陵島に送って捜索させた。それから越松萬と三陟営将は5年ごとに一回ずつ行くのだが交代で行くように法に決めて、..」としているが、申景濬は李孟休が捜討制を5年ごとと記述した事実を3年に正した。そのまま書き写したとするなら誤りまで書き写さなければならないのではないか(15)
 
 
(15)朝鮮末期の学者元重擧と李肯翊李孟休の見解をそのまま採って5年と記述した。
(16)ソン・デジュン 『青城雑記』のうちの「鬱陵島から倭人を追い出した<安龍福伝>の転末」
 
 
 
春官志』は礼曹に保管されていたので、必要な場合は誰でも持って来て見ることができた。成海もこれを持って書き写したことがあることを明らかにしたことがある。成海は安龍福のことは『文献備考』にも編入されているといった(16)。したがって、『東国文献備考』 「輿地考」を担当した申景濬李孟休の文を『彊界考』と『東国文献備考』の「輿地考」に挿入したのは盗作でも改竄でもなく継述に近い。申景濬が『春官志』にない異説を加筆したりあった内容を削除したのは考証の結果だ。文献は文献に書かれた通り解釈すべきでも、脈絡を探して解釈しなければならない。後代の文献が前代の文献と一部同じだったり削除されたことを挙げて改竄だと罵倒するのも非学術的だが、申景濬に対する偏見が入った人物評を持って申景濬の著作全体を罵倒するのも非学術的だ。


2. 『東国文献備考』「輿地考」の分注は『春官志』を考証した後に得られた結論だ (終)


 

竹島問題100問100答 批判2 (9)

竹島問題100100答 批判2
―竹島問題研究会3期最終報告書付録に対する反論―

(慶尚北道独島史料研究会)


歴史学的争点を中心に(柳美林)



2. 『東国文献備考』「輿地考」の分注は『春官志』を考証した後に得られた結論だ
下條は、韓国側が文献解釈で混乱を経ることになった原因は、『東国文献備考』(1770年成立)の分注のためだと見た。すなわち、彼は、「『東国文献備考』(1770年成立)の分注に「輿地志に言うに、鬱陵と于山はいずれも于山国の地だ。于山は日本がいう松島だ」と記述されているために于山島を松島(現在の竹島)と曲解する素地が生じ」て、このために混乱を経ていると主張する。下條によれば、韓国側の「文献と古地図に于山島という文字さえ有れば何でもタケシマに読み替えて于山島を竹島と見る根拠にし」ているというのだ。
下條のこのような論理は、いわゆる申景濬改竄説に基づいている。すなわち、申景濬が引用した『輿地志』には本来「一説に于山と鬱陵は本来一島だ」という内容だけがあったが、申景濬が『東国文献備考』を編纂して「鬱陵と于山はいずれも于山国の地だ。于山はすなわち日本がいう松島だ」という内容に改竄したので、韓国はこれを根拠にしているというのだ。これに対して、筆者は改竄ではなく改撰だと反論したことがある。すると今度は久保井規夫の見解を取り上げて批判している。
すなわち、下條は、久保井が『図説竹島=独島問題の解決』で述べた『東国文献備考』の分注は「決定的な韓国領土であることを見せてくれる、日本がいう松島が于山島(今日の独島=竹島)という記述」だとした内容を引用して、再び改竄説を提起した。下條は、『東国輿地志』が現存するという事実が確認されたがその中に「于山は日本がいう松島だ」という内容は無いと主張する。したがって、筆者と久保井はどちらも臆説を展開しているというのが下條の主張だ。
下條が申景濬改竄説の根拠として示すのは、「『東国文献備考』(「輿地考」)申景濬の『疆界誌』を底本にしていて、その『疆界誌』は李孟休『春官志』(「鬱陵島争界」)を底本にしたからだ」というものだ。そして、彼は、申景濬が『疆界誌』において引用した『輿地志』というのは1656年の柳馨遠の『東国輿地志』を指すが、その中に1696年の安龍福供述に由来する「日本がいう松島だ」という文章があるのは不自然だと見た。果たして『輿地志』は1656年の『東国輿地志』を指すもので、その中に「于山はすなわち日本がいう松島だ」という文章はないのか? そして、朝鮮では安龍福が「于山島は日本がいう松島だ」と証言したことによって初めて于山島に対する「認識」が生じたものなのか?  この部分を論証してみよう。
まず『東国文献備考』以前の文献に対する下條の見解を見れば、彼は李孟休『春官志』の初稿が1750年以前にあり、『疆界誌』は1756年に成立したが、成海が「(疆界誌の)安龍福伝は李孟休が著した内容『春官志』に載せた」とした。ということは、彼は申景濬の『疆界誌』は李孟休『春官志』をそのまま書き写したものだと見ているわけだ。ここで共に検討されなければならないことは、『輿地志』は柳馨遠の『東国輿地志』をいうものなのか、そして『疆界誌』と『東国文献備考』に登場する松島は誰の見解かという点だ。

