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ここ20年の「独島関連歴史学分野研究」まとめ 4

  このような妥結過程に、当時の対日関係に対する外交政策の変化という背景が作用していると分析している。すなわち、壬辰倭乱後17世紀中盤期までの朝鮮の対日外交姿勢が問題を起こさないで最小化しようとする静かな外交の駆使だったとすれば、17世紀後半は、朝廷は対日関係において次第に外交的な原則を適用できる力を確保していくことによって、対日政策に自信を持つようになった時期であった。顕宗末から粛宗の代の初期に成り立った一連の対日交渉懸案、すなわち豆毛浦から草梁への倭館移転、各種条約の締結と条約内容の細分化、通信使行を通した対馬藩の統制の試みなどは積極的な対日政策の結果だ。このような背景の中で朝鮮は鬱陵島領有権問題を以前と違うように対処することができたし、幕府の第1次竹島渡海禁止令を引き出したと見ている。
  また、続く彼の研究(注27)でも、当時の朝日間の外交関係という観点に注目している。安龍福の拉致及び自発的な渡日が、対馬としては今まで自分たちを媒介として進行されてきた朝日外交交渉に第三者が関与して事件を処理する新しい外交手続きの発生の可能性を見せるというものだったので、対馬は礼曹参議が送った答書の写本を倭館で受領した以後、倭館闌出(翻訳者注:強行脱出とでも訳するのかなあ)という無理数を敢行したのだった。したがって、対馬としては朝日間の外交交渉窓口としての地位が危うくなる状況の中で、朝日交渉で第三者介入を遮断するために倭館闌出という物理的行動を敢行してまで対馬ないし幕府に有利な方向に書契内容を改竄しようとする目的を貫徹しようとしたのだ。しかし、対馬は「しばしば言う昔の方式と今日の方式を区別できず、事情と相場を分別できない誤った考え」で事案を処理したので、結局は自分たちの主張を貫徹させられなかった。結局、対馬にとって「鬱陵島争界」は雨森芳洲が指摘したとおり「威力と恐喝を使ってでもこちら(対馬)の主張を貫徹するという雰囲気で7年間交渉に臨んだ」が、結果的には「朝鮮に通じなかっただけでなく、かえって対馬の評判に支障」が出ることになった事件になったということだ。

(注27) チャン・スンスン(2013) 「17世紀後半‘欝陵島争界’の終結と対馬島(1696年~1699年)」 『韓日関係史研究』45 (韓日関係史学会) pp.207-248

  2005年6月に「竹島問題研究会」が発足して以来、座長下條正男たちは粛宗実録と韓国史料に出て来る安龍福の陳述は「偽り」であり「偽証」であるから韓国側の史料は信じられないと否定している。安龍福陳述の真偽に関して分析している事例の一つとして、ウォン・ヨンヒ(2015)の研究に注目することができる。最近韓日間の独島に関する領土問題が注目されて安龍福の事件がより一層重要になっている中で(←翻訳者茶々:おい、やめてくれ)、1693年に安龍福が拉致された時の長崎奉行所と対馬藩での陳述は偽証だったと日本側研究者は主張している。それに対して、この研究では江戸時代に対馬藩士が書いた『竹島紀事』にある安龍福の陳述を通じて、彼の鬱陵島と独島に関する認識に注目して分析している。『竹島紀事』と朝鮮の史料等を通して調べた結果、安龍福は日本人と鬱陵島で会う以前にも東海の航路を良く知っていた。東海にある鬱陵島と独島に対する認識は6世紀の于山国の時から始まって、高麗から朝鮮の安龍福に続いていた。また、彼の長崎奉行所の陳述では鬱陵島の方向を言わなかったが、対馬藩の陳述では方向を東側と言った。この事実は鬱陵島について良く認知していただけでなく、偽証することもなかったという証拠として挙げている。したがって、鬱陵島で漁をしていた安龍福は独島を認識することができなかったという既存の見解は妥当でないということだ。安龍福は、鬱陵島と独島の存在を十分認識して漁をしていたことに間違いないということだ。
  このような歴史学的研究の進展と共に、「鬱陵島争界」の経過と併せて朝鮮と日本がやり取りした交換公文書すなわち書契とその関連文書に国際法的観点から接近したものとして、パク・ヒョンジン(2013) (注28)、パク・ヒョンジン(2018) (注29)の研究が注目される。


