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歴史学名誉博士がイ・ヨンフン教授の竹島論を批判(笑)

【コラム】「独島が韓国領土である」歴然たる史料
2020.08.17 久保井規夫
http://japanese.korea.net/NewsFocus/Column/view?articleId=188508


 
 
 いや、あまりに下らないからリンク先は読なくていいですよ。





 

 
 読なくていいって。




 

 

 え、読まなくていいなら何で記事にするのかって?




 

 

 まあ、枯れ木も山のにぎわいという言葉もあるし、妄言もブログのにぎわい、とか。
















 読むんでしょ。



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この記事を訳し終えてのコメント

李圭泰は、竹島が禿げた岩山である理由を、「聞慶草岾峠の白樺は砧にされて伐り尽くされる」という諺を例に出して、木釘や砧にするために木が全て切られて取り尽くされてしまったと考えている。しかし彼が、長きにわたって巨文島の人々が繰り返し竹島の木を伐りに行っていたと、どれほど狂信していようとも、そのような証拠はどこにもない。

また他から、「アシカ」を移入して繁殖させたいようだが、ニホンアシカは、カリフォルニアアシカとは種が違うことを指摘しておきたい。また鹿児島県の下甑島で2016年に目撃されたアシカが、ニホンアシカの可能性もある。安易な別種の移入は論外である。
https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-2674.html

歴史家の崔南善の言説を紹介するなら、「鬱陵島のすぐそばに、もう一つ別のトクソムがある」という、より重要なものがあるのである。しかし李圭泰は、それは記事にしないまま、2006年2月25日に他界した。満72歳。

No title

「朝鮮水路誌」の原文は、参考コメントにあるリンク先の国会図書館デジタルで確認できます。

イザベラ・バードが、 1894年1月と、1897年3月.に見た朝鮮の船の作り方にもあります。
https://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/11/from-korea-and-her-neighbors-by.html

「韓国のジャンク(東洋のボロ船という含みの語)は、人を感動させるような航海に堪える物ではないし、船に従事する男たちは、海岸に抱きついて、良い帆風が吹くといつでも船の避難所を求めるのは驚くべきことではない。朝鮮の船は、釘も鉄も防腐塗料も使わずに建造されていて、意図的な造船物というよりは、梁といたずらの一時的で偶然の集合体のように見える。」

No title

※訳註
浜辺に穴を掘って船を作るに際して、「鉄のクギをもとめられないから」、木釘を作ってそれを打つという説明に対して、池内氏は、「金釘が無いので」とおおむね正しく翻訳しているものの、それに何の疑問も呈していません。しかし、この説明こそが証言者本人の言ではなく、李圭泰記者が、自らの考えを挿入して話を作っていることが分かる部分なのです。いわば馬脚を露わしているのですから、読みすごすわけにはいきません。
朴雲学(朴竜学)にしろ、民国日報の記事の金興岳(金允三)にしろ、当時鬱陵島で船を作った経験のある人間なら、「鉄クギが手に入らないから」などと言うはずがありません。鉄釘を使って船を作る技術など存在しなかったからです。それは、当時の欧米人や日本人による朝鮮人の船作りの記録を見れば明らかです

日本の「朝鮮水路誌」の記述です。1894年版と1899年版の両方にあります。
「けだし朝鮮人は船を製造するに、鉄釘を用ゆることなく、皆木をもってこれを結合し、又乾材を用ゆることを知らず、必らず生木を用ゆと云ふ」
https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-3005.html

No title

(第9段落~最後(文末)までの翻訳です。)

浜辺に穴蔵を設けて船を造るのだが、金釘を入手することができないので、独島まで行って木を切って、それを木釘にして組み立てたのである。なぜならこの岩島で育った木は倭小だが、何百年何千年と風雲に耐え忍んで木の質が鉄のように硬くなっているからだと言った。独島の木を切ってきて、オットセイ一匹を取って油を絞り、その油で夜の明かりにして...。