申景濬が著述した二つの文献(『疆界誌』と『東国文献備考』)の内容を見れば、『疆界誌』には本文に「按輿地志云一説于山欝陵本一島而考諸図志二島也一則其所謂松島而盖二島倶是于山国也」という内容が有る。『東国文献備考』には「輿地志云欝陵于山皆于山国地于山則倭所謂松島也」という内容が「分注」の形式で有る。ところが下條が主張する、『東国文献備考』が引用したという柳馨遠の『東国輿地志』を見れば、鬱陵島関連の内容は『新増東国輿地勝覧』とほとんど同じだ。反面、『新増東国輿地勝覧』にあった「一説于山欝陵本一島」という内容は『東国文献備考』にはない。そうであれば、申景濬が引用した『輿地志』は『東国輿地志』を指していない可能性がより大きい。下條の主張のように『新増東国輿地勝覧』にあった内容が『東国文献備考』にないからといって、これを無条件に改竄と見るべきか? しかも、申景濬は『新増東国輿地勝覧』になかった内容を『東国文献備考』に追加することもした。申景濬が『輿地志』云々と言及した「松島」という名称も『東国輿地志』には見られない。このような事実は、『輿地志』はむしろ『東国輿地志』ではない可能性を示唆する。したがって、申景濬が言及した『輿地志』というのは柳馨遠の『東国輿地志』だと断定することはできない。下條は『輿地志』を柳馨遠の『東国輿地志』と断定した。だから「松島」という名称が出てくることはできないというのだ。しかし、『輿地志』を『東国輿地志』と見るとしても、「松島」うんぬんを申景濬自身の見解だと見るならば、『東国輿地志』と関係なく登場することができる。申景濬が言及した「松島」うんぬんを『輿地志』の引用文だと断定できないからだ。『輿地志』の文章を「一説于山欝陵本一島而考諸図志二島也」と見るならば、以下の「松島」うんぬんは申景濬の意見になる。申景濬が「松島」に言及したことは変なことではない。 しかも、申景濬は『東国文献備考』においても「輿地志云欝陵于山皆于山国地于山則倭所謂松島也」とした。この場合、『輿地志』の引用文を「欝陵山国地(翻訳者注:ここは「欝陵于山皆于山国地」と書きたかったんじゃなかろうか)に限定するならば、「于山則倭所謂松島也」は申景濬の見解となる。

『東国文献備考』における『輿地志』の引用文がどこまでかについては、次のように二種類の解釈が可能だ。
(1)輿地志』で「鬱陵・于山はいずれも于山国の地」としているが、于山は日本がいう松島だ。
(2)輿地志』で「鬱陵・于山はいずれも于山国の地だ。于山は日本がいう松島だ」としている。
二つの解釈の差は、「松島」という名称が『輿地志』編纂当時にあったのか、あるいは申景濬が初めて用いたのか、によるものだ。下條は韓国側が『輿地志』引用文を解釈する時ソン・ビョンギ氏の解釈に無批判に従うと言うが、筆者はこの文章は二種類に解釈することができると見た。また、下條が引用した文章は、「調べて見れば、輿地志では一説に于山と鬱陵は本来一島というが、色々な書や図を考察してみれば二島だ。一つは日本がいう松島で、およそ二島はいずれも于山国だ」(10)となっている。
 

(10)「按輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也一則其所謂松島 而盖二島倶是于山國也」

 
 
