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「竹島の日」対応独島学術大会 だそうです

嶺南大学、日本「竹島の日」対応独島学術大会開催
嶺南大学独島研究所、日本論理の虚構性糾明


2021.02.18 プレシアン
https://n.news.naver.com/article/002/0002173866

クォン・ヨンヒョン記者(=慶山) 嶺南大学独島研究所(所長チェ・ジェモク)が韓国海洋水産開発院(院長チャン・ヨンテ)と共同で、来る19日春季学術大会を非対面テレビ会議で開催する。島根県竹島問題研究会第16回「竹島の日」(2月22日)特別展示会を控えて今回の学術大会が注目されている。
  今回の大会は、近代期の日本官撰文書に現れた独島認識を客観的で法理的に分析して、日本政府の独島主張と島根県竹島問題研究会の主張を批判する場になる予定だ。日本の独島領有権主張は、2005年のいわゆる「竹島の日」制定後、攻勢の程度を高めつつある。 最近、茂木敏充外相は定期国会の外交演説で「竹島(独島)は歴史的事実に照らしても国際法上でも日本固有の領土」として独島妄言を繰り返した。
  この日の学術大会では、▲イ・ソンファン教授(啓明大学日本学科)が[太政官指令と独島問題に対する法理解釈のための試論]発表を始め、▲シム・ジョンボ教授(西原大学社会教育科)が[日本明治時代の地誌及び地理教科書付属地図の中の独島]、▲パク・ヨンギル博士(韓国海洋水産開発院独島・海洋法研究センター長)が[日本明治時代官撰文献の中の独島認識と国際法的解釈]、▲パク・ジヨン教授(嶺南大学独島研究所)が[「公文録」・「太政類典」を通じて見る1877年太政官指令の性格と意味]、▲ソン・フィヨン教授(嶺南大学独島研究所)が[明治時代官撰文献の中の鬱陵島・独島の取扱い]、▲イ・テウ教授(嶺南大学独島研究所)が[巨文島・草島の人々の鬱陵島・独島渡航と独島の永続的経営]という主題で発表する。
  チェ・ジェモク嶺南大学独島研究所長は、「今回の学術大会は、近代日本の官撰文書を通じて日本の独島固有領土論の論理の虚構性糾明と韓日関係の解決法を模索するために用意された」として、「日本の独島歪曲主張の実状を徹底して分析して、これに対する私たちの対応策用意のための契機になるように願う」と明らかにした。


<コメント>
 はあ、「太政官指令と独島問題に対する法理解釈のための試論」ですか。太政官指令大好きの第一人者になっちゃったイ・ソンファンさんが、またまたどんな屁理屈をひねり出したのかな。『独島研究』の6月号に載るだろうか。




 
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(再掲) 再考 SCAPIN677 第6項

  これは https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-3376.html の記事の再掲で、もとの記事は一部間違いがあったので加除訂正をしたのですが、そのままでは読みにくいので、加除訂正後の浄書版を書いておきます。内容は前回の記事と同じです。

             * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号
1946年1月29日

1 日本国外の総ての地域に対し、又その地域にある政府役人、雇傭員その他総ての者に対して、政治上又は行政上の権力を行使すること、及、行使しようと企てることは総て停止するよう日本帝国政府に指令する。
2 日本帝国政府は、巳に認可されている船舶の運航、通信、気象関係の常軌の作業を除き、当司令部から認可のない限り、日本帝国外の政府の役人、雇傭人其の他総ての者との間に目的の如何を問わず、通信を行うことは出来ない。
3 この指令の目的から日本と言う場合は次の定義による。
  日本の範囲に含まれる地域として
    日本の四主要島嶼(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含む約1千の隣接小島嶼
  日本の範囲から除かれる地域として
   (a)欝陵島、竹島、済州島。
   (b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。
   (c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島。
4 更に、日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域は次の通りである。
  (a)1914年の世界大戦以来、日本が委任統治その他の方法で、奪取又は占領した全太平洋諸島。
  (b)満洲、台湾、澎湖列島。
  (c)朝鮮及び(d)樺太。
5 この指令にある日本の定義は、特に指定する場合以外、今後当司令部から発せられるすべての指令、覚書又は命令に適用せられる。
6 この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。
7 日本帝国政府は、日本国内の政府機関にして、この指令の定義による日本国外の地域に関する機能を有する総てのものの報告を調整して当指令部に提出することを要する。この報告は関係各機関の機能、組織及職員の状態を含まなくてはならない。
8 右第7項に述べられた機関に関する報告は、総てこれを保持し何時でも当司令部の検閲を受けられるようにしておくことを要する。


 この第6項の意味については、一般に、「第6項では、この指令はポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定ではないことが明記されている」というふうに説明される。私も、竹島問題を調べ始めたころはそういうふうに思っていたのだが、実はどうもそうではなさそうだ。
 
 SCAPがこの指令はポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定ではないことを言いたかったのならば、はっきりとそのように書けば良かっただろう。例えば、「6 この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定ではない。」というふうに。ところが実際はそうではなくて、「ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」と言っている。「最終的決定」と解釈してはならないのではなくて「最終的決定に関する連合国側の政策を示すもの」と解釈してはならないということになっている。ちょっと違うんですよね。

  英文の第6項は「Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.」であり、「indication」の意味を辞書で引けば、指示、暗示、指摘、しるし、兆候、気配、証拠というような訳語が書かれている。

  「indication」の意味からすれば、「an indication of Allied policy」とは「連合国の政策の兆候」、すなわち領土の最終的決定に関する連合国の「意図」、「心づもり」、「内心の考え」というような意味なのだろう。つまり、第6項は、「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の意図(あるいは内心の考え、予定、基本的な考え方、方向性)を示すものと解釈してはならない。」ということになる。言い換えれば、「連合国は後に行う日本領土の最終的決定において、このSCAPIN677で区分しているように日本の区域を定めるつもりだと誤解するなよ」ということです。
 
  そうすると、この第6項は、「ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定というものは、このSCAPINとは別に存在する」という論理を当然の前提にしていることが分かります。「最終的決定というものは別にあるのだが、その内容がこのSCAPIN677のようになるだろうなんて勝手に推測するなよ」と言っているわけです。
  そもそも、当時の関係者は、SCAPINで「ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定」をするなんてことは、誰も考えていなかったでしょう。領土の最終的決定は国と国との講和条約によるのだ、というのは当時の関係国首脳、関係行政官、占領関係者たちの常識だったはずです。まあ、そういうことを日本国民大衆も常識として広く知っていたとは言えないにしても、理論的には自明のことです。そういう理論的に自明なことをSCAPIN677にわざわざ書き込むというのは、法令文としてはちょっと変なことです。だから「この指令は領土処分の最終的決定ではない」という当然のことは書かれませんでした。
  