(ことわざで、慶尚北道の)聞慶市の草岾(セジェ)峠のシラカバは砧にされて出払った」(いくつかのものが必要に応じてすべて使われた)というが、独島の木も、木釘や砧にされて全て切られて出ていってしまったはずである。

その禿げ山の独島を青くする独島植樹募金運動が歌手を中心にして起こっていると言う。今は消え失せてしまったオットセイを入れて来て繁殖させる運動も同時にしてほしいと思う。両方とも、自然保護を超越した象徴的な意味が大きいからである。

No title

(第6~第8段落の翻訳です。)

この独島に対する内外の記録を総合すると、すべて岩石質で樹木が無く、オットセイだけが住んでいるというのが共通している。しかしながら、全く木がなかったというわけではなかった。

南海の巨文島に行けばこの独島で折ってきた木で作ったというカジ(可支)棒や砧があって、船を作る時に、この独島で折ってきた木で木釘を作って止め打ったのである。

30余年前巨文島で80代の櫓漁夫、朴雲學翁に会ったことがあるが、彼によれば、韓末当時巨文島の漁師たちは鬱陵島に行って、一抱えほどもある巨木を切って船を作り、またその材木を筏にして引いて来たものだという。

※訳註
砧(きぬた)は、布に艶を出す槌と台。
カジ棒 [가지(可支)방] とある単語の意味が分からない。船の舵の取っ手や、人力車の長柄を日本語で、梶(かじ)棒というが、それが韓国語化したものだろうか。それともアシカを打ち殺した棍棒だろうか。

「朴雲學」という名に注意。李圭泰の後の記事では、「朴龍學」となっている。池内敏氏は、ハングルだけの引用論文から漢字表記を不明にしている。

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(二十五日の記述後半から)
前有三島、在北曰防牌島、在中曰竹島、在東曰瓮島。 三島相距、不過百餘步、島之周回、各爲數十把、險巖嵂、難以登覽、仍爲止宿。
二十六日、轉向可支島、四五箇可支魚、驚駭躍出、形若水牛。 砲手齊放、捉得二首、而、丘尾津山形、最爲奇異、入谷數里、則昔日人家遺址、宛然尙存。 左右山谷、甚爲幽深、難於登陟。 仍遍看、竹巖、帿布巖、孔巖、錐山等諸處、行到桶丘尾、禱山祭海、待風留住。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/12/1794-18613-gajido-was-described-as.html

前日の二十五日に、三本立ちの岩礁について記述して、その付近で宿泊した翌二十六日に、方向を転じ、として簡単に「可支島」に至っている。そのうえ、続く文章には、人家の跡があり、深山幽谷の情況を示しているので、この可支島は、鬱陵島のすぐ近くにある島であることが分かるからである。

李圭泰の記事には、ムルゲとあるので、「オットセイ」と翻訳した。現在の韓国語で、ムルゲは、日本語のオットセイで、カンチが、日本語のアシカと訳されるようになっているので、厳密に翻訳したが、アシカと訳しても良いのかもしれない。

No title

※訳注
崔南善の甕島説を書いているのは、良心的なのかも知れない。茶阿弥さんは、以前、甕を横に倒して半分にした形に似ているとされたが、この記事では、甕を逆さにして伏せた形と見ている。
https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-1408.html
関連記事
https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-1410.html

「それ以前の文献には、カジド(可支島)と表記されている。」

これは大ウソである。独島すなわち島根県の竹島に対して、韓国の史料で、可支島と記してある文献など存在しない。記事には、正宗実録とあるが、高宗時代に格上げされたので正しくは、『正祖実録』である。その正祖十八年(1794年)六月三日の条の記述に、これに該当するものがある。原文を見てみよう。

No title

(第3~第5段落の部分の翻訳です。)

独島という言葉のルーツについて崔南善は、この島の形がまるで醤油やキムチを漬けておくドク(甕)を伏せたようであるから、ドクソム(甕島)と呼ばれて、それは漢文で表記すると、ドク(独)島とされたとした。