(注28)パク・ヒョンジン(2013) 「17世紀末鬱陵島争界関連韓国・日本‘交換公文書’の証明力-距離慣習に伴う条約上の鬱陵・独島権原確立・海上国境黙示合意-」 『国際法学会論叢』58(3) (韓国国際法学会) pp.131-168
(注29)パク・ヒョンジン(2018) 「17世紀末鬱陵島争界関連韓国・日本‘交換公文書’の証明力(Ⅱ):国際裁判における立証の責任・基準と史書・史料の証明力を中心に」 『国際法学会論叢』63(4) (韓国国際法学会) pp.57-90

  17世紀末の東莱漁師安龍福たちの2回にわたる渡日活動(1693-1696)と対馬島主の鬱陵島に対する野心から触発されたいわゆる「鬱陵島争界」事件で、両国は当時の韓国・日本間の外交慣行によって対馬州を交渉窓口として、外交交渉の過程で往復外交文書を交換した。特に、朝鮮朝廷の1694年8月書簡と1697年2月対馬州を通じた幕府の書簡は領土・海洋境界紛争関連で現代国際判例が確立している「交換公文書」であり、現代の外交慣行・国際法上の「略式条約」に該当すると彼は見ている。この交換公文書は、両国間の特殊慣習(距離慣習)に立って鬱陵島に対する朝鮮の原始的・本源的権原を条約上の権原に変えた国際協定と解釈・見なされるというのだ。また、同交換公文書で鬱陵島の附属島嶼である独島に対する朝鮮の領有権に暗黙的に同意・承認して、併せて両国間の海上国境もやはり独島南側の海洋境界で暗黙的に合意したと解釈している。このような推論は、幕府の1696年鬱陵島渡海免許取り消し及び独島渡海禁止措置と共に、日本漁師一族の鬱陵島渡海申込書と1870年明治政府外務省及び1877年最高行政機関である太政官の内部文書など、1905年まで200年以上独島を鬱陵島の附属島嶼と認定して朝鮮の独島領有権及び独島南部の海上国境に黙従した日本の一貫した国家実行でも確認される。渡海免許というものは本質的に外国海域の訪問許可または海洋資源利用に関するもので、国際判例上、領有権関連の証拠能力は認められない。したがって、韓日間のいわゆる独島領有権問題は交換公文書と共に鬱陵島争界が外交的に終えられた1699年に既に法的に完全に終結したのであり、両国間の海洋境界もやはり暗黙的に独島東南側で合意したものと主張している。

  この研究を「竹島渡海禁止」-「太政官指令」へ拡張して、「朝日国境条約体制」というフレームを適用した新しい論理的試みがイ・ソンファン(2017) (注30)の研究だ。

(注30)イ・ソンファン(2017) 「朝日/韓日国境条約体制と独島」 『独島研究』 23 (嶺南大学独島研究所) pp 191-226

  彼の研究によれば、1877年日本「太政官指令」は1699年の韓日間の国境条約(=鬱陵島争界)を日本国内法令として受け入れたものだということだ。太政官指令が成立することによって、日本は朝日間の国境合意を守るための国内外的法令体系を完備することになった。彼は、これを「朝日/韓日国境条約体制」と規定している。この体制は明治憲法体制下でも引き続き効力を維持して、少なくとも日本が独島編入措置を取る1905年2月まで作動していたと主張する。したがって、朝日国境条約体制下で取られた日本の独島編入措置は太政官指令に背くというわけだ。上位法違反の素地がある閣議決定及び島根県告示は源泉無効であるためだ。そして、1699年の国境条約を継承した太政官指令の無効化は韓日間の国境条約の破棄を意味する。条約破棄のためには日本は朝鮮政府に通告義務を有しているが、日本政府は朝鮮政府に通知しなかったので国際法的に効力を持つことはできない。1905年当時に朝日国境条約体制が有効に作動していたという事実は、日本が独島と鬱陵島を朝鮮の地と認定していたことを指す。したがって、無主地先占論を根拠に独島を編入した日本の閣議決定は矛盾だということだ。
  同じように、1951年の「サンフランシスコ平和条約」 第2条a項の解釈と結びつけている。17世紀に形成された「朝日国境条約体制」により1905年の日本の独島編入は法理的に無効なので、独島が「1905年から現在まで日本島根県隠岐島支庁の管轄下にあった」というディーン・ラスク書簡の内容はもはや意味がない。したがって、ディーン・ラスク書簡を根拠とした日本の主張は成立できないということだ。したがって、これは逆説的に「サンフランシスコ平和条約」を利用した独島に対する韓国の領有権確保の可能性を開いてくれるというのだ。



<コメント>
 あの太政官指令でここまで妄想を膨らますことができるとは、よほどヒマなんだろうな。



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