しかし下條の解釈は間違っている。『輿地志』の引用文がどこまでかが明らかでないためだ。上の文章で「調べて見れば」の主体は申景濬で、『輿地志』は他の人物の著作だから主体は二つでなければならない。したがって、解釈においても、『輿地志』の著者の意見と「調べて見れば」の主体である申景濬の意見に分離すべきなのに、下條はこのような差に注目しないまま曖昧に解釈している。
このような解釈上の誤りを別にしても、上の文章は次のように二種類の解釈が可能だ。
(1)私が調べて見れば、『輿地志』がいうには、「一説に于山と鬱陵は本来一島というが、色々な書や図を考察してみれば二島だ。一つは彼らがいう松島だ」といっているので、およそ二島はいずれも于山国だ。
(2)私が調べて見れば、『輿地志』がいうには、「一説に于山と鬱陵は本来一島というが、色々な書や図を考察してみれば二島だ。 一つは彼らがいう松島で、およそ二島はいずれも于山国だ」といっている。(11)
二つの解釈のうち(1)を適用すれば、「二島はいずれも于山国だ」という内容は申景濬の結論になる。(2)を適用すれば、『輿地志』の見解がそのまま申景濬の見解となる。ここで『輿地志』を柳馨遠の『東国輿地志』と見るならば、「一つは彼らがいう松島だ」という内容も柳馨遠の見解となる。それならば、これは柳馨遠(1622-1673)の生存当時に「松島」の存在が知られていたことを意味する。下條は、「松島」の存在は安龍福事件以後にこそ知られたと主張する。果たしてそうだろうか? 安龍福事件以前である光海君の当時、「磯竹島」が言及されたことがあって(12)『芝峰類説』(1614)にも「磯竹島」(13)が言及されているので、「磯竹島」という名称は朝鮮に伝わっていた。
 
  
(11)ソン・ビョンギはこのように解釈して、『輿地志』以下を全て柳馨遠の言葉と見た(ソン・ビョンギ 1999 『鬱陵島と独島』 p52)
(12)それ以後では『粛宗実録』粛宗21620(庚戌)、『増正交隣志』、『五洲衍文長箋散稿』などに出てくる。
(13)日本政府は、桃山時代の日本図屏風に隠岐と高麗との間に「磯竹」が描かれていて、明国の嘉靖34年、日本の弘治2(1556)に日本を調査して行った明の鄭舜功が残した『日本一鑑』地図編に「竹島」がある点から推測して、『隠州視聴合紀』(1667)より前にこれらの呼称があったと見ている。 (5巻 『日韓漁業交渉資料』3 「日本海の竹島に関して」)

(続く)

竹島問題100問100答 批判2 (8)

 『新増東国輿地勝覧』には次のような内容が記述されている。

于山島、鬱陵島
 【武陵ともいい、羽陵ともいう。二島は県の正東側の海にある。三つの峰が高く聳え立って空をつくが、南側の峰はやや低い。天気がよければ峰の上の樹木と山の下の砂浜を歴々と見ることができる。】(9)
 
 
(9)【一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中 三峰岌嶪撑 南峰稍卑 風日明 即峰頭樹木及山根沙渚歴歴可見 風便則二日可到 一説于山鬱陵本一島 地方百里......
 
 
 これに対して日本は次の通り主張する。

 『新増東国輿地勝覧』には「見える」の前に「峰頭の樹木と山の下の砂浜」という内容がある。これは岩礁であるタケシマを指すのではない。タケシマには「峰頭の樹木と山の下の砂浜」がないためだ。したがって、ここで「見える」というのは「管轄の官庁から管轄される島嶼までの距離と方向」を記述することにした「規式」のとおりに蔚珍県から鬱陵島が「見える」と記述したのだ。