  また、仮に、SCAPIN677に「この指令は領土処分の最終的決定ではない」と書いたとすると、それで万事OKかと言うと、そうでもないのです。そう書いてあれば、それを読んだ者はどう考えるか。「うん、これは最終的決定ではないということだが、そうは言っても、こういうふうに日本を分けたということは、結局、最終的にこういうふうにするつもりなんだろう」と考える者が発生することを防ぐことができません。第6項は、そういう見当違いの予断による人々の混乱や「結局、あそこの島々は外国に取られてしまうことになるんじゃないか」というような不安の発生を防ぐために必要であったはずです。だから第6項は、「最終的決定がこのSCAPIN677のようになるだろうなんて考えるなよ。それは全く別の話だよ。」という意味のことを規定したのです。

  まあ、SCAPIN677は既に何十年も前に役割を終えたものだから、その第6項の意味も今となってはどうでもいい話です、本来は。ところが、広く知られているとおり、竹島問題において韓国のおバカ研究者たちが「独島はSCAPIN677によって韓国の領土になった」などという妄言をまき散らすので、その間違いを指摘するために日本側としてもSCAPIN677に言及することが必要になっています。
  韓国側のこの妄言に対して、日本側からは、普通、「SCAPIN677は領土処分の最終決定ではない」ということと、「そもそも領土処分の最終決定は講和条約によるのであって、SCAPINは領土処分と関係が無い」という指摘が行われます。この二つは実質的意味としては同じことですが、より本質的な言い方は後者のほうです。領土処分の最終決定は講和条約によるのであって、SCAPINに領土処分の効力は無いから、当然SCAPIN677は領土処分の最終決定ではあり得ないという関係です。ただ、「第6項にこの指令は最終決定ではないと書いてある」というように第6項を持ち出すと、それはちょっと違うということになるようです。韓国側へ反論するに当たって第6項は使えないと思います。

  結局、「独島はSCAPIN677によって韓国の領土になった」というバカ話に対する適切な反論は、「SCAPIN677は占領のための暫定措置であって領土処分とは全く関係が無い。SCAPIN677が領土処分を行ったものだと言い張るならば、SCAPIN677がそういう法的効力を有することを国際法で証明せよ」ということでしょうかね。シン・ヨンハ大先生でも証明不可能でしょうけど。

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国際司法裁判 単独提訴論

 今日は竹島の日だった。島根県のホームページに事前広報資料として「竹島の領土権の早期確立を求める特別決議」の案文が掲載されている。
https://www3.pref.shimane.jp/houdou/uploads/153730/134230/7861e619b04560347950b33e99a7e9ff.pdf

 たぶんこの案文のとおり決議されたのだろうが、その中に「3.領土権の早期確立に向け、国際司法裁判所への単独提訴を含め外交交渉の新たな展開を図ること。」とあるのはどうなのかなあ。 「外交交渉の新たな展開」は大いに必要なことで、最近の日韓関係情勢では何かやれそうな雰囲気が無きにしも非ずだと思うが、「国際司法裁判所への単独提訴」というのはどういう成算があってのことなんだろう。

 普通に考えれば、単独提訴しても韓国は受けないから不発に終わる。そうすると、将来再び竹島問題を国際司法裁判で解決しようとするときに、韓国政府から「裁判の件はあのとき決着した。日本は同じことを蒸し返すな」と言われてしまう。裁判に応じさせることが今現在よりもさらに難しくなる。提訴は、現実問題としては一回しかできないのではないか。だから単独提訴はすべきではないと思うのだが、外部の者には分からない成算が何かあるのだろうか。私が知っている限りの竹島問題の動きから言えばだが、国際司法裁判は韓国が受けるときにだけ使うべきで、韓国が受けざるを得ないように持って行くのが政府の外交の腕の見せ所だと思う。












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「独島を韓国領と認める」日本古地図200点

独島 「大韓民国領土」と認める日本古地図200点余り確認

2021.02.19 世界日報
https://n.news.naver.com/article/022/0003554062



202102195096.jpg
大韓民国国境線の内側に独島が描かれた日露清韓明細新図(1903) 独島財団提供


  日本自ら「独島が大韓民国領土」であることを認める古地図約200点余りが確認された。これは慶北道支援機関である独島財団が、昨年、東北アジア歴史財団、国土地理情報院地図博物館、国会図書館、国立海洋博物館、独島博物館、ソウル大学奎章閣韓国学研究院、嶺南大学博物館、国立中央図書館、ソウル大学図書館で所蔵されている古地図約1000点余りに対する現況調査資料を基に分析した結果だ。
  19日、独島財団によれば、財団は各機関が独島と関連するどのような古地図を所蔵しているかを調査して、これをDBとして構築して今後の独島関連の東洋・西洋の古地図収集と教育広報及び学術研究などの活動を効率的に支援するための目的で現況調査を実施した。
  今回の調査で独島が大韓民国領土に描かれた約200点余りの日本製作の古地図を分析して見れば、民間で作った私撰地図ではなく日本政府が製作した官撰地図として朝鮮全図(1894陸軍参謀局)、日露清韓明細新図(1903帝国陸海測量部)、尋常小学国史絵図・下巻(1929文部省)、地図区域一覧図(1941陸地測量部)など数十点余りが把握された。
  このように国家の公式立場が反映された官撰地図は合法的で正当な証拠資料となり得る法的な力を持っているだけに、国家間の領有権問題で決定的資料となる。特に、日本は1905年島根県告示を通じて独島が自国の領土に編入されたと主張している。しかし、1905年以後製作された中国地方(1908文部省)、日本交通分県地図(1925大阪毎日新聞)、島根県地図(1938ワラジヤ出版社)、島根県地図(1951日本地図株式会社)など日本、島根県地図を見れば相変らず独島は含まれないまま製作されている。これは、島根県告示40号が日本の主張とは違って対外的に告示されなかったことを意味する反証だ。

