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日本政府の安龍福捏造(?) 2 

2. 安龍福の功績の実体
2.1 一次渡日の功績
 鬱陵島には古代の新羅、高麗時代には人が住み、朝鮮時代には刷環政策で居住民を刷環して政策的に鬱陵島を空けて管理した。この時までの独島は鬱陵島と共に平穏な韓国の固有領土だった。ところが、壬辰倭乱を契機に日本人たちが鬱陵島が空いている事実を知って、竹が多い島として「磯竹島、竹島」と呼び、ついに1614年対馬島主が東莱府に使節を送って、「慶尚道と江原道の中間海上にある鬱陵島は日本領土のようなので調査する。」と日本領土だと主張した(注3)。これに対して朝鮮朝廷が「鬱陵島に不法侵入すれば敵と断定して追い出す。」(注4)と警告した後、対馬の鬱陵島領有権主張は静かだった。ところが、他の一方で伯耆州出身の大谷、村川二つの一族の漁師は朝鮮朝廷も知らないうちに幕府から渡海免許を取得して、1625年から70余年間独島を経て鬱陵島に往来していた(注5)。そうするうちに1693年春、鬱陵島で安龍福一行と遭遇して漁師たちの間に領有権争いが発生し、ついに両国間の外交紛争に拡大した。


(注3) 「6月、対馬島主が鬱陵島を磯竹島と称して島の地形を調べようと思うので道を案内してほしいと求めたが、これを拒否」(1614年(3947、甲寅)朝鮮光海君6) 「鬱陵島、独島年表」http://blog.daum.net/hwccafe/16488690(検索:2020年10月15日)
(注4) 同上
(注5) 内藤正中 「竹島渡海免許の不法性」 『史的検証独島・竹島』 (岩波書店) pp.135-141、クォン・オヨプ 「鳥取藩の態度」 『独島と安龍福』 (忠南大学出版部) pp.315-319、鬱陵島渡海免許は鬱陵島の領土取得の要件と関係がない。


 日本側の古文献によれば、1692年に日本の漁夫が鬱陵島で朝鮮人に会ったという記録があって(注6)、翌1693年日本漁夫(大谷家)が銃を購入して鬱陵島に渡航したが(注7)、その時安龍福一行に会った。安龍福一行は4隻の船で40人余りが鬱陵島に入っていた(注8)。一行のうち安龍福と朴於屯の二人は酒で日本人たちに誘引されて、銃刀の威嚇で日本の隠岐島に拉致された(注9)。安龍福は隠岐島で鬱陵島と独島の領有権を主張し、伯耆州太守に引き渡された。伯耆州太守は、鬱陵島、独島の領有権を主張する安龍福一行の渡日の事実を幕府に報告した。1695年12月、幕府は鳥取藩から報告を受けた「鳥取藩答弁書」を通じて鬱陵島と独島が朝鮮領土であることを確認して、日本人たちの鬱陵島、独島渡海を禁止させた(注10)。当時の朝鮮と日本の間の正式外交ルートは対馬であった。それで、安龍福は幕府の指示により鬱陵島と独島は韓国領土という伯耆州太守の書契を受け取って、日本側の手厚い待遇を受けて、東莱への帰還のために長崎を経て対馬に到着した(注11)。このように、安龍福の第一次渡日は非正式外交ルートを通じて幕府から鬱陵島と独島が韓国領土であることを認められた(注12)。
 ところが、朝鮮と正式外交を担当していた対馬は相変らず鬱陵島に対する貪欲をあきらめられずにいたので、かえってこの機会を利用して鬱陵島を脅し取るために、非正式外交ルートで鬱陵島、独島の領有権を認められた安龍福が持参していた幕府の指示による伯耆州太守の書契を奪って対馬に抑留した(注13)。対馬は朝鮮朝廷に対して、安龍福を担保で日本領「竹島」漂流者を送還するといって「竹島(鬱陵島の日本名称)」の領有権を主張した(注14)。これに対応して、朝鮮朝廷は韓日間の外交的紛争を避けながら鬱陵島の領土問題を解決するために、日本領は「竹島」だが安龍福は朝鮮領鬱陵島に漂流したものといった(注15)。対馬は鬱陵島は即ち日本領「竹島」として、朝鮮朝廷が鬱陵島領有権を放棄することを強要した(注16)。対馬が鬱陵島の領有権を主張することによって朝鮮朝廷と対馬の間の領有権論議はなかなか解決する可能性が見られなかった。
 一次渡日による安龍福の業績は、日本漁夫大谷、村川一族が三代にわたって独島を経て鬱陵島に渡航して鬱陵島を自分たちの領土だと見なしていた(注17)のを、韓日両国の政府間で領土交渉をするようにしたこと、そして最終的に両国間の交渉を通じて幕府が鬱陵島と独島を韓国領土と認定したことだ。


