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ここ20年の「独島関連歴史学分野研究」まとめ 3

2000年以後の独島関連歴史学分野研究の成果と今後の課題
  ソン・フィヨン(嶺南大学独島研究所研究教授)
  嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第29号 (2020.12.30) p87

3. 歴史学分野の研究成果と課題
3. 1 「鬱陵島争界」、「竹島渡海禁止令」の関連研究
  我が国で独島に関する歴史学的研究の最初はシン・ソクチョン(1948) (注17)の研究だと言える。 その後1950年代初めの韓日国交正常化交渉の過程で日本側が独島領有権問題を提起して、それに対応する形態で独島研究が進行し、そういう過程で出たのが中央公論社から出版された『独島』(1965)(注18)と言うことができる。ここでは「独島の来歴」(シン・ソクホ)、「独島の法的地位-国際法上の見解-」(パク・グァンスク)、「独島の名称に対する史的考察」(イ・ビョンド)、「鬱陵島及び独島探険少考-近代史を中心に-」(イ・ソングン)、「独島は厳然たる韓国領土」(崔南善)、「独島は鬱陵島の属島」(ユ・ホンニョル)など10編の論文と3編の踏査記などが載った。この前後の時期に日本の国会などで独島は日本の領土という議論があり、それに対する私たちの側の反論根拠として本にしたものだった。

(注17) 申奭鎬(シン・ソクホ)(1948) 「独島所属について」 『史海』1
(注18)シン・ソクホ他(1965) 『独島』 (中央公論社)

  その後、シン・ヨンハ(1998) (注19)、キム・ビョンリョル(1998) (注20)、ソン・ビョンギ(2004) (注21)等によって独島関連の韓国古文書資料はもちろん、日本の古文書資料まで一目瞭然に紹介されている。特に1998~2001年に出版されたシン・ヨンハ教授の『独島領有権資料の探求』は、我が国の歴史的史料だけでなく京都大学の堀和生教授から入手した日本の古文書資料を網羅して載せている。
  一方、2005年3月、日本島根県の「竹島の日」制定と共にその年7月に発足した「竹島問題研究会」は、「竹島は日本固有の領土」という論理を第1期竹島問題研究会報告書(2007.3)で整理して日本外務省に報告した。このような研究結果を日本外務省が2008年2月にホームページに「10ポイント」として掲載して公式見解としたことで、これらの論理の真偽と論拠をめぐって行われることとなる韓国側研究者の活発な研究の油のような役割をした。しかし、史料の幅と深さなどの限界から、日本の原史料による研究にまで拡散させることができなかったようだ。我が国独島研究の第2世代として、シン・ヨンハ(1996) (注22)教授の『独島の民族領土史研究』、ソン・ビョンギ(1999) (注23)教授の『鬱陵島と独島』は、後輩の学者に方向を提示するほどのバイブルのような役割をするのに十分な力作だ。日本の史料の解読を基に「鬱陵島争界(竹島一件)」に対する歴史的研究を本格的に見せたのは、イ・フン(1996) (注24)の研究だった。17世紀後半に朝日間に発生した領属論争(=鬱陵島争界)は幕府の「竹島渡海禁止令」(1696)で鬱陵島・独島の朝鮮領属と漁業権が明確に明らかになったことを明快に論証している。


(注19)シン・ヨンハ(1998) 『独島領有権資料の探求』第1巻~第4巻 独島研究保全協会(第2巻は1999年、第3巻は2000年、第4巻は2001年に刊行)
(注20)キム・ビョンリョル(1998) 『独島 : 独島資料総攬』 (ダダメディア)
(注21)ソン・ビョンギ(2004) 『独島領有権資料選』 (翰林大学出版部)
(注22)シン・ヨンハ(1996) 『独島の民族領土史研究』 (知識産業社)
(注23)ソン・ビョンギ(1999) 『鬱陵島と独島-その歴史的接近-』 (檀国大学出版部) (後に『再訂版鬱陵島と独島』(2007)が近年の研究成果を反映して増補刊行された)
(注24)イ・フン(1996) 「朝鮮後期独島の領属是非」 韓日関係史研究会編 『独島と対馬』 (知性の泉)

  しかし、東海を間に置いて両国沿岸民の鬱陵島誤解は完全に断絶しなかった。1722年、石見住民の竹島(鬱陵島)・松島(独島)渡海が問題として浮び上がり、1836年には同じ石見州の今津屋八右衛門が竹島(鬱陵島)を舞台に密貿易をした事実が発覚し、藩主と八右衛門が処罰を受ける事件が発生したこともある。当時の対馬の史料を通じて、竹島渡海禁止の時期に対馬は松島が竹島に含まれていると認識していながらも、竹島と松島を分離させようとする認識があったことを史料を通じて明らかにしたのだった。これを補完して、「鬱陵島争界」の妥結過程を具体的に対馬藩内部の穏健派と強硬派の対立の中で、穏健派である陶山庄右衛門の役割を提起したものとしてソン・フィヨン(2011a、2011b) (注25)の研究が成される。この時が、日本の古文書の原史料を基礎にした研究が本格的に成り立つ時期につながる契機になるのだった。