20210219509611.jpg
 独島が描かれていない日本島根県地図(1908) 独島財団提供

  独島財団は、今後、現況調査資料を基に独島の位置及び形態、島の名称、製作年度別、製作国家別など多様な分析を通じて持続的に研究結果を発表する方針だ。シン・スンシク独島財団事務総長は、「独島研究にあって、当代の人々の領土及び地域認識が反映された古地図は領有権問題に重要な証拠資料になる」とし、「このような地図を通じて、独島が歴史的、地理的、国際法的に大韓民国の領土という事実を立証していく」と話した。



<コメント>
 今後「独島の位置及び形態」も分析して見るということだから、何か分かるといいねー。

 編入後の竹島が書かれていない地図ってのはあるでしょうね。地図製作者でも竹島のことを知らない人はいたということ。



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竹島論争~半月城式まとめ(11)

10. 結び
  日本で竹島/独島に関する論文や論説を最も多く書いた研究者は下條正男だ。下條が書いた論文・論説の特徴は、自己主張を何の説明もなしでしばしば変更することだ。下條は1877年太政官指令に対する見解を4度も変えた。また、1900年大韓帝国勅令第41号に記載された石島の比定を4度も変えて定見がない。下條はその時ごとに思いつくまま文章を書いたのか、変更の理由をほとんど明らかにしなかった。下條は「学問的営為」が疑われる。
  一方、「不要・不当な混乱を議論の場に持ち込んだ」として池内敏から「学問的営為」を疑われているのが塚本孝だ。塚本も重要な論点を多数変えた研究者であるから、彼の文を引用する時は気を付けなければならない。塚本は、①当初は竹島[独島]を無主地と見て、竹島[独島]は日韓いずれの国においても古来の領土ではなく、国際法上は無主地だったと主張した。しかし、2017年には日本は17世紀に竹島[独島]に対する歴史的権原を有していたと見解を変えた。また、②1877年太政官指令が本邦[日本]と関係ないと指令した「竹島外一島」に関し、当初は竹島は鬱陵島であり「外一島」は松島[独島]だと主張した。しかし2011年には主張を変えて、島根県がいう「竹島外一島」は鬱陵島と松島[独島]だったが、政府では竹島は鬱陵島、「外一島」も鬱陵島と認識した可能性があるとした。さらに、③1900年大韓帝国勅令第41号の石島に関して、当初は石島を独島と見なした。 しかし、2016年には、勅令第41号原文にあるのは石島であり、これを独島と関連させるのは韓国政府の解釈に過ぎないと主張した。このように、塚本は過去の自己の主張を変えて外務省の主張を支持している。したがって、塚本が外務省見解の「穴埋め」をしているという池内の評も一理あるようだ。
  そのような塚本の姿勢を池内敏が厳しく批判したことは既に紹介したが、批判はそれだけではなかった。池内は塚本の前の見解②に対して、「誤読の余地が全くない容易な史料にもかかわらず曲解を繰り返す人々はなくならない」、「松島(竹島[独島])が17世紀以来引き続き日本領土だったと主張したい人々に、この太政官指令は容認できない史料だ。そのために、この史料がいう‘竹島外一島’の‘外一島’は松島ではないということを繰り返して強弁する」、「[これらの]‘論証’からは確かに体面を気にしない必死の覚悟が伝わる。しかし、これは、例えば史料解釈には手順があることや、史料が自ら明らかにするところを無視して自分の解釈を優先してはいけないという、史料読解の基本を欠如した‘体面を気にしない必死の覚悟’だ」(注96)と批判した。このような批判から「不必要・不当な混乱を議論の現場に持ち込んだ」とする塚本に対する池内の怒りを感じることができる。


(注96) 池内敏 2016 前掲書 p114-118

  池内の批判は塚本の「松島渡海許可」説にも向けられた。この説は川上健三の「松島渡海免許」説を手直ししたものだが、もしこの説が成立するならば、これは塚本自身がかつて無主地と考えた竹島[独島]に対して日本が原始的権原を持つことにもなって、外務省がいう「日本は17世紀に竹島[独島]に対する領有権を確立した」という主張の役に立つだろう。
  このように「幕府の許諾・公認があったことをどうしても主張したい心が先んじた」ように見える塚本の主張に対して、池内は「暴論」と結論付け、「歴史の事実は史料を基に確定しなければならない」と批判した。ここでも塚本の主張は池内により否定されたのだ。
  さらに、池内の塚本批判は天保竹島渡海禁止令にも向かった。塚本は、この禁止令は松島(独島)への渡海は何の問題もなく、相変らず日本領土と考えられてきたと主張した。これに対して、池内は、天保竹島渡海禁止令が元禄期の禁止令を基礎にしたので禁止令は松島への渡海を内包していると主張した。しかし天保期の幕府は元禄竹島渡海禁止令を誤解していたし、池内の論証は充分ではなかった。この弱点を朴炳渉が補完した。天保期の幕府は松島も日本所属でないことを十分に調査した後に竹島渡海禁止令を下したのだ。これを視覚的に表わした史料が評定所関係者が作成した朝鮮竹島渡航始末期の付属地図<図3>で、そこには竹島・松島が朝鮮領土として描かれている。
  以上のような批判に対して、塚本の本格的な反論は殆どない。このために池内敏の主張がだんだんと説得力を持っている。しかし、池内論文の信頼性は近世及び近代初期日本史に限定される。 その後の日本の歴史や朝鮮史に関しては、木村幹が批判したように問題が多い。その一つの例が大韓帝国勅令第41号に対する解釈だった。池内は韓国政府が音韻変化説を基に石島を独島とする主張を謬論と見たが、最近では、朴炳渉が提示した日本外務省の『竹島漁業の変遷』にある奥村亮の証言などを基に、勅令第41号の石島は独島である可能性が大きいと主張を変えた。これは注目される変化だ。
また、池内の光復(解放)後に関する研究にも問題が多い。特に、SCAPIN条項の解釈やサンフランシスコ講和条約の成立過程などに関する解釈には誤解があって、これを基に組み立てた主張には問題がある。
  一方、サンフランシスコ講和条約に関しては塚本の論文が多数あるが、塚本や池内は「ダレス電文」や「ビョン・ヨンテ書簡」など重要な資料には言及しないでいる。そのために、彼らはあたかも「ラスク書簡」がサンフランシスコ講和条約にそのまま反映されたように主張しているが、これは、まず「ダレス書簡」で否定される。次に、朴炳渉によれば、「ビョン・ヨンテ書簡」によって講和条約調印後にも独島に関する韓米協議が進行中であったことが明らかで、その間にアメリカは独島に関して結論を出すことができず、英国との協議もできなかった。したがって、連合国は独島に関して何の結論も出さないままサンフランシスコ講和条約を批准したのだ。
  同条約で独島について何も決定されなかったとすれば、韓日両国が独立した時点の国境は国際法上のウティ・ポシディティス原則、すなわち「行政区画線の継承」の原則により決定されると朴炳渉は主張した。韓日両国のそれぞれの独立時点において、独島はSCAPIN-677の関連地図<図4>に見るように韓国の行政所轄区域と規定されていた。したがって独島(ドクト)はウティ・ポシディティス原則により韓国の所属になる。また、その間韓国は独島に「独島漁民遭難慰霊碑」を立てるなど行政措置を取った反面、日本は法令で独島を行政所轄区域から除外し、実質的にも独島は韓国の行政所轄区域中にあった。
  最近、日本での独島研究は研究者間の激しい論争を通じて日進月歩で発展して、次第に独島/竹島問題の論争が収束する兆しが見えている。同じように、韓国の独島研究も日進月歩に発展した。十年余り前、内藤正中は韓国の独島研究は日本の文献を軽視した一国主義だと批判したが、今はそのような批判がない。韓日両国で学術情報の疎通が少しずつ進んだ結果、勅令第41号の解釈で見ることができるように両国間の見解の違いも少しずつ狭まった。将来、独島/竹島に関する両国研究者の主張がほとんど一致する日が来れば、独島問題を解決できる重要な第一歩になるだろう。もちろん「学問的営為」が疑問視される研究者の主張は除外される。