(注6) 朴炳渉 「安龍福事件に対する検証」 (海洋水産開発院 2007.12) p7(『竹島之書附』 「竹島之書附三通、その二」;『竹島考』)
(注7) 独島史料研究会編 「渡海準備の物産」、『竹島考(上下)』 慶尚北道 2010 慶尚北道独島史料研究会成果物 1 2010 pp.105-124
(注8) 「竹島一件抜書」 http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=ud.k_0001_0010 (検索日:2020年10月15日)
(注9) 独島史料研究会編 「渡海準備の物産」 『竹島考(上下)』 慶尚北道 2010 慶尚北道独島史料研究会成果物 1 2010 pp.105-124
(注10) 「日本自らが否定した独島領有権」 (鳥取藩答弁書) https://dokdo.mofa.go.kr/kor/pds/part05_view01.jsp (検索日:2020年10月15日)
(注11)シン・ヨンハ 「第6章 安龍福の活動と朝鮮朝廷の対応」 『月刊朝鮮ニュースルーム』 (独島130問130答 2011.6)
(注12) 同上
(注13) 同上
(注14) 「接慰官・東莱(東莱府使)の回答」 『鬱陵島・独島日本資料集』 http://contents.nahf.or. kr/item/item.do?levelId=ud.k_0001_0030 (検索日 2020年10月16日)
(注15) 「参判使の口上」 http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=ud.k_0 001_0040 (検索日 2020年10月17日)
(注16) 「参判使の口上」 同上
(注17) 内藤正中 「竹島渡海免許の不法性」 『史的検証独島・竹島』 (岩波書店) pp.135-141。渡海免許は不法であること。