(注25)ソン・フィヨン(2011a) 「鬱陵島争界(竹島一件)の決着と陶山庄右衛門」 『日本文化学報』49 (日本文化学会) pp.265-286、ソン・フィヨン(2011b) 「対馬藩士陶山庄右衛門と朝日関係」 『日語日文学』49 (大韓日語日文学会) pp.399-415

  それまで、「鬱陵島争界」の妥結をめぐっては朝鮮朝廷の強硬路線がこれを主導したという論調が一般的だった。しかし、対馬藩の内部でも江戸の命令という言い訳で強硬に対抗したことに対する反省が起き始めた。当時、第2次竹島交渉が終わって江戸参勤を離れるまでの3ヶ月間の変化だった。換言すれば、陶山庄右衛門と雨森芳洲のような儒学者が、「誠信の礼」で外交交渉をするべきで、資料に現れるありのままを江戸幕府に率直に報告して幕府の指示を受けるようにしたことが穏健派である陶山の主導で世論形成されということを明らかにした。まず、この事件に対して、江戸から「朝鮮漁民の出漁を禁止せよ」と命を受けた時、竹島の来歴について幕府の認識範囲を問い合わせて情報を入手する必要があったし、対馬としてもありのままを詳細に報告して方針を決める必要があったという反省だ。 第1次交渉が終わっても、対馬の交渉執政官はほとんど強硬路線で簡単に竹島は日本の付属島になるだろうと信じていた。しかし、陶山はそれは無理ということを知っていた。対馬が日本領だと主張する根拠は、検討した13通の文書のどこにも竹島が昔から日本領だという事実は見られないということだ。鬱陵島争界の発端から江戸に報告した内容と対馬内部で議論された内容でも、竹島が日本領という証拠としては不確かなものだけだということだ。すなわち、往来書簡に文句をつけて竹島を奪取しようとするのは日本側の強引な屁理屈ということが明白だと認識していた。
  当時、対馬藩の内部には、竹島交渉の往復文書で外交交渉の文書としては適当ではない言説を使うなど無礼が窺えるということと、江戸の武威で朝鮮を威嚇するなど対話中断を辞さない強い語調の言葉があるということに対する自省があった。このような脅迫的な態度では交渉にならず、朝鮮とは誠信の礼で対して、むやみに語らずによく判別して慎重に交渉に臨まなければならないと考えていた。そして、交渉文書で竹島は80年前から日本に属すると主張しているが、そういう証拠は全く見られないということだ。漂流民を送還する時に朝鮮が送った書簡にけちをつけて理由を作って言い争いをしているが、このような態度は無理があることであり誤ったことだという判断だ。狡猾な言葉の巧みさで争っても竹島が日本の領土になることはないのであり、交渉の誤りを正して朝鮮との隣交を修復することが望ましくて、それでこそ対馬が安定して日本全体が安定する正しい忠節というものだ。また、竹島を日本の領土に付属させるという書簡を必ず受け取ろうとすることが今回の交渉の方針だったが、二島二名の書簡で日本の竹島に今後朝鮮人が渡って来てはいけないという書簡を受け取ることになれば、これは今後両国の禍根になることだと判断していた。したがって、このような交渉は望ましくないということだ。
  もちろん、南九万政権の強硬路線が全く効果を上げなかったとは言えない。朝鮮朝廷の強硬路線があったので交渉が長期膠着状態に陥ったし、この二種類の事が交わって日本幕府の態度変化を誘導できたと見る。その上、安龍福の二次渡日によって「竹島渡海禁止」の事実を朝鮮側に通知しないでいたことを、朝鮮訳官一行を対馬に呼び入れて伝達することにしたという側面で、安龍福の二次渡日が鬱陵島争界の妥結を操り上げたかも知れない。

  そして、「鬱陵島争界」を17世紀朝日の外交関係とその背景を通じて分析したものとしてチャン・スンスン(2012)(注26)を挙げられる。

(注26)チャン・スンスン(2012) 「17世紀朝日関係と鬱陵島争界」 『歴史と境界』84 (釜山慶南史学会) pp.37-71

  当時、鬱陵島には鬱陵島と周辺海域で出る物を取得するための朝日両国人の渡航が行われ、朝鮮政府は朝鮮沿岸に不意に漂着した日本人たちを問情する過程で日本人たちが鬱陵島まで来て操業をしているという事実は知っていた。それにもかかわらず、朝鮮政府はこのような日本人の鬱陵島渡海に対して黙認する立場を取ったが、このような朝鮮政府の態度は当時朝鮮が処した対内外的な状況と関係が無くはないということだ。ところが、1693年に安龍福が日本漁民に拉致された事件を契機に、鬱陵島領有権に対する朝鮮政府の対応は変わる。正確に言えば、幕府から対朝鮮交渉の命を受けた対馬が鬱陵島を日本領としようとする試みさえしなかったとすれば、朝鮮政府の対応は以前と同じだったかも知れない。しかし、対馬藩は自分たちの方式である「幕府の武威」を背景に「威力と恐喝」を動員した既存の異常な外交慣行で「鬱陵島争界」の問題を引き起こし、鬱陵島を自国領にしようと考えたのだ。


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