(終)


2000年以後の独島/竹島関連日本学界の歴史学研究
朴炳渉/日本竹島=独島研究ネット
嶺南大学独島研究所『独島研究』 第29号(2020.12.30) p43



<コメント>
 うん、まあ、池内さんや朴炳渉さんが何を言おうと、日本の竹島領有権には何の影響もないのですよ。研究が進むに従ってはっきりするのは、韓国側の主張があれも成立しない、これも成立しないということです。

 「もちろん学問的営為が疑問視される研究者の主張は除外される」ってね。そりゃそうだ。この論文(?)のような主張が一番に除外されるよ。











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竹島論争~半月城式まとめ(10)

9.2 サンフランシスコ講和条約に関する論争
  サンフランシスコ講和条約は、第2条(a)で「日本国は朝鮮の独立を承認し、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定して、独島には言及しなかった。この条約に関し、池内は、「条約で竹島[独島]は日本領土という意を含んでいることは、アメリカの説明にもあるように非常に明快だ」と主張した(注88)。彼がいうアメリカの説明は、「ラスク書簡」(1951.8.10)と「バン=フリート報告書」(1954)を指す。
  「ラスク書簡」は、駐米韓国大使ヤン・ユチャンが対日平和条約草案で日本が放棄する島に独島を明記するように要請したのを拒否した、アメリカ国務次官補ラスク(Dean Rusk)の書簡だ。池内は、ラスクの判断がそのままサンフランシスコ講和条約に反映されたと解釈した。また「バン=フリート報告書」は独島(Dokto Island)に関し、「合衆国は独島を日本領土だと考えるが、紛争に対する介入は拒否した」と記録した。これに対して、朴炳渉は次のとおり池内の問題点を指摘した(注89)。池内は、1951年6月に英米両国が対日平和条約の共同草案を作成した後はアメリカだけが草案を修正して最終草案を作成したと見たので、「ラスク書簡」に現れたアメリカの独島認識がそのまま条約で決定されたと考えるが、これは明確に誤解だ。英米両国は6月の後にも緊密に協議したし、アメリカは共同草案を修正する時、必ず英国の同意を得て最終草案を作成した。
  ところが、独島を日本領土と見るアメリカ見解は、1953年12月9日付「ダレス電文」が明らかにしたように多くの条約署名国家の中のアメリカ一国の見解に過ぎない。特に共同草案の作成当事者である英国は、独島を日本領土外と判断して独自の最終草案を作成していた。したがって、アメリカが条約で独島を日本領土と規定するには英米両国が協議して共同草案を修正する必要があった。しかしそのような作業はなく、英米両国は独島に対する考えが交錯したまま条約が調印された。したがって、サンフランシスコ講和条約には独島が日本領土であることが内包されているという池内の主張は成立しない。


(注88) 池内敏 2016 前掲書 p229
(注89) 朴炳渉 2016b 前掲文 p320

  塚本孝も「ラスク書簡」を根拠に、「日本領土としての竹島[独島]の地位には第二次世界大戦後も変動がなかった」(注90)と主張した。しかし、塚本は独島がSCAPIN-677により日本国の定義から除外されたことを無視するが、独島の地位には変動があった。また、塚本は「ラスク書簡」に反論した「ビョン・ヨンテ書簡」に対しては何の言及もない。「ビョン・ヨンテ書簡」を引用して朴炳渉は次のとおり主張した(注91)。韓国は「ラスク書簡」の内容を受け入れたのではなく、もちろんこれに反論した。1951年9月21日付「ビョン・ヨンテ書簡」は、韓国の独島領有の正当性をアメリカ政府に主張した。このように、独島に関する限り英米協議は進行中であり、その間アメリカは独島に関して最終結論を出すことができなかった。もちろん最終共同草案作成でも、英国と独島に関して協議をしなかった。
  したがって、英米両国は、独島を日本領土と見る米国と日本領土外と見る英国の見解が交錯したままであった。そのような状況の中で、連合国は、ダレス電文が明らかにしたとおり独島に関して何の結論も出さないまま条約を発効させた。したがって、サンフランシスコ講和条約自体からは独島に関して何の解釈も導き出すことはできない。

(注90) 塚本孝 2016 前掲文 p62(97)
(注91) 朴炳渉 「サンフランシスコ講和条約から洩れた論争中の島々」 『北東アジア文化研究』 第43号 2017a p31

  結局、SCAPIN-677によって暫定的に日本国の定義から除外された独島は、サンフランシスコ講和条約の影響を受けなかった。それなら、日本政府は独島がSCAPIN-677で日本の領域から分離された現象を条約発効後にも留保するほかはなかった。そのために、竹島(独島)を日本の島嶼外と規定した日本の法令を講和条約後もそのまま維持した。それだけでなく、日本政府は新しく「接収貴金属等の数量等の報告に関する法律」を1952年8月5日に制定して、この施行令である「大蔵省令99号」で竹島(独島)を日本の付属島嶼に含まないと公布した(注92)。