これに対して、シンソクホ(申奭鎬)教授は、鬱陵島の島の人々が、独りで立っていて人里離れた島だから、ドクソムと呼んだとか、その山が皆石になっているので、石の慶尚道方言であるトク(石)ソムと呼ばれたものと見た。

それ以前の文献には、カジド(可支島)と表記されている。正宗実録にこの島を巡検した記録を見ると、「カジドに至る、四、五匹のカジ(オットセイ)が驚いて躍り出た。その顔立ちは水牛と同じだった。砲手が一斉に発射して二匹を取った」と記している。すなわち、カジと呼ばれたオットセイが住む島という意味である。

No title

韓国外交部のサイトでは、同じ人物による同内容の稿本が、別の証拠のように示されている。
梧下記聞 (韓国外交部の「梧下記文」は、誤表記)
http://dokdo.mofa.go.kr/jp/img/contents/view0210_img01_b.jpg

こちらでも、独島の記述は、右端の「皆盤踞不遷」と左端の「二十日義兵」の記事の間に書かれていることが分かる。

新聞記事の5月1日は、旧暦の四月八日であり、
5月9日は、四月十六日なので、黄玹は誤解に基づいた新聞記事を書き写したのである。

韓国語のウィキにもこうある。
https://ko.wikipedia.org/wiki/매천야록
「다만, 황현이 고향에 칩거한 이후로 신문이나 저잣거리의 풍문, 지인들이 전하는 소식들도 기록하였기 때문에 이 야록을 직접 근거로 사용할 때는 출처나 교차검증이 필요하다.」

「ただし、黄玹が故郷に蟄居した後に新聞や市場通りの風聞、知人が音信も記録したため、この梅泉野録を直接根拠として使用するときは、ソースや交差検証が必要である。」

No title

※訳注、「韓末の志士(黄玹)が記した「梅泉野録」の1906年4月の記録に独島という言葉が出ている。」とあるが、この日付も陰暦であることに注意して内容を見てみよう。

黄玹という人物が記した『梅泉野録』は、韓国外交部のサイトにある。
http://dokdo.mofa.go.kr/jp/pds/part_list02.jsp

梅泉野録の該当記事の画像
http://dokdo.mofa.go.kr/jp/img/contents/view0209_img01_b.jpg

右端に「初五日」とある。したがって、この最初の行の記述内容は、陰暦四月五日、即ち、1906年4月28日のことである。
左端に、「以二十日」とある。よって最後の行は、四月二十日、即ち、1906年5月13日である。
ゆえに、
「距鬱陵島洋東百里、有一島、曰獨島、舊属、倭人勤稱其領地、審査以去。」
の一文は、4月28日から5月13日の間に書かれた記述であると判明する。

No title

※訳註 「光武10年(1906)3月5日に鬱陵郡が報告された文書」とあるが、この表現は誤解を与える。この日付は、陰暦である。したがって光武十年陰暦三月五日は、光武10年(1906年)3月29日のことで、この日に出された、沈興澤の(誤解に基づく)報告書のことである。これは、この前日に、島根県の視察団が鬱陵島を訪れたことによる。

この沈興澤による、独島は韓国領土であるという誤解に基づいた論調の新聞記事が、陰暦四月八日、すなわち5月1日付けの『大韓毎日申報』と『帝国新聞』で報道され、さらに、陰暦四月十六日、すなわち、5月9日付けの『皇城新聞』でも報道された。
この後、7月13日付けの三つの新聞の記事で、その誤解は氷解したことがわかる。すなわち、1906年7月13日付け皇城新聞の『鬱島郡の配置顛末』、大韓毎日申報の『池田公函』、および萬歳報の『各郡地形更圖』の記事である。
この解釈は、1906年9月26日付けの三紙の記事、皇城新聞『鬱島戸口』、大韓毎日申報『鬱島調査』、帝國新聞の『鬱島の記事』により確証される。即ち竹島問題は、1906年夏に平和裏に解決しているのである。 