『新増東国輿地勝覧』では「于山島、鬱陵島」として二島に共に言及している。そして二島は県の「正東の側にある」としているので、本邑からの方向を記述することにした規式のとおりに記述している。ただ、ここで「三つの峰」以下の内容がどの島を指すのかは明らかでない。峰頭の樹木と山の下の砂浜が見えるということなので、樹木が全くない「于山島」すなわち独島を形象化したものと見るのは難しい。「武陵ともいい、羽陵ともいう」とある事実から推察するところ、この内容は「鬱陵島」に関したものだということが分かる。したがって「〔歴歴可見〕」とある内容も陸地(蔚珍県)から鬱陵島が見えるという事実を言ったものであって、鬱陵島から于山島が見えるという事実を言ったものではないことが分かる。それならば、『新増東国輿地勝覧』が歴々と「(可見)」と言っているのは、『世宗実録』「地理志」が「天気が良ければ眺めることができる」とする時の「〔可望見〕」と言ったこととは、その脈絡が全く違うということが分かる。
ところが、下條は「同じ基準の「規式」で編纂された「見える」という内容が『世宗実録』「地理志」では于山島と鬱陵島の間のことを指して、『新増東国輿地勝覧』では陸地から鬱陵島が見えるというなど別に解釈されることはできない」と主張する。そして「『東国輿地勝覧』(蔚珍県の条)の「見える」が陸地から見た鬱陵島を示すならば、『世宗実録』「地理志」が「見える」としたのも朝鮮半島から見た鬱陵島を示す」と主張する。二つの文献に記述された内容と脈絡が違うのに、これを「規式」云々して同じ基準で把握しなければならないと主張するのは論理が合わない。
この問題を実証するために、『新増東国輿地勝覧』に記述された例を見よう。『新増東国輿地勝覧』にも島嶼に関して記述した内容がある。例えば、慶尚道鎮海県の大凡矣島と小凡矣島については「【いずれも県の南側にある(倶在県南)】」と記述している。大酒島と小酒島については、「大酒島【周囲は20里だ(周二十里)】、小酒島【水路は16里だ。 二島の間は20歩で、引き潮になれば陸地に続く(水路16里両島隔二十歩潮退則連陸)】」と記述している。慶尚道熊川県の白山島と黒山島については、「【いずれも県の東側にあり、水路は20里、二島は1里離れている。 (倶在県東水路二十里両島隔~里)】」と記述している。
上の記述で共通しているのは、二つの島嶼名を羅列した場合ではあるが、「いずれも県のどちら側にある」という式で方向を記述するものの、二つの島間の距離が分かれば記述して分からない場合は方向だけを記述しているという点だ。水路を記述した場合でも、陸地から「20里」、二島間の距離は「1里」とあるように、非常に近い距離だということが分かる。大酒島と小酒島について「両島隔二十歩」と記述したことは、二島が互いに20余歩以上は離れていない島であることを意味する。 そして、二島を羅列しているが、それぞれの島について分注形式でその島に関して記述していて、『世宗実録』「地理志」のように二島の名前を一つにまとめておいてそれに対して記述した形式とは異なる。つまり、『世宗実録』「地理志」のように「二島相去不遠」と記述したのではないということだ。このような差を無視して全ての島は陸地との距離を基準として記述するのが規式だと主張しながら、二島が一つに括られているものの互いが「遠く離れている島嶼」である場合にまで規式を無差別的に適用することはできない。
『新増東国輿地勝覧』の「歴歴可見」の意味も同じだ。『新増東国輿地勝覧』の記述は「于山島と欝陵島」という二島に関する内容だ。ただし以前とは異なって二島に関する内容を分注で処理している。この時「二島は県の正東側の海にある」としたので地理誌規式のとおりに方向を記述したという面では規式に適当だが、「三つの峰」以下の内容がどの島を指すかは上の記述だけでは現れない。これを地理誌規式に合わせて分析するには、記述方式が一つの島嶼名を書いてそれに関して説明する形態になっていなければならない。ところが『新増東国輿地勝覧』も『世宗実録』「地理志」と同じように「于山島、鬱陵島」という二つの島嶼名を書いている。むしろ、『世宗実録』「地理志」では「于山武陵」が余白なしであるのに比べて、『新増東国輿地勝覧』では「于山島」と「鬱陵島」間に余白がある。これは「于山島」に関しては説明する内容がないということを意味する。それにもかかわらず「于山島」という島名を消さずに「鬱陵島」とともに併記して二島の存在を明確にしている。続けて「天気がよければ峰頭の樹木と山の下の砂浜を歴々と見ることができて、順風なら二日で行くことができる」としたのが見えるから、これは「鬱陵島」という島に対する説明だということが分かる。それは、内容で峰頭の樹木に言及し、「武陵ともいい、羽陵ともいう」としていることにも現れる。したがって、この時の「歴歴可見」は蔚珍県から鬱陵島が見えるということを言ったのであって、鬱陵島から于山島が見えるということを言ったのではないということを明確に知ることができる。
したがって、二つの文章は違うように記述されたのだから解釈も違うことにならなければならないという事実が、この場合にも適用される。『新増東国輿地勝覧』の「歴歴可見」と『世宗実録』の「可望見」の「見」の字に固着して二つの地理誌がいずれも陸地から望んだ鬱陵島を指すと解釈するのは、二つの文献の脈絡を正しく把握できないところから出て来た誤りだ。
一方、朝鮮が中央集権的な郡県制国家であるから地理誌と地図が同じ規式に基づいて編纂されたという下條の断定こそ恣意的だ。上で論証したように、地理誌に規式があるのは事実だがその規式が全ての記述に一括して適用されるのではない。『慶尚道地理誌』から始まって『新撰八道地理志』、『世宗実録』「地理志」、『慶尚道続撰地理誌』、『(続撰)八道地理志』、『東国輿地勝覧』、『新増東国輿地勝覧』、『東国文献備考』につながるが、全て同じ規式に基づいて記述されたのではない。 したがって、それぞれの地理誌はそれぞれ記述されたとおりに解釈されなければならない。『世宗実録』「地理志」で言及した「見える」を「鬱陵島から見える于山島(独島)」と解釈するのは、日本がいうように「弁解のための議論」ではなく、正しい解釈に伴う正しい議論だ。
下條は、1693年に江戸幕府の命を受けた対馬藩が朝鮮側と鬱陵島の領有権を争った時、朝鮮側は『新増東国輿地勝覧』を根拠として鬱陵島は朝鮮領だと主張したし、対馬藩も同じに解釈して幕府に朝鮮領であることを報告したと主張する。しかし、対馬藩が鬱陵島は朝鮮領であることを認めることになった背景に『新増東国輿地勝覧』だけがあったのではない。対馬藩は朝鮮地図と『芝峰類説』も参考にした。そして、江戸幕府が竹島(鬱陵島)と松島(独島)がいずれも日本領でないと判断することになったことには、「朝鮮からは近くて日本からは遠いので朝鮮に属する」と把握した事実が大きく作用した。むしろ、幕府は対馬藩ではなく鳥取藩の回答に基づいたところがより大きい。
下條が主張した、『新増東国輿地勝覧』は『世宗実録』「地理志」を継承したものであるから、当然、『世宗実録』「地理志」の記述も朝鮮半島本土からの距離を記述したことになるという見解に対して、池内は「後代の解釈を前代に持って来たという点で誤っている」と批判した。また、池内は、『新増東国輿地勝覧』に「二島の距離は遠くなく」という内容はなく、これを持って『世宗実録』「地理誌」に「二島は互いの距離が遠くなく」とあるのが陸地からの距離を記述したものと解釈するのは無理だと指摘した。
下條は、『世宗実録』「地理志」は正本でなく官撰地誌の地位になかったと恣意的に蔑んだ。続けて、彼は『新増東国輿地勝覧』がむしろ官撰地誌の地位にあって以後の地理書における底本になったと評価した。下條がこのように評価する理由は、『新増東国輿地勝覧』に記述された「蔚珍から鬱陵島が見える」という内容は認めて、「鬱陵島から于山島が見える」と記述した『世宗実録』「地理志」を認めまいと思うからだ。しかも、下條は韓百謙と柳馨遠、金正浩、李孟休の地理誌などで「于山島」がなかったり于山島を鬱陵島と同じ島と見た事実、あるいは于山島を鬱陵島の別称と見た事実を取り上げ論じて、これらの文献で「于山島」関連の記述がないという点を『新増東国輿地勝覧』を底本にした事実と連係させている。これまた恣意的な判断だ。これらの文献は実録だけでなく東史などを網羅して記述しているので、『新増東国輿地勝覧』を底本にしたというほどの根拠は薄弱だ。