(注92) 朴炳渉 「サンフランシスコ講和条約後の日本の竹島=独島政策」 『北東アジア文化研究』 第42号 2016c p22

  このような政策は、ウティ・ポシディティス(uti possidetis)の原則に当たる。このウティ・ポシディティスはラテン語であり、英訳すれば「as you possess」であるが、この用語は解釈が拡大、変質して、最近では「行政区画線の継承」という意味で使われる。この原則により、歴史的に中南米諸国が植民地から独立する当時の行政区画線が国境線になった。最近では、ソ連が解体して各国が独立する時、その時点の行政区画線が国境線になった。各国は独立する瞬間の既存の行政区画線を継承したのだ。
  朴炳渉は、この原則を韓国及び日本の独立に対して次のとおり適用した(注93)。韓国の独立は1945年8月15日であり、その瞬間の韓国の行政所轄区域は<図4>に表示されたとおり独島を含む区域だった。ただし、この区域は旧日本帝国の領域だったから、韓日間の境界は最終的に対日平和条約で決定されなければならなかった。しかし、サンフランシスコ講和条約は独島に関して何の決定もしなかった。
  一方、日本の独立はサンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日だが、その瞬間の日本の行政所轄区域は、SCAPIN-677等によって規定されたように独島は日本国から除外されていた。また、日本政府自身も大蔵省令第4号(1951.2.13) (注94)、総理府令第24号(1951.6.6) (注95)等で竹島[独島]を行政所轄区域から除外して、独立後もその政策を維持した。このように、日本が独立した瞬間、韓日両国間の行政管轄境界は<図4>に表示されたとおり独島は韓国の行政所轄区域の中にあった。したがって、日本が独立する瞬間、右のウティ・ポシディティス原則を適用すれば独島は韓国領土となる。また、実際にも韓国は独島に「独島遭難漁民慰霊碑」を建設するなど行政措置を及ぼしていた。

(注93) 朴炳渉 「独島領有権に対する歴史・国際法の学際間研究」 2019 p32-36(下記のサイト)。 この論文は、「朴炳渉 「独島領有権に対する歴史・国際法学際間研究」 『獨島研究』 27号 2019 p7-72」を翻訳したものだ。 http://www.kr-jp.net/ronbun/park/park-1912j-int.pdf
(注94) 「旧令による共済組合等からの年金受給者のための特別措置法[1950.12.12]第4条第3項 の規定に基く付属の島を定める省令」
(注95)「朝鮮総督府交通局共済組合の本邦内にある財産の整理に関する政令[1951.3.6]の施行に関する総理府令」



<コメント>
 ふふ、こういう屁理屈で誰を騙せると思っているのだろうか。まあ、韓国人の中にはこういうことを信じたい人もいるでしょうけどね。

  半月城氏は、ダレスさんが「竹島についての米国の見解は、単に条約の多くの調印国の見解の中の一つである」と言ったことを手掛かりとして、「英米両国は独島に対する考えが交錯したまま条約が調印された。」と言うが、違いますよ。英米協議の結果として最終の朝鮮条項案は出て来たのだから、英米の考えは一致しているんだって。意見が一致しないで最終草案が出て来るわけない。

  サンフランシスコ講和条約の締結過程で竹島がどのように扱われたのかということに関しては、最新の研究が『島嶼研究ジャーナル』10巻1号に掲載されている。
「サンフランシスコ平和条約における竹島の取扱いについて」(藤井賢二)
http://www.naigai-group.co.jp/_2020/12/101.html
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 この論文で明らかにされたところによれば、「竹島は日本領に残す」というアメリカの方針はイギリスにも伝えられていて、そういうことも踏まえて行われた英米合同草案作成作業では、「双方の代表団は日本が主権を放棄する領域だけを挙げる方がよい旨合意した」上で最終草案(朝鮮の範囲を「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と表現したもの)を作成したということだ。アメリカの「竹島は日本領に残す」という方針に対してイギリスが何か言ったと言う記録なんて何もない。竹島日本領は英米の合意事項ですよ。

 なお、ダレス電文については過去に意見を書きました。
1953年 竹島に関するダレスの秘密電文(2) https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-1702.html

  ウティ・ポシディティス原則がどうのこうのという話も書いてあるが、見てのとおり、それはSCAPIN677で日本の領土が変更されたというおバカな解釈の上に立っているのだから、全く成立しない謬論です。笑い話と言っていいでしょう。

  それから、「ビョン・ヨンテ書簡」が何だって? ビョン・ヨンテ書簡は、講和条約で竹島(独島)が日本領になったことを韓国政府が分かって、それに不満を言っただけのものでしょ。権限のある者が所定の手続きを経て決定したことに対して、不満を言ってもいいが、要するにそれは単なる不満です。
 
 ビョン・ヨンテ書簡に関しても、過去に意見を書いたことがあります。
ラスク書簡に対する韓国政府の反応(3)
https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-1233.html



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竹島論争~半月城式まとめ(9)

9. SCAPIN-677とサンフランシスコ講和条約
9.1 SCAPIN-677に関する論争
  1946年1月、連合国最高司令官(SCAP)総司令部(GHQ)は、日本周辺の若干の地域を政治的及び行政的に分離する指令SCAPIN-677を日本政府に下した。この指令3条でリアンクール岩(独島)、クリル(千島)諸島、小クリル(歯舞、色丹)諸島などを「日本国」という定義から除外した。
  このSCAPIN-677に対して日本では誤解が多いが、朴炳渉は次の通り指摘した(注83)。池内敏は、この指令によって「日本領域の特定地域に対して日本政府の政治的あるいは行政上の権力行使ないし行使の企図が停止された。この特定地域の中に竹島[独島]が包含されている」(注84)と書いた。この見解は川上健三の見解と全く同じだ(注85)。しかし、SCAPIN-677は「日本領域の特定地域」に適用されるのではなく、「日本国外の地域」に適用すると第1条に規定されている。池内や川上は第1条から誤解している。また、池内や川上は竹島[独島]を「日本領域の特定地域」と見たが、独島は第3条で日本国という定義から除外された島であるから「日本領域」ではなく、したがって彼らの解釈は誤りだ。
  一方、塚本孝は、「韓国側の‘連合国軍総司令部覚書によって竹島[独島]は日本領土から除外された’という主張は誤りだ」(注86)と主張した。これに対して、朴炳渉は、独島がSCAPINによって「日本国」という定義から除外されたとすれば日本領土ではなくて、実際、SCAPIN-677で規定された日本国の範囲を現わすSCAP作成地図「SCAP管轄区域、日本と南部コリア(South Korea)」<図4>で「TAKE」(独島)は「南部コリア(South Korea)」の区域に含まれたと反論した(注87)。ただし、SCAPIN-677は第6条で、「この指令中の条項は、いずれもポツダム宣言第8条で言及された小島の最終的決定に関する連合国の政策を表わすものと解釈されてはいけない」と規定している。日本領土の最終決定は対日平和条約で決めることが原則であり、SCAPINはその時まで有効な指令だ。