No title

移動してきました。
https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-3397.html
に投稿した朝鮮日報の李圭泰記者のコラム記事の翻訳です。

李圭泰コーナー
独島の木

独島は、名前も多い。1849年にフランスの軍艦リアンクール号がこの島をリアンクール列岩と名付け、その5年後にロシアの軍艦がこの島についてオリボサ列岩と命名し、またその翌年、英国軍艦ホーネット号がこの島を見て、ホーネット列岩と称して海図上に表示している。

独島という名前は、韓末になってようやく登場している。光武10年(1906)3月5日に鬱陵郡が報告された文書では、「鬱陵郡所属独島」という言葉が出ていて、韓末の志士(黄玹)が記した「梅泉野録」の1906年4月の記録に独島という言葉が出ている。

※訳註、오리버사 (オリボサ)とあるが、오리우사(オリウサ)とも書けて、オリウツ礁のこと。より正確には、마날라이 및 오리우사(マナライとオリウサ)列岩で、メネライ礁・オリウツ礁に相当する語。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/did-1899-joseon-sea-routes-directory.html

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久保井さんなどは、現在の視点で、日本陸軍が朝鮮の地形や地図を当時から正確に知っていたかの如くに論評しているわけですが、離島は無論のこと、朝鮮本土の地形や都市の位置、河川、道路などもほとんど不正確な情報しか持ち合わせていなかった時代だったのです。こういうことを知っていないと、正しい理解は出来ません。

欧米の軍艦が海上から見て作成した地図では、朝鮮本土の都市や河川の位置は分かりません。畢竟、都市の位置や地形を参考にしたのは、伝統的な朝鮮八道地図や、金正浩の1861年の『大東輿地図』でしょう。それでは、その大東輿地図で、「平海」と「越松浦」の部分はどんな描写なのでしょうか。
https://i.imgur.com/5ndvW6E.jpg
この国会図書館所蔵の『大東輿地図』の制作年代は、1883年から1889年頃でしょうが、それでも、海岸線、河川、山の位置など、全く参考にならない水準であることがわかります。この書写年代の推定根拠は下記です。
https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-2699.html

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久保井氏のトンチンカンに付き合っても、時間の無駄ですが、折角ですから、日本陸軍参謀局「朝鮮全図」での平海付近を見てみましょう。
https://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/5possetion/chosenzenzu-1875/06.jpg

これは、日本陸軍が作成した1875年のものですが、当時の朝鮮の地理情報がどれほど不正確なものであったかを知る良い史料であることがわかります。
蔚珍の南側に、名勝旧跡の「越松亭」と、「越松浦」「平海」という地名の記載があります。海岸線がやけに細かいのですが、いろいろな地図を参考にして、想像して地図を描いたものなので、実はかなり間違っているのです。
この十年後の1885年に、海津大尉が歩数で測って初めて本当の位置関係や地形が分かった時のものと、その後もっと正確な地図が最初に出来た1918年の地図と比べてみて下さい。
https://i.imgur.com/m1MtIcN.jpg
https://chaamiey.blog.fc2.com/blog-entry-3297.html

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読むつもりは無かったのですが、ついクリックしてしまいました。
面倒なので、一つだけ上げます。

「日本陸軍参謀局「朝鮮全図」(1875.11)には、竹島(鬱陵島)、松島(独島)の両島が朝鮮国領土として記載されています。欧米、朝鮮の地図も参考にし、正確を期したとの説明付の公地図です。」

それでは、その実物を見てみましょう。田中邦貴さんのサイトからです。
https://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/5possetion/chosenzenzu-1875/10.jpg
https://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/5possetion/chosenzenzu-1875/
この地図の松島はかなり正確です。東経130度55分程度の位置に描かれていることが読み取れるからです。つまり現在の鬱陵島です。韓国の言う独島ではありません。したがって、この説明は虚偽です。
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Chaamiey

Author:Chaamiey
別名 茶阿弥
男性 熊本県在住
写真は元飼い猫のちゃあみぃ

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