1 『世宗実録』「地理志」と『新増東輿地勝』の容は文脈が異なる(終)


(強調は引用者=翻訳者による)


<ちょこっとコメント>
え? え? 「二島が一つに括られているものの互いが「遠く離れている島嶼」である場合」ですか? これって、もともと「二島相去不遠」(遠くはない)の解釈の話ですよ。






竹島問題100問100答 批判2 (7)

  それなら、『世宗実録』「地理誌」は、なぜ「于山島」や「武陵島」を別個に分離して記述すぜに一つにまとめて記述したのだろうか? 「于山島」に関しては島嶼名が言及されているだけでその島に関する説明はない。そして、続いて登場する「武陵島」は分注形式で説明している。二島に関する記述方式は、『慶尚道地理誌』のような「陸地相去水路10里」の形式でなく「二島相去不遠」という形式だ。『世宗実録』「地理誌」にこのように記述された理由は、于山()と武陵()の二島が蔚珍県の真東の海にあるのだが、相互間の距離が分からないためだ。したがって、『世宗実録』「地理誌」に「二島は互いに距離が遠くなく、天気が良ければ眺めることができる」(7)とあるが、この時、互いの距離〔二島相去〕は他の地理誌のように「陸地と島との間の距離〔陸地相去〕」を意味するのではないと理解しなければならない。
 
  
(7)ここで、「天気が良ければ眺めることができる(風日清明則可望見)」の「風日清明」における「風」の字に意味があって、「風が吹いて天気が良ければ」と解釈しなければならないと主張する韓国の学者たちがいる。しかし、「風日清明」は「清明」の対句として二字を取っただけのもので、この場合には「風日」を必ず「風」と「日」に区分して読まなければならないのではない。申景濬は「風日清明」の代わりに「日清」と書いた(『疆界考』 4소대」 鬱陵島 「日清則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見・・・」)。朴世堂も「鬱陵島」という文で同じ脈絡の内容を記述する時に「風恬浪静」と表現した。風が吹く日に良く見えるという気象条件と可視日数を挙げてこれを文献解釈に遡及適用するのは合わないと考える。文献は記述されたとおりに解釈すれば良い
 
 
 