(注83) 朴炳渉 2016b 前掲文 p316-317
(注 84) 池内敏 2016 前掲書 p191
(注85) 川上健三 『竹島の歴史地理学的研究』 古今書院 1966 p249
(注86) 島根県竹島問題研究会 2014 前掲書 p98
(注87) 朴炳渉 「サンフランシスコ講和条約と千島・竹島=独島問題」 『北東アジア文化研究』 38号 2014 p45-47



<コメント>
  この項はあからさまな間違いで、半月城氏としては大恥の文章だねえ。SCAPIN677を調べた専門家なら誰でも川上さんや池内さんのように解釈するのだよ。一人でアホウなことを言っていなさい。

 SCAPIN677は日本(大日本帝国)の領域のうち、当面これまでどおり日本政府に統治させる区域と日本政府の政治・行政権を停止させる区域を分けるために出された指示であり、それぞれの区域を「日本」と「日本外」と定義したに過ぎない。(こんなことは書くまでも無いよなあ。) 半月城氏はその「日本」と「日本外」を国の領域としての日本、日本外だと勝手に思っているだけのこと。

 そんなことを言うには、まずSCAPINというものに領土の決定権があるという理論(そんなものはないが)を証明しなさいって。

 なお、最後の1行で何か普通のことを書いてあるように見えますがね、これは後で屁理屈を言うための伏線です。

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竹島論争~半月城式まとめ(8)

2000年以後の独島/竹島関連日本学界の歴史学研究
朴炳渉/日本竹島=独島研究ネット
嶺南大学独島研究所『独島研究』 第29号(2020.12.30) p43


 一方、勅令第41号になぜ于山島の名が無かったのかという疑問に対して、朴炳渉は次のように主張した(注77)。于山島は「鬱陵島争界(元禄竹島一件)」以後に海禁・捜討政策が続く中で、その位置や存在がますます曖昧になった。1882年、鬱陵島検察使李奎遠は王命を受けて于山島を探索したが確認できなかった。彼は鬱陵島民から于山島や松竹島というのは近辺にある小さい島だとだけ聞いて、船で鬱陵島を一周した。また、高いところに上がって周囲を眺めたが于山島は発見できず、竹島(デッソム)と島項(ソムモク、観音島)を確認しただけだった。また、鬱陵島に住む朝鮮人と日本人たちが1900年ごろに共同で于山島を探索したが発見できなかった。さらに1913年にも于山島探索計画があったが、前の于山島探索が失敗したことが分かって計画は中止された。このように、官撰書にしばしば記載された于山島は、大韓帝国時代には所在が分からない伝説の島になってしまった。このため、所在の分からない于山島は勅令などの法令に掲載することができなかった。代わって、実在が確認されたトクソムが勅令に石島表記で記載されたのだ。
 以上のような論証を考慮したのか、池内は、「石島=独島」説は「とうてい成立することのできない謬論」という見解を修正した。彼は「トルソム(石島)-トクソム(石島/独島)-ドクト(独島)という音韻変化説は客観的で文献的な傍証」(注78)が現れたと主張した。池内が取り上げた文献は奥村亮の証言を記録した上の『竹島漁業の変遷』だ。また、池内は「勅令第41号の石島はどの島である可能性が一番高いと考えられるのか? という質問に対して、そういう質問を受ければ竹島[独島]だと答えるほかはない」と答えた(注79)。


(注77)前掲文p53-54
(注78) 池内敏 『日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか』 (講談社 2017) p242 ; 池内敏 「竹島(独島)の活用実態と領有権」 『獨島研究』23号 (2017) p278
(注79) 朴炳渉 「【書評】池内敏 竹島―もうひとつの日韓関係史」 (朝鮮史研究会会報 209号 2017b) p23-24

 これは画期的な変化だ。池内は独島問題において影響力が大きい歴史学者であるから、この話は注目を浴びた。下條正男はこの件を「韓国側の隠れた宣伝工作」と見て、次のように述べた。

 韓国側の隠れた宣伝工作だけは巧妙に行われている。 [池内の2016年書籍に対する]書評を書いた朴炳渉氏は、朝鮮史研究会5月月例会(2017.5.20)で池内氏に「勅令第41号の石島はどの島である可能性が最も高いのか?」と質問すると、池内氏は「勅令の石島は竹島=独島だと答えるほかはない」と回答したと書評の最後に特記した。しかし、それは池内氏らしい回答であり、石島は島項(観音島)であって独島ではない。朴炳渉氏は『朝鮮史研究会会報』の書評欄を利用して「勅令の石島は竹島=独島」というプロパガンダを行ったのだ(注80)。

 かつて池内は、「1900年10月時点で大韓帝国政府として竹島/独島に対する領有意思が明示されたとは見るのは難しい」、「竹島/独島は‘我が国固有の領土’という日本側、韓国側いずれの主張も決定的なものだと言うことはできない」(注81)と主張した。この主張を土台にして、中野徹也は日本の独島に対する無主地先占論を主張した(注82)。ところが、土台となる池内の見解が基本的に変わったとすれば、中野の検討は無駄になることになる。今後、池内の変化が日本でどんな影響を与えるのか注目される。

(注80) 下條正男 「実事求是 第51回 慶尚北道独島史料研究会編 竹島問題100問100答批判2 に対する批判(1)」 (2017年12月21日掲載) https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/jitsuji-51.html
(注81) 池内敏 「竹島/独島論争とは何か」 『歴史評論』 第733号(2011) p26及び31
(注82) 中野徹也 「1905年日本による竹島領土編入措置の法的性質」 『関西大学法学論集』 61 巻 5号 (2012) p144-156