2.2 二次渡日の功績
 安龍福は対馬抑留の9ヶ月後に東莱に帰国措置された。安龍福は備辺司の調査を受けて、不法越境罪で2年間の獄中生活をした。安龍福は、正式外交ルートである対馬が相変らず鬱陵島の領有権を主張しているという事実を確認して(注18)、鬱陵島と独島の領有権を主張する対馬の態度を幕府に告発するために、1696年6月、安龍福は官服を着て「朝欝両島監税将臣安同知騎」という肩書を書いた旗を付けて、雷憲など5人の僧侶、字が上手なイ・インソンと共に11人で鬱陵島に入って日本人たちと遭遇して(注19)、翌日独島でも彼らに会った。安龍福は、日本人たちが「松島」は日本領土というのに対して朝鮮の「子山島」だと叱り、彼らの後を追って日本に渡って行った。
 もともと安龍福は漁師だったが、倭館に出入りする通訳官として日本語がうまく、戦船で櫓を漕ぐ仕事をする慶尚左水営所属の能櫓軍だった(注20)。興国寺の住持雷憲は全羅左水営所属の僧将であり、他の4人の僧侶たちも皆が義僧水軍だった(注21)。このように、安龍福は国家のために悲壮な覚悟で事前に緻密な計画と準備で渡日して、伯耆州太守を通じて幕府に対馬に書契を奪われた事実と鬱陵島と独島の領有権主張事実を告発するために、非正式外交ルートで日本行きを敢行したのだ。安龍福一行は伯耆州太守に会って、「安龍福、雷憲、金可果の3人を在番人が立会した時、所持した8枚になった朝鮮八道地図を示して八道の名前を朝鮮語で書いた。3人の中で安龍福を通詞にして事情を問答しました。」(注22)、「安龍福が言うには、竹嶋を竹の嶋といって、朝鮮国江原道東莱府内の鬱陵島という島があるが(注23)、これを竹の嶋と言うといいます。八道の地図にそういうふうに書いてあるのを所持しています。松嶋は同じ江原道内の子山という島です。これを松嶋というのにこれも八道の地図に書いています。」というように、「鬱陵島と独島が朝鮮の江原道所属」という「朝鮮八道之図」(注24)という地図を見せて領有権を主張した。
 これに対して伯耆州太守は、既に幕府が1696年1月に正式に鬱陵島を朝鮮領土と認定して日本人たちの鬱陵島渡航を禁止した事実に言及して、鬱陵島と独島は朝鮮領土という確認書を与えた。安龍福は二次渡日で対馬島主の行態を幕府に告発して、幕府も鬱陵島と独島の領有権は韓国にあるという事実を対馬島に知らせた。しかし、対馬島はその事実を朝鮮に知らせなかった。事実上、対馬島を仲裁として正式外交ルートを通した朝鮮朝廷と幕府間の鬱陵島領有権談判も既に終わった状態と同じだった。安龍福一行は幕府の指示により2ヶ月ほど滞在した後、伯耆州太守から対馬島を経る正式外交ルートでの帰国を要請されたが、それを丁重に辞退して1696年8月非正式外交ルートで江原道襄陽へ帰郷した。1696年9月、安龍福は備辺司から調査を受けた。司憲府は越境罪と官職詐称罪で処刑を要請した。1697年2月に対馬島は「鬱陵島を朝鮮の土地と確認する。」とする江戸幕府の決定を受けた。領議政ユ・サンウンが鬱陵島と独島領有権を解決した功績を認めて処刑に反対し、1697年3月、安龍福の罪は減刑されて島流しの刑を受けて1697年4月島流しとなった。朝鮮と幕府の間に正式外交ルートで鬱陵島、独島領有権問題が完全に解決されたのは1699年のことだった。
 安龍福の一次渡日は幕府が鬱陵島と独島が朝鮮領土であることを確認させるのに寄与したし、安龍福の二次渡日(1696年5月~8月)は幕府を通じて正式外交ルートである対馬が鬱陵島領有権主張を放棄するのに大きく寄与した(注25)。それにもかかわらず、安龍福は一次渡日の時は日本に渡った不法越境罪で棍杖100台、朴於屯は棍杖80台をむかえて2年間の獄中生活にあった(注26)。二次渡日の時は不法越境罪と官職詐称罪によって処刑の危機に置かれていたが、領有権と漁業権を確保した功労者と認められて島流しの刑に減刑されたのだ。このように、粛宗実録など朝鮮王朝の官撰文献に記録された安龍福の陳述は、文化的差異から微細な部分において多少の誤りが存在するかも知れないが、おおむね事実と一致する。王朝時代に死罪を犯した罪人が嘘で誤りを隠して生き延びられる時代ではなかった。


(注18) チェ・ヨンソン「安龍福第二次渡日の性格」 『朝鮮密使安龍福』 (図書出版文史哲 2019) pp.56-97、クォン・オヨプ 「対馬島主の懇請」 『文献上の独島』 (博文社) p406
(注19) 「船13隻で、人は1隻に9人、10人、11人、12~3人、15人程度ずつ乗って竹島まで行ったが、人数を尋ねても全く答えることができませんでした。」 「元禄9丙子年朝鮮舟着岸一件之覚書」 https://blog.naver.com/cms1530/10015417351 (検索日:2020年10月15日)
(注20) イ・テウ 「1696年安龍福・雷憲一行の渡日と義僧水軍に関する解析学的研究」 『独島研究』 第28号(嶺南大学独島研究所 2020.6) pp.139-168
(注21) 同上
(注22) 「元禄9丙子年朝鮮舟着岸一件之覚書」 https://blog.naver.com/cms1530/10015417351 (検索日:2020年10月15日)
(注23) 「竹嶋は江原道東莱府に属していて、朝鮮国王の御名を受ける東莱府殿の名前は一道方伯で、竹嶋を支配する人の名前は東莱府使と言います。」 「元禄9丙子年朝鮮舟着岸一件之覚書」 https://blog.naver.com/cms1530/10015417351 (検索日:2020年10月15日)
(注24) 「朝鮮之八道 : 京畿道、江原道(この道の中に竹嶋松嶋がある)、全羅道、忠清道、平安道、咸鏡道、黄海道、慶尚道」 「元禄9丙子年朝鮮舟着岸一件之覚書」 https://blog.naver.com/cms1530/10015417351 (検索日:2020年10月15日)
(注25) チェ・ヨンソン「安龍福第二次渡日の性格」 『朝鮮密使安龍福』 (図書出版文史哲 2019) pp.56-97、クォン・オヨプ 「対馬島主の懇請」 『文献上の独島』 (博文社) p406
(注26) 同上


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