文章で「相去」といえば、普通は「去」を基準として比較対象が出てくるはずだ。したがって比較対象は二つの島〔二島〕だ。二島を一つにまとめておいて他の対象と比較することはできない。『世宗実録』「地理志」の「二島相去不遠」の場合も、比較対象は「二つの島〔二島〕」すなわち于山島と武陵島が比較の対象だ。これを地理誌規式を云々して、「二島相去不遠」において「二島」を一つにまとめて二島が陸地から離れた距離を示すと主張してはいけない。そんな主張をするには、他の方式で記述されていなければならない。すなわち「二島相去不遠」でなく「自陸地相去二島」あるいは「自(陸地)相去(二島)不遠」の形式にならなければならない。もちろん、このように記述するにしても比較の対象は一つに括られた「二島」ではない。ところが『世宗実録』「地理志」では「二島相去不遠」の比較対象が「二島」であることが明確に明らかになっている。したがって、このような記述方式は通常の地理誌規式には合わない。
日本の主張のとおりならば、『世宗実録』「地理志」の記述は、「天気が良ければ陸地(朝鮮本土)から二島が望み見える」と解釈されなければならない。例えば現在の「竹島」を念頭に置いてこの問題を見れば、陸地から「鬱陵島と竹島」の二島が望み見えると解釈することができる。非常に近い距離の島であるから「二島」を括って記述した可能性があるためだ。(翻訳者注:この竹島は鬱陵島に隣接するチュクトのことらしい。) ところがそのような解釈が可能であるには、「二島相去不遠」の形式で記述されてはいけない。「相去二島不遠」あるいは「自陸地去欝陵(于山)不遠」若しくは「自陸地去欝陵于山(二島)不遠」の形式で記述されていなければならない。「相去二島不遠」となっていない以上、陸地から眺めた二島と解釈することはできない。
結局、『世宗実録』「地理志」の「二島相去不遠」は二島相互間の距離を示すと解釈されなければならない。しかし、この場合にも鬱陵島と于山島の距離は200余里にもなるのでこれを近いということはできない。そのため、『世宗実録』「地理志」は「近い」とか「陸地に続いている(連陸)」という記述に代えて「遠くない(不遠)」と記述したのだ。『世宗実録』「地理志」に「風日清明則可望見」と但し書きを付けたのは、正確な距離は分からないが可視距離にあるということを言おうとする意図からだ。「于山・武陵」と明記したように二つの島を指すのだが、ごく近くにある島ではないのでそのように記述したのだ。一つの島に括っても良いほど近くにある二島だったなら、あえて「天気がよい日にだけ見える」という但し書きを付ける必要もなかっただろう。
実録が『慶尚道地理誌』の規式に従うといっても、陸地(蔚珍県)から鬱陵島までの距離を「水路何里」という形式で記述しなければならない。ところが実録はこれに従わず、「二島相去不遠」の記述を取った。その理由は、蔚珍県から鬱陵島までの水路を分からなかっただけでなく、于山島と鬱陵島の二島間の距離も分からなかったためだ。多くの地理誌を見れば、陸地から離れた水路を書いているものの、分からない場合は最初から島嶼名に言及しない。全ての島に対して陸地から離れた水路を把握してはいなかったためだ。最初から島嶼名を取り上げ論じないのもこのためだ。
ところが、『世宗実録』「地理志」は二つの島名を取り上げ論じた。地理志編纂者の立場では二島があるということは明らかだが、互いの距離が分からないと判断したので「相去不遠」と記述したのだ。したがって、地理志を解釈する時は記述されたとおりに解釈することが最も望ましい。規式のとおりに書かれていないものについて、規式のとおりに解釈しなければならないと固執できるものではない。
『慶尚道地理誌』や『慶尚道続撰地理誌』で言及した島々はほとんどが陸地から非常に近い、すなわち水路が把握された島々だ。だから水路を記述したのだ。陸地から何百里も離れた島についての水路は把握されなかったので、最初から取り上げ論じないのだ。編纂者の立場から見れば、水路が分からない場合、島嶼名に言及しなければ良いが、あえて「二島」に括って記述する理由がない。
『世宗実録』「地理志」に記述された内容を「朝鮮半島の本土から二島が離れているという意味に解釈できない」ことは、最近池内敏が論証した。彼は、『慶尚道地理誌』などの規式があったとしても、それが『世宗実録』「地理志」を拘束する基準として機能したのかは別問題だという認識の下、『世宗実録』「地理志」に記述された「京畿道」の部の南陽都護府の項で言及された島嶼に関する記述方式を調査した(8) 
 

(8) 池内敏 『竹島-もうひとつの日韓関係史』 中公新書 2016 p13-15
 
 