<コメント>
 
 「代わって、実在が確認されたトクソムが勅令に石島表記で記載されたのだ。」って言ったって、独島は于山島だったんでしょ? だったら、トクソムの実在が確認されたというときに、何で「これが于山島だ」ってならなかったのかな。というか、そもそも1900年の勅令41号制定前に韓国政府が竹島(独島)を認知したっていう証拠を挙げるべきですよ。

 それから、「今後、池内の変化が日本でどんな影響を与えるのか注目される」んですかね? 池内さんが何をどう言おうと、日本の竹島領有権に対して格別影響を与えることはないですよ。






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「日本の独島歪曲歴史対応の映像」だそうです

独島愛運動本部、日本の独島歪曲歴史対応の映像をユーチューブ公開

2021-02-17 慶北日報
https://www.kyongbuk.co.kr/news/articleView.html?idxno=2068440


2068440_490515_0720.jpg
それが知りたい。日本の独島歴史歪曲の現場を告発する。第一弾、韓国の鬱陵島 隠岐島(隠岐の島町)に行って来た。

 (社)独島愛運動本部(総裁ウォン・ヨンソク)は、22日の日本「竹島の日」を控えて、日本の独島歴史歪曲に正面対応する映像5編をユーチューブ ドクハンTVで公開すると16日明らかにした。ドクハンTVは、日本で強行されている独島歴史歪曲の現場3ヶ所(隠岐島、島根県、東京)の実態告発取材文3編と、保坂祐二教授との対談、独島の新しい立証資料取材など合計5編にわたって順に公開する予定だ。
 まず、16日の第1編では「隠岐島の独島歴史歪曲現場編」を公開して、第2編では「島根県庁竹島資料室の歴史歪曲現場編」を既存の取材資料を基に新しく脚色して映像で公開する予定であり、第3編「独島拡大展示館編」は今後撮影後に公開する。
 また、保坂祐二教授と共に日本の独島歴史歪曲に対して深く調べてみる「独島talk-talk」と醴泉博物館で22日公開される独島領有権立証に関する新資料を紹介する映像2編も引き続いて公開される。
 ウォン・ヨンソク総裁は、「日本の持続的な独島領有権のウソ主張に対して、本部は日本国内で広がっている歴史歪曲の現場を告発すると同時に、独島領有権強化に伴う内容を基盤とした映像を全国民に知らせるのに最善を尽くす予定だ」と明らかにした。



<コメント>
 「ドクハンTV」の漢字は分からないが「独島は韓国のもの」というキャッチコピーがあるので、たぶん「独韓TV」なのだろうと思う。

 チャンネルはこちら↓
 https://www.youtube.com/results?search_query=%EB%8F%85%ED%95%9C%ED%8B%B0%EB%B9%84++

 しかし、まあ、保坂さんが後ろにいるという時点で中身の無さ決定かな。

第一編をざっと見てみたが、単に現地の様子を紹介しているだけのようだなあ。具体的な話は無いようだ。







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竹島論争~半月城式まとめ(7)

8. 1900年勅令第41号の石島
 日本で七番目の争点は、1900年10月勅令第41号に記載された石島だ。この勅令は鬱島郡を新設して、その範囲を鬱陵全島、竹島、石島と規定した。独島領有権問題におけるこの勅令の意義について、下條正男は「もし、この石島が韓国側主張のとおり竹島[独島]ならば、竹島が島根県に編入された1905年に先立って竹島は韓国領土になっていた。それなら、日本政府が竹島[独島]を島根県に編入したことは、韓国側主張のとおり違法行為となる」(注61)と主張した。また、塚本孝も、勅令がいう石島が独島ならば、「日本が竹島[独島]を領土に編入して島根県の管轄にした1905年より先立って、この島を鬱島郡の管轄区域にしたことになる」(注62)と指摘した。このように、石島が独島であるかどうかの可否は重要な問題だ。
  この問題に対して、多くの日本人研究者は石島を独島だと見た。梶村秀樹(注63)、大西俊輝(注64)、内藤正中(注65)等がそうである。塚本孝は、2000年には石島を鬱島郡守沈興沢の報告書と関連させて、「郡守が該島[独島]を‘本郡所属’と書いたのは、前の勅令第2条に「郡庁の位置は台霞洞に定め、区域は鬱陵全島と竹島石島を管轄すること」と定めたことにある(石を方言でドクというので独と通じるという)と考えられる」(注66)と主張して、石島を独島だと見た。しかし、2016年、塚本はこの論文を忘れたように、「[勅令第41号]原文に記録されたのは‘石島’であり、これを竹島と関連させるのは韓国政府の解釈に過ぎない」、「[韓国政府の音韻変化説は]勅令で‘石島’と記録したことに対する説明にならない。韓国政府の主張によれば、竹島[独島]は昔から‘于山(島)’ではなかったのか」(注67)と書いて、日本外務省のパンフレットと似た主張をした。過去の自身の主張に対しては何の説明も無い。


(注61) 下條正男 『「竹島」その歴史と領土問題』 (竹島・北方領土返還要求島根県会議 2005b) p98
(注62) 島根県竹島問題研究会 2014 前掲書 p194
(注63) 梶村秀樹 「竹島問題と日本国家」 『朝鮮研究』 182号(1978) p23
(注64) 大西俊輝 日本海と竹島 東洋出版 (2003) p72
(注65) 内藤正中 『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』 多賀出版(2000) p177
(注66) 塚本孝 「日本の領域確定における近代国際法の適用事例」 東アジア近代史 第3号 (2000) p89
(注67) 塚本孝 2016 前掲文 p68(91)

  一方、下條は石島についての主張を何回も変えた。彼は、①1999年には韓国人は独島を知らず、石島は観音島だと主張し、②2004年には石島はどこを指すのか分からないと主張して、③2006年には再び石島は観音島だと主張した(注68)。そうするうちに、④2009年には石島を‘雙項礁’と見た。しかし、‘雙項礁’は観音島の東側にある雙頂礁の誤読だ。これは暗礁であり石島ではない(注69)。下條はこの誤りを分かったのか、⑤最近では石島を再び観音島と見ている(注70)。このように、下條は四度も主張を変えて定見がない。また、主張を変えた理由も明らかにしなかった。
  舩杉力修は石島を観音島だと主張した。その論証法が独特だ。舩杉は観光遊覧船に乗って鬱陵島の周囲を一周した結果、「鬱陵島の周辺には岩が多数存在しているが、現地調査の結果、島は竹嶼、観音島の他は確認されなかった。鬱陵島周辺では島と岩は区別できないという韓国側の主張は、明らかに間違った指摘と言える。したがって、石島は観音島である可能性が高いことが明らかになった」(注71)と主張した。学術的には石島の比定は歴史資料を基礎にしなければならないが、彼は観光遊覧船で観察したことで石島を比定した。舩杉の主張は学術的な研究とは関係がないだろう。