  池内も「二島」が「相去」である以上、「去」は先行する「二島」の距離に関して言及したことが明らかだと解釈した。彼は「二島相去不遠」を「二島が朝鮮半島本土からそれほど遠くなくて」と解釈する場合、「風日清明則可望見」を解釈できなくなると見た。現実的には、いくら晴れた日であっても朝鮮半島本土から鬱陵島と于山島(原文は竹島)がどちらも見えるということは絶対に有り得ないためというものだ。
 イ・ギボン氏が『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の記述を解釈して「于山島と鬱陵島は二つの別個の島という認識が定説だ」としたのに対し、下條は分注に「一説に于山と鬱陵は本来一島だ」という文章があることを挙げて、分注は本文を補充する意味だと強弁する。また下條は、『太宗実録』の「太宗169庚寅の条」に于山島の「家戸は全15、男女は全86人」と記述されていることを挙げて、于山島と鬱陵島は「同島異名」と主張する。
もちろん、この記事の于山島は鬱陵島を指すと見なければならない。ただ、私たちが主張するのは、文献を解釈する時は全体的な脈絡で把握するのであって、一部の記事を挙げてそれを全体的な本旨であるように繕ってはいけないということだ。『世宗実録』もそういう類に属する。
『世宗実録』「地理志」は上で反論したので、『新増東国輿地勝覧』と『東国文献備考』を考察してみることにする。

(続く)


<コメント>
 下線部、柳美林先生はなかなかいいことを言うなあ。ぜひ徹底してもらいたいものだが。





竹島問題100問100答 批判2 (6)

 次は本文です。本文はまず「国際法的争点を中心に」があってその次が「点を中心に」となっていますが、都合により「点を中心に」を先に翻訳します。それで、本日の投稿題は(3)から三段跳びで(6)になりました。(4)(5)は後日に入ります。


<竹島問題3期最終報告書付する反論>
点を中心に
 (慶尚北道独島史料研究会 柳美林)

1 『世宗実録』「地理志」と『新増東輿地勝』の容は文脈が異なる
日本は『竹島問題100100答』において、「『世宗実録』「地理志」と『新増東輿地勝』で蔚珍県の条に出てくる「于山島」は竹島ではなく鬱陵島の別の名だ」と主張したことがある。これにして、筆者は、これらの文に出てきた「于山島」はまさに島を指すことを論証したことがある。これにして、今回は「『世宗実録』「地理志」の于山島は鬱陵島の異称だとした「Q32 は昔から竹島を認識していたのか」を完全に無視して、『世宗実録』「地理志」の于山島を竹島()定したのだ」と批判している。そして、「『世宗実録』「地理志」や『新増東輿地勝』のような地誌には、然、む方法がある。地理誌を編纂する時はあらかじめ編集方針となる「規式」を定めて、その「規式」(2)により記述するためだ」として、「竹島が‘見える’という地理的件を根として『世宗実録』「地理志」の記述を解するのは朝鮮史究の基本を無視した主張だ」と批判している。
日本の批判が成立するには、全ての地理誌がいわゆるこの規式のとおりに記述されていなければならない。日本がいう地理誌の規式とは、島嶼の場合、「管轄する官庁から管轄される島嶼までの距離と方向」を書くようにしたことをいう。すなわち、全ての島は陸地から離れた水路の距離を表記するのが地理誌の規式というものだ。それなら、この規式に基づいて『世宗実録』「地理志」の記述を適用してみよう。
『世宗実録』「地理志」では、二島について、「于山武陵の二島が県の正東側海にある。分注〔二島は距離が互いに遠くなく、天が良ければ眺めることができる〕」(1)と記述されている。ここで二島は「(蔚珍)県の正に東側の海にある」としているので、管轄する官は蔚珍県を指す。管轄される「島嶼までの距離」は、「眺めることができる(可望見)」とした容から察することができる。規式を適用するならば、「眺めることができる」ということが「管轄する官庁から管轄される島嶼まで」の距離を意味するので、蔚珍県から(于山武陵)二島が「眺めることができる」ことを意味する。果たして蔚珍県からは鬱陵島だけでなく于山島まで見えるのか?
この問題を検討するために、地理誌の他の記述を見よう。まず、『世宗実録』「地理志」の記述の底本となった『新撰八道地理志』、『新増東国輿地勝覧』の底本となった『続撰八道地理志』などの規式を調べる必要がある。朝鮮時代の最初の地理誌は『慶尚道地理誌』(1425)(2)であるが、これは『新撰八道地理志』(1432)につながり、さらに『世宗実録』「地理志」(1454)に続いたためだ(3)。この中で、『慶尚道地理誌』と『慶尚道続撰地理誌』は現存しているので、この二つを比較してみることができる。
『慶尚道地理誌』には規式が「事目」という名前で載っていて、全13項目だ。この中で島に該当する「諸島」の項目がある。全12個の島嶼名が列挙されている。『慶尚道続撰地理誌』では「事目」が29項目に増加している。『慶尚道地理誌』(1)(4)と『慶尚道続撰地理誌』(2)の「島嶼」関連の規式を比較して見れば次のとおりだ。
 

(1)原文は「于山武陵二島在県正東海中〔二島相去不遠風日清明則可望見〕」だ。
(2)現存する『慶尚道地理誌』は、春秋館に送った最古本でなく慶尚道監営に保管していた副本で、『新撰八道地理誌』を作るための基礎資料として作られた。
(3)『慶尚道地理誌』は『慶尚道続撰地理誌』(1469)として補完されて出たし、『続撰地理誌』は『(続撰)八道地理志』(1478)につながった。1481年の『東国輿地勝覧』は、この『(続撰)八道地理志』を基本として成立したのだ。『東国輿地勝覧』は『新増東国輿地勝覧』につながり、『新増東国輿地勝覧』は後日の『東国文献備考』(1770)に続いた。
(4)(1)は『慶尚道地理誌』を略称するために筆者が便宜上付けた番号だ。(2)も同じ。
 
 

(1)諸島 陸地相去水路息数及島中在前人民接居農作有無開写事
陸地からの水路の息数(5)及び島中の人民の居住の有無と農作の有無を書くこと

(2)海島 在本邑某方水路幾里自陸地去本邑幾里四面周回相距幾里田〓幾結民家有無
本邑からの方向、水路、陸地(沿岸)から本邑までの距離、島の周りと距離、田畑、民家の有無を書くこと
 
上の規式は二つとも、島嶼を記述する時に陸地を基準とするものの本邑からの水路を書くように方針を定めた。この点は日本が指摘したとおりだ。ところが、問題は、『世宗実録』「地理志」のように「于山と武陵」という二島を共に羅列した場合があるのかだ。地理誌の規式を適用するなら、まずこの条件から合わなければならない。これを見るために、『慶尚道地理誌』と『世宗実録』「地理誌」の「島嶼」の記述を比較してみよう。例えば、慶尚道金海の二島(加徳島と馬島)は次の通り記述されている(括弧の中は『世宗実録』「地理志」の記述)
 
 加徳島陸地相去水路10里因倭寇荒廃
 (加徳島在府東水路十余里)
 馬島陸地相去水路150歩人民来往耕作
 (馬島在府東南水路一百五十余歩【人民来往耕作】)
 
上の記述を見れば、加徳島は金海の都護府から水路で10里離れたところにあって、馬島は金海の都護府から水路で150余歩離れたところにある島となっている。加徳島と馬島はいずれも陸地の本邑を基準に記述して、「陸地相去水路~里(あるいは歩)(6)という形式になっている。これは、島嶼の記述は陸地を基準として記述するのが規式だという日本の主張に符合する。
 
 
(5) 1息は30里。
(6) 10,800歩を30里、1(12.9km)と見ているので(ゲリー・レッドヤード著 チャン・サンフン翻訳2011 『韓国古地図の歴史』ソナム社p176)10里は約3600歩、1里は360歩だ。
 
 
 
『慶尚道続撰地理誌』は水路の他に本邑からの距離を追加している。そして、島嶼名や所轄区域が変わることになれば、地理誌は距離関係と水路も再び修正した。ところで、ここに共通点がある。それは、全ての地理誌が、一つの島嶼名を明記した後にその島嶼に関する内容を記述する形式になっているという点だ。換言すれば、ある島嶼の水路と陸路、方向、周囲などを記述する時、その条件は一つの島嶼に関してだけ記述しているという点だ。『世宗実録』「地理誌」の場合のように「于山・武陵」という二つの島嶼名を一つにまとめて記述した場合はない。これは、『世宗実録』「地理誌」の「于山・武陵」の記述方式が他の地理誌の記述方式とは違うという点を示唆する。
『慶尚道地理誌』でも全12個の島嶼名を取り上げ論じているが、12個の島に関する記述はそれぞれ一つの島についてだけ記述している。規式で「陸地相去水路息数」といっているのは、日本が主張するように陸地を基準とした水路を意味する。しかし、この場合も一つの島嶼名を取り上げ論じた後に陸地からの水路〔「陸地相去水路...」〕を記述したのであって、『世宗実録』「地理誌」のように「二島」を取り上げ論じた後に二島相互間の水路〔「相去二島水路...」〕を記述した場合はない。

(続く)

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Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
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