(注68) 朴炳渉 「下條正男の論説を分析する」 『獨島研究』 第4号(2008) p81-83
(注69) 朴炳渉 「下條正男の論説を分析する」 『獨島研究』 第7号(2009) p104(日本語) p132-136(韓国語)
(注70) 下條正男 「韓国の竹島教育の現状とその問題点」 第4期島根県竹島問題研究会 (2018) p73-74
(注71) 舩杉力修 「絵図・地図からみる竹島(Ⅱ)」, 『竹島問題に関する調査研究最終報告書』 島根県竹島問題研究会 (2007) p172

  池内敏は2012年、「石島が竹島[独島]と一致するということが直接的に証明されたことは今まで一度もない」、「石島は独島に見合うとする発想は1900年当時には見られない」(注72)として「石島=独島」説は「とうてい成立することはできない謬論」と考えた。しかし2016年、池内は民国日報(1962.3.19) (注73)に掲載された記事について、キム・ユンサム老人がトルソムでカンチ猟を1894年頃からしたという回想は資料的価値が必ずしも高くはないが、勅令がいう石島が独島と一致する可能性があるとも言えると話した後、そうだとしても次の二つの問題点を解決しなければならないと主張した(注74)。問題点は、①大韓帝国学部が発行した地図に見える于山島が独島を示すならば、勅令第41号はなぜ「于山島」という名称を使わなかったのか? ②1906年沈興沢報告書などはなぜ勅令第41号にある石島の名前を書かないで公文書に「独島」という名前を書いたのか、その経緯をどのように整合的に説明できるかということだ。

(注72)池内敏2012前掲書 p304及びp244
(注73)記事の日付を20日と見る論文もあるが、池内の検討によれば19日が正しいという。池内敏2012 前掲書 p371注記(7)
(注74)池内敏 2016 前掲書p184-185

  このような問題に関し、朴炳渉は2010年に次のとおり主張した(注75)。石島とトルソムの関係を考える時に参考となるのは、韓国各地にある石島の当時の呼称だ。日本水路部が発行した『朝鮮水路誌』第2改版(1907)及び『日本水路誌』第6巻(1911)等には韓国各地の石島が7ヶ所記載されているが、これらのうち5ヶ所の石島に日本語のフリガナが付いていて当時の呼称を知ることができる。忠清南道ピイン湾にある石島2ヶ所には「トルソム」と「マクソム」、京畿道漢江区の石島は「トルソム」、黄海北道大東湾の石島は「トリソム」、全羅南道小安群島の石島は「トトクソム」とフリガナが付いている。このように「石島」は全て「ソクト」と音読されたのでなく、訓読された。上の「トルソム」や「トリソム」は「トルソム」の日本語表記だ。

(注75) 朴炳渉 「明治時代の欝陵島漁業と竹島=独島問題(2)」 『北東アジア文化研究』 32号(2010) p45-54

 「マクソム」は末端にある島という意である「マクソム」の日本語表記であるようだ。これは、同じピイン湾にあるトルソムと区別するためにこのような呼称になったと考えられる。また、全羅南道にあるトトクソムはトクソムの日本語表記だと考えられる。実際、この島は韓国地名総覧(1984)でも「石島」と表記されている。このように、韓国では一般的にトルソムあるいはトクソムの漢字表記は「石島」だ。このような慣行を考慮すれば、勅令第41号の「石島」の呼称は訓読されたもので、主に鬱陵島民の多数を占めた全羅道の人々の方言で「トクソム」、時には標準語で「トルソム」と呼称されたと考えられる。また、光復(解放)直後の言論報道に今日の独島を「獨島」と表記した例が多数ある。また、日本外務省資料『竹島漁業の変遷』に記録された奥村亮の証言によれば、「朝鮮人はランコ島(竹島[独島])を‘独島(トクソン)’と呼んでいたが、内地人と対話する時は‘ランコ島’と話していた”という。「トクソン」はトクソムの日本語表記だろう。奥村亮と父親の平太郎は1921年頃から朝鮮人を主力としてランコ島に出漁してアワビなどを採取した漁業者だ。奥村亮の証言によって、ランコ島=独島(トクソン)=トクソムという関係が成立して、「トクソン」は「トクソム」に直結する。これらの資料を総合的に考慮すれば、岩島の意味で呼ばれた「トクソム」あるいは「トルソム」が勅令第41号に「石島」と漢字表記されたと見ることができる。その後、鬱陵島では全羅道以外の人々が増えたことによってトクソムを「石島」と漢字で表記することが無視されたのか、漢字表記が「独島」に変わったようだ。「独島」の表記は「軍艦新高行動日誌」(1904)に見ることができるのを始めとして、1906年の鬱島郡守沈興沢の報告書及びこれに対する参政大臣朴斉純の指令3号などに見ることができる(注76)。

(注76)前掲文 p45-46


<コメント>
 発音の話にはうんざりだな。仮に国際司法裁判でこういう話になった場合、裁判長は、たぶん、「それで、石島が独島であるという直接的な証拠は何があるのですか?」と聞くことになるんじゃなかろうか。それに石島が独島ではないことは、韓国政府自身が『独島問題概論』に書いている。いつまでこういう無駄な議論をするんだろうね。

 舩杉さんの調査の件については、いかにも半月城ふうの、日本側研究者の主張は適当でいい加減なのだという印象を与えようとする批判の典型だが、舩杉さんは調査の目的について、「韓国側の主張として、鬱陵島周辺では、竹島(竹嶼)以外の島は、島と岩とは区別がつかない、したがって、石島は独島で間違いないとの主張があった。」から、本当にそうなのかどうか現地で調査したということを書いている。調査結果は、「島と岩とは外観上も明確に区別された。韓国側の主張で、鬱陵島の周辺では、島と岩とは区別がつかないというのは明確に間違った指摘であるといえる。」というものだ。
 半月城氏は舩杉さんが「観光遊覧船」で現地を見て回ったことを「学術的ではない」と言っているようだが、調査の目的と結果については批判していないのだから、それは認めるということなんだろな。





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